C:\SHITSURAE\> TYPE SJ163.TXT

SJ163.TXT2025-07-0823KB

トカラ列島の地震とアカホヤ噴火の記憶Ancient Memories from Tokara's Turmoil

6月21日頃から地震が多発している九州南部のトカラ列島近海。この地域は元々地震が多いことで知られていますが、週末にはトカラ列島の十島村諏訪之瀬島の御岳で火山噴火が起きており、地震・噴火の二つのファクターが揃って今、どういう影響が今後各地に広がるかが注視されています。歴史を知らない人からすると遠く離れた日本南部で起きている地震・噴火に過ぎませんが、歴史を知る人にとってはこの地域の変動が時代を大きく変えた過去を彷彿とします。だからこそ、この地域の変動には注意が必要です。トカラ列島よりも遠く離れた東京で暮らしているから平気だとは限らないからです。

言うまでもなく、日本は地震や火山噴火などは頻繁に起こり、その度に幾度も社会が大きく変化してきた歴史を持ちます。そしてそれは文献に残る記録以前にも、重大な転換点となってきました。このトカラ列島での地震・火山噴火のニュースを見ていると、私が思い出すのは約7,300年前に起きた海底火山の大噴火です。

その激変が起きた場所はトカラ列島から少し北部の日本列島・鹿児島県南方から50-110km地点にある鬼界カルデラです。今の屋久島・種子島などの近海の中心辺りですが、ここには巨大な海底火山が今も眠っており、かつて大噴火が縄文時代に甚大な影響を及ぼしました。ある意味、縄文時代を作ったのかはこの大噴火だとも言えます。それが『アカホヤ噴火』です。

この噴火の影響によって縄文時代早期の九州南部地域の生活圏が壊滅したことは、これまで考古学の調査などからも浮上していましたが、昨年に神戸大学の研究チームがアカホヤ噴火に関する最新の報告を発表したことで、この噴火が想像以上に巨大だった姿が徐々に明らかになってきました。報告によると、鬼界カルデラが起こしたアカホヤ噴火は完新世(約1.17万年前以降)で世界最大規模であり、噴出物の総量は推定332~457立方キロメートルにも及び、現代までの1万年間で地球上最大の噴火だったことが判明しました。この地球上最大の噴火が地上の火山ではなく、海底火山によって起きたことが重要です。

当時、火山灰が成層圏にまで達して偏西風に乗り、九州のみならず遠く東北地方にまで降り積もったことも判明しています。つまり事実上、日本列島の大部分にアカホヤ噴火の火山灰は影響を及ぼしたということです。さらに火砕流は海面上を猛スピードで移動して海を越えて鹿児島湾口の薩摩半島・大隅半島にまで到達しています。その結果、南九州一帯の地形・生態系は壊滅的打撃を受けて大きく変様し、さらに噴火に伴う地震やカルデラ陥没によって大規模な津波が発生した可能性もあります。地質調査では宮崎平野や遠く四国の宿毛湾(高知県)から約7,300年前の津波堆積物が見つかっており、縄文時代早期の日本列島沿岸部がアカホヤ噴火に伴う巨大津波に襲われた可能性が近年高まっています。

おそらくこの大噴火・巨大地震・巨大津波が一気に起きたことは、今の私たちでは想像が難しく、想定を遥かに凌駕する甚大な被害を縄文人に与えたことが考えられます。実際、当時南九州で栄えていた縄文文化に壊滅的な影響を与え、一説にはこの地域の縄文人の大半が絶滅したと考えられています。

縄文時代というと、どうしても北東北を筆頭とする東日本の高度な縄文文化などに注目が集まりがちですが、これは基本的には縄文時代中期以降の話であり、実は最も早く独自の文化圏を創出して繁栄していたのは南九州です。この辺りはアカホヤ噴火の影響で痕跡が火山灰の底に埋もれてしまい、考古学的な成果は中々あがらないのですが、もう一つの理由として考えなければならないのが縄文海進です。最終氷期を終えて温暖化へと向かう過程で極端な海面上昇が起きたことで、実は初期縄文文化を創造した部族集団の痕跡が海の中に消えた可能性があります。そのため、火山灰の底、海の底に眠っている縄文時代の始まりを解き明かす鍵が中々見つからないのです。

実際、かつて海面が低かった頃には南九州の半島は今よりも南方まで陸地が続いており、鬼界カルデラ地域の比較的大きな島嶼である種子島や屋久島への頻繁な往来があったと考えられます。そのため、この渡航の交流点となる場所に初期縄文人の一部がそれなりに居住し、独自の海洋文化を育んだ可能性があります。事実、これはまだ考古学からの仮定の一つに過ぎませんが、縄文時代を特徴づける様々な文化は、この地域の縄文人が最初に作った可能性も指摘されています。無論、縄文時代は実証が非常に難しいことから、今後どうなるかは不明ですが、もしかするとアカホヤ噴火によって壊滅した文化圏の一部が比較的被害の少なかった九州北部に移動する重要な契機となり、後にこの文化圏が東に向かって進出していったことも考慮すべきです。

