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大阪万博のあとの大阪Osaka After the Expo

大阪万博が終わると同時に、「大阪の未来が終わった感」が出ています。一方で、大阪から始まった政党の日本維新の会は、高市首相の新政権で自民党の連立パートナーとなり、東京の政界進出を強め始めています。元々、この政党は東京に集中し過ぎている首都機能を分散する提言を打ち出し、大阪都構想として躍進した政党ですが、地元の大阪以外で人気はなく、全国規模の実績は何もありません。それが、自民党と長らく癒着状態にあった公明党(背後は創価学会という宗教団体)が分裂、自民党は新たな連立パートナーを見つけなければ、政権維持することさえできない状態に追い込まれ、皮肉にも大阪発の政党と関係を結ぶことになったのです。

大阪万博開催期間中は、大阪在住者の私から見ても、過剰過ぎるほど多くの旅行者が大阪に訪れており、日常生活に支障が出るほどでした。「数」から観光という観点で見れば、確かに大阪の未来は一度大きく跳ね上がったように見えるでしょうが、「数」はそこに暮らす人々を苛立たせることにしかなりません。オーバーツーリズムが世界各地を深刻な状況に陥れている昨今、問題は「数」ではなく「質」にあることは言うまでもないことです。ところが、日本各地を来訪していても、この「質」まで思考が全然向かっておらず、大阪・京都・東京では惨状が広がり、かつてのように、京都で紅葉を見てゆっくりする豊かな時間も、完全に剥奪されました。この問題は、「数」だけで成否を問い、国政進出を実現した日本維新の会にとっては都合の良い事実となりますが、未来の大阪、特に観光客ではない、府民のことを考えると、破壊的な問題を作り出したことは言うまでもありません。誰もそこに暮らす「人」を見ていない以上、どうしようもないのでしょうが、単に政治の問題ではなく、もう個々の問題となっているように思えてなりません。

万博会場は撤去され、隣接する夢洲(埋立地)ではカジノを筆頭とするIR建設が始まっており、国や大阪府は次の観光の主軸として捉えている有様です。しかし、コンクリートで造っては壊すというスクラップ&ビルド型の開発だけに未来を委ねるのであれば、それはあまりにも無味乾燥で中身はなく、心のない大阪像を新たにこの地へ刻みつけることになります。ましてや、IRが市民生活を豊かにしないことは自明であり、あれだけ市民や諸団体からの猛反発があったにも関わらず、コンクリート国家とも言い得る日本政府は、国民の声を無視して強行的に推し進めてきました。同時に、万博が終わった途端、コンクリート国家に癒着する建設業界は、次の利権を求めて政治家に迫っており、昨日もリニア新幹線の工事費が、予定額から4兆円増の11兆円になると、平然と発表しています。こうした「形」しか見えない愚かな人々が、国内外から群れることによって、一つの国を破壊することができる。それこそ、二十一世紀的な特質に思えてなりませんし、実際に日本はこの方法で破壊が加速的に進展しています。ですが一方で、私たちは「質」を高めることが、非常に困難なことも同時に理解しており、この板挟みの中で、世界各国・各都市は次の未来を探っている現状があります。グローバリゼーションが反転する現在、私たち島国の日本人にとっても、このグローバリゼーションへの反感は日々強まるだけです。

そこで前述の未来は既定路線ですが、そうは言っても日本が壊れ・日本人が困窮化する姿を見て見ぬフリはできません。そこで私は最近、大阪中を足を使って歩き回り、太古の歴史調査から未来の大阪像を思案していたのですが、現在の大阪府が進む未来など、単なる「形(コンクリート)」をスクラップ&ビルドするだけで、大阪に暮らす人々、さらには大阪に来訪する人々の豊かさを高める場所環境を創造する点は全く無視されています。そこで今回は、この数週間に渡って洞察してきた大阪について記していきます。それは、上記のように、為政者頼みでは何にもならない大阪観光の未来は、どこにもう一つの世界を創造できるのかという問いに繋がります。私は今、その可能性を探るために、「古代の大阪」という視点から大阪各地を歩き続け、古代を通じた未来の洞察を行なっています。その中で、現在の大阪市中心部、いわゆる難波・心斎橋・梅田といった繁華街だけでは満足しなくなった旅行者が、次にどこへ向かっているのかという動きにも注目しています。その答えの一つは、住吉大社や四天王寺です。実際、繁華街ではない大阪観光といえば、多くの方は大阪城、四天王寺、住吉大社といった場所を思い浮かべると思います。実際に、ここ最近これらのエリアを改めて巡ってみると、海外からの旅行者も含めて、相当な人の流れが生まれていることが分かります。ただ残念ながら多くの場合、その場所で何を見ているのかを旅行者は分かっておらず、一体、それらが何故に歴史的に重要なのかということが誰も見えていません。

