源氏正統を巡る戦いContesting Genji Lineage Legitimacy
家康の思想の根源にある歴史
今回は引き続き江戸時代の源流を築いた将軍・徳川家康(1542-1616)が、どのような歴史理解から新旧をリミックスした独自の思想を創造し、そこに基づいて長期システムとなる江戸幕府を開いたかについて見ていきます。
昨日の記事では、1566年に徳川家康が朝廷より『徳川』の姓を賜る際、自らの系譜である松平氏の本流が正統な源氏の系譜にあると主張し、そこに基づいて徳川の統治正統性を幕府樹立以前より準備していた周到さについて触れました。個人的に戦国時代の武将の中でも、家康は誰よりも歴史を熟知し、我慢強く冷静に状況を見極めながら、最終的に頂点の座を獲得した稀有な思想家だと考えており、複雑でありながらもかなり興味深い人物です。
しかし、家康の見ていた『正統な源氏の系譜』という観点は、どのようなものなのでしょうか?そして戦国時代という各地で戦国大名が勃興する混乱期において、出自の系譜が持つ意味とは何だったのか?そこを家康の思考を通じて読み解くことによって、面白い歴史が見えてきます。そこで今回は、『鎌倉幕府→室町幕府→江戸幕府』と連なる幕府の観点に焦点をあてながら、天皇が二分化する奇妙な時代が生まれる背景を見ていきます。
1185年以降に源頼朝(1147-1199)によって成立した鎌倉幕府は、従来の貴族中心政治を崩壊し、初めて武士が主導権を握る武家政権として日本史の転換点となります。ここが武家の支配力が高まる原動力となっていくのですが、鎌倉幕府樹立後に頼朝は「御家人(家臣)」との主従関係を基盤として、「御恩と奉公」の体制を築き、武士に所領を保障・配分する代わりに軍事力の奉仕を求める施策を打ちます 。この制度により、分散する武士の結束を図り、各地に幕府の官人を設置して地方統治を強化するなど、武家政権らしい統治機構を整え、それまでの貴族的統治からの脱却を図ります。この源氏の出自を有する頼朝の武家的な幕府統治のシステムこそ、後の重要な源泉となっていきます。
ただし、源頼朝の嫡流の系譜は僅か三代で断絶します。初代将軍・源頼朝→第二代将軍・源頼家(1182-1204)→第三代将軍・源実朝(1192-1219)と続くのですが、源頼家が政治抗争で失脚・暗殺されると、続くその弟の源実朝も暗殺されて子を持たなかったことから断絶します。これは家系の観点から見ると、源頼朝の嫡流である『源氏将軍家本流』が途絶えたという意味です。源頼朝は『河内源氏』と呼ばれる系譜に由来しますが、この祖先は源義家(1039-1106)という平安時代中期頃に活躍した武将です。この源義家が躍進したことによって、彼を中心に多くの系譜が分岐していくのですが、これらを総じて『河内源氏』と呼びます。「河内」とは、現在の大阪府羽曳野市辺りに存在した河内国に由来します。源頼朝は、その中でも父を源義朝(1123-1160)に持つ系譜です。
ややこしいのですが、河内源氏は複雑に系譜が分岐していることから、後に室町幕府を樹立する足利氏、さらに徳川家康の主張に関わる新田氏なども河内源氏の源頼家を起源する源氏の系譜です。この源氏における正統性を巡る争いへの認識が、後の動乱期の考察において重要となります。
鎌倉幕府は『源氏将軍家本流』が三代で途絶えると、実権は将軍補佐職を担っていた北条氏が握るようになりました 。北条氏は源氏とは血縁的には無関係ですが、源頼朝の妻であった北条政子(1156-1225)や、政子の弟・北条義時(1163-1224)ら鎌倉幕府の事実上の執権を担った人物は、将軍を補佐、操りながら幕府の支配体制を固めていきます。ややこしいのですが、将軍はこれ以降は皇族・貴族が継承します。なぜならば北条氏は自ら将軍職に着任するのではなく、執政の全権を握って表に将軍を立てた方が統治が続くと考えたからです。そのため北条氏は一度も将軍にはなっていませんが、鎌倉幕府は事実上は北条氏の執政によって支えられていきます。
ただ、この時代は貴族・天皇という平安時代の朝廷におけるパワーバランスが極度に低下しながらも、まだ残党は多く生き残っていたことから反乱の予兆が起こります。特に朝廷内では、後鳥羽上皇(1180-1239)が武家勢力の台頭を快く思っておず、密かに幕府討伐の機会を窺っていました 。これは当時、まだ武士は野蛮で下級の身分だと朝廷から捉えられていたからです。
そして1221年に、後鳥羽上皇は事実上の幕府執政を行なっていた北条義時を打ち滅ぼす目的で挙兵しますが、裏の執権を握っていた北条政子の号令で結束した鎌倉幕府側の勢力に敗北します。この敗戦の結果、後鳥羽上皇は遠く離れた隠岐島に流されて幽閉されてしまい、朝廷側は大敗を喫してパワーバランスが武家へと強く傾きます 。そして幕府は即座に朝廷の動向を監視するため京都に『六波羅探題』という監視機関を設置します。このため、以降朝廷は幕府の監督下に置かれることになりますが、この武家が皇室を抑圧したという出来事が、後の時代における天皇の権威復古などにおいて常に関わる点に注意が要されます。ここで朝廷勢力を一掃したことで、北条氏による執権政治は強固に確立しました。