ただし一方で、縄文時代の特質の代表として知られる土器に関しては事情が異なります。なぜならば、現状で人類最古の土器の痕跡が発見されているのは、真逆の北東北津軽半島先端部の地域だからです。このように一見すると、全く交流のなかったように思える日本列島南端の南九州と北端の津軽には異なる文化圏の系譜がありながら、明治以降に『縄文時代』と定義付けられる性格を共に有していたのです。この可能性は縄文人が日本列島に渡来する際の主要ルートとして考えられる南方ルートと北方ルートの相違でしょうが、元々部族的な起源が一致していた集団であったため、それなりに相似した文化を有していたということでしょう。ここを踏まえて、私はこの東西の混淆地域が関西地域から東海西部だと考えています。

当時の南九州は縄文時代早期の段階では非常に高度な文化を持っていたと考えられており、本州の縄文人が尖った底の『尖底土器』を使っていた頃、南九州ではすでに平底の土器が使われていました 。『平底土器』は家の中で鍋のように据えて調理や貯蔵に用いることができ、定住的な生活様式の証拠と考えられています 。また南九州では耳栓形の装身具や壺型土器など洗練された道具類も用いられており、先進的文化圏が存在していたことが判明しています。

ところがアカホヤ噴火を境に、この南九州の文化は突然途絶えます。噴火以前に見られた最先端の土器様式や道具類は噴火後の地層からは一切姿を消し、代わりに噴火前まで本州で使われていた古い型式の土器が再び現れる点に注目が要されます。南九州各地の遺跡では、特徴的なオレンジ色のアカホヤ火山灰層の下からは高度な土器が出土しますが、その上の地層からは旧来型の土器しか出土しないことが確認されており、これは先進的だった南九州縄文文化が噴火によって壊滅し、生き残った人々、あるいは後から移住してきた人々が古い文化様式で生活を再建したことを示す重要な証拠です。

噴火による打撃は凄まじく、南九州の縄文人の生活基盤は一気に失われました。火砕流が直撃した地域では人々はその場で灼熱の噴出物によって命を落としたでしょうし、火砕流が到達しなかった周辺地域でも、厚く降り積もった火山灰が深刻な二次被害をもたらしたことは明らかです。特に神話の伝承が多く残る九州で、アマテラスの岩戸隠れのような神話が生まれたのも、この火山灰に覆われて太陽が出なくなった闇の時代を伝えているようにも感じます。

南九州ではアカホヤ火山灰が30cm以上もの厚さに達したと推定されていますが、それほどの降灰があれば森林はことごとく埋まって枯死し、元の姿を取り戻すまでに200年以上を要するとも言われています 。実際、植生が再生不能となったため当時南九州に広がっていた照葉樹林は壊滅し、森に依存していたイノシシやシカなどの大型哺乳類なども姿を消したことが想定されます。これら動物は縄文人の主な狩猟対象であり、さらに火山灰が川や海にも堆積したためエビ・カニなどの底生生物が大量死し、それを餌とする魚類も激減したと考えられます 。これでは生活は成立しないため、生き残った一部の人々は新天地を求めて移動を始めなければならなくなりました。

こうして陸と海の両面で食糧資源が断たれたことで、それまで比較的食糧資源に恵まれていた南九州の縄文人は従来の狩猟採集による食料調達が不可能となります。これは生存者がその土地で暮らし続けることが極めて困難になった歴史的転換点です。一般的にこの後で縄文時代の部族移動とも呼び得る大きな潮流が生まれたと考えられており、南九州に集中していた人口の多くが西日本各地に分散したと考えられています。しかし私は確かに大部分はそうだったかも知れないが、一部の生き残った縄文人は海を超えて琉球諸島に向かったのではないかと考えています。

つまり、かなり良質な生活が営める時代をかけて南九州沿岸部の縄文人はそれなりの航海技術を獲得していたため、一部は海を超えて新天地へ向かう決意を行い、実際にそうしたのではないかということです。まるで人類史の出アフリカのような話ですが、私がそのように考えるのは一つの理由があります。それが古事記に記される「ある古い伝承」の存在です。

古事記は単なる空想の物語ではありません。伝承を通じて数千年も継承された太古の記憶が宿っています。その記憶の一つがこのアカホヤ噴火だと考えているのですが、この辺りは今後私が琉球方面の調査を行う過程で詳細に伝えていこうと思います。