語られた歴史と沈黙の真実Spoken Histories and Silent Truths
日本史といっても、その大半は中央政権を正当化・強化するための歴史であり、周辺地域は付属あるいは同盟関係にあった場所以外、ほとんど重視されない傾向がとられてきました。これは文字を文書化することに力を発見し、支配を掌握したい為政者側としては当然ともいえますが、こうした背景がある以上、日本史を日本列島全土の歴史として詳細に描いたものだと考えることには、大半の地域の歴史を無視するという問題が生じます。つまり、文書化されたものを絶対視しては日本史は見えないのです。
この問題は、日本がもともと文字や文書文化を持っていなかったことによって、さらに厄介になりました。飛鳥時代から奈良時代にかけて中国の知識人経由で文字記録が整備されるようになった時期でさえ、この中央集権的傾向はこの課題を抱えたまま進められていたことがわかります。
例えば私は、『古事記』や『日本書紀』の性格の違いを理解しつつ、様々な土地を訪ねて歴史を探求していますが、語られていない歴史があまりにも多いことに衝撃を受けます。実際、『日本書紀』は特に中国王朝を中心とする歴史編纂方法をかなり忠実に踏襲しており、その傾向は非常にわかりやすく現れています。一方で『古事記』のように多元的な世界を示唆する編纂方法も存在しますが、いずれの書物にも中央主義的傾向は露骨に表れています。
この中で特に問題となるのは日本海側の地域です。歴史をさかのぼると、本来、日本列島で大きく発展していたのは明らかに日本海側であり、今日のような太平洋側ではありません。ところが現代では、京都・大阪などの関西地方から名古屋・静岡を経て東京へと至る東海道の大都市圏ばかりが注目され、実際、主要都市、そして主要産業の多くはこの地域に集中しています。これは大和・京都、さらに鎌倉や江戸へと移っていった幕府や朝廷の動きと関連しています。そして太平洋側に拠点を据えることは、その海の先に他国が存在しないという地理的条件から、為政者にとって安全保障上都合がよい面がありました。
これに対し日本海側は、古代より大陸や朝鮮半島との交流が盛んであり、交易の拠点であると同時に緊張の窓口でもありました。中国、ロシア、朝鮮半島などとの往来は頻繁であり、人や物の流入も多かったと個人的には考えています。そのため、中央政権は自らを守る観点から、日本海側を政治的中心地として理想化することはなかったのです。そして彼らが理想の土地として見出したのが古代大和でした。これは大陸側からの侵攻が懸念された時代においては最も進出しにくい場所であったため、かなり理にかなっています。
こうした背景から、天皇以降の歴史の中心は太平洋側に据えられ、20世紀後半に入ると航空交通の発達によって太平洋の向こう側にある北米との関係が重視されるようになります。日本海側はロシア・中国と距離が近いことから、戦後の外交と安全保障の枠組みのなかで、そちらとの接近は重んじられず、日本海側はますます軽視される傾向が強まりました。しかし、日本海側の全体像を理解せずに描く歴史は、古代日本そのものを正しく表すものではありません。
太平洋側の歴史の大半は、飛鳥時代から奈良時代にかけて形成された大和朝廷系勢力の歴史観に基づき、そこから連なる平安貴族や武家の枠組みを前提としています。この限定的な歴史観が「日本」という概念に拡張され、長い時間を経て定着してきました。その結果、東日本はほとんど重視されず、中央政権が東日本を侵攻しようとした歴史についてもわずかな記録しか残されていません。その中で、『日本書紀』は数少ない一次史料として、その様子を伝えています。
『日本書紀』において、東北地方への遠征が最初に神話的形で描かれるのは景行天皇の御代、日本武尊の東征譚です。これは後世の創作色が濃いものですが、朝廷が古くから東北に権威を及ぼしていたと主張するための象徴的物語といえます。実際の歴史において本格的な東北遠征が始まるのは、7世紀中頃、斉明天皇期の阿倍比羅夫の遠征です。
比羅夫は将軍として軍船180隻を率い、日本海沿岸を北上しながら秋田・津軽方面に進軍しました。『日本書紀』によれば、現地の蝦夷は比羅夫の威勢のもとで降伏を申し出たとされ、比羅夫は恩荷という首長を現地支配者として任命し懐柔しました。その後も渡島(北海道)や津軽の蝦夷と同盟を結び、さらには北方の人々「粛慎」との戦闘にも勝利しています。この勝利は捕虜の献上とともに宮廷での大規模な饗応として演出され、朝廷の威光を広く示す政治儀礼となりました。しかしこれは日本書紀の記述であって、実際に東北北部で何が起きたのかについての全貌を示していません。この辺は後にかなりの問題となっていきます。
こうした遠征により、大和朝廷は名目上、東北の一部地域を支配下に収めたと主張することができ、城柵の設置や蝦夷の首長への官職授与などを通じ、間接統治の形が整えられていきます。しかし、実際には抵抗を続けて反乱を頻繁に起こす蝦夷も多く、服属と反抗が繰り返されました。つまり、『日本書紀』が描く降伏や服属は、現実の一時的和平や同盟を理想化して記したものと考えられ、かなりの中央史観的傾向を持ち、為政者の保身の弁明であるということです。それでも、この一連の遠征は大和朝廷が東北を戦略的に意識し、軍事と外交を組み合わせて影響力を拡大した初期の事例であり、その後の奈良・平安期の蝦夷征討へとつながる布石となりました。
東北侵攻の歴史は、『日本書紀』において中央政権の使命として描かれています。しかし、その背後には日本海側の歴史的重みや、大和朝廷が中国的世界観を踏襲して形成した理想的な国家像があります。日本海側を軽視し、太平洋側を中心とした歴史観だけで古代日本を理解しようとすることは、実像を大きく歪めます。中央が記録した史書を読み解く際には、その編纂意図と記述の限界を意識し、語られていない視点を組み込むことが不可欠です。そのためには、一度『中心』という観念を放棄する必要があるのですが、これが歴史的に無視されてきたことにより、中々歴史の全貌が示されない停滞した状態が続いているのです。