ノマドロジーを掘り下げる 2Digging Deeper into Nomadology, Part 2
昨日に引き続き、ドゥルーズとガタリが提唱したノマドロジーを、さらに鋭利に抉り、そこから現代人が直視すべき生存のための新たな概念を引きずり出す試みを行います。真のノマドは何かを考えることは、ひいては真の世界において生きる真の世界市民とは何かという問題と通底しているテーマだと私は考えているのですが、この時、いつもながら厄介な問題は現在のノマドライフを送っている大半の人々には、こうした理解が全くないことです。つまり私は、彼らは未来ではない、単なる旧態依存した「かつて」の延長の一つでしかないと見ています。そして彼ら自身が気付いていないことは、彼らは特定のシステムから逃避・脱出したように見えて、実は同じ位置に立ったままだという事実です。
まず、私たち現代人は根本的な認識の欠陥を抱えています。それは二元論という呪縛に未だ強く囚われている事実と、それに対する処方策を持ち合わせていないことです。多くの人々はノマドロジーという概念において、内へ向かう作用・働きを持つ国家装置なるシステムを想定し、それに対抗する形で、その規定された檻のような秩序から脱して、外へと逃避し続ける戦争機械としてのノマドを設定します。ですが、その状態で如何に都市を転々と移動したとしても、そもそもこの内と外という分離した構造そのものが問われていないため、そこが二元論の罠であることに変わりはない。そしてこの誤った認識前提に立っている人々は、ノマドであろうとなかろうと、いつの間にか実体としての境界線を現出・強化する力となります。この時、私たちはノマドロジーの本質を完全に見誤ることになるのです。
典型的な誤謬を挙げるならば、表を歩いているつもりがいつの間にか裏になっている、あるいはその逆という、メビウスの帯のような事態が我々の社会では多発していることです。というよりも、私は本当は二元論的世界も線形的世界も存在しないとさえ考えているほどです。
なぜ、私たちがこの表と裏、内と外を二元的に捉えて失敗するかと言えば、現代人が虚妄している線形的時間には、常に遅延が発生しているからです。その遅延を現代人が知覚できないのは、現代人の時空を前提とする線形的世界において、この遅延はそれなりの歳月を要するからです。そして今や秒単位で人々の生活が実装されている以上、この数年や数十年、あるいは数百年を要する遅延を、誰もが察知することができず、それは「なかったこと」として破棄されます。つまり、人間は既に根本的な生命の本能を持っていないということです。
ですが、あなたがそれを意図的であろうとなかろうと行っている破棄という行為こそが、現実性ではない現実への不安・恐怖として高まる動因となります。ゆえに、さらに一層、人々は現実に直面することを回避するようになり、生涯を通じて一度も、一瞬たりとも現実を見たくないと望むのです。その現代人の思いを汲み取り、「慈悲」として都合良く転化してシステム化することによって、相互依存関係が成立しています。合言葉は、「現実に直面したくなければ、この世界システムに奉じろ」です。
もっと言えば、私たちが信じている線形的なコードを有する時間、思考、世界とは、実はこの遅延が生み出した残像、あるいは残響でしかない。故に、この前提を理解せずに安易に脱出を実行しようとすれば、外に出たつもりが内に戻っているという現象、すなわちドゥルーズらが警告した再領土化の罠に堕ちることが必然となります。これが、現代における閉塞感の正体です。なぜ、先へ進んだかのように見えれば見えるほど、行き詰まりを感じるかと言えば、全く先になど進んでいないからです。
本来、絶対的な外部へと逃れようとする作用こそが、システムに対抗する戦争機械としてのノマドの力能であったはずです。その上で、ノマドロジー的な内外への加速的流出入によって、都市を再定義する働き自体となってノマドは作用することが想定されたわけですが、しかし、外部に出たつもりが内部に回収されているというこの遅延を、近代以降に主体化されている個人は、よほど注意深く見極めない限り感知できません。そして最大の問題は、主語を言語に構造化している国で生まれ育った人々には、この遅延を察知できないということです。言語の興味深さは、ここに尽きます。
