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道教的世界観の見えない影響The Invisible Influence of the Taoist Worldview

日本の神道を考える時に、意外と考察されないのが『道(michi)』の概念です。そもそも神道は『神の道』を表す概念と言われており、日本の文脈では『惟神の道』とも呼ばれています。ただ、個人的には『神』と『道』なる概念が混淆される古い過程で神道という概念の基礎が誕生したのではないかと考えています。そしてこの「道」の概念において重要となるのが、古代中国の道教で言うところの『道(Tao)』です。Taoは万物の根源であり、自然そのものの摂理を指す重要な概念ですが、この考えが古代日本人に与えた影響は大きいと私は考えています。

一般的に日本の歴史では、外来の仏教や儒教の伝来とその影響についての考察は多数行われてきましたが、道教それ自体を考察する傾向は意外と少ない状況です。ここに関して一つ考えられることは、仏教の諸宗派や儒教の学派とは異なり、道教それ自体が日本で体系的に成立した歴史がないからです。しかし、道教の体系的な影響を見るのではなく、老子や荘子由来の道教が、後に陰陽論や五行説と融合しながら、日本に影響を与えた複合的な側面からの考察が必要となります。つまり、日本では道教それ自体よりも、『道教的世界観』と呼び得る要素が重宝されてきた歴史があるということです。そのため、道教それ自体を大陸的な視座から見るよりも、むしろ混淆して成立した特殊形態として見た方が理解が進みやすいように思います。これらは他の哲学や文化と複雑に混淆して伝来し、さらに日本独自に変様しているため、影響が察知し難くなっています。その典型的な象徴が、日本の『陰陽道』です。こうした歴史事情の背景から、日本における道教の歴史と影響は不可視に近くなっています。

ただ、神道という言葉が『道』を冠していることを考えると、古くから『Tao』の原理が日本に存在していたことは十分に考えられます。私は仏教伝来の遥か昔から道教哲学は日本に入っていたと考えていますが、それは同時に儒教以前の影響とも言えるため、大きく見ると原始神道の樹立に道教は欠かせなかったと言えます。実際、日本人が「道教」に言及することは極めて稀ですが、神社境内の陰陽道のシンボルや星祭り、方位・暦に基づく厄除け習俗、さらには風水、神仙信仰などに至るまで、多面的に日常生活において道教的世界観の痕跡は息づいています。これこそが道教の本質的な力だと位置付けた時、初めて見えない歴史を考察する一つのヒントを獲得できます。つまり、同じ古代中国の儒教のように体系化して体制哲学に向かう動きではなく、あくまでも日常の実際生活において道教は根付いたということです。それこそ老子の説いた本質ですから、古代日本人にとっては自然に受容できた可能性があります。

そして日本史の観点から見ると、道教は陰陽五行説への統合過程や、平安時代に隆盛した陰陽道を駆使する陰陽師による「道」の実践的運用の意義としての陰陽道、さらに古くは役小角以降に打ち立てられた修験道における道教的修行観という具合に、「道」の変容を通じて江戸期の思想家にまで影響は流れ込んでいます。いわば、江戸時代に初めて道教的思想の解釈・排斥・融合の論理が意識されたと言えますが、ここを道教の要素に混淆している陰陽五行説の観点などを含めて見ることが日本では重要となります。これらを踏まえて初めて神道における「道」の内在化と、道教との交差の痕跡を哲学的観点から見ることが可能となるのです。

一般的に日本への道教思想の本格的な流入は、飛鳥・奈良時代から平安時代にかけて起きたとされています。これは中国大陸からの陰陽五行説や道教的方術の伝来など多角的に起きたことです。実際に朝廷は『陰陽寮』という官職を設置しており、そこに属する『陰陽師』は、主に天文・暦術・占い・祭祀を司りました。この陰陽寮を設置したのは、古事記編纂の首謀者である天武天皇(在位: 673-686)です。ちなみに日本の『陰陽道』とは、簡潔に言えば陰陽五行説に基づく術数・世界観をベースに、宇宙や自然を『陰』と『陽』、そして『五行(木・火・土・金・水)』で解明する思想が、神道を含めたあらゆる日本文化と混淆して成立したものです。そのため、陰陽道自体は中国には存在しません。

