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日本神話の起源を探る一年A Year Investigating the Origins of Japanese Myth

今年も数多くのテーマを同時に扱いながら調査旅を続けてきましたが、特に重視したテーマは、古事記や日本書紀に記される日本神話は、一体どのようにして生まれたのかという起源を探究することでした。

古事記と日本書紀は一緒に語られる傾向が強いのですが、実は根本の思想背景は全く異なっており、内容は似ているようでいて、全く構成の技術が異なります。ただし、どちらが良い悪いではなく、日本においては、この現存最古の二つの思想が混淆しながら時代ごとに強度を変えているということです。さらに古事記や日本書紀を基礎としながらも、同時代に制作された各地の古い伝承を編纂した風土記、あるいは古事記や日本書紀よりも起源が古い伝承を伝える先代旧事本紀、そしてその他無数の古代を記す書物があります。ゆえに、正しい見方はないでしょうが、そこに考古学・歴史・民俗学など、さらに多角的な考察を自らのもとで統合し、現場に足を運び続けて我慢強く読み解く技術こそが、唯一の術だと感じています。もはやAIがここまで社会的に浸透した以上、一次情報以外は当てになりません。

そこで、2025年最後となる今日は、その一端をテーマを絞ってフォトエッセイとしてリリースしようと昨日思いつき、今朝から書き始めていたのですが、今年一年読み続けて頂いた読者に感謝を込めて、有料購読者限定で、全ての過程を断片的ながら開示する制作に変更しました。そのため、記事が膨大になってしまいましたが、私自身が今年調査で来訪した場所で撮影した7000枚以上の写真から選定した56枚の写真と共に、ゆっくりとお読み頂ければ嬉しい限りです。私にとって旅は調査であり、調査は旅です。文献もそれなりに目を通しますが、参考程度であまり信用はしておらず、自分の目で見て、耳で聞き、その場所に立ち、心で感じたことを最も信用しています。

まず振り返ると、今年は東京で年明けを過ごし、かつて江戸と呼ばれた街を形成していた古い結界を調査することから始まりました。これは現・東京の都市部が江戸の街づくりの精神を無視し、開発重視の姿勢で破壊してきたものがあるからです。それが街における「気」の流れなのですが、この気の流れを円滑に循環することを前提にして街づくりが為された江戸の姿からは一変し、現在の東京は小池百合子東京都知事と建設会社の利権ががっちり締結されているため、次々と不要な構想ビルやマンションが乱立する姿となっています。ただ、ここまで開発重視の姿勢が続いても、実は絶対に開発の手を入れてはならない禁忌の場所が東京には複数あります。それは古代江戸の結界であり、ここを開発すると、必ず大きな厄災が起きます。この辺りは、明治末期から昭和初期の東京を舞台にこの結界を巡る争いを描いた『帝都物語』という荒俣宏の小説が面白く、私は映画を好むため、これを映像化した敬愛する実相寺昭雄の作品から多くを学びました。

そこから、かつて備後国と呼ばれた瀬戸内海に面した広島県の尾道ー福山の鞆の浦という古い街へ向かいます。ここでは備後畳という畳の伝統技術や、能の技術に関わる調査を組み合わせて行う予定でしたが、備後畳の研究者と対話した時、彼の姿に情熱がなかったため、即座にプロジェクトを取りやめて撤退。

予定が空いたので、亡くなった祖母の故郷である瀬戸内海の離島に来訪して、残っている親戚に土地の昔話を聞きに向かいます。

そこから再び本州へ戻り、今度は備中国と呼ばれた岡山県山間部の古い城下町で、江戸時代晩期に極度の財政難に陥っていた備中松山藩を救った一人の儒者・山田方谷(1805-1877)という人物を調査。彼の子孫に話を伺うために来訪します。

そこから日本海側に抜けた鳥取ー島根県沿岸部の山陰地方に入り、弥生時代から古墳時代という古代日本史の節目に、一体何が起きたのかということを独自に調査します。

それは、神話における出雲国という強大な勢力を取りまとめていた出雲大社の主祭神・オオクニヌシなる神の姿を探究するためですが、同時に出雲が巨大化する前の姿を追い求めて、オオクニヌシという王号を冠する前の神名であるオオナムチが婚姻関係を結んだ因幡国(現・鳥取県)のヤカミヒメの墳墓伝承が残る場所を来訪。土地の人に話を伺うと、土地に伝わる伝承ではヤカミヒメは渡来の神であり、「ヤカミ族」という部族を率いた姫であり、やがてこの地に住み着いたと驚くべき話をしてくれました。そして山中にある知られていない墳墓を教えて頂き、そこで祈祷を捧げます。この時、渡来の神という視座を熟知しなければ、古代日本の姿は見えないと確信します。