結果、気づけばかつて戦争機械であったはずのノマドが、国家装置のシステム管理者、あるいはその補完物になり下がっているという茶番が起きているのが現在です。なぜこうした転倒が起きるかと言えば、それ以前に思考の地盤そのものを替えることを避け続けているからです。つまり、外としてのシステムからの逃避はやっているが、同時に彼らは自分自身との向き合いからも逃避しており、結果的に現実それ自体に向き合う覚悟も決意もないということです。
どれだけ主体化された個人が物理的に外へ外へと逃げようとしても、決して逃れられないこの行き詰まりの蔓延は、既にノマドが生活で掛かる諸費用を回収するために、「外に逃げれば答えがある」「逃避し続ければ自由が獲得できる」という無知な考え方を美辞麗句を並べてパッケージ化し、人々に拡散する動きへ向かっています。彼らは、既にシステムの内側に記述されたプログラムに過ぎないからです。つまり、各都市のカフェでPCを開いてノマドライフを送っているだけの彼らに未来があるのではない。それはノマドロジーではないからです。
現代人は、この閉ざされた回路の中で前進しているわけではなく、むしろ後退している。しかし、その後退ですら、線形的世界の認識においては前進として常に偽装されます。線形的世界において、後退はあり得ないからです。よって、システムという巨大な遠心分離装置の中を見れば、人類の大半は実は動いておらず、遠心力によって壁に張り付けられ、ただその場で高速回転しているに過ぎない「何か」であることが理解できます。つまり、何の実質的な進歩も移動もしていない。ただ後退のみが起きているにもかかわらず、回転数、すなわち情報量や移動距離という数値だけが大量に増えたというのが現状です。
この管理システムにおいて、人間の身体はシステムに徐々に圧殺されながら踊る、ブラーのかかった人影そのものと化しています。ここではエマニュエル・レヴィナスが言うところの「顔」――他者への倫理的責任を喚起する人間性の最後の砦――すら剥奪されており、システムのエラーにおいて痙攣することしか許されていない生命力なき身体があるだけです。そして徹底的に飼い慣らされた結果、自ら能働的に自己家畜化した存在の最後の神経反射こそが、現在における「生きる」という意味に転化され始めています。私は世界的な知識人への不信は反知性主義的な動きが起きた動因には、世界を堂々と語る人々がこうしたことを言語化できていない苛立ちにあったのではないかと考え始めています。
この生きる意味の再定義は、極めて危険な兆候です。人類が得体の知れない不安、恐怖、絶望に包まれているのは、それが人間性への留めとなる可能性を、本能的に感知しているからに他なりません。しかしここに重要な鍵がある。実は人間性とは、実は現実性と同様に疎外されたものでしかないからです。そして誰もがある日突然、今私たちが信じている全ての価値観が一瞬で消滅し、現実に直面する日を迎えます。その時、私たちは現実から疎外していた現実性において、装飾化された華美な人間性ではない、非疎外の生々しい人間と直面するのです。それは戦争、自然災害、社会動乱、テロ、疫病、飢饉など様々でしょうが、もう私たちはそのリスクと共に生きることが必須となっています。
では、どうすればよいのか。まずは徹底的に、近代というプロジェクトが既に終わっているにもかかわらず、知識人たちが終わっていないふりをし、終わらせまいと議論したふりをして延命措置を講じている現状を突き崩さなければなりません。これによって引きずり込まれている思考の地盤の旧態依存から、まずは自らが脱却することです。特に現実と現実性という問題において、この問いは重要です。現代ノマドは、現実を見るためにノマドとして生きる覚悟を持っているのではなく、ノマドロジーをファッションとして消費しているに過ぎない。つまり、知識人同様に延命措置を講じて、現実性の未来を演出するために用意された商品でしかないのです。現実という深淵を見ないための不知を、彼らは高速で都市間を移動することによって自己正当化し、それを「なかったこと」にしているのが実態です。だから彼らには、都市経済を動かす力にはなり得ても、人間を再定義する力にはなり得ない。人間を問うたことはなく、人間性の都合の良いところだけしか見ていないからです。
