鎖国という誤認The Misconception of Isolation
『江戸時代は約200年に及ぶ鎖国時代であり、突然ペリー提督率いる黒船来航によって驚愕の新時代が幕を開けた』。一般的に流布され、語られるこの物語は、実は明治以降に形づくられた見方であり、そのまま受け取ることはできません。
この物語が形づくられた背景には、明治新政府の主軸となった長州藩系の人々を中心とする、政治の力学があります。倒幕、つまり明治維新の本質は、軍事的な政権交代であり、結果として徳川将軍家の主導権が新政府へ移ったという側面が強いものでした。江戸時代に形成された高度な統治の仕組みはそのまま引き継がれており、新時代を印象づける物語が、体制を支える原動力となっていたのです。
そのため、新政府は江戸時代の徳川政権と自分たちは異なるということを人々に示す必要があり、『江戸時代=鎖国』『明治時代=開国』という、現代的に言えば国家ブランディングが行われます。明治新政府は軍事的な政権交代によって樹立されたため、その出発点を物語の中に位置づけて体制を安定させる必要があったからです。
しかし、海洋の古代史を踏まえて日本を洞察すると、この構図が政治的な要請から生まれた単純化であったことがよく見えます。まず、江戸時代の鎖国の源流は、主にポルトガルのキリスト教布教と結びついた貿易や領土をめぐる緊張への対応にあり、当時の政権が自らの統治を守るために選んだ措置でした。つまり鎖国とは、外から持ち込まれる宗教と、それに伴う政治・経済の影響にどう向き合うかという、国家の自律をめぐる判断であり、その本質を見れば、「閉ざされた国」という印象は大きく単純化されたものだと言えます。
キリシタンへの対応についても、映画などで繰り返し描かれるイメージが先行していますが、当時の武士たちにとっては、国の秩序を左右する重大な問題でした。信仰と政治、貿易が絡み合う世界の中で、各地の権力が似た対応を取った例は、時代や地域を変えて世界の歴史に数多く見られます。ここから見えるのは、特定の誰かの善悪ではなく、異なる世界がぶつかるときに生じる力学の普遍性です。
それに、鎖国制度は全体的な論調において美化されすぎています。林子平(1738-1793)が実地調査を経て、黒船来航よりも遥か以前から論じていたように、日本列島の海洋防衛は空白だらけであり、これらの空白地帯に、古くから日本に渡来していた中国・朝鮮・東南アジア・北方の人々との往来がなかったと考えるのは無理があります。実際、幕府は体制維持のためにこうした出来事を表に出しませんから、歴史資料に一部を除いて全貌が出てこないのは自然なことです。8-10世紀にかけて渤海国から幾度も日本海側に渤海使が来訪し、日本側からも幾度も出向いているように、こうした古い海洋ルートは鎖国の時代にも途絶えることはありませんでした。つまり鎖国とは事実上、ポルトガルなど一部の国との関係についての制度であって、日本列島各地と古くから海洋交易を行ってきた人々の動きは、人・物・情報の面でも流れ続けていたと考えた方が自然です。江戸幕府の鎖国制度が持っていた限界は、林子平、高山彦九郎(1747-1793)など、日本中を調査して先見的な視座を提唱していた人々の動きからも明らかです。
さらに1853年の黒船来航は、個人的には最も遅れて現れた出来事であったと位置づけます。そもそも黒船来航以前に、ロシア側の動きが江戸幕府を動揺させていた歴史事実が見落とされがちです。林子平は日本の海洋防衛が空洞化している事実を幕府・藩・朝廷に提言しますが、誰もが取り合いませんでした。この時、林子平と高山彦九郎に強い影響を受けて古墳調査の第一人者となる蒲生君平(1768-1813)が登場します。林子平の提言が顧みられない風潮の中、黒船来航よりも遥か以前、江戸幕府の防衛の体制が行き届いていないことが露わになる契機となったのが、ロシアの北海道への動きでした。蒲生君平は海防の強化を一貫して主張し、机上の空論に終わらせないため、子平の海防論を踏まえて、財政を立て直して海軍を充実させることを説き、軍艦の造営、さらに侍に限られていた軍事の役割を大きく拡大することを唱えます。これは1853年の黒船来航以前より既に始まっていたことであり、大きな影響を与えていたのは北方の動きでした。
つまり、黒船来航が起きる時代は、既に北方との緊張を通じて、海防への意識が多元的に高まっていた時代に呼応しており、ここに林子平/高山彦九郎から蒲生君平に連なる、日本の未来を思う諸氏の影響が育まれ、江戸時代初期から思想面で強固な役割を担っていた水戸藩で深く研ぎ澄まされていきました。藤田幽谷(1774-1836)、藤田東湖(1806-1855)、会沢正志斎(1782-1868)を筆頭に水戸藩の思想は他藩の若者を強く感化し、水戸藩に学ぶために多くの若者が足を運びました。この水戸藩を経由して登場するのが、長州藩の松下村塾の指導者・吉田松陰(1830-1859)、薩摩藩の決起盛んな若者たちをまとめて率いた人格者・西郷隆盛(1828-1877)などです。