ここで一度山陰を離れますが、再び山陰地方に戻ると、今度はこの渡来という視点を探るために、かつて石見国と呼ばれた島根県西部に来訪。私の父方の祖父母がこの石見国の漁村と温泉地の出身だったのですが、この漁村側は、地名が神話に登場する神の名前を冠する稀有な場所であり、小さな土地でありながら、無数の渡来の神々の伝承や痕跡が残っています。そしてこの土地の郷土史を生涯に渡って調査しながら、道半ばで亡くなったのが私の親戚だったことを知ります。そこで親戚の姿を知る関係者、親戚が立ち上げていた郷土史研究会のメンバーにも話を伺うと、その親戚は私と同様に、日本人は単一民族ではないという強い確信を、独自の調査から明らかにしていたことを知ります。ふと、彼の無念が私に伝わったように感じたのです。

そこから再び、出雲ー鳥取の沿岸部を集中的に調査。

再び備中松山藩の歴史の続きを調べるために戻り、そこから山間部を縦断して海を渡って四国に入り、古代日本の中枢だった可能性がありながら、未だ大部分のことが不詳となっている四国の全貌を調べるために、香川県・徳島県全域の無数の遺跡や古墳・神社を片っ端から来訪。古くはアワの国と呼ばれていた徳島県の謎を解明することは、なぜ関西(大阪・奈良)で天皇が生まれたのかを理解するためには欠かせないと気付きます。

続いて向かったのは、日本海側の福井県沿岸部です。これまで考古学では、一般的に年代測定技術として、放射性炭素年代測定法と呼ばれる独自の技術が用いられてきたのですが、この技術は画期的でありながら、同時に年代の推定幅がかなり広いことが問題視されてきました。つまり、ある程度の推測はできても、正確ではないという限界を持っていたのです。しかし、全く別の目的でこの地で始まった調査が、この考古学の方法の限界を覆し、従来の縄文時代の年代測定を大きく是正する原動力となります。それが若狭地方と呼ばれる福井県沿岸部の三方五湖という場所で採集された世界唯一の「年縞」です。

年縞は、湖底などに1年ごとに季節の異なる物質が交互に堆積してできる縞模様の地層のことですが、何とこの三方五湖で採集された年縞は7万年分に及びます。年縞は、詳細に一年ごとに古代日本で何が起きたのかが分かり、同時に世界的現象も知ることができるため、世界唯一の地球史を知る場所として三方五湖が重視されるようになります。この年縞の研究者に話を伺い、博物館を歩き回りながら様々なことを教えてもらったのですが、ここで縄文時代の年代測定が大きく従来から変わってきた事情を実感し、これまで北東北で独自に集中的に行ってきた縄文時代の調査を、この角度から複合的に見ていくことの可能性を感じ、これを来年以降のテーマに据えます。

続いて、民俗学の視座を取り入れた調査を開始します。これまで、私個人は民俗学の開祖で絶対的存在である柳田國男(1875-1962)を重視せず、むしろ一元的に日本を論じる柳田の視座に疑念を呈し、我慢強く実地調査を続けた折口信夫(1887-1953)や、坪井洋文(1929-1988)が打ち立てた多元的民俗学に傾倒してきましたが、そこからさらに日本の実像を深化するためには、新たな視点が必要だと感じてきました。ここで私の思いと交差したのが、異端の民俗学者・谷川健一(1921-2013)です。谷川の著作を片っ端から読み、谷川が最重視していた「海から見る日本の実像」を調査しなければならないと痛感。そこで、神戸から四国へ船で渡り、古代の景観がどのようなものであったかを想起することから始め、四国入りすると、沿岸部を動き回って海洋部族の姿を探ります。ここで、黒潮という大きな海流が日本文化の祖型に関わっているという視座を提唱した谷川の視座が正しいと確信。彼も最重視していた四国南部の徳島県海南市を来訪し、海洋部族を率いる古代の勢力を調べていたところ、ある話を聞きます。

日本の古墳には様々なタイプがあるのですが、中でも天皇系の歴史に関わる有力者の墳墓として考古学者に考えられてきたのは前方後円墳というタイプです。しかし、この前方後円墳が、これまで徳島県南部側一帯では一つも発見されていなかったため、谷川の主張する黒潮から日本史を読み解く視座は学界では注目されてきませんでした。ですが、2024年9月、これまで発見されていなかった前方後円墳が徳島県南部の海南市の山中で発見されます。それを海南市で知りますが、同時に高速道路計画で潰されるかもしれないという話を聞き、そのまま地図もない山中を歩き回ってその姿を見つけて撮影。そして四国から和歌山に船で渡り、谷川が主張したように、海の視点を持たなければ、日本の実像は見えてこないことを理解します。

そこでテーマは古代海洋部族の動きと設定し、本来であれば北海道から北東北全域の調査を行う予定をキャンセルして、古代日本で大陸・朝鮮半島側から海を渡ってきた渡来部族の流入地だった九州の姿を調査すべく、九州に入って一月ほど掛けて全域を調査します。そこで多角的に海の視点を領有し、同時に海ー河川の往来で文化が動いていることを確信。そこで思案を重ねていると、筑後川という巨大河川に注目しなければならないのではないかと感じ、まずは大分県側にある日本最古の神社の一つ・宇佐神宮の信仰の起源が、どのように九州東部の沿岸部で生成されたかを調査します。

