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栄西と九州の茶文化Eisai and the Tea Culture of Kyushu

一般的に日本のお茶文化の始まりは、中国の宋代に禅僧が集って独自の喫茶文化を育んでいたことに感化され、その文化を日本に持ち込んだ禅僧・栄西(1141-1215)に由来するとされており、それは大体12世紀末頃のことだと伝わります。そのため、歴史的に日本のお茶文化については、常に禅とお茶文化が結びついた精神的な側面が強調されてきました。事実、栄西自身の著作『喫茶養生記』(1211)では、健康と修行を結びつける文献となっており、茶は禅院での修行生活と深く関わってきました。しかし一方で、その文化を支える茶葉生産や荒茶の製法といった側面は、精神的文化に特化するあまり、基本的に注目されてこなかったことも事実です。それは典型的にお茶文化に関心を持つ多くの人々が、茶道をはじめとする都市圏(京都や江戸)に目を向けることにも表れており、なかなか九州でお茶文化に関心を持つ、つまり栽培次元から見ていこうとする人が表れてこない現実にも見られます。

確かに九州北部地域に限定すれば、栄西をはじめとするお茶文化の名残が栽培史などが伝承地として残っているのですが、この「誰かが特定の文化をもたらした」といった歴史で頻繁に語られてきた説話は、その「誰か」が特定の国や民族、人物であったとしても、調査を続ける中で正直なところ疑念を抱かざるを得ないものだと常に感じています。

例えばタバコの喫煙文化を考えてみても、日本の通説では戦国時代にポルトガル人が持ち込んだことに始まるとされています。しかし、こうした「特定の人々が文化を持ち込んだ」という単純な構図は現実とはかけ離れています。実際には、東アジアの広域的な交易の中で、タバコ・喫煙文化が早くから日本にも流入した可能性は高く、実際、そのような痕跡も発見されています。つまり、ポルトガル人由来という物語は近代以降に作られた幻想の要素が大きく、事実とは大きく異なるということです。このことからも分かるように、日本のお茶文化の起源や展開に関しても、近代的な幻想を取り払った上で改めて深い洞察を行う必要があります。それはつまり、現在では担い手が国境を越えて広がっていく途上にある日本茶文化の歴史的な動きを、これまでのような単なる「ファッション」としてではなく、いかに本質的な視座から再構築できるかという課題に直結しているのです。

私がこの点を強く意識させられたのは、宮崎県の山間部奥地に位置する椎葉村を訪れたからです。椎葉村は日本の秘境とも呼ばれる土地であり、戦後まで焼畑農耕が盛んに行われ、今日でもわずかにその営みが残されている貴重な場所です。この場所は民俗学の創始となる柳田國男が同地の焼畑農耕に注目して以降、集大成として民俗学の古典的な調査『日向椎葉焼畑調査』でも示されている流れを有しています。この民俗学的視点では、椎葉の焼畑は単なる農法ではなく、集落の生活・信仰・年中行事と密接に結びついた「文化システム」だったと指摘されています。そして重要な点は、この椎葉村には「山茶」と呼ばれる在来茶があることです。その由来を聞いたとき、従来の茶文化史では説明できない疑念が浮かび上がり、上記のような思いを抱くようになったのです。

現在一般に日本で「山茶」と呼ばれるものは、山間部の畑で栽培される茶葉を指すことが多く、例えばその前に来訪した福岡県うきは市などでも「山茶」として商品化されています。うきは市の山茶は実際に栽培関係者に話を聞いていると、あくまでも山間部で栽培した茶葉(荒茶)という認識だと言っていました。しかし、どうも椎葉村の山茶はそれとは異なるのです。椎葉村の山茶は、伝統的に広範囲に行われていた焼畑農耕の跡地に自然発生的に自生した茶木を利用するものであり、村人たちはそこから天然の茶葉を摘み、各家庭それぞれに伝わる独自の製法「釜炒り」で焙煎し、日常の飲用や客人のもてなしに用いてきた長大な歴史があります。つまり椎葉村の山茶とは、山間部で栽培した茶葉ではなく、焼畑農耕後に自然に自生する茶葉を活用するという、生活に深く結びついた文化だったのです。この観点は、現在まで日本のお茶文化史において、あまり注意が払われていないように感じます。

中央的な文化である茶道に焦点をあてる以上に、実は古来より日本には場所独自のお茶文化が多元的に存在し、それぞれに焼畑農耕と深く結びついていた可能性が浮上します。そして、この焼畑農耕は現代では全く見られませんが、縄文時代から日本各地で行われてきた一般的な農法です。縄文遺跡からはクリやクルミなどの堅果類の利用痕跡に加え、アズキ・エゴマ・ヒエなどの栽培化の兆候が見つかっており、人々は森林を火入れすることで多様な植物資源を循環的に利用していました。椎葉村の焼畑もその系譜に連なるもので、畑を一定期間使った後に休ませ、再び森に戻すという長期的循環の中に茶木も生き残り、結果的に「山茶」として地域の生活に取り込まれたのです。

