医療から見る江戸時代の深みThe Depth of the Edo Period Seen Through Medicine
日本における薬の歴史は、極めて奥深いものでありながら、同時に未だ多くの謎に包まれています。太古の昔、縄文人や弥生人が発明した無数の薬の調合技術や活用法は、確かに今も日本の薬文化の源流に僅かに流れているとは言え、彼らに文字は一切不要であったため、すべてが口伝によって代々伝えられていきました。ですが一方で、中国の高度な諸文明の影響を受けながら時代が進むにつれて、日本側でも薬の技術は体系化、占有化されていく傾向は避けられなくなり、やがて大きな転換点を迎えることになります。それが、江戸時代です。この薬の歴史という興味深い時代を考える時、特に注目すべき場所となるのが、大阪の道修町です。
大阪市内の一画に位置する道修町の歴史は古く、江戸時代以前より、全国制覇の覇権を握った豊臣秀吉(1537-1598)が、本拠地である大坂城を築城するに際して、大規模な城下町の建造プロジェクトを打ち立てたことに遡ります。この時、城下町プロジェクトで特筆すべき発展を遂げた道修町の源流となる「ある一画」があったのですが、それが船場です。船場は、現在の地図で言えば大阪城の西部に位置しており、現代大阪のビジネス街の中心地にあたりますが、既にかつての船場と光景とは一変しているため、過去の姿に想いを馳せるしかありません。現在の船場は、周辺が埋め立てられて陸地化しており、ビルが乱立することから名残が残りませんが、かつての船場は、北・土佐堀川、南・長堀川、東・東横堀川、西・西横堀川と四方を川に囲まれた飛地でした。そして、この覇権を掌握した豊臣家の要衝に構えられた船場は、豊臣の財政を支える主要拠点であり、その課せられた役割と責任は非常に重いものでした。ですが、この船場が有する性質は、やがて豊臣家から徳川家による覇権の移り変わりによって大きく変貌を遂げます。豊臣の影響下にあった大阪城近辺ではなく、徳川は遠く離れた江戸に江戸城と幕府を樹立したため、監視の目の緩まりと共に大発展する余地が開かれたからです。中でも船場は、この豊臣から徳川の覇権移行に際して、ある意味では豊臣の重圧から解き放たれたため、そこに集った商人が独自の街づくりを始める余地が生まれました。これも、大阪中南部の堺や平野などの自治都市で発展した商人文化があったからです。
最古の記録では、既に豊臣政権時代の1588年に「道修町」の名が見られ、この時代に既に船場の北側は大きく発展を遂げていましたが、やがて今日に連なる船場の性格を決する重要な動きが始まります。ここに連動していたのが、日本を支配下に置こうと画策するポルトガルの悪影響を一掃するために始まった17世紀前半の鎖国です。ちなみに、この鎖国という認識自体に大きな誤りが今もあるのですが、厳密には江戸幕府が『鎖国』という用語を使用した例は当時なく、ほとんど江戸幕府が解体されていた1853年に初めて使用されています。つまり、鎖国とは一般的に流布されているイメージからは程遠い実態があり、個人的には、むしろ19世紀中盤に日本の市場開放を狙っていた英米による戦略に影響を受けたものだと考えています。なぜかと言えば、そもそも西洋の手を借りるまでもなく、江戸時代の日本国内では高度な体制化が随所に実現されていたからです。これらを英米は一方的に「劣っている」「野蛮だ」と恣意的に見做し、その感覚を日本人に浸透させることで、日本の市場開放と同時に、英米製品の購買を促すことに成功したのです。つまり、江戸時代の一般的な解釈は、江戸時代までの日本人自身ではなく、近代の英米の価値観に基づいているため、正直、全体的な見直しが必要なレベルまで理解が悪化していると常々感じています。国内外問わず、論者たちの江戸時代の解釈はあまりに酷いと感じるからです。