そこで読者に考えて頂きたいことは、大阪城、四天王寺、住吉大社の三つの主要地点には、どのような共通点があるだろうかという問いです。一見すると、大阪城は武士・豊臣秀吉の築城した城、四天王寺は聖徳太子が建立した日本仏教最初の官寺、住吉大社は神道の中でも神話に登場する由来を持つため、ファクターとして「武士・仏教・神道」という繋がりを持たないように感じるでしょうし、それぞれはあまりにも時代が異なります。ですが、ここを考えて頂きたいのです。

実は、これら三つには、非常に重要な共通点があります。それは「古代の地形」です。現在の過剰に開発・埋め立てられた大阪の姿からは全く想像できませんが、長い古代の歳月を通じて、いまの大阪市の大部分は海でした。正確には、海・入江・潟湖のような浅い内湾が入り組んだ「水の世界」だったのです。つまり、いま旅行者が「大阪の都心部」として歩いている難波・心斎橋・梅田のほとんどは、かつては海底だったということになります。ゆえに、元々この辺りは水捌けが悪い。それはイコールで、「気」が滞りやすい側面を持っており、そのためにこの「気」を潤滑に巡らせる思案が都市設計にも適用されています。それを木っ端微塵に破壊したのが、理解なきコンクリート中毒者たちです。

しかし、古代大阪は、ただ海が広がっていたわけではありません。広い海の真ん中あたりに、一本の細長い半島のような台地が突き出していました。それを、上町台地と言います。この上町台地こそ、大阪の古層を理解するうえで避けて通れない軸となります。特に興味深いのは、大阪城・四天王寺・住吉大社という三つの主要な観光拠点は、全てこの上町台地の上に並んでいるという事実があります。しかも、大阪城は上町台地の最北端に位置し、四天王寺は上町台地の中枢部、住吉大社は上町台地の最南端に位置しています。つまり現在、大阪都心部に飽きたら無くなった観光客が来訪する新たな名所とされているこれらの場所は、いずれも上町台地という古代大阪の陸地の名残を、立地している場所によって私たちに時空を超えて伝えているのです。言い方を変えれば、今、住吉大社まで足を運ぶ意欲を見せている観光客は、本人は理解していなくとも、この「気」の巡りを霊性で感じていると言え、ゆえに「気」の巡りが良い上町台地に足を運び始めていると言えます。私は難波・心斎橋・梅田を「下界」と呼び、ほぼ立ち入ることもありません。さらに大阪城から四天王寺を歩けば理解できますが、そこから東西は谷のように急勾配の坂がくだっており、地名も「谷町(谷の町ということ)」となっています。

この視点を持って大阪を改めて見るだけでも、いわゆる観光客では見えてこない古代大阪の姿が立ち上がってきます。特に大陸で生まれ育った人々には理解が困難でしょうが、日本を含めた島国の環境は、歴史的に海の海水面変動による影響を直接的に受けます。一般に、昨今では地球温暖化の文脈で海水面上昇が人為的とされていますが、それらは大陸側の海を知らない人々の恣意的な視点であり、島国に暮らす私たちにとって、海水面が上下することは自然の摂理です。つまり、人為的な諸問題に還元せずとも、海水面は人為とは無関係に上下します。これらを全て人為的と言うのであれば、縄文時代に起きた「縄文海進」も、人為的と言うことになり、縄文時代に気候変動の活動家がいたことになります。そんな馬鹿げた無知な話はありません。この海水面の上下は、かなり直接的に大阪の古代史に影響を与えています。まず古代において、大阪湾は現在よりも遥か東側まで深く入り込んでおり、大阪の東側は奈良との県境に聳えて南北に連なる壁のような生駒山の山麓付近にまで達していました。その巨大な海は、最古の記録では「茅渟の海(ちぬの海)」と呼ばれていましたが、時代を経る過程で海水面が動くため、呼び方もどんどん変わっていきます。実際に生駒山から西側(大阪市内側)を見渡すと、現在は海ではなくコンクリートが広がる異様な光景ですが、かつては眼下に広い内海が広がり、その手前には上町台地が半島のように突き出し、周辺には大小さまざまな離島が点在し、さらにその向こうには大きな淡路島が横たわって見える景観があったのです。

