大本教への弾圧:二度の事件Oomoto Persecution Marks Prewar Japan Turning Point
近代の幕開けとなった明治が始まって約25年が経過した1892年。農婦の出口なおが神がかりにより終末的予言を記したのを嚆矢として、後に女婿となった出口王仁三郎(1871-1948)が教団組織の基礎を築いたことで新宗教が発足します。これが大本教です。
王仁三郎は1898年に霊的修行を行って宗教的啓示を受け、なおの五女すみこと結婚して教団運営に参画し、京都府綾部と亀岡に二大聖地を定めて布教を拡大する原動力となります 。特に王仁三郎は教団の第二の教祖的存在として、なおの残した神示を整理・解釈し、自らも1921年から長大な神話的教典『霊界物語』(全81巻)の刊行を開始するなど教義を体系化していき、江戸時代後期より始まった日本の新宗教ムーブメントの集大成と呼ぶべき大きな成果をあげます。
大本教は宗教家としてのカリスマ性があった王仁三郎の主導のもとで、着実に拡大を続け、特に第一次世界大戦後の混乱期に急速に信者を増やします。大正時代(1912-1926)の初期までは信者が千人にも満たない京都・綾部の地方教団に過ぎませんでしたが、徐々に信者数を拡大して1919年頃には2万5千人ほどにまで膨れ上がります。この第一次世界大戦後の1919年がターニングポイントとなり、翌年には信徒数がわずか1年で「30万人」にまで激増したと、当時の衆議院議員・安藤正純も国会で指摘しています 。そしてこの急速な膨張が政府当局の警戒心を煽る発端となり、第二次世界大戦前の日本社会に変動を及ぼす過激な宗教弾圧を招く一因となりました。
急速に肥大化する大本教を危険視した政府は、1921年2月12日の早朝に約200名の警官隊を動員して京都府綾部の本部を急襲し、出口王仁三郎以下幹部らを皇室や皇統への不敬罪などの容疑で逮捕します。捜索した警察は「爆裂弾を隠している」「多数を生き埋めにした」などの根拠なき風聞に基づき証拠を探し回りましたが、結局当局の想定していた「国家転覆を企てる陰謀団体」のイメージを裏付ける証拠は発見できませんでした。それでも当局は本部にあった神殿の一部を破壊し、開祖・出口なおの墓所を強制的に改築させるなどを行なっています 。これは『第一次大本事件』として知られますが、これによって大本教は全国的に「邪教」などと誹謗されて社会的評判が大きく毀損します。
そして指導者の王仁三郎が起訴後に執行猶予付きの有罪判決を受けたことから、勢いのあった布教活動が一時停滞します。幸いなことに教団自体は壊滅を免れますが、ここでそれ以前の大本教から一変する出来事が起きてしまいます。それが方針の極端な転換と、主要幹部の離脱です。この1921年前後に大本教は全く異なる教団になった私は捉えていますが、ここが重要なターニングポイントです。大本教は、この事件後に表向きに『皇道大本』と称するようになるのですが、この意図は王仁三郎自ら皇室崇敬を社会にアピールする目的があり、視方を変えれば過激な政府当局に対する迎合姿勢を示すものとなりました。この体制迎合とも言える指導部の姿勢により、意欲的な信者が離脱して教団が形骸化する事態となります。大正時代の一つの性格は、こうした体制迎合への反動精神にあったからです。
ただ、内実は形骸化していながらも、その後も王仁三郎は布教を拡大することに努めており、1920年代後半に入ると教団は再び勢いを取り戻します。しかし、この拡大は従来とは全く異なる世界を視野に入れたものとなり、実質的に大本教は本質を失って迷走し始めたと言えます。例えば、大本教は社会的な負のイメージを払拭して世界的視野での活動を図るため、世界共通語エスペラントの採用や、中国・チベットなど海外での伝道、国際平和運動への関与など積極的な社会活動を展開しています。
中でも第二次世界大戦に向かう重要な転換点となった1923年の関東大震災後には、中国の紅卍字会との協力も行い、連携を強めて布教の国際化を目論みています。しかし時代は明治への反動的性格を持つ大正を終えて、1926年末から軍国主義が加速する昭和へと突入します。国民統制が強まる過程で政府当局の国民監視は厳しさを増していき、言論弾圧は日常的となり、軍部(特に陸軍)の発言力が政治的に無視できないほど高まり、天皇を動かすほどの力を獲得します。そこで陸軍の意向を受けた政府当局は、大本教は表向きには皇室尊崇を掲げて軍国主義に同調しながらも、実際には「天皇制を廃して王仁三郎を独裁君主とする結社を組織している」と判断し 、国家体制の変革を企図する危険な団体と見做すようになります。
事実上、陸軍の庇護下にあった特別高等警察は、大本教を単なる「不敬な新興宗教」と見る従来の視方ではなく、昭和の時点では体制に反逆する反体制的社会運動と見做して取締りの対象とした点が注目されます。こうして肥大化した宗教団体である大本教と軍部が対立する不穏な警戒の下、ついに1935年12月8日未明に500名もの武装警官隊が綾部および亀岡の大本教本部を一斉急襲し、王仁三郎をはじめ幹部・信徒らが治安維持法違反および不敬罪容疑で逮捕されました 。これが『第二次大本事件』です。
「第一次大本事件」の時には、まだ軍部がそこまで権力を持たなかったことからダメージはそこまでありませんでしたが、この「第二次大本事件」の時代は軍部の権力が絶対化されていため、かつてを遥かに上回る徹底的な弾圧が加えられ、全国で約3,000人に及ぶ信者が検束・取調べを受けた上、教団の全施設はダイナマイトで跡形もなく破壊されています。さらに弾圧は教祖の霊廟や墓地を掘り返して信仰心を破壊することまで行なっており、この徹底的な弾圧は社会を激震させました。これも第二次世界大戦へ向かう日本のターニングポイントでした。
そして、既に暴走していた軍部系組織による取り調べには拷問が日常的に行われており、これによって信者16名が謎の獄死を遂げて教団機能は完全に麻痺します。そして当局は大本教の経典などを即時発禁処分とし、その信仰活動を物理的・精神的に徹底的に封殺します。さらにマスメディアも軍部の言いなりになっていたことから、新聞は日々「国賊」「邪教」といった扇情的な言葉で大本教を侮辱・糾弾し、大量の武器を秘匿、反乱計画があるなど当局が作ったデマが新聞・雑誌を通じて国民に喧伝されました 。この軍部の暴走による負の遺産が、今も現代日本人が宗教への嫌悪感を持つ重要な理由です。それほどこの記憶は衝撃的だったのです。
こうして大本教は事実上壊滅し、王仁三郎自身も長期間勾留されて公判を待つ身となります。この第二次弾圧によって多くの信者が信仰の場を失って離散し、一部の者は他の宗教団体に移ったり、大本の思想を汲む新たな活動を模索したりしました。ではこの大本教が形骸化する動きは本当に全てが軍部の暴走によるものだったのか?この重要な点を知る上で欠かせない人物がいます。次回はこの動きについて伝えていきます。