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戦後80年が意味するものEighty Years After War – What It Truly Means

第二次世界大戦終戦の日から、明後日でちょうど80年を迎えようとしている日本。この80年で、当時と比べて何かが大きく変わったと言えるのでしょうか。確かに戦後の大復興、そして国民が1億人規模に到達し、「実質的な社会主義国」として日本国民全員を中間層に押し上げるという夢は、1980年代頃に達成されました。しかし、これらは戦争の敗戦という大きな出来事を契機に、それまでのシステムが根本から一変した結果だと単純に言えるのでしょうか。私はこのような短絡的な一方的な評価には常に懐疑的で、むしろ戦時システムを巧みに温存したからこそ、このような奇跡と呼ばれる歴史が起きたように感じています。そして、実質的な社会主義国の理想をソ連よりも先に実現してしまった日本は、1990年代のバブル経済破綻以降、さらにはソ連が崩壊して以降もこのシステム(イデオロギー)を変えられず、30年程度かけて国民全体が中間層から貧困層に転落し、今日でも凋落に歯止めが効かなくなって全員が疲弊する未来へ達しました。なぜならば、日本の戦後復興の最大の原動力となったのは、何よりも戦時下で築かれた総力戦体制だったからです。今後、この総力戦体制は思わぬ形で復古するはずです。

かつて社会学者の山之内靖は、この体制を「総力戦体制」と呼び、第二次世界大戦下の旧日本軍による総力戦体制が、戦後に入っても日本人の内部に深く根付いており、それが一気に復興を成し遂げる原動力になったと指摘しました。さらに評論家の山本七平は『「空気」の研究』を著し、数字や科学的データなどを一方的に無視し、精神論に傾倒して暴走した軍部の姿を、日本の村落共同体における独特の「空気」という概念で説明しました。そして、この「空気」は戦後になっても、より強く継承されていると指摘しています。

実際、終戦から80年を経ようとしている現在、私にはこの80年間、戦時体制の本質は全く揺らいでこなかったのではないかという疑念があります。それほど、あの時代に形成された体制の力学は強固であり、表面的には大きく変わったように見えても、日本社会の内部、日本人の精神構造の内部には、この戦時システムが根を張り続けているのです。そして歴史において、こうした構造は何らかの出来事をきっかけに一気に爆発し、再び似たようなシステムを作り上げる最大の原動力となります(これは人々が正気を失い、歴史を参照する余裕を失うからです)。まるで、全てが焼け野原だった土地から、一気に世界有数の都市となったあの頃のように。これらが異なる形で起きないと、誰が言い切れるでしょうか?

そもそも、第二次世界大戦から80年を経た現在も、世界的に見れば一向に戦争は終わらず、核兵器を用いた武力圧力抗争は未だに続いています。経済的にも、一極依存から多極化への移行は容易ではなく、世界という視点で見れば統一など不可能であることが、2020年代に入って改めて明らかになりました。さらに米国依存からの脱却を進める欧州各国の軍事費は加速的に増加を始めており、とりわけ日本と第二次世界大戦中に枢軸同盟を組んだドイツやイタリアでは、軍事費の引き上げ、将来を見据えて徴兵制を再導入する動きが始まっています。これらの状況を考えると、今後日本も似たような道を歩むことは間違いなく、ドイツとイタリアのそれぞれ異なる動きが、日本の未来を映し出しているように思えます。歴史に照らせば、今後日本においても、既成勢力(官僚制)に大きく対抗する勢力が台頭していくことが予測されます。そして、その過程で戦時体制が現代的な形で巧みに復活していく可能性は極めて高いのです。なぜなら、それらは戦後もほとんど解体されなかったからです。未だに表面的にしか見られていない日本文化や日本史への評価は、この現実の前に揺らぐでしょう。この構造が、ほとんど語られてこなかったからです。