この「水と陸の境界」を読み解く上で欠かせないのが、古い地名の痕跡です。地名は、何をどうしても外国人旅行者では理解できないものであり、それなりに日本在住歴が長くても、地名を読解することは外国人には相当困難です。そこで少し例を用いながら、見ていくことにします。例えば、この生駒山には古代大阪の姿を伝える非常に興味深い地名が残ります。その象徴的な例が、生駒山麓に残る「日下」という地名です。現在は「クサカ」と読みますが、元々は「ヒノモト」と読みます。ヒノモトとは日本語で「太陽が昇るところ」というニュアンスですが、要するに東から太陽が昇る本源地点という意味です。これは海を越えて大阪に到来した古代部族にとって、上町台地から見る生駒山が東の果ての姿であったからですが、生駒山の向こう側、東の彼方にある世界は、古代人にとって「太陽の出る異界」と捉えられ、信仰されてきました。実際、日本語の「日下」は、日本人でも「クサカ」とは読めません。普通に読むと、「ヒノモト」になるのですが、「クサカ=ヒノモト」であり、ここが古代のある人々にとって、東の果てであり、太陽が昇る元の神の世界として信仰されたということです。ここで、太陽信仰を有する部族が、この古代大阪に来訪していた姿が浮上してきます。

事実、古代大阪に渡来してきた一部の人々は、太陽信仰を伴いながら東を目指し、最終的にこの聖地「クサカ=ヒノモト」まで移動してきました。こうした「東を神の世界と捉える部族移動」と「太陽を祀る地名付け」が加速していく舞台となったのが、河内です。ここで「河内」という言葉を正しく捉える必要があります。現在の感覚では、河内というと大阪府中東部の一地域を限定的に指しますが、古代における「河内」はもっと広い範囲を意味していました。当時、大阪市の大部分は海で、むしろ大阪東部・南部が陸地でしたから、河内といえば、ほぼ例外なく陸地部分一帯までを指していました。最近、私はこの「河内」を自分の足で歩きながら重点的に考察を続けていますが、そこから見えてくるのは次のような世界です。

河内には、縄文期からの土地利用や暮らしの名残が確かに残っており、前述した古代大阪に関していえば、大阪市内の大部分は海だったので縄文遺跡は発見されませんが、上町台地の大阪城付近からは縄文遺跡が発見されており、生駒山方面などでは豊富に発見されています。はっきりいえば、縄文遺跡の発見有無が、直接的に古代大阪の姿と捉えて構わないのですが、これは縄文人が想像以上に海・陸・山を移動しているからです。ただ同時に、ある時期から縄文人とは異なる、海を越えて到来した渡来人の痕跡が一気に流れ込んでおり、それらが複雑な歴史を経て古代大阪史を形成しています。言い換えれば河内とは、古代の日本列島において「元々いた人々(縄文人)」と「海を越えてきた人々(弥生人・古墳人)」の文化・技術・信仰・言葉がぶつかり、長大な歳月をかけて溶け合った場所であると言え、簡単に言えば坩堝であったということです。ゆえに、部族間の勢力争いが戦となって多発しました。

そのため、早い時期から陸地化していた場所には、縄文期以来の地名だけでなく、渡来系の音や呼び名も多数入り込んでいます。地名というものは、本来その土地の環境の記憶であり、信仰の痕跡です。つまり大阪という土地は、地名一つをとっても、すでに古代から「混成の拠点」のようなあり方を示していたことになります。ただし勘違いされやすいのですが、この時点で日本もなければ、日本人もありません。単に、大きな軸で動く部族が無数に存在しただけのことであり、これに対して日本・日本人と言い切ることは不可能です。この問題はナショナリズムに関わり、二十世紀後半では、特に日本、韓国側のナショナリズム論争となった始末の悪さがあるため、気を付ける点となります。同じように、当時の朝鮮には朝鮮人などないということです。よく朝鮮のナショナリズムの文脈で、日本の古代史は全て朝鮮文化だという論理がありますが、彼らは古代史を何も理解していません。なぜ、朝鮮半島南部と日本列島の一部で言語が通じたかと言えば、それは朝鮮文化の影響ではなく、北東アジアから南下してきた特定の部族集団が、朝鮮半島を経由、あるいは留まり、同時に日本列島まで流れてきたからです。これが、弥生人です。言語が通じたのは、同じ部族だったからです。ゆえに、古代の玄界灘一帯(九州北部から朝鮮南部)は同じ文化圏だったのです。

