海部をたどる:大分沿岸の古代海洋部族Following the Amabe: Ancient Seafaring Tribes of the Oita Coast
今日は大分県沿岸部を巡りながら、古代海洋部族の中でも最大級の存在であったとされる海部(あまべ)について調べています。海部は今日その多くの痕跡を失っていますが、古代日本においては人・物・情報の伝達から、人々の生活や権力構造の中で欠かすことのできない存在でした。先日、徳島県で調べていた海部氏(カイフ)とも深い関係があるのですが、こちらは大分をかつて豊後国と呼んでいたことから豊後海部と言位置づけられます。この豊後と四国という海を挟んで近接した場所の海洋部族を追いかけることで、古代日本史の海に消えた痕跡を探求することができます。
中でも豊後海部の重要拠点とされるのが、大分市東部にある亀塚古墳です。亀塚古墳は全長約116メートルの巨大な前方後円墳で、丘陵の高台に築かれ、そこから山口県や四国を見渡すことのできる絶好の立地にあります。非常に巨大で存在感のある前方後円墳ですが、この地域を含めて一帯はかつて海部郡と呼ばれていたことが『豊後国風土記』に記されています。
もう一つ重要なのが、築山古墳(現・大分市神崎村周辺)です。昭和7年に地元の人々が社殿整備のために掘削した際、古い石棺二基が発見されたことに始まりました。全長90メートル前後の前方後円墳で、築造時期は5世紀中頃と推定、こちらの古墳がこの地域の最古の前方後円墳であることが判明しています。被葬者は男性二体、女性一体、他一体不明とされ、加えて勾玉や武具などの副葬品が収められていました。さらに神崎馬場上地区には16基の古墳が集中しており、この地域に大きな首長勢力が存在したことを物語ります。
とりわけ注目されるのは、築山古墳で南側中央に埋葬されていた女性の遺骨です。この人物が首長であり、在地部族の中心的存在であった可能性が高く、豊後の海部が女性首長を擁していたことを示唆します。さらに副葬品の中には、さらに南方の奄美・琉球との交易を想起させる品々が含まれていました。これは古代の豊後海部が九州と奄美・琉球を結ぶ交易ネットワークの一角を担っていた可能性を示しており、かなり広範囲なネットワークを有していたことを示しています。こうした海洋部族ならではの交流は、後世の奄美神話や琉球神話、そして南島文化とも深くつながり、日本列島における海人文化の広がりを理解する上で極めて重要です。
すなわち、亀塚古墳と築山古墳は、豊後の海部が大和政権成立以前から広域的な海上交通を掌握し、南方との交流を展開していた証拠といえます。その存在は単なる地域豪族にとどまらず、古代日本史における海洋ネットワークの核心を担うものでした。
まさにこの古墳周辺は、古代の豊後海洋部族たちが海を掌握し、大きく栄えていた拠点だったことを示してのですが、特に近隣の四国との関係が見逃せません。そして注目すべきは、この海域は豊後水道と呼ばれていますが、そこに速吸瀬戸、別名・豊予海峡が流れていることです。この「速吸」とは、日本神話に神、それも女神として登場し、神話の中に置いても非常に重要な説話で登場する早吸姫を表します。そして岬となっている佐賀関は、ちょうどハヤスイノセト(速吸瀬戸)に面していますが、ここにはやはり、ハヤスイヒメ神社(早吸日女)が建立されています。
早吸日女神社には、あまり見られない大地海原諸神(おおつちおおなばらもろもろのかみ)なる神が祀られています。この神は古代において船で海洋に出る者たちが必ず崇めた自然神を祖型としており、後に早吸姫として神格化されて信仰の対象となります。つまり海部を率いる女性首長の巫女が、海の難所として知られていた速吸瀬戸の神を鎮めて厄災が起きないように神事を行い、そこを通じて部族らは豊後水道を動いていたということです。
実際に神話の伝承によれば、神武天皇が大和へ向かう神武東征に際して、この速吸瀬戸を通る際、土地の海の女性たちが海底の大きな蛸から潮の流れを鎮静する聖なる剣を授かり、その剣を神武に献上したことで、無事に難所の速吸瀬戸を越えることができたとされて奉祀されています。これはまさに、自然信仰と実利的な側面が結びついた神の一つの姿を伝えています。
さらに速吸瀬戸を横目に見ながら大分県を南に進むと、やがて佐伯市から岬に向かった漁村の元ノ間海峡に至ります。ここは離島の大島を望む絶景の地で、四国の宇和島から佐田岬まで一望でき、大島を挟んで左側には大分北部が見えるという、豊後海部にとってはこれ以上ない立地環境でした。こうした眺望の良い場所に拠点を置き、海を制する者たちは、背後を山脈に守られた場所を要塞として利用しながら勢力を広げていきました。
航海の難所を一つずつ制圧し、巫女の祭祀を通じて実利的な交易と精神的な信仰を結びつけていった結果、海部はやがて大和朝廷からも無視できない存在となり、やがて「海部」として史書にも登場するようになります。後に各地の海部を束ねる阿曇氏と呼ばれる新たな氏族が成立していますが、その本拠地は福岡県の志賀島にあったと伝えられています。
渦を巻く潮の姿を眺めながら、漁を終えた船が南へ帰っていく夕景をボンヤリ見ていると、この大島との間の海峡には、かつて異なる文化をもつ人々が多数往来し、やがて私たちのルーツとなる祖先たちも、同じようにこの難所を越えていったのだろうと、深い思いに駆られます。
日本史では、多くの古代部族が歴史過程で姿を消しますが、この一帯を今日ドライブしていても、異郷に迷い込んだ感覚が強まるばかりで、自分がどこにいるのかわからなくなる1種の陶酔状態に陥ります。これはもしかすると、日本で古くから伝えられる海の彼方にある竜宮城に、亀の導きによって到達した浦島太郎の伝説そのものなのかもしれません。以前日本は山1つを超えれば別世界と言いましたが、それは海にも当てはまるのだろうと今回の調査旅で強く感じます。