天皇以前の古代氏族の伝承Ancient Clan Traditions Predating the Emperor
古代大和(現・奈良県南部)地域で始まった全国制覇の狼煙は、皇統を掲げる朝廷が基礎となって始まりました。この源流には、歴史的に大半が失われた古代部族の大規模な移動と混合があり、後に氏族としてそれなりの権威を獲得した人々が、それらの歴史性を包摂しながら躍進していきます。
特に日本は古来より長らく文字を有していなかった背景から、古代日本に関わる書物はなく、また仏教伝来を前後として文字・書物文化が中国経由で伝来して以降も、目まぐるしく替わる為政者と共に、それまでの書物が消失したり、混乱の中で闇に消えたりしてきました。
結果的に見ると、現状は現存最古として位置付けられる日本の文書は712年に成立した古事記となります。そのため、中国などと比較するとかなり文字・書物文化が朝廷において体制的に利用された歴史は限定的で短く、この時代から2世紀程度の間にそれなりの権威を有していた古代氏族の痕跡が複雑怪奇に残存している程度です。
そうした中、仏教台頭の歴史と共に、新たな風を利用した旧勢力の一掃が大和において行われ、朝廷の氏族間における力学が大きく変様。これによって新興勢力で、大和方面に多数居住していた渡来の人々との結びつきを持つ蘇我氏が台頭し、一つの大きな区切りが始まります。ただし、これはイコールで日本史と見るよりは、極めて限定的な地域の歴史であることに留意してください。よく日本でもこれを日本史と同一視する傾向がありますが、単に大和という奈良盆地南部側の勢力図の話であり、彼らが交流・服属・同盟させていた一部の西日本側勢力に限定されます。
この動乱期において蘇我氏に敗北して事実上、歴史の表舞台から姿を消したのが、古来より歴代天皇を軍事・神事の両面で支えてきた物部氏です。物部氏の起源は相当古い時代に遡りますが、文献時代以前より台頭していた主力勢力の一つであり、主に大和の一部でかなりの力をつけていた複合部族集団の長に由来します。厳密に彼らがどこを本拠地としていたかは定かでないものの、後世に現・天理市に建立された可能性がある物部氏ゆかりの石上神宮があり、この神社は日本最古の神社の一つとして知られています。
実際のところ、こうした神社の創祀起源などは中々断定できるものではありませんが、少なくともこの辺りの場所が物部氏系の部族集団が興ったルーツを持っているということです。そして物部氏は、日向(現・宮崎県沿岸部)からカムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼比古命)が東征を行い、大和の覇権を掌握して奈良県橿原市にある橿原神宮の地で初代・神武天皇として即位する以前から、この地域を統べる権威を持っていました。ただし、こちらもむしろ古代大和を現在の奈良盆地中央から南側一帯と暫定的に考えるならば、その東部側地域を治めていたに過ぎません。
事実、反対方向の西部側地域は、葛城氏というこちらもルーツの古い古代氏族が掌握していた地域であり、さらに南部側地域も異なる氏族が掌握していた可能性があります。このように、古代日本史という実像は極めて曖昧な定義のまま今日まで使用されてきたように感じます。実際に後の仏教伝来期に勢力を拡大した蘇我氏の動きを見ても、彼らは現・奈良県飛鳥という大和盆地南部側地域から台頭していることから、少なくとも6世紀時点ではまだ大和は群雄割拠の状況にあったと私は考えています。
しかし、神武天皇が橿原で即位する以前から大和で勢力圏を持って対立していた主要な古代氏族は、そもそも大和においては日向系のカムヤマトイワレヒコよりも起源が古いため、かなり独自の信仰、伝承、部族形態などを有していたことが考えられます。実際に葛城氏などにも大陸との往来の影響があった可能性は古くから指摘されており、考古学的成果などを考慮しても、海の向こうとの交流の痕跡が伺えます。
こうした極めて複雑な時代にあった当時、特に後に神道系の大物として台頭する物部氏が、天皇系とは異なる伝承を無数に持っていたとしても不思議ではありません。
一般的に日本史の過程で歴史視座から注目を集め続けたのは、最古の古事記ではなく、720年に成立した日本書紀でした。これは当時、既に中国側との外交がかなり盛んに行われていた背景から、日本書紀は中国の王朝体制の観点から歴史書編纂が行われたからです。これによって権威は日本書紀側に付随することになり、かなり長い歴史において日本の歴史書として唯一無二の存在感を誇ってきました。
この流れ自体が一気に置き換わるのが江戸時代の国学者たちの活躍、特に本居宣長の『古事記傳』以降です。古事記傳は宣長が1798年に脱稿し、1790-1822年にかけて版本として随時刊行されました。つまり、少なくとも19世紀前半頃までの1000年以上の歴史において、日本書紀側の崇拝が続いてきたということです。
ですが、古事記成立の712年はかなり新しい時代であり、前述のように古代氏族は大和だけでもそれなりの数いたことが考えられるため、これよりも古い文書や古伝承が豊富にあったことは考慮する必要があります。中でも歴史的にこの文脈で重視されてきたのが、『先代旧事本紀』です。この先代旧事本紀こそ、物部氏が自らの古い伝承群を編纂した書物であり、視方を変えれば最古の文書としても位置付けられてきました。
一応、先代旧事本紀自体が成立したのは、概ね9世紀初頭頃なので古事記・日本書紀と比べると後発となりますが、古伝承の内容・質の観点から見ると、書物としての編纂が後代に行われただけで、起源がかなり古いことは明らかです。ここは古事記・日本書紀・先代旧事本紀という三つの書物を前提した場合、どれが最も古いかという歴史的な問題にも繋がってきますが、事実上、日本で文書の最古という性質を巡っていくら議論しても何の実りもないだろうと個人的に考えています。なぜならば、問題はそこではないからです。
先代旧事本紀は興味深い記述を多く含んでいますが、後の時代に物部氏が日向系のカムヤマトイワレヒコらの集団(皇統)に服属した影響から、天皇を奉祀する変様を外的に受けており、どこに古層があるかを見極めることは非常に困難な作業となります。しかし、明白に物部氏は天皇が代々継承する皇位の証である『三種の神器』ではなく、『十種神宝』という宝物を代々継承していたことが綴られています。
つまり、三つの神器ではなく、十の神器が天皇以前に物部氏系統で継承されており、これが大和系の権威にとって極めて重要な機能を持っていたということです。ここをまずは押さえた上で、この十種神宝を見ていく必要があります。古事記や日本書紀でも、この辺りの厄介な問題については、いずれも独自に回避するような配慮で編纂が行われている痕跡が見られますが、一方で先代旧事本紀も皇統への配慮が散見されるため、この辺りは考察を行う者の姿勢いかんでかなり視方が異なります。
しかし、この物部氏を何とか最低限理解しなければ、なぜ仏教の台頭に繋がる蘇我氏台頭が大和朝廷において起きたのか、この辺りが判然としないまま放置されてしまいます。さらに、不思議なことに大和を本拠としていたであろう物部氏の痕跡は、全国規模に及んでいるのです。次回は、この辺りについて物部氏の理解を深めていきます。
ちなみに、これが最近私が見た先代旧事本紀の江戸時代に制作された写本の一部です。