宇佐神宮近郊の国東半島の伝承を巡り、大分県東部を南下した沿岸部で海の女神が奉祀されている佐賀関から佐伯など、日本の古代海洋部族を束ねていた古代の重要勢力について調査を行います。この時、九州において渡来のメインルートが北部一帯だったことは事実だろうが、それ以外の主要ルートがあったのではないかという疑念を持ち、もしかすると西側を周回して内陸に入り込む有明海側からの進出ルートがあったのではないかと直感。この有明海ー九州東部への往来は峻厳な山岳に阻まれていますが、ここに筑後川という河川が横切っていることを理解。つまり、有明海ー筑後川ー九州東部(宇佐・国東半島・佐伯)ー四国という動きがあったのではないかと仮説を立て、大分側から筑後川全域を辿って信仰の調査、そして最終的に筑後川が流れ出る有明海に達します。同時に、その流域近郊にある弥生時代の最重要遺跡であり巨大集落の吉野ヶ里遺跡から一帯を調査。海洋部族の動きと呼応したような感覚を掴みます。

そこから不思議な伝承や信仰を有する熊本県山間部の山鹿市に入り、山奥の崖に穴を開けて墓を作った古代の勢力が、実は山に居住していた部族ではなく、海洋部族だったことを理解。そこからさらに、山間部に河川を伝って勢力を拡大した見えない海洋部族の実態を調査します。

そして再び九州東部に出て沿岸部を南下。海に勢力圏を持つ部族が、山に勢力圏を持つ部族と戦になり、最終的に山の勢力に覇権を移譲したことを象徴する神話の「海佐知・山佐知」を解明するために宮崎ー鹿児島を動き回り、なぜ海洋部族の痕跡が日本で消えたのかという点を熟知します。

そして九州全域の調査を一端終えると、続いて2024年1月1日に震災があった能登半島で行われた復興祈願を込めた江戸時代の絵師・長谷川等伯展を観に北陸へ向かいます。長谷川等伯は能登半島の出身で、私が一番敬愛する絵師ですが、彼の言葉にし難い絵を生み出した心をいつも思案していました。同時に、地震という日本では避けることのできない脅威に対して、国家はどこまで自然災害に対する対処能力があるのかという点を見ることにします。これまで独自に行ってきた2011年3月11日の東日本大震災の復興地の姿の体感も踏まえて、能登半島側でも同じように実施したのですが、特に震災によって信仰はどのように失われるかという視点を深める目的を持ち、未だ復興していない能登半島を一周ながら、地震の痕跡が未だ全体に残る姿を見ていきます。特に、出雲のオオクニヌシと深い関わりを持つ能登半島最北端の珠洲という地域における古代の姫を調査。

さらに、多元的民俗学の視座を研磨するために、富山ー長野ー新潟ー福島を動き回り、改めて日本・日本人が一元的ではない姿を心から理解します。

同時に、出雲のオオクニヌシが娶った姫の調査も行います。それがヌナカワヒメと呼ばれる新潟県糸魚川市に鎮座する神ですが、出雲が覇権を握る前、古代日本で一時代を築いた重要な神です。ルーツは縄文時代にあり、日本ではこの土地でしか産出しない翡翠の採集・加工技術を活用しながら、翡翠を駆使する女王として祭祀を統率する運営を行いました。実際、何とヌナカワヒメが治める地域の翡翠は、考古学的に見ても北海道から沖縄にかけて日本全国で発見されています。

こうして大阪に戻り、今年理解した知見を前提に、なぜ古代天皇史は大阪ー大和(奈良県南部)で起きたのかという視点を研ぎ澄ませるために、一月かけて大阪各地を踏破し、天皇はいかにして天皇になったかという一つの示唆を得ることができました。

ザッと書き上げたので、省いたものも多々ありますが、今年はこの辺りが主なテーマとなり、これまでも数年かけて行ってきた視座が、さらに研ぎ澄まされてきたことを感じると同時に、謎は謎を呼ぶという言葉通り、解明したように見えれば見えるほど、広大無辺の未知の世界に入ったように思えます。つまり、終わりはないのでしょうし、答えはないのでしょう。

明日から始まる2026年は、毎年のように来訪しながら、今年は来訪できなかった北東北に改めて注力したいと考えており、同時に文化考察や調査に軸を移していきたいとも考えています。

最後になりますが、今年一年間、定まるものがなく右往左往しながらも、とにかく何かを掴むために記事を書き続けてきました。11月中旬頃になって、何を掴もうとして書き続けたのかがクリアになる瞬間があったのですが、それは不特定多数の人々に「伝える」のではなく、限定した読者と共に「思索する」場所作りであり、そこにおいて「共感」ではなく、「共鳴」を生むことでした。

そんな中、無名の人物が書く記事に、早々から有料購読を行なって読み続けてくれている読者の方々には、改めて深く感謝します。あなたたちの存在が、一年間書き抜くことの原動力となったことは、言うまでもありません。

今年最後の日も日本で静かに迎える私は、欧米の読者の皆様よりも、一足先に2026年という未来に向かいます。

日本から、読者の皆様に感謝と敬意を込めて。

Takahiro Mitsui