そして、河内の古代史を正しく読み解くことは、日本古代史そのものを捉え直すための重要な鍵でもあります。なぜなら、河内を通らずして大和(奈良盆地)には入れないからです。だからこそ、神話では「天孫降臨(てんそんこうりん)」、つまり「天界から神が地上に降臨した」としているのです。根本的に、天皇や朝廷の体制が形成されていく大和を語るのであれば、その勢力がどこから来て、どのように大和へ到達したのかを考えなければなりません。いきなり、大和でそのような体制が生まれたのではない、その「到達の過程」の核心に河内があり、既に祖型は河内で十分に形成されていました。その謎を解く鍵は、現在の古市古墳群として知られている巨大古墳の誉田御廟山古墳、別名・応神天皇陵にあります。応神天皇は、第15代天皇と位置付けられていますが、私は複数の大きな部族、それも渡来系部族を中心に擁立された初の大王だと考えています。ゆえに、ここを考察することは並大抵ではなく、私自身もこれまでの日本全体の調査角度を総動員して洞察していますが、正直、日本史の中で最も複雑に思えます。

現在、全ての旅行者は日本の歴史や文化の力点を京都に据えていますが、これはとんでもない恣意的な間違いです。京都など、794年以降の歴史・文化の発信地でしかなく、それがイコールで日本の歴史や文化の力点となると、それ以前の一万年の歳月が見えなくなってしまいます。そもそも、なぜ京都が歴史的な文脈で常に位置付けられるかと言えば、たかだか千年程度の歴史しかないからです。言い方を変えれば、日本に文字が伝わり、それなりに文書を残すことができるようになった時代において、平安京(京都の原型)が生まれたため、当然、平安京以降の歴史はそれなりに資料に残る可能性をどこよりも持ちます。つまり、単にこれだけのことであり、実は京都ほど歴史の希薄な場所はありません(そもそも元々は人が住める場所ではなかった)。一方、かつての大和(奈良)、そして河内(大阪)は、京都を遥かに凌駕する歴史の場所でありながら、なぜこのイメージがないのかという疑問が生じるでしょう。それは単純なことで、資料、つまり文字に記された歴史時代に「歴史が形成されておらず」、文字のない歴史時代に「歴史が形成されている」からです。要するに京都は「文字以降の歴史」が豊富なだけであり、「文字以前の歴史」は大和、河内側が圧倒的です。さらに京都ではなく、隣の滋賀県近江は歴史が豊富ですが、いつの間にか京都が日本史の中枢であり、日本文化の中枢だというイメージが固定化しています。この固定概念を持って日本に上陸すると、大阪や奈良の歴史、包括的な日本史が読み解けなくなります。これまで、大勢の外国人が陥っている同質の問題です。

東を目指して列島を移動してきた初期の渡来系部族にとって、「東の果て」とは、河内のヒノモトでした。ゆえに太陽が昇る聖地・生駒山の古代信仰は、相当深淵だったと思われ、日本神話にもその古層を示唆する神や信仰は随所で語られています。実際、生駒山の神は古くは太陽神です。一方で、彼らが来訪してきた来た方角、つまり西や南西、南方の海上ルートには、一気に河内まで来るわけではないため、上陸・滞在・交渉を受け止める港拠点がいくつも必要だったはずです。この港は、同時に軍事的な要衝でもあったのですが、この河内の玄関口を支配する強大な部族集団がいた場所があります。それこそが、住吉大社なのです。

本来の住吉大社の姿は、現在一般的にイメージされる「大阪の有名な観光神社」では到底理解できません。海から船でやってきた勢力が、最初に接触する巨大な権威の場所であり、上陸の可否を左右する「関門」のような場所として機能した可能性が高いのです。ゆえに、当時の海人族は軍事にも長けており、単なる漁労民ではなかったのです。つまり住吉大社は、古代における国際的なハブとしての役割を担っていた可能性が高い。この文脈を知らずに住吉大社を訪れても、なぜここがこれほど重要視され、長く崇敬され続け、神話的な重みを帯びてきたのか、その本質には触れられません。ただし、これは仕方がない部分もあります。なぜならば、現在の住吉大社からは、この古代の性格が全く理解できないからです。私たちは旅行者としての「質」を思案しているわけですから、ここで古代に想いを馳せる想像力が必要となります。

