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僧兵の誕生と武士の台頭The Monk Militarization Era

私は基本的には神社を来訪しますが、時折寺院にも出向きます。中でも日本密教の道を開いた空海の建立した高野山の金剛峯寺や、奈良県宇陀市にある修験道の開祖・役小角の伝説を持つ室生寺が大好きで、時々特定のシーズンに訪れてはかつての時代に想いを馳せています。日本史における一つの重点は大和(奈良)と平安京(京都市内)なるので、パンデミック中の一定期間は毎日奈良に出向いて平安京以前の様々な調査を行ない、同時に一定期間京都市を拠点にして平安京に関する調査を行なっていました。

仏教が伝来し、あっという間に隆盛して巨大勢力となった本拠地が奈良ですが、今やかつての勢いはなく、栄華を誇った仏教の影響も既に過去のものとなっています。そのため静かな時を過ごすことができるのですが、奈良の興福寺や東大寺、さらには比叡山の延暦寺のように今は静けさが漂う寺院には、かつて真逆の血生臭い勢いがありました。その代表的存在を日本では『僧兵』と呼びます。武装した僧侶の軍事集団です。

794年に平安京に遷宮して以降、Shitsuraeでは貴族政治の主軸を担った藤原家の栄枯盛衰の側面から、なぜ武士が台頭する時代を迎えたのかについて簡潔に流れを見てきました。これを武士台頭の一つのファクターとするならば、もう一つ要因は僧兵の存在です。特に平安時代中期以降、日本ではかなり仏教が浸透し、政治的にも強い権威を有する時代に入ったため、大寺院では僧侶が武装して軍事行動に関わるこれまでになかった現象が見られるようになります 。

この背景には、天武天皇ー持統天皇以来の律令制の軍事組織が衰退して、軍事的空洞化が朝廷近辺に生じたこと、そして新たな信仰を擁する寺院の急速な勢力拡大があります。この背景に存在するのも持統天皇時代のフィクサーであり、藤原家勃興の原動力となった藤原不比等です。かつての律令制下では、地方の国司や郡司が地域の人々を徴兵する仕組みを基本的に採用していましたが、9世紀末までに早くも機能不全に陥っていました。この時代背景には、平安京遷宮の原因となった皇室の皇位継承を巡る激しい内紛があり、暗殺や内乱が頻発した時代に即位した桓武天皇を筆頭とする朝廷が、極端な財政難に陥っていた事情が関与します。しかし激動の時代に皇室を存続させるべく、桓武天皇は『祟り』が蔓延する奈良の地を放棄し、それまでの歴史で全く重要視されていなかった現・京都市内への遷宮・遷都を求めます。ですが彼らは、自分たちで賄える予算を持っていません。そこで既に京都市内の大部分を治め、複数の産業技術を有して勢力拡大を遂げた秦氏に資金援助を求めなければならなくなったのです。

この結果、何とか平安京は樹立しますが、秦氏を含めて有力氏族に資金援助などを求めた事情から、平安時代は皇室よりも氏族に由来する貴族集団が各地で実権を担う新たな動きが始まります。さらに、この財政難の過程で注目すべき点として、朝廷が792年に正規軍を廃止したことがあります。ここで朝廷系軍事力が空洞化したため、各地で盗賊・海賊や地方に点在していた武士の台頭が進む要因となります。一方で、延暦寺や興福寺といった大寺院は、朝廷から厚い保護と『荘園』の寄進を受けており、独自の経済基盤と影響力を強めて朝廷以上に台頭を始めます 。さらに当時の寺院は広大な寺領・荘園が増大していたことから、それらを自衛する名目で僧侶が自ら武器を持って組織的に行動するようになったのです。

このような動きは初期的には小規模だったのでしょうが、10世紀頃には顕著となります。この辺りの初期的な記録はほとんど残りませんが、例えば894年に海賊が対馬に来襲した際、現地の寺院に属する僧侶が武器を取って戦ったという記録も残っています。そのため、最初は寺院が自らを護衛するために戦わざるを得なかった姿があった可能性も考慮すべきです。ただし、974年に仏教最大勢力の一つである奈良の興福寺と比叡山の延暦寺は、京都・祇園社(現・八坂神社)の支配権を巡って激しく争っており、ここで互いに武装した僧侶が登場した記録があります 。こうした事例は初期的には散発的でしたが、やがて寺院指導者層が武装化した僧侶の存在を黙認し、彼らを勢力拡大を目的に積極的に利用し始める過程で、「僧兵」が誕生して激動の時代を迎えます。ある意味、宗教組織を隠れ蓑にした武装集団の誕生です。