しかし、ここで北条氏が想定していなかった外来の脅威によって、鎌倉幕府への信頼は瓦解を始めることになります。それが13世紀後半に起きた『蒙古襲来』と呼ばれる出来事です。これはモンゴル帝国が『元』と呼ばれたことから『元寇』とも呼びますが、1274, 1281年の二度に渡って日本侵略を試みています。主に戦場は九州北部の博多湾ですが、ここで二度とも突然台風のような嵐が吹き荒れて、元寇側の船団が壊滅して撤退したことから、元寇による日本側の侵略は実現しませんでした。この突然吹き荒れた嵐は日本側で『神風(神が吹かせた風)』と言いますが、実際にこの神風が吹いたことが近年の博多湾調査などで明らかとなっています。私もその痕跡を見たことがありますが、これは伝説ではありません。
鎌倉幕府にとっては神風が幸運となって外来の脅威は免れますが、この戦争は防衛戦であったことから、新たな領土の獲得には至らず、戦った武士に対する十分な恩賞を支給する余力もありませんでした。しかもこの時、幕府に仕える御家人は自費で軍勢を送り込んで戦ったにも関わらず、幕府側からの報酬が不十分であったため、生活が苦しくなっていきます。この転換点となる出来事は、徐々に御家人の幕府(北条氏)に対する不満を高める動因となり、幕府の統治自体が崩れる根本的な要因となります。
求心力が低下して焦った幕府は、1297年に御家人の借金を帳消しにするなど対策を講じましたが効果は薄く、不満の根本的解消には至りませんでした 。この元寇を契機とする御家人の動揺と幕府財政の逼迫は、鎌倉幕府が衰退する大きな要因となり、絶大な影響力を誇った北条氏の統治基盤にも綻びを生じさせました。このような中、再び鎌倉幕府打倒を目指す動きが次第に活発化していったのです。その筆頭格となったのが皇室の権力復古を掲げる第96代・後醍醐天皇(1288-1339)です。つまり、1221年に挙兵して敗れて以降も、密かに武家政治打倒を画策する勢力が朝廷で時機を待っていたということです。
そして皇室が敗れてから110年後の1331年、後醍醐天皇は皇権の回復と幕府打倒を主張して鎌倉幕府に対する革命を起こします。1331年の革命は失敗して後醍醐天皇は隠岐島に流されて幽閉されますが、既に反幕府姿勢を打ち出す勢力が各地で活動していたため、1333年に後醍醐天皇は反幕府勢力を経由して隠岐島を脱出し、上陸した鳥取県で二度目の挙兵を行います。
この後醍醐天皇の二度目の革命に呼応して参加した人物の一人。その人物こそ徳川家康が系譜のルーツに立てた『新田源氏』の重要人物である新田義貞(1301-1338)です。勢いをつけた新田義貞の攻勢に対して、既に求心力を失っていた北条氏の執政は崩壊し、ついに鎌倉幕府は滅亡します。この時点で約150年続いた武家政権は終焉を迎えますが、一方で一度勃興した武士の力を皇族・貴族が止める術はなく、この終焉も一時的となり、再び武家政権となる室町幕府樹立に繋がっていきます。ただこの動乱の過程で鎌倉幕府が崩壊すると、後醍醐天皇は直ちに京都に帰還して天皇親政による新政府を樹立しています。ここが次の問題を引き起こすトリガーとなりました。
なぜならばこの新体制は、明確に武家政治を否定して貴族中心の政策を掲げたからです。個人的に後醍醐天皇とその周囲の貴族の時代錯誤な認識には驚きますが、全く時代を読めていなかった証左です。当然、この措置は武士の間に不満が高まり、しかも従来の皇族・貴族らしく武士を卑下していたことから、幕府打倒に貢献した武士への恩賞不徹底、さらには改革に対する反発が起こり、武士層の支持を得られませんでした。その結果、後醍醐天皇の政権内部で早くも不協和音が生じ、やがて翌1334年に武士を束ねる最重要の人物である足利尊氏(1305-1358)の離反を招きます。これが決定的となります。
足利尊氏は鎌倉幕府時代の御家人で有力武将でしたが、この処遇に不満を抱き、1335年以降に反旗を翻して、今度は武家政権の復活を掲げて挙兵します。時代は武士が勢いに乗って先に進む時代。全く時代を理解していない後醍醐天皇や貴族が勝てるはずもなく、後醍醐政権は2年ほどで崩壊し、再び武士勢力が主導する政権へ移行していくことになります 。これが1338年の室町幕府樹立へ結びつくのですが、この直前の1336年に京都で足利尊氏が後醍醐天皇に抵抗するために光明天皇という別の天皇を擁立したことから、かなり厄介な『天皇の正統性』を巡る時代に突入し、分裂した皇室は互いに有力武士を背後に激しい権力争いに向かいます。
これが天皇が二人存在する奇妙な時代となった南北朝時代です。この複雑な時代が戦国時代に徳川家康が見た『源氏正統を巡る戦い』へと発展していくのです。