C:\SHITSURAE\> TYPE SJ240.TXT

SJ240.TXT2025-12-0238KB

ノマドロジーと柳田國男の思想Nomadology and the Thought of Kunio Yanagita

ドゥルーズ=ガタリが提唱したノマドロジーに対し、一昨日の記事から独自の視点で、その本質を探り続けてきました。そしてこのノマドロジーという概念は、ある思想と驚くべき共鳴を果たしています。それは、民俗学者・折口信夫が提唱した『マレビト(マレビト)』の概念です。

そもそも、日本における民俗学の黎明は、江戸時代という独自システムの老朽化と、開国を迫る西洋列強の圧力、そして明治維新という名の近代化革命が激突する中で産声を上げました。この過程で西洋の学問という体系が濁流のように流れ込み、日本人がそれらを取り入れて吸収していく過程で、一人の官僚であった男が、日本人の基層を探ろうとしていました。それが、柳田國男です。

しかし、柳田國男が構築しようとした民俗学は、事実上、稲作を中心と前提して定住農耕民こそが日本人の古層だと恣意的に位置付けた彼個人の歪んだ学問でしかなく、それは近代国家が求める均質化された国民統合の物語とは常に共犯関係にありました。柳田のアプローチは、多様で混沌とした日本列島の生活を、一つの美しい秩序ある体系へと回収しようとするものですが、この過程で無数の多元的世界が破壊されていきます。

この柳田という巨大な「知の制度」に対し、その体系から自らはみ出し、こぼれ落ちていくもの、稲作中心の定住社会の論理では語り得ない異界や漂泊に光を当て、日本民俗学という多元的世界を切り開こうとした先駆者が、折口信夫でした。つまり、柳田國男は国家へと疎外生成される現実性の共犯者であり、折口信夫はそこに回収される動きに迎合しない、徹底した現実への凝視を選んだのです。なぜ私が全く文脈の異なる欧米知性のドゥルーズ=ガタリによるノマドロジーに対して、折口信夫のマレビト論に可能性を見たかと言えば、彼自身の生涯それ自体が、日本が近代的国家システム樹立の高揚期であり、ゆえに現実から疎外された現実性が、無数の多元的性格を失い、唯一の現実性へと統合されていく動きと共にあったからです。そして彼は、ここに迎合せず、自らの足で統合され得ない多元的世界への一歩、つまり現実性という激流の動きに抗い、自ら現実それ自体の開削に向かって深淵な道を歩んだのです。ここに、私は未来のノマド像を見ています。

こうして長年の膨大な研究を踏まえて折口信夫が注目し、彼の思想の核となったのがマレビトです。マレビトとは、海(あるいは山など)の彼方の異界から、特定の共同体(村落)に来訪する霊的・威厳的な存在を指します。この異界を古くから日本では「常世」と呼び、概念化していました。マレビトは、枯渇し澱んだ共同体に、新たな生命力や祝福をもたらすと同時に、破壊的な変容や災厄をもたらすかもしれない、畏怖すべき絶対的な他者です。つまり、マレビトとは神そのものでした。

ここで極めて重要なのは、マレビトは定住社会の論理には決して染まらず、常に外部からの風を纏って現れ、内部の澱んだ空気を撹拌するために存在したという点です。そして何より決定的な特徴は、マレビトは来訪すれば、必ず「帰っていく」という習俗を持っていたことです。つまり、マレビトは定住しない。定住するのではなく、必ず去っていく。この「去る」ということを前提として来訪するというマレビトの動態こそが、私が考えるノマドロジーの本質的な姿なのではないかと確信しています。

事実、既に現代ノマドにはその兆候が見られます。昨今の文脈で語られるノマドはスローノマドへ派生していますが、このライフスタイルは一箇所に数ヶ月滞在し、そこでコミュニティと真摯に関わり、課題解決のためにビジネスを行うといった、一種の居住の流動化として位置付けられます。しかし、ここで重要なことはノマド自身の心構えです。あくまで「ビジネスがうまくいったから」「居心地が良いから」という理由でそこに留まるのか、それとも自らがノマドとして生きることを決意した時、その心構えに「去る」ことが考えられているか。私が問いたいのは、そのような利便性や陳腐な現代社会を生き抜くための移動ではなく、「去る」という行為を最初から運命づけられた存在として、その場に立つことができるかという一点の覚悟です。これこそが、本質的なノマドの生命線であり、真の外部性です。

