戦国の三人の無名者:信長・秀吉・家康の出自Three Dark Horses Who Dominated the Sengoku Era
昨日は戦国時代という特殊な時代の概観を伝え、その時代の戦国大名(武将)たちの動きが、どこか現在のAIの潮流を彷彿とする辺りを見てきました。そこで今回は詳細を一旦省き、この戦国時代で一気に力をつけ、最終的に初の日本統一を成し遂げることになる三人の有名な人物について見ていきます。
昨日の記事で概略は示しましたが、戦国時代は初期的にはかなり分散した勢力争いが地方ごとに起きる状態から始まり、次第に強い大名が現れて大きな編成が行われていき、徐々に肥大化した地域同士の争いへと移行します。この辺りから全国統一の野望が現実味を帯び始めるのですが、ここで躍動したのは、それまで見向きもされない無名の人々でした。その筆頭格が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人です。この三人の登場によって、大きく日本史は揺れ動きます。
先に簡潔に歴史の流れを見ておきます。まず、織田信長が関西圏を制圧して全国制覇の狼煙をあげたことから始まります。ですが信長は最終的には家臣・明智光秀に裏切られて本能寺の変で自害します。そして信長没後に裏切った明智を即座に打ち破り、全国統一を成し遂げたのが豊臣秀吉です。つまり事実上、信長は全国統一の一歩手前で生涯を終えたことになります。ただ秀吉が没すると、今度は次の覇権を巡る関ヶ原の戦いが1600年に起き、この戦争に勝利をおさめて江戸に幕府を開いた徳川家康が全国統一を実現するという具合で動いていきます。しかし、1603年に家康は江戸幕府を開いたものの、まだ当時は秀吉に由来する豊臣家は依然として強力な存在であり、彼らの本拠であった大坂城で西日本に絶大な力を持っていました。この邪魔な存在を除去しなければ、当然家康の覇権は実現できません。そこで家康は1614-1615年にかけて、二度に渡る戦争を仕掛けて最終的に豊臣家を滅亡させます。
つまり大きく見ると、1467-1477年の応仁の乱以降に大名の数が急速に増加して16世紀中頃にピークに達して以降は、徐々に減少しながら権力の統廃合が進み、最終的には徳川家の元で統率されたということです。これが戦国時代と呼ばれる時代の大きな概観となりますが、このパワーバランスの名残は江戸時代にも幕府に加えて藩制が敷かれ、幕府と藩がパワーバランスを調整していた点にも残っています。ここで徳川家は幕府に権力を集中するために三つの勢力圏を設置し、巧みな政治手腕を発揮して統治能力を高めていきます。
これが以前伝えた『親藩』『譜代大名』『外様大名』です。簡潔に言えば、親藩は徳川家の血縁者である大名を指し、代表的には尾張藩、紀伊藩、水戸藩がありました。これらは江戸時代を通じて『御三家』と呼ばれて強いポジションを保ちます。親藩は徳川家と直接的に血縁関係を持つことから、度々将軍の後継者候補としての役割を担います。そして譜代大名は江戸に幕府が開かれる以前から徳川家に仕えていた家臣の家系に属する大名です。分かりやすく言えば『親徳川派』であり、代表的に井伊家、酒井家、榊原家などがあります。譜代大名は幕府の中枢である老中や大老など要職を担うことが多かったのですが、江戸時代の幕制システムが疲弊するにつれて、この譜代大名の権威が高まり幕末の動乱期を引き起こす直接的要因にもなっていきます。彼らは徳川家を支える主力であったことから、基本的には江戸に近い東日本の要地に配置され、特に江戸の防衛や政務で重用されて力をつけていきました。
そして最後が外様大名です。こちらは徳川家康の覇権を確定的にした関ヶ原の戦い以前に徳川家に仕えていない大名で、戦後になって新たに従属した大名を指します。代表的には加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家などがあります。ここで幕末の明治維新の主軸を担う薩摩藩・長州藩が外様大名に由来するという視点を持つことで、江戸時代晩期頃に彼らが反幕府運動を引き起こした根本的な動因が見えてきます。なぜならば、外様大名はかなり大規模な領地を有する藩が多く、事実上地方の大きな勢力圏を自立的に有していたにも関わらず、江戸時代を通じて幕政への参加は厳しく制限され、老中などの要職につくことはできなかったからです。
