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大本教の分裂:浅野和三郎と軍人の入信A Schism That Transformed Japan's Modern Religious History

日本の近代宗教史に絶大な影響を及ぼした中核に位置する大本教について昨日は見てきましたが、開祖・出口なおの神憑りや神託と、教祖・出口王仁三郎の宗教家としてのカリスマ性が融合し、大本教の存在は現代にまで強い影響を与えていきます。しかし、急速に肥大化する大本教の影響力に危機感を感じたのは、競合の他教団ではなく、国家神道を国民に浸透させて天皇崇拝の統一体制を樹立したい政府でした。

政府は大正時代の1921年2月12日に大本教に対する最初の弾圧を実施し、第二次世界大戦前の不穏な雰囲気が漂う昭和の1935年12月8日に二度目の弾圧を行います。昨日見たように、一度目と二度目の弾圧の性格の違いは、主に国家における軍部の権力の高まりにあります。そのため、軍部が圧倒的な力を獲得する二度目の弾圧期になると、大本教は全施設をダイナマイトによって破壊され、出版物も発禁になるなど強烈な圧力を加えられますが、既にこの時には大本教には次の時代を生存する力はありませんでした。

なぜならば、一度目の弾圧以降、既に主要幹部がこぞって教団を離脱していたからです。ここで今一度、なぜ政府・軍部は大本教をそこまで危険視したのかについて考察を深めていきます。これは単なる一つの宗教を巡る問題ではなく、戦前日本の深刻な状況を抱えていたからです。その背後にあったのは、大本教が多数の軍人を信者に抱え始めたことです。この重要なターニングポイントは出口王仁三郎自身によって行われたのではなく、別の人物を経由して起きたことでした。その人物が浅野和三郎です。

浅野和三郎(1874–1937)は英文学者であり、海軍機関学校で英語教官を務めた知識人として当時から知られた存在でした。その浅野が大本教に出会ったのは1916年に、元海軍機関中佐の同僚の紹介で、教祖・出口なおと指導者・出口王仁三郎が率いる大本教の存在を知り、その神秘的教理に強く心を動かされたことに由来します 。浅野は出口なおの数々の預言と、出口王仁三郎のカリスマ的な指導力に傾倒して大本教に入信します。以後、浅野は京都府綾部の大本教本部に身を寄せ、宗教活動に専念するようになりました。

浅野の入信は、従来の大本教の性格を大きく変様する契機となります。元々丹後の村落地域で始まった大本教には浅野のような知識人は稀で、このような才覚こそ大本教の発展には欠かせない存在だったのです。そのため、王仁三郎は高い知性と文章力を持つ浅野の入信を大いに歓迎し、浅野を優遇するようになります。浅野は早期に教団内で頭角を現し、王仁三郎から大本教の布教組織である『大日本修斎会』の会長に抜擢されます 。こうして浅野和三郎は教団の理論的支柱として重用されるようになり、王仁三郎の提唱する『大正維新』の理念を論理的に支える重要な役割を担いました。

この浅野の影響は家族にも及び、徐々に大本教の土台を一変させていきます。兄の浅野正恭は当時は海軍少将、後に中将になる海軍の要人ですが、彼は当初は弟の宗教活動に強く反対したものの、やがて心服して1916年末には大本教に入信します。そして何とこの時、正恭は自ら海軍の現職を退いて綾部の教団拠点へ移住したのです 。この浅野兄弟の合流によって、大本教内では浅野和三郎が「大日本修斎会長」、兄の正恭が顧問という形で教団運営の中枢を兄弟で担うまでになりました。

海軍で将来有望だった浅野正恭の人生を変えるほどの決断によって、一部の軍人の間にも大本教の名前が知られるようになります。つまり、浅野和三郎の入信と活躍こそが、大本教の飛躍的な発展を導く起爆剤となったのです。浅野は王仁三郎と共に「大正維新」による『神政(神による政治)』の実現を掲げて、出口なおの預言を元に日本の立て直しを訴えますが 、彼の明快な理論展開は知識層や社会の指導層に強く訴えるものとなり、徐々に新たな信者層を獲得します。