この後に、鎖国と呼ばれる時代が始まると、外来品が入る経路は長崎に集約されたため、長崎経由の輸入品を専門的に扱う貿易商人が船場の一画に集まり、次々と商売を始めます。この流れを受けて、新たなビジネスチャンスの到来を見抜いた堺や平野を筆頭とする商人、さらには近隣の近江・伏見の有力商人たちが集い始め、自然と船場の気風が育まれていきます。これが、大阪が商人の町と呼ばれる由縁であり、町人の町と呼ばれた江戸とは大きく性格を違う理由です。一方、船場の区画も徐々に街づくりが進むに連れて、通りごとに特徴が分かれていくことになります。中でも、この時代潮流の中で道修町の性格を決する動きが起こります。その契機は、1624-1644に堺の商人・小西吉右衛門が、道修町に薬種問屋を開いたことに始まります。これが、道修町が薬の町として発展するルーツです。
小西が移住した当時は、まだ大きな発展はなかったものの、ここに連動して薬種問屋を営む人々が集まっていました。この動きが大きく変わる機運が訪れたのは、第8代将軍の徳川吉宗によって主導された幕政改革の「享保の改革」です。まず、この改革が行われる渦中の1722年以降、道修町に集っていた薬種屋の面々が「株仲間」として組織されたことで、大きな動きが生まれます。株仲間とは、享保の改革時に生まれた新たな制度で、幕府が物価と財政収入を安定させる措置として、それまで分散的かつ自律的だった同業者を組織化して組合化し、統制が取れるように図ったことに由来します。享保の改革では、自主的な組合を株仲間として幕府が公認しますが、ここで全ての商人や職人に株仲間結成が許可されている点が注目に値します。幕府は、この株仲間組織の実現と引き換えに、株仲間に属する商人・職人から税金を徴収し、幕府財政を安定化することを考えたのです。言うまでもなく、こうなると商人と役人の間に癒着が生まれ、必然的に利権が発生することは避けられません。事実、幕府が株仲間に圧力をかければ商品価格を操作できる側面もあり、商人にとっても表向きに役人を懐柔しながら、裏では制度の網を掻い潜るグレーな方法を次々と生み出す源泉となります。この二重性を高速で移動しながら商売を行なった側面が、特に大阪で商人が大発展した最大の要因だと個人的に考えています。この性格の源流は、戦国時代に堺や平野で商人たちが侍を相手に難しい時代の舵取りを担った研磨研鑽にルーツを持つと思いますが、彼らのような商売の猛者たちが大阪市内の一画に集ったことで、時代の荒波を生き抜いてきた商人精神が集約され、今日まで連なる重要な発展を遂げます。その中枢地が、船場でした。
こうして、船場の一画に過ぎなかった薬種屋が集う道修町も株仲間を組織。これによって、あらゆる薬種を検査・評価付・価格付を担う作業を独占する場所へと変貌します。これが、なぜ当時の首都だった江戸ではなく、大阪で起きたのかと言えば、地理的に輸入品が入る長崎ー江戸は距離があまりに遠かったこと、さらに航路の観点で考えると、長崎ー大阪は古代より開拓された海路であり、しかも大阪湾から河川を遡上した地点に位置する船場の立地は、淀川を使えば京都へ物品を流せ、大和川を使えば奈良へ物品を流せます。さらに河川に大阪湾の海路や陸路を組み合わせれば、文字通り全国各地に物品を売買する日本の商業中枢地だったからです。また、江戸でこのような組織化が行われると、幕府からの横槍を常に考える必要がありますが、江戸から離れた大阪は、そもそも徳川系ではない豊臣系の息がかかっていたため、さほど徳川の動きを気にせず、商売ができたからではないかと個人的には考えています。
こうして、船場の一画にしか過ぎなかった道修町は、全国に薬種供給を行う利権の集約地点となり、黄金時代を迎えます。これが、道修町が「薬の町」として知られる起源です。興味深いことに、この名残は今も残っています。道修町界隈を歩けば、今もこの江戸時代にルーツを持つ製薬会社が軒を連ねており、製薬業の関係者が非常に多い。この道修町界隈の製薬企業の流れを筆頭に、大阪自体に製薬企業の本拠地が乱立しているのですが、その多くは当時の薬種問屋を営んでいた特定の店が、明治以降に企業化したルーツを有しています。ただし、一方で注目すると面白い歴史が見えてくる側面もあります。というのも、そもそも如何に道修町が薬種の利権を集約したとは言っても、それを当時の日本を全国レベルで管理するなど不可能だからです。つまり、現代のように一元的な国民管理ができない江戸時代において、この道修町の薬種業を営む株仲間は、どのように利権を大きく発展させたのか。当然、そこには現代的な意味での合法・非合法、さらには大きく広がるグレーゾーンがあったはずです。
