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柳川・吉野ヶ里・熊本の山間部Yanagawa, Yoshinogari, and the Mountains of Kumamoto

今日は柳川、吉野ヶ里、熊本山間部を移動しています。水の街・柳川として知られる福岡県の柳川市は小さな街ですが、一般的には水源が豊かな土地として知られています。しかし柳川は歴史的に水源が豊かだったわけではなく、むしろその逆であり、湿地環境が広がっていたこの一帯において、人々は生きていくために1000年以上も工夫を凝らしながら、どうやって真水を確保し、水捌けの悪い土地で生活するかを試みてきました。その歴史の集大成、さらには土地の人々の知恵の蓄積と生活の積み重ねが今日の姿を築き上げたため、柳川は本質的にはこの地域に生きた人々の歴史文化遺産と言えるでしょう。

例えば今回の旅でも、本来調査予定であった糸島や熊本から宮崎にかけての一部地域では、今月初めの豪雨被害によって土砂崩れなどで立ち入れないエリアが次々と出ているため、都度予定を柔軟に変更しながら調査を進めています。一方で、そうした影響が全く見られないという点に、この柳川の独自の魅力があります。柳川は街を巡る水路に「堀割」と呼ばれる古い知恵が組み込まれており、水門がこの小さな地域だけで1100も設置されています。これらは江戸時代のまちづくり、すなわち「どうやって水を獲得し、生活に結びつけるか」という工夫の集大成として築かれたものです。そして明治以降の近代化を経て、現代ではレーダーや探知機などを用い、水位を随時調整するという非常に高度な仕組みが今も維持されています。その結果、九州各地が豪雨被害に見舞われ人々の生活が困難になる中でも、柳川は被害を受けることなく、穏やかな風景を保ち続けています。この地域はひな祭りや桜の季節には観光客で溢れ、オーバーツーリズムの状態となりますが、それ以外の時期は比較的閑散としており、落ち着いた佇まいを見せています。

そして柳川から数年ぶりに佐賀県を代表する吉野ヶ里遺跡に出向きました。吉野ヶ里遺跡は1980年代の発見以来、日本史を覆すような大きな影響を持った遺跡であり、日本の考古学研究において人々が弥生時代を理解するための先駆的な役割を担ってきました。弥生時代中期に大きく発展した吉野ヶ里遺跡に拠点を築いた人々は、広大な環濠と呼ばれる防御施設を集落の隅々に張りめぐらせ、大規模な集落構造を作り上げて、唯一無二の国力を発揮しました。この大規模な吉野ヶ里集落が『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の技術に酷似していたことから、邪馬台国の卑弥呼が治める国であったという論調が高まる契機となりました。しかし同時に、吉野ヶ里遺跡の調査によって『魏志倭人伝』の記述が必ずしも当時の日本を正確に表しているわけではないことも明らかになってきました。例えば記録によれば、邪馬台国の人々は単純な衣服を身にまとっていたとされますが、吉野ヶ里遺跡からは複雑な織物技術による布の遺物が発見されており、そこには大きな齟齬が見られます。

吉野ヶ里遺跡において祭祀が行われた神聖な区域は、その時代の人々にとって特別に区切られた空間でした。興味深いことに、神殿の頂上に掲げられていたのは舟と、それを導く鳥の紋様でした。吉野ヶ里遺跡の門や施設の随所に鳥の意匠が施されていますが、これは全国各地の弥生遺跡の遺物にも見られる重要な特徴です。弥生土器には鳥を模した装束を着た巫女たちが舟で鳥に先導されている姿が描かれているものもあり、鳥が舟の舵を取って海を渡る姿が象徴的に表されています。つまり、それは日本海を越えて渡来した人々のルーツを示す非常に重要なメッセージであったのです。こうした刻印や意匠が随所に確認されることから考えても、彼らの村落が海を越えた交流を土台に形づくられていたことがうかがえます。

また、最高位の祭祀は神殿の三階部で執り行われていました。ここでは祭祀者である巫女が神がかりの状態に入るために琴を弾く者が横に控えており、入神状態の巫女が発する神託を受け取り伝える人物(これは男性)が傍らに控えていました。この時、鏡・玉・剣といった祭具は巫女が神と交信するための道具であり、背後には補佐役の巫女たちが控えていました。

これは卑弥呼の神殿における祭祀の様子とも一致し、卑弥呼が神がかりとなり、弟とされる人物がその言葉を受け取り人々に伝えるという政治的役割を担っていた構造と重なります。つまり卑弥呼という存在は、大和における絶対的王であると同時に、各地にはそれぞれ巫女がおり、彼女たちを率いる祭祀集団を抱えた複合部族集団の象徴でもあったのです。そしてその多くは、海を越えた交流の中で北東アジアとつながりを持っていた人々でした。