こうした強い地方藩主の家系が幕府要職につけないという事態は、その藩や家臣にとっては不満が募るものでしたから、徐々に自らの力で幕政を握ろうとする動きが起きるのは必然で、それらが歴史的な遺恨に由来する点は見逃せません。ここを徳川家は当然熟知していましたので、この強い勢力を適度に懐柔し、反乱を起こさせないように様々な措置を取ります。そのため、外様大名は基本的に江戸から離れた西日本に多く配置されています。これは幕府が潜在的脅威として監視対象に置いていたからですが、逆に言えば、幕府の力が弱まると一気に自立的に勃興する可能性を初期から秘めていたということです。この点は、足利将軍家の室町幕府が内輪揉めに由来する応仁の乱で瓦解を始めると、あっという間に戦国時代に突入した状況と酷似しています。これが江戸時代の終わりを象徴する明治維新へと繋がります。
戦国時代は論じることが多岐にわたり、かなり面白いのですが、ここからは全国統一を見る際に重要となる全く無名の三人が、それぞれ頂点に駆け上がった背景を見ていきましょう。今回は出自の観点に目を向けて読み解いていきます。
筆頭格である織田信長(1534-1582)は、尾張国(現・愛知県西部)の戦国大名・織田信秀(1508-1551)の嫡男として生まれました。このことから信長は有力な大名の出自を持つように見えてしまうのですが、彼の出自は織田家の中では分家筋であり、高い家格を持たず、全国的には無名の家柄に過ぎませんでした。つまり、信長は確かに大名の嫡男ではあるのですが、当時の武家社会から見ると名門出身などではなかったことから、ある意味、戦国時代の中で自ら勢力を築かなければならない境遇にありました。この信長の戦国時代における無名という特質が、後に信長を躍進させる原動力となります。なぜならば、誰も信長が躍進するなど夢にも考えなかったからです。この時、有力な戦国大名の心に隙が生まれ、そこを見事に突いて一気に頂点に迫ったのが信長です。
一方で豊臣秀吉(1537-1598)の出自は、さらに低い身分でした。彼は出自について様々な説がありますが、基本的には尾張の農民あるいは足軽の家に生まれたと伝わります。この足軽とは大名に属する大量の戦力を担う人員の一つであり、身分は低い存在です。秀吉は当初は木下藤吉郎と名乗っていました。そのダイナミックな生涯の始まりは、早くから信長を主君として仕え、彼の雑用をこなす兵士から始まります。つまり秀吉は家柄としては武士ですらなく、下層から自らの才覚によって頭角を現した人物でした。そのため、少なくとも大名関係の系譜を持つ武将の信長と比べると、全く異なる才覚を発揮してのし上がらなければならなかったのです。秀吉は信長という主君の下で独自の才能を発揮して取立てられ、最終的に頂点にまで上り詰めた人物であり、まさに戦国時代の特質を象徴する存在と日本では見られています。
ちなみに、豊臣秀吉の名前は後年になって新たに名乗り始めたものです。自ら覇権を握った後の1585年、秀吉は「関白」就任に際して公家の養子となって藤原姓に変えており、ここで「豊臣」という新しい姓を朝廷から賜与させて「公卿(公家)」に列した経緯があります 。ここでまた藤原という名前が登場します。平安貴族の筆頭格であった藤原氏の栄枯盛衰については以前も伝えましたが、藤原氏は天皇を補佐し、朝廷の政務を行う公家の最高職を代々担っており、京都の朝廷勢力の中に限れば、依然として権威を有していました。そして『関白』とは、本来は藤原氏の摂関家と呼ばれた特定の系譜のみが世襲によって継承する公職でしたが、秀吉は全国統一を終えると、子孫のために自らの家格を最高度に引き上げるべく、ここで朝廷に圧力をかけて関白の座を獲得し、さらに朝廷から「豊臣」という姓を賜与させたと形式上することによって、下級身分を払拭して統治の正統性を構築します。これは、無名の身分から頂点に登り詰めた秀吉が、自らの家格を補うために伝統的権威に頼った例と言え、大変興味深い出来事です。