これを見る上での大前提の歴史事実として、道修町界隈は1720年代頃から、あらゆる薬種が集まる集積地点だったということです。これは視方を変えれば、道修町は江戸時代における合法・非合法を問わず、あるいは記録に残る・残らないを問わず、あらゆる薬種が入手できる薬の聖地だったということです。ここが、要点です。個人的には、この独自環境を用いて、あらゆる要望に対する実験などが行われた可能性を思案していますが、当然、役人に察知されない暗黙のグレーゾーンとして、分散しながら船場界隈に点在していたはずです。そもそも役人の多くも船場の商人に買収されて癒着していたでしょうから、表向きには役人の決めたルールに従いながら、裏では規制の網を掻い潜る知恵を存分に働かせる商人の動きは、幕府の目にさえつかなかった可能性があります。実際、このようなことは文献には残りません。
事実、改革が行われる享保年間(1716-1736)では、道修町だけで幕府公認の薬種関連業者が124軒も存在しており、その他として大阪市内・大阪市内近郊の医家や薬店に売り捌く個人商人などが数多く点在していました。また、当時の問屋も、表通りに構える『表店(おもてだな)』、路地裏の『裏店(うらだな)』など独自に使い分けて表に裏に商売を行なっており、揺れ動く時代を生き抜くために、商人がリスク分散に余念がなかったことが分かります。何しろ、織田信長ー豊臣秀吉ー徳川家康と覇権が移り変わる渦中では、一度手に入れた利権も覇権の所属先が替われば一掃されるリスクが高く、当時は、徳川家の覇権もいつまで続くか全く予想不能だったからです。こうした時代性質を考慮しなければなりません。
また、株仲間が組織される以前の遡ること1658年には、堺の商人・小西の移住を通じて集った道修町の薬種屋33人が、幕府に対して「偽薬」の取り締まり強化を求める連印状を提出しています。これは、既に当時「偽薬」と見なされたものが大阪市内に相当横行していたことを仄めかしている意味で重要ですが、要するに薬種問屋の初期利権が脅かされたということへの反発です。注目点としては、当時、既に現代的なニュアンスで「違法薬」と措定された薬が存在し、そちらの偽薬が薬種問屋の商売利益に深刻な打撃を与えるほど、蔓延していた事実でしょう。なぜならば、逆に言えば1650年代に、既に薬種問屋の利権が生まれていたことが見えてくるからです。船場は、薬種だけではなく、船宿、料亭、両替、呉服、金物など無数の商売が行われていたわけですから、既にそれほど大きくない船場の区画だけで複雑な利権が絡み合っていた可能性は高いでしょう。では一体、なぜ偽薬が出回り、利権を掌握しつつあった道修町界隈の商人が対策を幕府に願ったのか。この背後の時代事情を読み解くことによって、江戸時代の一端が見えてきます。
そもそも偽薬が出回った背景には、当時、貿易が許可されていた長崎経由で輸入される中国産の「唐薬種」が重宝されていたことに対して、国産の「和薬種」が下に見られていたことが要因にあります。つまり、本来問われるべき薬の質よりも、薬の原料となる生薬の産地が、日本にとって優れた文明国の歴史を有する中国であることの方が重要だったのです。これは、江戸幕府が特に儒教の朱子学を重宝したことからも分かりますが、江戸時代前半は、かなり中国礼賛の学者などが幕府界隈に多かったことは事実です。これは、明治時代前半、西洋礼賛の学者が政府界隈に多かったことと全く同じです。ですが、確かにその重要性は理解できるとしても、現実的には鎖国時代の限定的な輸入品である唐薬種は非常に高価であり、誰もがアクセスできるものではありません。