実際、第一次世界大戦前後から大正期にかけて、浅野たちの指導の下で「大正維新」の思想が唱導されると、大本教には大学教授や官僚などの知識人のみならず、陸海軍の軍人に至るまで入信者が続出する事態となります 。大本教は浅野を得たことで飛躍的に規模を拡大し、全国的な新興宗教勢力へと成長していくのですが、さらに軍人だった兄が入信したことで大本教に対する信頼感が増し、続々と軍人が入信する道を開いたのです。

そして浅野は、教団内部で雑誌や書籍を通じた啓蒙に努めます。彼は1919年、1920年に自著を刊行し、大本教の教理や国家改造論を体系的に論じています。こうした浅野の理論的支柱の活躍により、大本教の唱える理念は一層体系化されていき、知識階級からの支持を得るとともに、教団の社会的信用も高まる契機となります。

また前述の通り、海軍高官の浅野正恭が新宗教に帰依したことは、当初は軍内部で驚きをもって受け止められましたが、それが契機となって「浅野が認める宗教ならば」と他の軍人たちも大本教に関心を寄せるようになります。このように人的な縁故やネットワークを通じて、大本教は海軍を中心とする軍人層にまで布教の輪を広げていきました。中には日露戦争の英雄として知られる秋山真之海軍中将など著名な軍人もおり、彼らも浅野との親交や霊的体験を通じて大本教の信奉者となりました。

軍人の相次ぐ入信が起きた結果、大本教は「国家の柱である軍部にも支持者を持つ宗教」として一躍注目を集めるようになります。これは明治期に新宗教として認められた教団の中では特異な存在であり、大本教の影響力がかなり異なっていたことを示しています。出口王仁三郎というカリスマ的宗教家、浅野和三郎という理論面を支える知識人を通じて、さらに軍の中枢にも信者ネットワークができたことは、大本教の威信を高める結果となりますが、一方でこの高度な宗教理論と軍部への影響という従来なかった要素が噛み合ったことで、政府は強い危機感を募らせることになります。

というのも、そもそも大本教は国家神道が奉じる皇室神話とは異なる解釈を唱えており、出口なおに神憑った『艮の金神』という神が神託をくだした預言など、独自の終末論を掲げて躍進していたことから、政府はこれを国家理念に反する危険な動きとみなしたのです 。これは大正時代という性格が深く関与していますが、この時代は特にアナキズムの日本的解釈から勃興と弾圧が起きており、既存の体制に反動的な立場を取る人々は少なくありませんでした。大本教もこの文脈に準じており、まさに国家神道や天皇崇拝とは異なる立場を教義において表明していたのです。

この動きが結果として1919年頃から警察による内密な教団の内偵が進められる動因となり、ついに1921年初頭に弾圧に踏み切る方針が固まった背景に繋がります。そしてこの事件後、王仁三郎が国家神道に迎合する路線変更を行なったことにより、主要幹部の浅野和三郎が離脱するという大きな出来事が起きています。この大本教の路線変更の事情に何があったかは未だ判明していませんが、裁判は控訴審・上告審へと長引いており、政府側と王仁三郎の間で免訴を条件とする裏取引があった可能性は捨てきれません。

実際、ここで逮捕・検挙されていた教団幹部80名程度は、最終的には大正天皇の崩御に伴う恩赦によって1927年に有罪判決は免訴になっているからです。この免訴で再び教団の再建をはかることができた王仁三郎は、ここで娘婿の出口日出麿や出口宇知麿らという身内を新たな腹心幹部に据えて教団を再編しており、浅野に近かった人々は教団中枢から遠ざけられている点に注目です。体制迎合に転換する際に何かしらの取引があり、これによって影響力の強い浅野を信望する一派を追い出す条件があった可能性があります。

しかし、この教団存続という王仁三郎の執着は、結果的に有力幹部らの離脱を招き、教団が形骸化する事態を招くことになります。何しろ、浅野和三郎を慕う幹部が非常に多かったからです。こうして浅野和三郎を慕って入信していた将来有望な宗教家は次々と大本教を離脱し、浅野自身も独自の探究へ向かうことになります。この大本教の分裂こそが、実は戦前・戦時・戦後の日本社会にまで深い影響を及ぼす系譜となり、何と今もその影響力は持続しているのです。

ある意味、これは見えない日本の近現代史とも呼びえるでしょうが、ここについて見ていくことで、日本の歪つな国家体制・社会の実態が明らかとなるのです。