だからこそ、布教を前提とせず、経済的な結びつきを求めていたオランダは、江戸幕府から交易を長崎の出島で行う許可を得ていたのです。幕府は西洋との交易や国内移動を厳格に制限していましたが、前述の通り、鎖国と呼ばれる時代にあっても、日本列島全体のすべての動きを管理できていたわけではなかったことを考慮しなければ、この時代の実像は見えてきません。『江戸幕府=鎖国』という明治時代に形づくられた固定概念をそのまま受け取ると、ここが見えなくなります。
同じように、『江戸時代=封建主義』という見方も、明治以降の学問の中で広まった一つの物語です。この点は、戦後にこの時代変動を徹底的に考察して素晴らしい論考を残した経済学者・大谷瑞郎の著作を全て読むと見えてきます。江戸時代は封建制度という枠では捉えきれず、資本主義が黒船来航と共にもたらされたというよりも、江戸時代には日本国内だけで既に世界有数の高度な資本主義的状態があったということです。だからこそ、日本は他国よりも円滑に、近代的な経済への移行を進められたのです。
これは外からの影響とは別に、日本の内で独自に育った流れであり、堺の商人に始まる大阪・中之島の動きなどは、まさにここを示唆しています。日本の開国、資本主義、産業化は外から与えられた光だという見方は、外から文明をもたらしたという物語と、江戸時代を全否定することで体制を安定させたい当時の政治の力学が重なって形成された潮流に由来しています。この物語が今も広く共有されているのは、日本に明治レジームの継続が起きているからであり、その深部は、江戸時代の日本型朱子学を継承した近代官僚制が強固に持続していることからも明らかです。
ではどうして、この単純化された見方を、今も多くの人々が前提として日本を論じるのでしょうか。それは第一に、日本を自分の足で調査する機会が限られているからです。実際、私は日本各地を調査して広範囲な角度から多元的な実像を解明する動きを常に取っていますが、すると日本の島国のイメージが『海洋に閉ざされた島国』ではなく、実は『海洋に開かれた島国』だということが深く理解できます(ただし、双方向を忘れずに)。
つまり、既成の見方を前提にした黒船来航の物語では、封建主義の宗主・徳川家の江戸幕府によって強固な鎖国体制が約200年に渡って維持されていたところに、突然、遠くから黒船が来航し、日本を驚かせて開国へ導いたという救世主的な論理になります。この論理は、日本が『海洋に閉ざされた島国』であるという、外から与えられた見方に源流を持ちます。そもそも日本からすれば、コロンブスが発見したかどうかとは関わりなく、ジパングがどこであろうと、独自に歴史・文化を育んできました。実際、江戸時代の文化に感銘を受ける人々は今も世界中に多く、世界でも最先端の文化水準にあったのが、この江戸時代です。江戸の都市形成を含めて各地の街づくりは、あまりに高度で驚くほどです。この江戸時代の状態を未開と見るのですから、いかに前提がずれていたかは一目瞭然です。
この見方の底には、発見する側と発見される側という、一方向の構図が潜んでいます。『海洋に閉ざされた島国』(ジパング)が発見され、その出会いによって、未開の状態にあった人々が開明的になり、封建の圧政から脱することができたという考え方です。この構図は、世界のさまざまな場所について語られてきた一つの型であり、日本についても、外から見た視点で語られる文章に、その名残を感じることがあります。
そして、この単純な構図が明治の時代に取り入れられ、新政府の体制を安定させる物語と重なりました。両者の利害が重なったということです(その媒介の一人が坂本龍馬です)。『鎖国から開国』、『封建から開明』という物語の膜を形成しながら、明治時代がつくられていったということです。これは特に当時の列強にとって、経済的な恩恵が大きかったからです。
考えてみると、長州などは江戸時代の日本の中では端に位置しており、江戸、京都、大阪などの都市部とは、その文化圏とは大きく異なる生活を営んでいました。別にこれ自体は日本においては普通で、優劣はなく、この多元性こそが日本の本質ですが、都市部の文化圏への憧れや焦りが生まれやすい位置にあったことは確かです。特に明治維新の担い手は下級武士が中心ですから、武士としての待遇も江戸時代を通じて大きな差がありました。立場を大きく変えようとするとき、その後ろ盾を日本の外に求めることは自然な動きであり、日本とは別の世界であるがゆえに、西洋は彼らにとって新しいイメージの源になりました(従来の中国を前提としないイメージを形成できるため)。
