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述語制映像表現の可能性Possibilities of Predicate-Based Moving Images

三本の動画作品による新時代のコミュニケーション技術

日本語に限らず、言語間の違いは常に翻訳不可能性に行き当たります。現在ではこれまでのグローバリゼーションの影響から、全てが翻訳可能と信じられている節が強いですが、実際には表層的には翻訳によって相互理解は可能であっても、本質的な部分はズレを抱えたまま進まざるを得ません。この本質的な差異が言語が異なる文化圏では常に起きるということを前提することが、真の21世紀的コミュニケーションの鍵に思えてなりません。

ここ数日、私が考えていたのもまさにこの点です。Shitsuraeで何度か触れているように、特に日本語の『述語制界域』から生まれる文化・生活・哲学などの全ての領域においては、ある程度までは他言語圏の人々に伝えることはできても、必ず限界に到達します。それ以上、この見えない壁を超えることは事実上できませんが、この難儀な性質に対応する方法を見つけておかなければ、21世紀を通じた世界的コミュニケーションも必ず限界に行き当たり、為す術を失うように感じます。

これはどの国・文化圏にも言えることですが、近代の重要な骨格となったのは言語構造の大きな変動にあります。近代過程には必ず『主語制界域』という言語構造の要素が不可欠だと私は考えていますが、それをそれ以前の言語界域とどのように混淆し、樹立していくか。そこに近代特有の歴史的な格闘があり、結果として近代史が生まれたと言えます。

この文脈から近代の性格を見るならば、日本の場合は明治時代が最も重要な参照点となり、そこから大正ー昭和の戦前・戦後などへと構造の変様を見ていくことで明瞭に見えてきます。これは全ての国・文化圏で必ず異なるため、一元的に世界軸から見ることはできませんが、言語構造が『主語制界域』へと動く変動地点において、その国・文化圏にとってそれまで見られなかった心理的変化が表れ、そこにおいて時代の変様を考察することができます。

こうした過程は未だ続いていると考えていますが、一方で既に『主語制界域』がそれなりの歳月をかけて進んだ国・文化圏にとっては、早急に次を見つけなければならなくなっており、そこにおいて現在先進諸国は総じて行き詰まっているように見えます。こうした問題は21世紀特有の新たな問題とも言え、様々なイデオロギーを抜きにして近代ではない世界線に到達する困難な試みですが、だからこそ誰もが真剣にどう次へ向かうのかということについて思案する必要があります。

最近三日ほど、この限界性にどう対応し、次へどんどん進むことができるだろうかという問いに思考を巡らせ続けていたのですが、やはり古典的な方法でありながら、映像は非常に魅力的に思えます。時折日本映画についてShitsuraeでも触れていますが、私はほぼ毎日のように日本映画を観ています。特に1930年代後半、1950年代前半、1960-70年代などですが、これは娯楽として映画を消費しているのではなく、当時の日本人の『心の動き』がどのようなものであったのかを掴み取るためです。つまり、私にとってクラシックな映画は過去への憧憬以上に、『心の動き』の変遷史を掴み取るための思考材料だと言えます。

実際、特に映画は時代の影響を露骨に含有していることから、多様な見方が当然ありますが、『心の動き』に焦点を当てた場合、現在の日本人がどのように形成されたかについての鍵が多く発見できます。そしてその過程で何が失われ、その背景には何があったのか。そうしたことを思考し続けることによって、同じ国・文化圏であっても100年も経たずに極度に変化する姿をリニア・ノンリニアの視座において取り入れることができます。

この映像が持つ特有の性質は、今後も本質的に重要性は変わらないでしょう。そこで実験的に今日までの三日間で三本の異なる動画を制作し、テキストなど言語間のコミュニケーションであれば翻訳不可能な壁に突き当たって読者に届かないテーマを、伝えることはできるだろうかと考えながら制作しました。そのため、以下三本の動画は英語・日本語などは一切加えておらず、全て映像言語として提示する方向性で行っています。これを私は『述語制映像』であり、主語制界域からの映像表現ではない、述語制界域からの映像表現だと位置付けます。各動画の詳細は別日に記事において解題する予定ですので、今日は映像を通じて体感してみてください。

最初は『原生疎外ーGensei Sogaiー』です。こちらは哲学者・吉本隆明の提唱した『原生的疎外』に着想を受けており、私自身が多角的に最も重視している概念の一つを映像化した作品です。

次は『造化三神』です。こちらは古事記の神代巻冒頭を映像化した作品です。

最後は『Tohaku’s Dream』です。こちらは16-17世紀の絵師・長谷川等伯の述語的な絵画表現をテーマにした作品です。

いずれもテキストではどうしても伝えることが不可能なものばかりですが、映像を使用することによってその壁を異なる形で突破し、何かしらの示唆を多様な形で与える可能性を秘めていると感じます。制作を終えた結論として、このような述語制映像というビジュアル・コミュニケーションが、今後一層重要性を帯びてくるように思います。