特筆すべきは、天台宗における内部抗争です。空海と同じく唐に渡った最澄によって樹立した天台宗は、その総本山として比叡山延暦寺を建立しました。今ではあまり知られていませんが、本当に重要なのは延暦寺の位置です。延暦寺の創建自体は788年なので平安京樹立の少し前ですが、正式に延暦寺という寺号を朝廷より付与されたのは最澄没後の851年です。そして延暦寺が比叡山奥地に定められた理由の一つには、新たに建設される平安京の守護、つまり皇室守護という重要な責務がありました。そこに深く関与する概念が『鬼門』です。

鬼門とは、平安時代に躍進する陰陽道の考え方ですが、元々は中国にルーツを持ちます。方位で言えば東北を指しますが、『鬼門』という漢字からも明らかなように、これは東北から『鬼』や『災厄』が出入りする最も忌むべき方角だと考えられたことに由来します。そして794年時点の平安京の位置から見ると、鬼門にあたる東北は比叡山であったため、そこに皇室と深い関係にあった最澄が延暦寺を置くことで、平安京を霊的に守護する役割を持たせたのです。ここで平安京維持にとって最重要となる鬼門の霊的護衛を延暦寺が一任したことから、勢力拡大は必然だったと言えます。なぜならば、鬼門の霊的護衛という皇室に関わる存在意義がある以上、朝廷は延暦寺の言動に直接関与できない特殊な領域となっていくからです。ここが延暦寺勃興の際に見なければならないポイントです。つまり、延暦寺は重大な霊的責務を担う名目を利用して、朝廷でさえ介入できない閉鎖された教団として勢力拡大に向かっていく余地を獲得したのです。なぜならば、延暦寺に朝廷が直接介入することは、鬼門が破れる象徴となるからです。当時の朝廷から見れば、『延暦寺の台頭』と『鬼門の護衛』を天秤にかけた場合、後者を選択する以外に方法はなかったと言えます。ただし、その見通しはかなり甘かったのです。

こうして延暦寺暴走と呼び得る象徴的な出来事は、993年に起きた『延暦寺=山門派』と『園城寺=寺門派』との分裂抗争に現れます。元々は比叡山における天台宗内部の権威と正統性を巡る対立に端を発していますが、簡潔に言えば正統を主張する山門派と、それひ対抗した一派が比叡山を離れて比叡山南部の麓に建立されていた園城寺を拠点に寺門派となり、独自の動きを活発化させたことに由来します。そして厄介なことに、延暦寺も園城寺も各々が多くの貴族をパトロンに持ち、広大な荘園を持っていました。つまり荘園管理の目的で多くの僧兵を抱えており、武力を有していたということです。さらに貴族も朝廷の覇権闘争を天台宗の内部分裂に代理させて分裂、その対立を利用して自らの地位を押し上げる政治的画策も蠢いていました。

こうして複合的な要因が複雑化した結果、山門派と寺門派は共に僧兵を動員して戦争を開始したのです。この時代を大きく変える事件以後、天台宗の教団内部では内紛に常に武力が絡む慢性化が生じていき、寺院全体が軍事化するという異様な姿へと変様を始めます。ただし、これは比叡山特有の現象というよりも、むしろ時代の傾向でもありました。こうした兆候は延暦寺に限らず、奈良の興福寺や東大寺、さらに和歌山の高野山や熊野など、各地の有力寺社も下級僧や寺領の農民などを組織して武装集団をそれぞれに抱えるようになっていたからです。

この僧兵が暴走する歴史過程はかなり複雑で多面的ですが、要点は貴族政治の腐敗に限らず、これら寺院の大勢力が『霊的守護』という表看板を占有していたことから、朝廷の直接介入が難しかったこと、そして延暦寺や高野山などは都市部から離れた山の奥地に建立されていたことから、僧兵の軍事訓練などの動きが朝廷側に把握されにくかった事情もあると個人的には考えています。

このように様々な要因が絡み合いながら、やがて僧兵を率いる特定の寺院は圧倒的な権威を獲得し、教団の勢力拡大において他の教団との激しい抗争へと向かっていきます。この僧侶が暴走する時代が続いた結果、遂に朝廷は下級の存在でしかなかった武士の力を借りざるを得なくなり、貴族→寺院→武士の時代へと大きく変動していったのです。ここで登場したのが、武士時代の到来の象徴となった平家であり、黄金時代の先導者となった平清盛でした。