だからこそ、外の力を後ろ盾にして築かれていく明治新政府の態度に対して、未来のための日本を思い、疲弊した江戸幕府を倒し、人々のために新たな国づくりを行おうとした薩摩藩の英雄・西郷隆盛は強く反発したのです。そして西郷の人格に惚れ込んでいた大勢の血気盛んな若者たちが結集して蜂起し、ついに1877年に西南戦争が勃発しました。この結果、西郷隆盛は自害に追い込まれ、長州系が主導する体制が明治政府の名のもとに固まっていきます。この1877年の裂け目が、明治右翼の勃興につながり、西郷隆盛の薫陶を受けていた玄洋社・頭山満(1855-1944)の登場に至り、頭山を主軸として、アジアの諸国が列強の植民地支配から立ち上がる解放活動としてアジア主義が提唱されます。頭山満こそ、西郷隆盛の正統な後継者です。
そして作者不明の『脱亜論』(1885)は、こちらも誤解が多いのですが、要点を言えば『外から規定されたアジアの中の日本』という枠を、破棄するための提言ということです。つまり、アジアという枠は外からの規定であって、私たち日本は隣国の中国・朝鮮半島、東南アジアから北方との歴史的関係において、そのように一括りにはできないということです。アジアという一つの統一体は、外から描かれた輪郭であるという強い意識が、この『脱亜論』にあります。作者が福沢諭吉であるか否かは、どうでも良いことです。この論理を逆手に取ったのが、頭山満を筆頭とするアジア主義です。要するに、外から一括りにされたのなら、そこで進められている支配に抗して各国が自立すること、そのことでアジアの連携が取れるならば、日本にとっても重要だということです。これが頭山満たちの次元でのアジア主義(大アジア主義)ですが、日本史の知見が希薄な論者たちは、このアジア主義を後の昭和における陸軍の暴走時代の軍事政権的なアジア主義と同一視して混同してしまっています。これは、全く異なります。
頭山満は、『アジア』と規定されている諸国に対して、君たちもいつまでも占領の状態に甘んじているのではなく、立ち上がって自立的な解放を実現すべきだ、それこそが人間の生命であろうと説きました。そのため、政治家でない頭山満は、中国革命の父・孫文、インド独立運動家のボース、朝鮮の金玉均や朴泳孝などを支援し、交流を踏まえて人々をそれら国々に送り込み、独立運動を支援しました。
しかし、頭山率いる玄洋社も、バックアップを行なっていた犬養毅(1855-1932)が首相になりながら、暗殺されてしまった事件以降、急速にその影響力を失います。そして1926年の昭和以降、徐々に軍部の発言力が無視できないレベルで高まり、関東軍の動きは1931年に満州事変として表面化し、これを利用して権力の絶対化を実現しようとした陸軍は暴走を始めます。この時、陸軍は明治右翼の頭山満や内田良平のような、西郷隆盛の系譜にある本質的な視座から活動する人々の動きが妨げとなり、頭山満と懇意だった犬養毅が1932年に暗殺されます。そして頭山の信頼を崩すために、彼のアジア主義の思想が書き換えられ、列強の帝国主義の仕組みをそのままアジア諸国に移植するという流れが始まったのです。この流れを無視してはなりません。この結果、外から規定された『アジア』は、単に支配の主が列強から日本に移る最悪の形態となり、国際関係は一気に緊張へ向かいます。日本は、暴走する陸軍に対して誰も何も言えない状況のなか、国力・経済力・軍事力の観点で勝ち目の乏しい米国との戦争に追い込まれました。その結果が、今日に連なる米国との関係を軸とした日本のレジームだということです。
この流れを概観すると見えてくると思いますが、20世紀と現在が大きく異なることは、他の国や地域を論じる際、従来のように発言力のある側を軸とした考察が成り立たなくなってきているということです。つまり、自分の国のことは自分たちで論じるという態度こそ、現代にふさわしいように思え、言語間の障壁がAIで取っ払われた現在、外から語られてきた各国の考察の単純化が次々と見直され、当事者の声が正面から交わされる時代に入っています。この意味でも、多元的世界だと言えるのでしょうが、むしろ世界はリキッドであり、これは世界における西洋とその他に限らず、日本自体にも言えることです。既に戦前から、東京の学者が琉球を論じることに対して、地元出身の民俗学者・伊波普猷が強い問いを立てて優れた琉球の論考を次々と発表したり、アイヌに対する東京の学者の理解に対して、アイヌ出身の言語学者・知里真志保が優れたアイヌの論考を次々発表しています。そして日本・日本人なる単一状態の規定が成立した時点を私は1960年代の学生運動敗北後と見ていますので、それ以前にはこの多元的世界が広がっていたのが本質だと前提しています。ここで問題となるのは、言語です。
特に世界標準言語となっている英語は主語制言語界域であり、述語制言語界域である日本語とは異なる界域のため、理解の仕方が入れ替わります。
2025年の今、西洋も日本も、互いを場所のひとつとして対等に見つめ、実地の調査に踏み込んで語り合う時代に入ったと思います。日本についてのテキストは日々数多く書かれていますが、その深まりは、それぞれが自分の足元を調べ尽くすことから始まります。自国の徹底的な調査を踏まえた理解があってこそ、他の国を理解する道が開けます。