そこで、各地で知恵を働かせた人々が、安価な国産を用いて唐薬種に「似た」薬種、あるいは価格を抑えるために、唐薬種と和薬種の混ぜ物を作って売買を重ねた結果、それらの薬が大流行していたのです。こうした人々は、当時はまだ株仲間の組織が生まれていないため、とてつもない数存在したと推定できます。そもそも、今とは異なり、日本の大部分は近代開発されておらず、自然は豊かに残っていたため、自分たちの生活圏で入手できる薬種だけでも、各地の村落は賄うことは可能だったはずです。つまり、こうした問題は基本的に都市生活者に限定される動きであり、あくまでも大阪や江戸の話だったということです。
ここで重要なことは、この時代に大半の和薬種が、唐薬種の混ぜ物(偽薬)として見做されており、単独での売買が一応は禁じられていた点です。ですが禁じられていたとは言え、実際にこれらを取り締まることは不可能に近い。ゆえに、こうした不安定な時代事情を経て、後の1722年に大きな転換点を迎えます。この時、道修町の株仲間の代表者が、『和薬真偽吟味』という講習を江戸で受講しているのですが、これは道修町の商人にとっては、蔓延する違法薬を差し止め、唐薬種に限らず、和薬種も一元的に自らのもとで管理するための措置と見て構いません。ある意味、利権の増強計画が行われたということです。この講習は、要するに和薬種を精査・評価・価格付する新たな利権を、道修町の薬種商の株仲間が一元管理するためのものです。これをなぜ大阪ではなく江戸でわざわざ受講したかと言えば、幕府お抱えの学者を経由して、彼らは幕府直々にこの権利を得たと主張するためです。ある意味、船場商人が既に大阪市内の役人と完全に癒着していた事実を語っています。
こうした幕府の庇護を受けた結果、同じ1722年に道修町の薬種屋の仲間124が幕府公認のもとで和薬種の管理機関を設置します。これは薬種の観点で見ると、「怪しい薬」を可能な限り排除するための措置が体制化された流れとして、見逃せない重要性を秘めています。しかし、個人的には、これが単なる外来の唐薬種から国産の和薬種への動きという効果以上に、時代性も強く関与していたと考えているのです。この背後で蠢いているのが、国学者の格闘です。
これは象徴的に見ると、現在も道修町に乱立するビル群の隙間に建立されて製薬業の人々に信仰されている薬神を奉祀するスクナヒコナ神社の由来を見ても理解できます。元々、同社は古代中国の三皇五帝の一人で、人々に医術と農術を教えたと伝わる神農を奉祀していましたが、1780年に神農だけではなく、日本神話に登場するスクナヒコナを京都から招いて配祀する措置を取っています。この背後は推察するに、当時は国学から外来(中国)の影響に対する強い批判が打ち立てられており、特に賀茂真淵(1697-1769)から本居宣長(1730-1801)という優れた国学者へ手綱が渡される時代前後に位置しており、特に外来の儒教・仏教に対する対抗的思想運動が急速に活発化していたからです。中でも大阪は江戸とは異なり、奈良や京都が近く、さらに徳川家とはあまり関係が強くない日本列島西側の自立した藩の学者なども集う独自の環境を有していたため、こうした先端の思想潮流が、江戸に比べると早く浸透していたのではないかと考えています。特に大阪と京都には、反江戸とも言うべき徳川家へ不満を持つ者は相当多かったのです。そして何よりも、大阪文化の隆盛を担ったのは商人です。商人は常に時代の先を読み、リスク分散をしながら生存する才覚に長けています。この観点から見ると、江戸の主流学派とは異なる系譜の影響が介入し、道修町の構造にも影響を与えたと見るのは面白い。