元々、住吉大社の正面西側、現在の鳥居から西側一帯の舗装道路や住宅地、鉄道が走っているあたりは、古代では目前まで海が迫っていた場所です。しかし現代では埋め立てが進んだ結果、海の神を奉祀する住吉大社から海が全く見えない愚行となり、潮風もなければ、海の気配さえ残っていません。そのため現代の私たちには、「住吉大社=海人族の神」という関係性が非常に見えづらくなっています。それでも地形の視点から見ると、住吉大社は上町台地の最南端に位置する大阪湾の「玄関口」にあたり、そこには強い海人族の勢力が定着していたことが分かります。言い換えれば、かつては住吉大社を経由しなければ河内側、つまり大和川流域の内陸部に入れなかったということでもあります。大和川とは言っても、現在の流路は江戸時代の工事で作られた人為的な流路であり、本来のものではありません。こうした観点から、歴史の中枢が河内から大和へ動いた歴史事実を考えると、海の要衝は住吉大社となります。この住吉大社の神を奉祀していたのが、古代の海人族の一つであった住吉族です。古代の九州北部側玄関口にあたる玄界灘一帯には、大きく三つの海人族が存在しており、一つは宗像大社の宗像族、一つは志賀島の阿曇族、そして一つが住吉族です。彼らは日本列島各地に痕跡を残していますが、この河内ー大和への玄関口を掌握したのは住吉族です。ゆえに、住吉大社には住吉族の神が奉祀されています。

では、渡来人は海からどのようなルートで住吉大社に近づいたのでしょうか。ここでは、いくつかの主要な航路が考えられます。まず、九州方面から瀬戸内海を通って淡路島を経由し、そのまま大阪湾の南側に直接入ってくるルートがあります。あるいは淡路島から紀伊(和歌山)側へいったん回り込み、そこから北上して住吉大社方面へ到達するルートもあります。さらに、四国の南部を流れる黒潮を活用して、紀伊沿岸部に入って同じく北上してくるルートなど多様に考えられます。複数の海路が最後に集まってくる「合流点」として、住吉大社周辺が機能していた可能性が高いのです。すると当然ですが、古代の航海者にとっては、海路を間違えないためのランドマーク(目印)が必要になります。そこで重要になるのが、灯台です。私は散々古代大阪の地形を歩き回り、神社、神、地名、古代史、民俗学などを総動員して洞察していたのですが、おそらく住吉大社は、港の要衝で灯台の機能はない、むしろ住吉大社に向かうための灯台(道標)が近くにあったはずだと考えました。そしてそれは実際にありました。それが、住吉大社から南の堺市に鎮座する方違神社です。

方違神社は、方角や道を守る神を祀る信仰で知られており、非常に古い段階から「道しるべの場」として機能してきたと考えられています。この神社周辺には、百舌鳥古墳群に象徴されるように、古代の王権の痕跡が色濃く残る地域であり、早い時期から安定した陸地として成立していた場所でもあります。現在の方違神社は、付近に海がないことから、陸の方角の神となってしまっていますが、古代は付近は海だったため、実は方違神社の古層には、「海の方角を示す神」という性格があったように考えています。つまり海から来た人々にとって、方違神社周辺は大きな目標点となり、河内に到来する一歩手前まで来たことを実感する場所でもあったのです。そこから住吉大社へ進み、さらに内陸の川筋をさかのぼって河内・大和川方面へ進入していくという動線が成立していたと考えられます。この方違神社は古代地形では岬の先端に位置しており、ここから住吉大社が望めたはずです。というのも、方違神社の建立されている地名は「三国ヶ丘」、つまり「丘陵部」ということを地名が伝えているからです。実際、この三国ヶ丘から西側に5分程度歩けば堺東という都市部に至りますが、そこに至る道は急勾配の丘となっています。これは古代、堺東は海だったということです。