しかし、この大規模な吉野ヶ里遺跡でさえ、弥生時代後半から新たな古墳時代の到来とともに突然衰退し始め、最終的には滅亡し、その後、古墳時代後期に入って再び復興するまで時間がかかりました。これは弥生時代の終わりに、列島の勢力図を塗り替えるほどの大きな変動が起きた可能性を示しています。実際、遺跡からは戦傷で亡くなった人々の遺骨や、首のない人骨が出土しており、戦乱の痕跡を物語っています。大規模に発展した吉野ヶ里集落でさえ立ち行かなくなるほどの力学が、海を越えた交流と争いの中で働いたのです。そして新たに台頭した勢力が最終的に拠点としたのが大和でした。実際、吉野ヶ里から大和にかけて各地の弥生集落は本拠地を放棄し、小高い山の上に高地性集落を築き、防御壁を設けて侵入者に備えていた痕跡が多数発見されています。こうして平野部の勢力図は一変し、日本は新たな時代を迎え、弥生的伝統は次第に姿を変えていきました。

そして吉野ヶ里の最高位祭祀者は、基本的に神聖区域の中で生活しており、一般の人々がその姿を目にすることはほとんどありませんでした。神聖区域の内部には「高床住居」がありましたが、それは一般的な高床倉庫とは異なり、正方形に近い形をしていたことから、最高祭祀者の住まいだったと考えられています。その内部は外界から隔絶され、光を取り入れる窓もなく、昼間でも灯火をともしていたと推測されます。これは中国や古代日本につながる非常に貴重な習俗を今に伝えており、弥生的巫女文化の重要な性格を示しています。

さらに神聖区域の東側には「東祭殿」が設けられていました。これは夏至の日の出や冬至の日没の方角に一致しており、古くから季節ごとの祭祀を行う重要な施設と考えられます。ここには何度も建て替えられた跡が確認されており、祭祀の度に建て替えが行われたと考えられます。これは現在の伊勢神宮や出雲大社に見られる「式年遷宮」と同様に、建て替えによって祭祀の力を維持する取り組みであったと推測されます。

また、吉野ヶ里の北側には神聖区域を超えた位置に「北墳丘墓」が築かれました。ここには歴代首長の墓が並び、副葬品としてガラス玉や青銅器などが収められています。これらは朝鮮半島や北東アジアとの交流を物語る品々であり、渡来人の存在を示しています。北墳丘墓の配置は祖先を「北」に向けて祀るという思想を表していますが、これは当時の弥生語では「ニシ」という音が現在の方角でいう北を示していたことを考慮しなければなりません。現在の方角でニシは西を示しますが、これは弥生人の概念とは異なるため注意が要されます。ここを勘違いしたのが魏の使者で、結果的に邪馬台国論争が方角の古層概念を掴めずに混乱した結果、生まれたことが見えてきます。つまり、彼らにとって北(音ではニシ・イニシ)こそが祖先の来た道であり、故郷を指し示す方向であったのです。

弥生時代中期に築かれた墳墓は、のちに墳丘墓へと発展し、各地に広がっていきました。そして興味深いことに吉野ヶ里の集落構造を見ると、北側の墳丘墓と南側の祭祀空間、さらにその軸線上に置かれた主祭殿が南北の一直線に配置されており、その北側約60km先には雲仙岳が位置しています。この配置は祖霊信仰と自然崇拝を結びつけた象徴的な設計であり、祭祀の中心施設が祖霊と自然を結ぶ重要な場であったことを示しています。墳丘墓前には立柱や祭祀殿が設けられ、祭祀用土器も多数出土しており、祖霊信仰の中心地であったことがうかがえます。

吉野ヶ里の墓域には約3000基を超える甕棺墓が確認されており、そのうち墳丘墓だけで1000基以上を占めており、これらは北に向かって二列に配置され、血縁ごとにまとまりを形成するように埋葬されていました。また、一部には石棺墓や土壙墓も混在しており、異なる部族集団の存在を示しています。副葬品にはガラス玉や装身具が多く見られ、東アジアとの交易関係を裏付けています。これらは弥生人のルーツが北東アジアにあったことを強く物語るものであり、縄文文化や古墳文化とは異なる独自の文化圏を形成していたことを示しています。

このように、吉野ヶ里遺跡が私たちに与えた示唆は計り知れないものであり、弥生時代と言う極めて難しい複雑な時代を理解する上で絶対に欠かせない場所だと言うことがわかります。