しかし、この豊臣秀吉の未来への見立てはかなり甘かったと言わざるを得ません。なぜならば絶大なカリスマ性を持つ秀吉が没すると、あっという間に豊臣家は滅亡へと転げ落ちるからです。その動因となったのが徳川家康です。徳川家康(1543-1616)は元々は松平元康と称し、尾張国に隣接する三河国の岡崎城主・松平広忠(1526-1549)の子として生まれました。松平氏は三河の小豪族でしたが、家康の誕生当時は足利家の系譜に位置する東海地域を掌握する今川家の勢力に組み込まれていました。こうした背景から、家康は幼くして人質としての人生を強いられます。1547年に6歳で駿河の今川義元のもとへ人質に出され、続いて1549年に8歳で尾張の織田家の人質となります。そしてこの家康が人質になっていた1549年に父・広忠が家臣によって殺害されたことから、松平は事実上今川に従属する状態となっていました。このように家康は名門の生まれではあったのですが、幼少期から不遇を味わい、後に自らの出自を従属状態に置く今川家から自立して頂点に上り詰める決意を固めていきます。特に家康は人質としての生涯を初期に送っていることから、辛抱強く待つ姿勢を子供の頃に習得しており、この能力が後の戦国時代の覇権を握る上で最高の武器となっていきます。
また豊臣同様に、この徳川の名前も後に改姓したことで生まれたものです。ただし、秀吉が豊臣姓を1585年に朝廷経由で賜与させる以前の1566年に行われています。この時、朝廷を経由して自らを松平から「徳川」姓に改姓するのですが、ここで興味深い点として、家康は自らの系譜を源氏の末裔と位置づけて虚偽申告しています 。無論、戦国時代の混乱によって誰の系譜がどこに由来するかなど、事実上誰も分からないような状態だったことから、こうしたことは頻繁に起きたと推察できます。正確には、家康は『新田源氏ー世良田氏』の正統な系譜だと主張したのですが、この系譜は源流を辿れば源義家(1039-1106)の子孫・源義重(1128-12世紀後半)を開祖とする武家の名門一族に行き着きます。一体、なぜ家康は源氏の系譜に目をつけたのでしょうか?ここに家康が全国制覇を成し遂げた最大の特徴があると私は考えています。それが誰よりも歴史を理解していたことです。
この家康の系譜改竄という政治的思惑には隠されたメッセージがあります。それが「反室町幕府」、つまり「反足利将軍家」の思想を名前を通じて表に示すことでした。なぜならば、まだ1566年時点では「室町幕府=足利将軍家」は崩壊しながらも持続していたからです。これを旧体制と位置付け、家康は自らの覇権の正統性を準備するために、「室町幕府=足利将軍家」以前の「鎌倉幕府=源氏」に由来する人物の系譜に自らを組み込んだということです。これによって明確に家康は室町幕府の打倒は反幕府運動ではない、これは『源氏の復古』だと位置付けることができ、正統性を獲得することができました。個人的には、この点から家康が非常に聡明で政治手腕に長けていたことが分かります。この源氏と鎌倉幕府の復古、即ち室町幕府の崩壊と足利将軍家の滅亡こそが、実は家康が江戸幕府を樹立した根底にあった思想です。
では一体、家康が自らの系譜に組み込んだ源氏に由来する『新田源氏ー世良田氏』とは何なのか?ここを洞察することによって、戦国時代がただの放埒な力を競う武将たちの時代ではなかったことが初めて見えてきます。そして何より、最後には徹底的に歴史を理解していた徳川家康が覇権を獲得し、その他は如何に力があっても悉く滅亡しました。一体、家康の本当の力とは何だったのか?そして、なぜ歴史を理解することが今も昔も重要なのか?
日本では捏造された「武将のイメージ」と一致する華々しい織田信長や豊臣秀吉が人気があり、徳川家康は地味で面白くないと言われますが、時代を制覇したのは家康です。彼の思想の根底にあったのは何なのか?そこを見極めることによって、複雑な江戸時代以前、さらには江戸時代の歴史の総体を理解することができます。