実際、方違神社の北側、つまり住吉大社側には、かつて浅い海が広がっていたと考えられる地域があります。それが「浅香」という地名に残っています。現在は「浅香山」という呼称で知られていますが、「山」となっているのは、江戸時代に大和川の付け替え工事が行われ、その際に土砂が積み上げられたことで山となったからです。一方で『日本書紀』(720年)の仏教伝来の動乱期に執政を行なった推古天皇期の記述などからは、この場所が古くは「浅香浦」と呼ばれ、「浦(潟湖・入江)」が広がる水域であったことがうかがえます。つまりここは、古代において実際に船が行き交う「水の入り口」そのものであったということです。このように、古代の観点を踏まえて方違神社を海上の道しるべとし、浅香浦のような浅い湾を経由し、住吉大社に至る。そしてそこから住吉族の許可を得て、河口部に広がる川筋をたどって内陸へ進めば、河内に入ることができます。すると、最終的にたどり着くのは生駒山系の周辺であり、そこが河内と大和がつながる結節点となります。そのため、百舌鳥古墳群(堺)や古市古墳群(羽曳野・藤井寺)の巨大古墳が点在する地域をしっかりと見ると、実は古墳は上述した古代大阪の性格に沿って一定の地域にしか存在しないことが理解できます。

今回は、あくまでも初歩的な見方を提示しましたが、ここが重要な点なのです。大阪万博というフェスティバルの後の大阪観光の未来は、単に旧来的なフォトスポットを増やすことでも、いわゆるナイトエコノミーを刺激することでもない、ましてや「数」を測定することではないのです。大阪城、四天王寺、住吉大社を「古代部族の上陸ルートの要衝」として移動の歴史を結び直し、その背後にある上町台地・河内・生駒山麓・大和川や淀川という広域ネットワークを、物語として歩ける形に翻訳していけるかどうかだと考えていますが、誰もこのようなことは教えてくれません。実際、日本人も知りませんし、観光ガイドもこうした視点は皆無ですから、自ら養うしか手段はありません。ですが、一人一人がこのような未来に近づけなければ、大阪は質の悪い外国人が大量に増えるだけとなり、今以上に在住者の生活が悪化していく未来へ近づきます。これで、東京の首都機能を分散する主要拠点と大阪を位置付けるのは、皮肉も良いところです。元々、大阪は東京とは歴史が異なりますし、西と東の拮抗という緊張感系こそが、日本史に深い影響を与えてきたわけですから、そもそも大阪が東京の政治などの機能を有する必要はない。むしろ、古代の広域ネットワークを熟知した上で、東京が加速的に進める馬鹿げた「形(コンクリート)」依存ではない、「形」なき跡に残る心を文化次元で大切にし、育むことこそが未来だと信じて、東京が進めない方向に舵を切ることが重要なはずです。しかし、大阪万博からIR、そしてリニアというコンクリート依存者たちの末路とも言える無機質な中身のない文明の実現に向かうため、ついに東京の政界に勢いを持ち始めた日本維新の会を見ていると、もはや、大阪もここまでかという気がしてなりません。残念ながら大阪の未来は、生活レベルの低下した日本人在住者と、質の悪い外国人が跋扈する「気」の悪い都市の代表例となり、最後には南海トラフ巨大地震で全てが消滅するまで、破壊行為が続くだけになるでしょう。

つまり、いま本当に必要なのは「どこへ行けばいいか」という観光案内ではありません。「なぜそこに立つことが、大阪の本質に触れる行為になるのか」という問いを、旅行者自身が携えて歩けるようにすることだと思います。上町台地とは何か、河内とは何か、住吉大社とは何かを考えること。そして、そこからどのように河内を経由して、大和へ陸路・水路が繋がり、なぜ河内から大和で朝廷の基礎が生まれたのかを思案することです。大阪という都市そのものがどのように成立してきたのかは、現在その姿を失った海の都としての大阪、河内という玄関口、大和へと向かう動線から解釈し、旅行者自身が追体験できる形で共有できるかどうかが問われていると感じます。ここに踏み込めるかどうかで、大阪観光の「質」は大きく変わります。これは単なる観光資源化の話ではなく、土地の記憶を正しく手渡せる都市になれるのかどうか、つまり大阪という都市の品格が問われている問題でもあると考えています。そして同じ関西の枠組みで見るならば、これだけは奈良も京都もできません。なぜならば、奈良も京都も海がないからです。ここに、大阪最後の可能性があることを、散々歩き回った末に思いました。

機会があれば、皆様もここで記した少しの部分でも踏まえて、大量の観光客とは異なる視点から大阪を巡ってみてください。