本来、ノマドロジーの本質において、ドゥルーズとガタリが示した「平滑空間(戦争機械・ノマドの空間)」と「条理空間(国家装置の空間)」、あるいは内界と外界というものは、不可分なものでした。しかし、現代社会におけるリスク管理や効率化の名の下で、これらは完全に分離されています。内界は安全で清潔な管理社会として閉ざされる強度を加速させており、その加速に比例して外界は排除されるべきリスクとして遠ざけられています。本来、この内外は強烈な緊張感を持っていましたが、近代以降、現在に至ってはこの緊張感に誰もが耐え切ることができなくなり、極端に内界と外界は区別され、政治闘争として露呈しています。現代のノマドたちは結局のところ、世界中に分散された安全な内界から内界へと移動しているに過ぎず、それは人間自身を次へ到達させるような真の移動にはなり得ていません。だからこそ、この点を思考し抜くことが重要なのです。なぜならば、現在ノマドであるか否かに関わらず、誰もが突然、あらゆる形で移動せざるを得ない状況に遭遇するのが現代だからです。

かつて、この内界と外界が、現代のように物理的な壁や制度によって分離・分断されていなかった時代、日本の共同体において、その境界は「不可視の結界」によって維持されていました。その目印は、たった一つの「サイノカミ(道祖神)」と呼ばれる石像などによって構築された見えない境界線でした。村落(内界)から一歩外に出れば、そこは魑魅魍魎が跋扈し、死と穢れが支配する生の保証のない外界でした。当時の人々にとって、村を出るということは、二度と戻れる保証のない、死への跳躍に等しい行為だったのです。だからこそ、一度外へ出た者が再び村(内界)へ帰還する際には、厳粛な儀式が必要とされました。外の世界で付着した穢れや異質な力を祓い清めるための、数日間に及ぶ禊を経て、初めて彼らは再び共同体の一員として迎え入れられたのです。この感覚は極めて重要です。

この内と外の強烈な緊張感、そしてその境界を越えることへの畏怖と覚悟には「死」が徹底的に内包されていました。つまり私にとって、近代が内と外の緊張感を失い、本来どの国や民族も非分離という技術を持っていながら、分離へ向かってしまった背景には、この「死」から目を背けようとする動きがあったことと切り離して考えられないのです。死を考えないようにすることによって、生命は枯渇する。それはなぜならば、非分離という生死の緊張を失い、イコールで共同体の見えない結界が弱体化するからです。

この感覚こそが、古代の人々にとっては生々しい現実そのものであり、そこには内と外が分離しながらも融合しているという、高度な精神的緊張関係が存在していました。この境界線、内と外をつなぐ結節点に存在したのが、シャーマンや巫女といった職能者たちであり、彼らが媒介することで、村落社会は外部の活力を取り込みながら維持されていたのです。この活力に必要不可欠だったのが、マレビトという絶対的な他者(外部)です。

ここで、私は現代のノマドロジーにおいて最も重要だと考える概念は「現実(The Real)」と「現実性(Reality)」、そして「アクチュアリティー(Actuality)」の区別ではないかと考えます。多くの現代人は、自分たちが生きている社会システムや常識・倫理、この安全で飼い慣らされた世界のことを「現実」だと信じていますが、しかしそれは誤りです。私たちが普段暮らしているこの世界は、「現実(The Real)」から目を背けるために疎外された「現実性(Reality)」という名の幻想に過ぎません。