この構造は、外からはなかなか見えにくいものですが、私がこの感覚を理解する上で非常に有効だと考えているのが映画です。なかでも、日本の戦時的なシステムが戦後も生き延びてきたことを象徴する2本の映画があります。それが、戦後1967年に岡本喜八監督によって制作された『日本のいちばん長い日』と、2016年に『エヴァンゲリオン』の監督として知られる庵野秀明によって発表された『シン・ゴジラ』です。一見、この2作には関連性がないように見えるでしょうが、実は庵野は深く岡本を敬愛しており、自作の映画やアニメに岡本作品の手法やオマージュを多く取り入れています。庵野自身も、岡本から大きな影響を受けたことをたびたびインタビューで語っており、『シン・ゴジラ』は明らかに『日本のいちばん長い日』の現代的続編であり、岡本を尊敬する庵野からの回答です。

ただ時代軸は大きく異なります。岡本喜八は第二次世界大戦の実体験者であり、当時の豪華な俳優陣を招いて制作した同映画には、岡本と同じく戦争を経験した俳優が多数出演しています。たとえば最も難しい役であった陸軍大臣役を務めた三船敏郎などが代表的です。出演者のほとんどが戦争を直接体験しており、前線で戦った経験を持つ彼らが、当時の何も決断しなかった政治家を演じるという、その構成自体が注目に値します。この作品は、本質的に「自分たちでは何も決められない」という日本的な構造を徐々に暴き出しており、そこに山本七平の「空気」や山之内靖の「総力戦体制」が露骨に表れていることが見えてきます。そして重要なのは「誰か責任を取ったのか」という点です。映画を詳細に見れば、実際には誰も責任を取っていないことが明らかになります。そしてこれは政治家だけではなく、国民全体の問題でもありました。事実、昭和天皇の玉音放送が流れた8月15日以降、人々は一斉に「自分は騙されていた」と語ったことが随所で伝えられています。つまり、事実上、この戦争の責任を誰も負わなかったということです。陸軍大臣が切腹する場面もありますが、戦争がなぜ起きたのか、なぜこれほどの被害を出さなければならなかったのかといった根本的な責任は、所在が曖昧なまま放置され、玉音放送後にはすぐに「民主主義」という耳障りの良い言葉を誰もが口にしています。

私は、近代日本の最大の問題は明治期の長州藩勢力によって築かれた官僚制にあり、それがいまだに続いていることだと考えています。そして温存され続けたこの構造を、全く異なる形で描き出したのが庵野の『シン・ゴジラ』です。この作品は一見するだけでは娯楽映画ですが、内容をよく見ると『日本のいちばん長い日』と同様に、誰も決断せず、誰も責任を取らない日本のシステム構造が丁寧に描かれており、さらに2011年3月11日の東日本大震災を踏まえて構成されており、国民の多くが死に、被害に苦しむ最中にも、無意味な官僚システムに従属することだけを優先する政治家・官僚の姿が見事に暴かれています。実際、官僚化が国民規模に広がっていた当時、津波、原発事故よりもシステム維持を優先した人々によって、無数の死者・被害者が出ており、これは戦時と何も変わっていないことを示しています。

この点を未知の怪獣ゴジラの暴走に仮託した庵野は、制御不能な事態が発生したことで上層部が一気に機能不全に陥る姿を描いていますが、それでも誰も決断せず、無意味な官僚システムの維持に明け暮れて、何も決めない会議ばかりをマニュアルに従って行います。そして随所で見られる根拠なき楽観的推察と責任逃れが優先されていき、ゴジラによる国民の被害は彼らから見えない位置に破棄されていきます。映画はこうした上層部(内閣・官僚)などの要人がゴジラの攻撃で全員死去したこと、東京永田町(国会)や霞ヶ関(官僚制)が破壊されたことをもって、やっと全てを失った新たな人々が「もう自分たちでやるしかない」と追い詰められ、ようやく自ら責任を引き受け行動するようになる過程を見事に描いています。そして、この過程の背後には、常に米国や在日米軍の影がちらついている点も見逃せません。

このように80年を経る今でさえ、何も変わっていません。一体、それはなぜなのか?そこには、未だに第二次世界大戦敗戦を認めない象徴が延命を続けているのです。