この陰陽道の影響は、既に720年成立の日本書紀において見られます。古事記は中国的影響からの離脱と古代日本の信仰を復古することを前提に制作されたことから、こうした中国的影響は意図的に抑止されていますが、日本書紀は中国的影響を露骨に表現する制作方法が採用されたことから、冒頭から陰陽五行説によって神話が解釈されていることに特徴があります。陰陽師自体は、陰陽五行説を用いて人々の運命を占い、呪術によって災厄を防ぐ守護的な実践者でしたが、なぜこのような人々が求められたのでしょうか?

その背後には、中国唐代の道教による儀礼体系や祭祀技法の直接的な影響が、日本からの遣唐使を通じて輸入されたことが関与しています。日本の陰陽道成立には、唐代道教の公式儀礼や呪法が存分に取り入れられていますが、実はそれ以上に、当時の天皇や為政者が悪霊の祟りに悩まされていたという現実的側面は見過ごせません。この祟りを避けるために、新天地を求めて辺鄙な土地だった現在の京都市に平安京を移すことになったのですが、逆に言えば祟りを回避するためなら何をやっても構わないと見做されたのです。そのため、平安京はその創建の起源から、存分に陰陽道が取り入れられていることは注目に値します。まさに陰陽道の街でした。

より正確な見方を示すならば、日本で道教自体が影響を及ぼしたのではなく、7世紀後半頃に登場した陰陽師が、道教由来の思想や儀式を積極的に摂取しながら、日本の文化に応じて変換して精度や効果を高めていった結果、日本的な道教の受容が見えない形で行われたと言えます。そのため、これを陰陽道の実態と見るならば、背後には「道(タオ)」という宇宙原理を実践的に応用する知として展開している姿が見えてきます。実際、陰陽道は天変地異の予知や方位による災厄避けなどのように、倫理よりも国家・社会の安寧を図る実利的な技術として機能してきました。これは純粋な道教とは言えず、むしろ儒教の社会的影響と絡み合っていることから、本質的な老子や荘子の思想とは異なり、むしろ儒教に接近していると言えます。

ただし、陰陽師が発展する過程で、「道」は万物を貫く調和原理であると同時に、人間が占術によって知りうる宇宙の秩序として再構築されていき、朝廷で重宝された時代の流れがあったことは重要です。陰陽師は天文現象や陰陽の巡りから「道」の働きを読み解き、それに則った生活の指針を示すことに長けていましたが、日本の場合は純粋な道教ではなく儒教や仏教、さらには神道などと混淆しているため、かなり独自の哲学が生まれていたと言えます。その象徴的存在として、特に平安時代の陰陽師の主軸を担った安倍晴明(?-1005)を挙げることができます。安倍晴明は鎌倉時代から明治時代初期まで陰陽寮を統括することになる『安倍氏流土御門家』の開祖ですが、出生や系譜は謎に包まれています。

僅かな記録によると921年に生まれたとされ、後に賀茂忠行・賀茂保憲から陰陽道を学んだとされています。この師匠である賀茂一族のルーツを辿っていくと、日本史上最高の超人伝説を有する人物に至ります。それが役小角(634-706)です。役小角は道教の秘術などを駆使する超人的人物としての伝説が多数残っており、後に道教における神仙思想の観点から仙人と同一視されていますが、彼は加茂氏の生まれです。この時代の文献は残っていませんが、もしかすると役小角時代に道教はかなり純粋な形で日本で受容されていたのかもしれません。

役小角は道教の仙人像を体現する最重要人物と見做されるため、ここに直接的な道教の影響を感知することができます。これには山で仙人のような法力を得たことや、二匹の鬼を従えていた伝説などが影響しているのですが、後に役小角に影響を受けた修験者は、山に籠もって厳しい修行を行い、自然との一体化を通じて霊的な力である『神通力』や悟りを得ることを目指します。この背景には道教の伝統的な修行体系である『内丹術』という体内の気を鍛えて不老長生を図る修行法や、神仙思想の仙人となって不老不死を追求する思想の影響が認められます。 これらから分かるように、日本で道教と陰陽道を分離させて見ることは不可となります。