国学者は、外来の影響を露骨に受けた仏教や儒教の経典、さらには中国の史書を模倣した日本書紀ではなく、そうした影響が軽微な萬葉集や古事記の深い洞察こそが、日本独自の思想を復古するために必然だと考えていました。こうした動きが世相にも影響していたのか、その渦中の1780年に、神農(中国)だけではなく、スクナヒコナ(日本)が同社で奉祀されている動きは重要です。ただし、スクナヒコナも日本神話に登場するものの、渡来の外来神です。一方、スクナヒコナは医薬神でもあるため、道修町という気風の中で神農同様に重宝されたことが見えてきます。個人的に最も興味深いのは、道修町の商人が元々奉祀していた神農(中国)を排除せず、スクナヒコナ(日本)を迎えて二重に奉祀していることです。この辺りが、如何にも商人らしい。時勢に先んじてリスク分散を開拓しながら、しっかりと逃げ道を用意する商人気質が、この少彦名神社の信仰において見られる点こそが、今も道修町に残る大阪商人の精神なのかもしれません。
さらに、長い歴史を通じて国内では「合薬(あいぐすり)」という場所ごと、家ごとに異なる独自の薬の配合技術があったわけですから、これらが秘伝・相伝など多様な形を取りながら、歴史では語られない秘薬として常に存在したのです。これは単純な表裏の話ではなく、むしろこちら側に、本当の意味での歴史が豊富にあるということですが、何しろ記録に残らないため、内実を知ることは不可能です。
ここで、船場の性格が重要となります。四方を川に囲われた船場は、商人の町である側面から、武士のような強い掟に拘束される負担が少ない分、裕福な商人は遊びが絶えません。つまり、船場が商人の町として勃興すればするほど、必然的に、花街や劇場を始めとする娯楽が船場界隈で華々しく勃興し、人々を魅了します。実は、今もかつての船場を軸に、大阪の盛場が周囲を巡っていることを実感できますが、言うまでもなく接待文化は横行していたでしょうし、怪しい人々も相当入り込んでいたでしょう。何しろ、何か問題が起きても、四方を川に囲まれた船場という性格は、役人が大挙するまで逃げる時間の余裕を確保できたからです。
特に、道修町は薬のプロが表に裏に集う日本で唯一無二の場所です。薬種を扱い、配合する合法的な商売人も多かったでしょうが、同時に、裏稼業者も相当居たことでしょう。例えば、裏稼業として、合法的には手に入らない密輸を含めた薬種の仕入れと売買、そして禁じられた配合など数多でしょうが、こうした人々が何者だったのかを歴史は語りません。この時、忘れてはならないことは、唯一開港していた長崎の出島港を往来する許可を持ち、貿易が許可されていたオランダ人から情報収集や密輸取引を締結させていたのは、役人でも学者でも商人でもなく、オランダ人が他の日本市民に犯罪行為を行わないように、専用に用意された娼婦(ダッチワイフ)だったということです。つまり、出島へ入ることのできるオランダ人用娼婦が、オランダ人から情報や物資を仕入れて、それを裏稼業の人々と共に西へ横流しし、そうした裏の情報や物資は、大阪で集約されるという裏面が、江戸時代の大阪の重要な側面だったはずです。だからこそ、大阪は当時の江戸ではできないことが、次々と実験的にできた可能性があります。ここが、私にとって最も興味深い大阪の歴史です。
そしてそれは、決して近代以降の善悪によって判断するようなことではない。実際、1822年に大阪でコレラが蔓延した時、大阪に居た名前の残っていない町医者が、疫病除けとして新薬を作り出して船場を筆頭に広がったのですが、その薬は「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきゆうおうえん)」と呼ばれます。この薬の成分は、面白いことに虎の頭骨など10種類の中国産・国産の薬種を独自配合した薬ですが、国内外の医術と薬の調合に精通した人物でなければ、考えもつかない薬です。こうした薬を、平然と名前の残っていない医者が作り出していた時代です。今では、あり得ません。さらに、決して記録には残りませんが、歴史自体を動いて作っていた海や山を動き回っていた漂流民の存在もあります。
最近、個人的に最も興味深い江戸時代の性格として、この大阪に集約されていた表と裏の薬種という業種を介した時代性質を見ているのですが、その名残は、大阪で生まれ育った私が改めて振り返ると、年長者には残っていたように感じます。