本来、ノマドロジーにおいて、ドロドロとした裂け目という現実を見ないようにするために、横へ横へと移動し続けている状態は否定されるべきです。これを「平滑空間」への展開として捉えていること自体が、そもそもドゥルーズやガタリに対する誤読なのです。真のノマドロジーは、深淵を凝視する心構えを持つことから始まります。そこに鬱積し、堆積するものこそが、近代以降に私たちが目を背けてきた「現実の呼吸音」だからです。この絶望的とも言える現実と対峙した時、私たちはどう生きるのか。ここに私はノマドロジー最大の可能性を感じています。なぜならば、この理解においてノマドロジーの実行者は、現実と対峙するために、より正確に言えば現実を抉り続けるために、世界中を常時移動可能だからです。
つまり私は、ノマドの数が増加する現代において、オーバーツーリズム同様に、単なる数としてのノマドの増加は、都市構造の再定義を問う力さえないため、旧来と同一の世界を前提とする経済活動の動き以外に影響を持たないが、真のノマドがその都市に一人でも入ってくるか否かにこそ、都市の未来はあるのではないかと考えているのです。
私は、ノマドロジーにおけるノマドを漂流民として射程しつつも、本質的なノマドの力を、外界と内界を分離するのではなく、非分離の状態において自らの元で統合する力として再定義することを提案します。「外へ出る」という言葉を単なる物理的な移動と捉えた瞬間、ノマドは現代の大多数の人々のように、単なる逃避者以外の何者でもなくなるからです。しかもこの逃避者は、前述のメビウスの帯の上にあるため、実は国家装置のシステムの一部であるという、彼らが絶対に認めたくない事実を突きつけられます。そして事実、彼らはこれを絶対に認めません。認めれば、彼らの存在意義自体の軽薄さが暴かれてしまうからです。
そもそも国家システムの内部というのは、空虚な枠組みに過ぎません。しかし、真の外部へ至るには、そこから逃避し続けるのではなく、自分自身の内部を抉ることしか方法はないという逆説を核とすべきです。私の信念はここに設置されているのですが、ゆえにノマドロジーこそ、自己の採掘技術として、徹底的な深淵まで抉り出すという行為から始めるべきなのです。それが私の考えるノマドロジーの前提となります。
ノマドを「国家の外へ飛び出し、死にゆく都市を再構築する者」と定義するのは構いませんが、現代人が陥りやすい罠は、「外とはどこか」という問いが根本的に欠落している点にあります。そして大抵は物理的な外でしかないと判断し、海外、地方、ネット空間だと完全に勘違いしている。ですが、そうやって物理的に移動するだけでは、真の自由には絶対に到達できませんし、真の外部を知る可能性すらゼロです。なぜなら、国家装置のシステムが作り出す内部というのは、精神を守る家ではなく、単なる管理のためのフレームに過ぎず、しかもそれは幻想が実体化しているという作用・働きの中で、厳然として存在するものだからです。
システムは、国民、市民、社員、家族、個人、さらにはコンサルタント、クリエイターやライターといった肩書きからキャリアに至るまで、大量の「枠」を次々と時代に応じて投下し、それを装飾することによって、かつての部族的な権威を示しています。私は日本の古代史をかなり調査しているのですが、かつて日本には無数の部族が居住しており、それは多種多様なルーツを持つ人々であったため、部族ごとに権威の表象は異なりました。例えば、耳たぶを大きく開けてピアスをつける人、首に無数の輪をつける人、宝貝の装飾で権威を示す人、鳥の格好で祭祀を行う人などですが、実は人々が今もプロフィールで連々と書き連ねていることは、実は現代的な部族権威の再解釈に過ぎません。それも祭祀的な力を持たない、単なる社会的なポジションの問題でしかないという冷徹な事実があります。