しかし、明治に入って進められた近代化の政策が、全てを変えていきます。特に旧暦の廃止とグレゴリオ暦の採用は、単なる暦法の変更ではなく、日本で長らく培われてきた「自然に寄り添う時間感覚」を断ち切る決定的な出来事でした。旧暦は単なる日付の数え方ではなく、農耕や年中行事、暮らしそのものを形作るリズムであり、日本の文化体系そのものであり、その最大の特徴は長期的な時空世界の中で自然と共に生きる姿にあります。ですが、明治維新という大きな転換の背景には、鎖国していた日本の市場が開かれ、世界の貿易と産業の大きな潮流に組み込まれていくという構造がありました。幕末の動乱の中で、諸藩は海外との取引を通じて資金や武器を得ながら力を競い、最終的に幕府は崩壊、明治新政府の樹立につながります。

そこで、グレゴリオ暦を基準として産業化を先に進めていた世界の産業国家の仕組みと、日本の市場が結びついていくなか、問題となったのが、旧暦に基づいて生きている大半の人々のリズムが、工場労働を前提とした産業化のリズムと大きく異なったことです。ここで明治政府とは言っても、そもそも薩摩藩と長州藩は古くから関係が複雑だったため、内部に緊張を抱え、西南戦争で薩摩の英雄・西郷隆盛が自害したことをもって、長州系の政治家・官僚が主導する体制に向かいます。この流れのなかで、数十年単位の循環を前提とする焼畑農耕や旧暦の生活リズムが「非効率」と見なされ、産業国家を理想とした明治政府は、旧暦を廃止し、グレゴリオ暦を適用しました。この結果、多元的な時間意識が置き換えられていき、やがて『日本』『日本人』という統一概念が樹立されたのです。

この政策の背後には、当然ながら、産業化を進める世界の仕組みの力学がありました。明治維新の過程で薩摩や長州が海外から資金や武器の支援を受けたことは事実であり、新政府が近代的な産業化と国家体制を導入するとき、国際的な取り決めや要請に応えざるを得ない場面が随所にあったからです。その結果、江戸時代まで続いていた焼畑農耕は急速に衰退し、生活文化としての山茶の実践も周縁化されていきました。つまり、焼畑農耕とそれに根ざした山茶文化の終焉は、自然とともにあった日本的な時間感覚が、近代化の名のもとに「野蛮」「非効率」と切り捨てられた象徴とも言えるのです。これこそ、今後の私たちにとって大きな問題として浮上する重要な位置だと感じます。

だからこそ、椎葉村に残る山茶の名残は、日本のお茶文化を見直す大きな示唆を与えます。禅と結びついた茶道が精神文化として昇華されたのに対し、椎葉の山茶は生活に根ざした場所の文化であり、これこそが本質的な文化を見事に継承した稀有な事例です。そして椎葉村の焼畑農耕は縄文以来の環境利用の延長にあることを考えれば、茶葉の利用は「茶道以前」から、日本各地に焼畑農耕と共に存在していた可能性が高い。実際、中国大陸で茶文化が盛んになったことを思えば、鎌倉時代以前の日本で全く茶葉が用いられていなかったと考えるのは不自然です。江戸時代の「鎖国」などは典型的に認識を誤っていますが、鎖国とは言っても全てを管理できたはずもなく、実際には中国・朝鮮との交易は盛んであり、ここを考えても古くから日本各地で独自の茶文化があったと見ることは重要に思えます。

さらに、縄文人が海を自在に移動していた痕跡を考慮すれば、日本列島と大陸との文化交流は一方向ではなく双方向であり、その活発さを考えると、日本独自のお茶実践が「茶道以前」に存在していた可能性は十分にあります。ところが現代のお茶研究は、禅と結びついた室町以降の茶文化に重点を置くあまり、それ以前の生活文化としてのお茶に光が当たりにくくなっており、特に担い手が国境を越えて広がっていく現在、ここは強い問題になってくる予感がします。おそらく参照基準になるのは、鎌倉時代に、臨済宗の禅寺を中心に茶の栽培と喫茶習慣が広がり、武士や公家にも波及した段階が、室町時代に入ると「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれる茶の産地を当てる遊興文化が流行した歴史。そこを踏まえて、村田珠光・千利休らに代表される「わび茶」へと発展し、精神性を重視する茶道文化が形成された文化史の流れです。つまり、現在は第二段階の「闘茶」文化を踏まえて、現代的に茶葉栽培地を来訪し、お茶に限らない多角的な場所文化から洞察していく姿勢こそが、次の文化(お茶文化)を開くように椎葉村で感じたのです。

つまり、焼畑農耕と古いお茶文化は決して遠いものではなく、むしろ生活に深く結びついており、しかもそれは場所ごとに異なる多元的性格を持ちながら、歴史を形成してきました。椎葉村の山茶はその証左であり、この視点に立つことで、禅と茶道という精神文化的潮流とは異なる、生活文化としての日本茶のもう一つの姿が浮かび上がってくるのです。そして、個人的にはこれこそがやがて侘び茶などを形成する源泉だったと考えています。