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天皇が二人いた時代:南北朝の概観Strange Era When Two Emperors Coexisted

天皇が二人存在し、互いに正統性を主張する奇妙な対立時代となった南北朝時代(1336-1392)。鎌倉幕府の倒幕運動を担った第96代・後醍醐天皇は、昨日も伝えたように時代に対する見立てが甘かったことから、革命成功後には逆に武士の強い反感を引き起こし、たった2年で執政を崩壊する事態に陥ります。この混乱期において、真っ先に後醍醐天皇の平安時代復古と言える天皇・貴族による朝廷優位の執政に嫌気が差し、離脱して新たな武家政権の樹立を画策した先駆的存在が、鎌倉幕府の御家人であった有力者の足利尊氏(1305-1358)です。

一時は後醍醐天皇につきながらも、後に後醍醐天皇側の勢力に反旗を翻した足利尊氏は、即座に光厳天皇と組んで後醍醐天皇側の有力武士であった新田義貞を打ち破って執政を崩壊させます。これによって京都は二分化されますが、武家勢力の不満を引き受けて立ち上がった足利尊氏側の勢力は強く、後醍醐天皇はあっという間に京都を追い出されてしまいます。そこで彼が逃れた先が奈良県吉野です。そして光厳天皇と足利尊氏は京都から後醍醐天皇を追い出すと、即座に実権を握った京都の朝廷で光明天皇を立てて正統性を主張します。ここから南朝と北朝に分かれて奇妙な天皇が二人存在する時代が始まります。

南朝は後醍醐天皇側で奈良県吉野を拠点に朝廷を樹立。北朝は足利尊氏の擁立で光厳天皇ー光明天皇が即位して朝廷を維持。この二つの朝廷に分裂し、武士はそれぞれどちらに付くかを迫られ、関西圏は完全に分断します。ただし、この天皇の二分化の予兆はこの時に起きたのではなく、既に鎌倉時代後期の出来事に由来します。この時の遺恨が鎌倉幕府崩壊後に噴出し、そこを政治利用した足利尊氏によって対立が激化していったのです。

この遺恨は、1258年に後嵯峨上皇が皇位継承者を指示する実権を握っていた時代に遡ります。この時、正統な皇位継承者となる皇太子の任命で内輪揉めしたことが背景です。特に大きな出来事となったのは、後嵯峨上皇が1272年に亡くなった時、遺言状に後継者を指名する文言がなく、鎌倉幕府の意向に従うことが記されていたことです。ここで後嵯峨上皇ー西園寺姞子を両親に持つ兄・後深草天皇と、弟・恒仁親王の兄弟間の争いへと発展していきます。

元々、第89代・後深草天皇は1246年に第88代・後嵯峨天皇が皇位を譲位したことで即位したため、4歳から天皇となっていました。それから12年後の1258年に、事実上の皇室における執権を握る後嵯峨上皇の圧力により、弟・恒仁親王が皇太子となり、翌1259年には後深草天皇が病を患ったことを契機に、後嵯峨上皇の圧力で半ば強制的に弟に譲位しなければならなくなります。こうして恒仁親王が第90代・亀山天皇として即位しました。しかし元々両親は亀山天皇を大層可愛がっていたと言われており、ここが分裂の直接的原因になっていきます。

まず、皇位を退いた後深草上皇はその後に後継者となる皇子をもうけますが、1268年に後嵯峨上皇はこの皇子を後継者に立てず、亀山天皇側の皇子を皇太子に指名します。ここが皇位継承を巡る兄弟間の遺恨となります。そして1272年に皇室の権威を握っていた後嵯峨上皇が死去すると、ここで邪魔者がいなくなったことで後深草上皇と亀山天皇の皇位継承を巡る醜い兄弟間の争いが始まります。ただ皇室は当時事実上の権威を持たなかったことから、裁定は後嵯峨上皇の遺言に従い、北条氏が執政を握る鎌倉幕府に持ち込まれます。

ただこの時、幕府は両者の母である西園寺姞子に対して、実際に後嵯峨上皇の意向はどちらにあったのかを問いただすと、西園寺姞子は溺愛していた亀山天皇の名を挙げたため、幕府は亀山天皇こそが正統な天皇だと指名します。そして亀山天皇は1274年まで皇位を担い、そこで皇太子である自らの子に譲位、ここで第91代・後宇多天皇として即位しました。

しかし、これでは後深草上皇の不満はおさまりません。必死で幕府に働きかけた後深草上皇の策略により、遂に幕府は1275年に後深草上皇側の親王を正式に皇太子に指名。これによって後深草上皇が将来的に皇室の実権を握ることを約束したのです。

これを受けて両者は幕府を挟んでさらに激しく対立。この時代は既に北条氏の権威も弱体化を始めていたため、幕府は朝廷が乱れては執政に関わると判断して折衷的な裁定をくだします。それが両者の子孫が約10年おきに交互に皇位を継承し、朝廷の執政を担うというものでした。ここで歪な裂け目が皇室の構造が生まれたことが、鎌倉幕府崩壊の動乱期の中で再び表面化していきます。この裁定は幕府の力が機能している頃は良かったのですが、徐々に幕府の力が衰退する過程で、今度は息を吹き返した朝廷系の勢力が鎌倉幕府打倒の名目に利用し始めます。この筆頭人物として天皇に即位したのが後醍醐天皇です。この時代の激動は、江戸時代末期の明治維新と状況が似ています。

問題の根源は、後に後醍醐天皇が1270年代の皇位継承における幕府の裁定を無視して、自らの系譜を正統な皇位継承に立てる策謀を巡らせたことで朝廷内が二分化したことです。そしてこれを皇室の問題だという事実から目を逸らすために、不満の矛先を鎌倉幕府打倒に掲げたことが一気に南北朝時代の混乱を引き起こす原因となります。この二つに分裂した皇室の系譜が南朝と北朝となり、どちらが正統かを巡る争いに突入します。これが概ね南北朝時代の簡潔な概要です。つまり、以前から遺恨はあったものの、そこを爆発させたのが時代も周囲も見えていなかった後醍醐天皇だということです。

冷静に状況を見ると、北朝側は1338年に足利尊氏が室町幕府を樹立して以来、勢いのある新幕府によって擁立されていた皇統です。そのため、実際には正統性を主張し合う必要はないように見えてしまうのですが、ここで皇室特有の皇位継承の証拠が南朝側に握られていたことが問題を複雑にします。というのも、天皇の皇統は正統性によって担保されており、その正統性を証明するものが代々継承されているからです。それが『三種の神器』です。これがなければ、皇位継承者は正統性を示すことはできないのです。つまり、偽天皇となります。

この三種の神器を保持して吉野に逃れたことこそが、南朝側が優位に立ち、北朝が南朝を中々打倒できなかった最大の理由です。この『正統性』が皇室では何よりも重要であったため、この三種の神器の保持権を巡って正統な側である南朝にも次第に武士がつき、幕府に擁立される北朝側からの圧力を退ける時代が続いたのです。

では一体、この三種の神器とは何なのか?この点について次回は伝えていきます。