彼らはこれを内部と呼んで閉じ込めていますが、現代ノマドはこれを嫌がって批判したふりをします。しかし、実は彼らは完全な共犯関係にある。なぜならば、それは単に更地に線を引いて、ここは私の土地だと主張しているに過ぎず、幻想を実体化するための薄っぺらい境界線、しかも強力な共犯者でしかないからです。つまり、内にいようが外にいようが、やっていることが違うだけで、実際は同じシステムのために自己家畜化している点では同義だということ、それが私の現代ノマドロジーの転倒に対する批判軸です。
ここで決定的な武器となるのが内省です。ドゥルーズとガタリが言う戦争機械としてのノマドの本質は、物理的に遠くへ行くことではなく、私は境界線を「無化」することにあると考えます。内と外という境界線自体を自ら無化していくことこそがノマドロジーの本質であり、それは逃げることでは達成されません。そして、私たちが本当に無化しなければならない最も強固な境界線とは、国境や地政学的なものではなく、私たちの「意識の被膜」そのものにあるということです。ここが、理解されていません。
水平移動において、自分の内面を見ない――イコールで現実を見ないまま――景色だけを変えて逃れることは、単なる観光の再定義でしかない。真のノマドは、これを単なる水平移動ではなく、全く同時に垂直掘削として行う高度な技術を持っています。自分の内側にある内界の既成概念、国家システムによって保持している価値観や自我という幻想を、徹底的な内省によって突き崩していくことから全てが始まるのです。この「内部を抉る」という行為は、内部への引きこもりではありません。「極限まで深く潜ること」と「極限まで遠くへ行くこと」は同義である、というのが私のテーゼですが、これは共時的に実現されるものです。最大の外への動きとは、実は極限まで深く潜ることによってのみ生成される。この自己の深淵、ドロドロしたマグマのような無意識すら貫いた領域こそが、国家システムの管理が及ばない、真の意味での平滑空間だと位置付けます。
この平滑空間は、現代ノマドが行っているような越境的な中心点を持たない水平移動ではありません。ノマドとは「内界へ旅する者」であり、それが同時に「外界を旅する者」であるという矜持を持たねばならず、そこに真の中心を持たない「速度と流動」の主体がある。これが分離しているのではなく非分離でなければなりませんが、その非分離とは、常に「私のもと」でしか起きないものであり、その状態を「場所」において発現させること、これこそがノマドロジーの真髄です。
国家装置が提供する内部は、実は我々の内界とは完全に無関係です。私たちが何者かと問うこと自体を嫌う国家装置は、深く問えば問うほど、国民や消費者といったラベルが剥がれ落ちて露呈することを恐れます。それ故に徹底的な内省は、それ自体がシステムに対する攻撃、すなわち戦争装置の武器となるのです。自らの起源を問うことは、強烈な痛みを伴います。その痛みまで全て引き受けて、自己を徹底的に掘り下げること。そこに私は真の世界があり、世界市民なる言葉を用いるならば、その境地を超えた人々において実現されるものだろうと考えます。つまり、現在言われている世界や世界市民は、全く無意味であるということです。彼らが行っている世界・世界市民とは、優劣の実装の継続でしかないからです。
この場合、私であれば、日本・日本人としての起源を問い抜くことが必須となり、そこにおいて私の血肉となっている「違和」の正体を突き止めることですが、この内側を抉ることによって、システムが作った空虚な内部という枠を、内側から破綻させることができます。これは読者それぞれに異なる起源を自ら問う境地ですが、私は異なる起源を有する人々であっても、内側を抉り抜いた先にある境地には、真の普遍があると断言します。普遍とは、超越によって線形的に成し遂げられるものではないということです。
この時、私たちは初めて国家と呼ばれるシステムの本当の外部と接続することができるのですが、これは近代の扱いにおいて脱するのではなく、無化してしまうという最もラディカルな行為と見做されるでしょう。