本当の「現実(The Real)」とは、極めて生々しいものです。それは、制御不能な自然そのものであり、剥き出しの不安であり、死の手触りであり、言葉や論理では回収しきれない混沌としたエネルギーの奔流です。かつて古代人が対峙していたのは、この「現実(The Real)」でした。彼らは、自然という巨大な暴力性に飲み込まれないよう、必死に感覚を研ぎ澄ませていたのです。そうしなければ、全滅したからです。ただし、古代においても既に現実の生々しさからの疎外は起きていました。それが彼らの村落次元での共同性、つまりこれが当時の現実性だったのですが、私たちの考える現実性と全く異なるのは、それが多元的で無数に存在したことです。いわば、部族の数だけ現実性は存在したと考えれば分かりやすい。ゆえに、統一的な国家システムの現実性とイコールとなるような現実性など、世界中どこにも存在していなかったということです。

だからこそ、現実を疎外した古代部族の村落という共同体の現実性において、結界によって見えない境界線が四方に張り巡らされ、内外を彼ら自身は区別していた。つまり、これは現実という広大無辺の世界基底から、無数の部族が異なる疎外を現実性において為したということです。だからこそ、古代部族では異族間の祭祀を見ることは禁止されていたのです。彼らにとっての祭祀とは、すなわち疎外された現実性の醸造であったからです。前述の通り、かつて日本では村落を出ることは、すなわち死を意味しました。そして再び運良く帰って来られたとしても、それは共同体の現実性ではない穢れを纏っているため、徹底的な禊が必要でした。このように、彼らは現実と現実性の区別を理解していた。だが、これが近代以降に一変していきます。

近代化とは、私の目には、この恐ろしい現実(The Real)を全疎外するプロセスです。それ以前ではどの民族も現実と現実性の緊張状態における非分離があったのですが、近代はこの現実性の高まりを悪用して、現実をなかったことにする暴虐に出ます。この時、自分たちの現実性を現実だという恣意的な再認識が行われていくわけですが、ゆえに言語化する場合、ここはかなり混乱の淵となります。ここに浮上してくるのが、アクチュアリティー(Actuality)です。つまり、近代化は特定の現実性を膨張させることによって、実は現実自体を覆い隠すために、他の多元的な現実性を統一する動きに向かったのです。これにより、唯一の現実性を世界と呼び変えていく動きが現れるのですが、ゆえにこうした視座は既に自らの国における多元的な現実性を破壊し尽くしているため、他国・他民族に対しても自らの現実性を強要する暴力的な実践に向かいます。これが、近代です。

こうして私たちはコンクリートで地面を固め、空調で空気を管理し、異物を排除することで、清潔で安全な現実性(Reality)という温室を作り上げていきましたが、それは表面的なものでしかなく、本質的には現実性自体の多元的存在が、木っ端微塵に数世紀をかけて破壊されたことにあります。そして近代で台頭した西洋の優位性があったのは、真っ先にここに直面し、この問題対処にあたる歳月をかけてきたからです。ゆえに先行的に自らの現実性を絶対的な世界とすることが理想とされていき、かつ大陸的な群雄割拠の国・民族との歴史において、ここが一気に研ぎ澄まされていきます。やがて一部は自らの現実性を他国へ輸出(強要)するために海を出ていきましたが、その結果が如何なるものであったかは、現在の日本からでも十分過ぎるほど理解できます。

そして、この温室の中で、人々は口を揃えてこう言います。「現実を見ろ」と。ですが彼らが言う現実とは、The Realのことではなく、「このシステムの中でうまく立ち回れ」「社会的なコードに従え」という、システム内での差し迫った状況、すなわち「アクチュアリティー(Actuality)」のことを指しているのです。近代以降、現実性(Reality)という箱の中では現実を徹底的に隠蔽しなければ維持できなかったため、ここで現実をアクチュアリティー(Actuality)という同調圧力に転移させ、本来の現実(The Real)を完全に忘却する次元に達してしまいました。そうして作られた空間・場(Field)において、その土地固有の現実(The Real)は、コンクリートで固められ、漂白されてしまったのです。

現代において私たちが目指すべきは、この疎外されて隠蔽された状態から脱却し、あえて現代のマレビトとしての視座を獲得することです。それはハイパー・ノマドのように世界を飛び回り、表面的な「違い」を楽しむことではない。そうではなく、今、自分の足元にある地面の裂け目から、かつて存在したはずの、あの恐ろしくも生々しい現実(The Real)へと、深く、垂直に潜行することです。なぜならば、そこにおいて初めて、私たちは統一されていない現実性の多元性を知るからです。そしてこの現実と非分離に存在した現実性の多元的存在は、常に場所において生まれます。私は、これを「再着陸(Re-landing)」と呼びます。