つまり大きな流れを見ると、道教的影響は一方では都市機能を有して皇族や貴族に影響を与えた平安京(現・京都市)の陰陽道に向かう方向と、もう一方では各地を動き回って人々に道教的世界観を浸透する原動力となった民間宗教としての修験道へと分岐したことになります。前者の開祖を安倍晴明、後者の開祖を役小角と位置付けることは可能でしょうが、前述の通りその源流に位置しているのは役小角です。事実、役小角は当時のフィクサーとして天皇にも崇拝されていたことから、個人的には天武天皇が陰陽寮を設置したのは役小角による助言なのではないかと考えています。

実際に役小角自体が修験道を提唱したわけではありませんが、この時代の修験者たちは開祖に役小角を位置付けて信仰の正当化をはかっていることから、当時から道教的要素を巧みに日本の宗教文化に混淆して、独自に発展させた役小角に対する評価が高まっていたことが示唆されます。つまり平安末期から中世にかけての道教は、日本の宗教文化に深く浸透しながら、神道や修験道と混淆して独自の展開を見せ始めたのです。

また神道においては、神仏習合の思想的枠組みの中で揺れ動く過程で、仏教的影響に対して融和、あるいは排除するために道教的文献や世界観が取り入れられていきます。中世神道の典籍には道教系の経典が注入されているのがその証拠ですが、たとえば度会氏による伊勢神道や、真言密教の理論から神道との調和が画策された両部神道の教義の中には、中国の『北斗経』や道教的な『老子述義』といった書物が重要視されていました 。「北斗七星」や「太一星」への信仰を総合的に『北辰信仰』と言いますが、『北辰』は北極星の神格化として道教で最高神に据えられる存在であり、中世日本の宮廷祭祀や民間信仰でも重要と位置づけられていました。これらが道教に由来する星辰信仰の日本での受容形態だと言えます。

そして五行思想も神道思想に深い影響を与えています。神道では神を自然界の諸現象の化身とみなす考え方が見られますが、これも陰陽五行説に根ざした自然観の反映だと指摘されており、実際に神の解義において陰陽五行説を用いた考察は古くから行われています。前述の日本書紀においても同様ですが、よく日本書紀を読解するには隋の蕭吉によって撰述された『五行大義』の理解が不可欠だと言われるほど重要です。

以上、簡略的に見てきましたが、ここまでの歴史では道教という宗教化が日本で行われたわけではなく、むしろ道教的世界観が陰陽論や五行説を通じた陰陽五行説と混淆しながら、随所で多彩な影響を与えて在地の哲学や信仰、文化と融合して日本化されたことが見えてきます。その象徴は道教以上に日本独自の陰陽道です。つまり、非常に複雑であり一元的な解釈は不可なのですが、道教と陰陽道を分離して考えないことが理解の肝心となるように思います。

そして中世以降に勃興した道教的世界観の流れも、江戸時代に入ると儒教による体制哲学が樹立した背景から、その道教的要素の公式な影響力は次第に後退していきます。それまで圧倒的な権威を誇って中央に入り込んでいた陰陽道でさえ、江戸時代には政治中枢から遠ざけられていく運命となり、やがて存続をかけて民間の占いや厄除け習俗として細々と生き延びることを余儀なくされます。ここで一度中世に分岐した修験道と合流し、さらに興味深いスピリチュアルな歴史を形成する源泉となります。

こうして表から消えたように思える道教的世界観の影響力ですが、実は再び神道を復古させる国学の系譜によって江戸時代後半に高まっていき、ここから言霊を含めた日本独自の理論へと昇華していくことになるのです。つまり、道教的世界観は深く日本人の精神に息づいており、様々な時代に異なる昇華を遂げてきたと見るのが正しいように思います。そこで、この江戸時代を通じた道教的影響について、次回は詳細に見ていくことにします。