この「再着陸」は、安易な排外主義的ナショナリズムへの回帰や、農本主義的な土着への逃避とは全く異なります。そうではなく、自らの足元にある「起源(オリジン)」を、徹底的に自分の内側へと掘り下げていく強烈な痛みを伴う行為です。この「起源への潜行」には、痛みが伴います。なぜなら、それは飼い慣らされた現実性(Reality)の皮膜を破り、Actualityに惑わされず、自分自身の中にある混沌、トラウマ、そして剥き出しの現実(The Real)と直面することを強いるからです。しかし、そこから目を逸らし、場所を変えることで逃げ続けていては、決して真の着陸は訪れません。

既存のシステムや同調圧力(Actuality)に回収されない、強固な個としての意志、すなわち石のような硬度を持った意志を確立しなければなりません。

西田幾多郎が場所論で説いたように、場所とは単なる地理的な座標ではなく、私たちの意識や存在を規定する源泉です。物理的な移動が容易になった現代だからこそ勘違いされがちですが、本当に問われるのは「精神を完全な移動状態に置くことができるか」ということです。そうして垂直に深く掘り下げていったその最深部においてのみ、私たちは「逆説的な普遍性」に到達するというのが私の根本的な考えです。

現代社会が喧伝する多様性は、疎外された現実性において、暴力的に統一した無数の多元的存在である現実性の残渣を、悪用した形で提示される統一への一つの側面でしかない。なぜならば、現代の多様性は、あらかじめ用意されたカテゴリーの標本を、ショーケースの中に並べて「違い」を愛でているに過ぎないからです。それは現実(The Real)を抉ることのない、空虚な消費です。真の相互理解や、真の多様性とは、横に手を広げることではなく、個々人がそれぞれの場所で、それぞれの「起源」を極限まで掘り下げた結果、その地中深くで、地下茎(リゾーム)のように他者と接続することによってのみ可能になります。ゆえに、この時に起源の問題を政治化することは断じてあり得ず、その魅惑に転落してしまった時、実は近代への迎合として既に回収されています。

表面的な連帯ではなく、深層における接続。それこそが本来、私たちが目指す地平であり、未来であり、真の世界市民の位置です。現在までに考えられている世界や世界市民など、前述の観点から理解できるように、特定の統一された現実性を前提に含有しているため、そこに如何なるミックスが起きているにしても、基本は変わっていない。そしてその基本は常に差別・優劣にあるというのが私の洞察です。ゆえに、この近代の基本を未だに破棄することができない以上、ここで語られる世界・世界市民という未来は、残念ながら強烈に差別・優劣を内包した状態であることに変わりない。ベクトルが間違っているからそうなるのですが、超越という過程で残った最後のものを唯一の普遍と見做すことが、根本的な誤りです。もはや現代人は、一人一人が近代のすべてを破棄するレベルで生きなければならない。いや、その覚悟が本当にあるのかという窮地にまで来ている。

一人一人が各々に異なる「起源」を問い抜けるか。ここに私は未来があると信じている。

私の場合ならば、日本という地層を、その闇も、美しさも、残酷さも含めてどこまで深く抉り出し、血肉化できるか。他国の煌びやかな事情や、流行りのグローバルな言説に惑わされている場合ではありません。まずは徹底的に自分の足元、その「起源」を思考し続けること。そこからしか何も始まりません。

真の普遍性とは、水平方向に手を広げることではなく、徹底的に潜ることによってのみ到達できる境地なのです。上にむかって超越していくのではなく、一番の深淵にまで先に潜り、そこで初めて、同じように深く掘り下げてきた他者と、言葉を超えた領域で邂逅する。これこそが真のネットワークであり、ドゥルーズとガタリが夢見たリゾームの現代的な実装であり、私たちが目指すべき「真の世界市民」の姿なのです。

外部は、遠くにあるのではない。あなたの足元、その深く掘り下げた先にこそ、広がっているのです。