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神の哲学:アマテラスを読み解く基礎The Philosophy of Kami

『神(かみ)』という日本概念は、近代以降に翻訳に際して”ゴッド”があてられて以降、本質を喪失して大きな認識のズレを生んでおり、現在では神の概念を深く洞察できる人々が日本でもいなくなって混乱しています。そこで一度、私自身の考えを前提にしながら、この神の概念を読者が理解できるように基礎的な観点で示してみようと思います。

まず前提として重要なことは、日本概念は全てにおいて一元的な意味を持つことはなく、常に多元的であることに留意してください。ここが対象を実定する傾向を有する西洋思考と大きく異なる点に思えますが、何度か述べているように日本語には主語・コプラがない述語制言語であるため、近代以降の英語と比較すると思考回路が全く異なると前提して頂いて構いません。ゆえに本質的に神は翻訳不可能な日本概念であり、日本語以外で解読・説明することは不可能なのですが、最低限の範疇でお伝えしていきます。

日本でいつから神の概念が生まれたかについては不詳ですが、現存最古の古事記(712年)の時代から既に神という言葉が使用されています。元々日本人は文字文化を有していなかった観点、さらには言霊信仰を多面的に考察する過程で、私は日本の古層は音の文化だと捉えています。ゆえに単純に現在の『神』という漢字に固執して考察すると、音として表現されていた『かみ』なる古層の実態が見えなくなってしまいます。事実、歴史的に『神』という概念が如何なる意味を持っていたかについては様々な提唱が行われてきましたが、どれが正しいということはなく、一元的な意味に還元すること自体が無意味だということです。ここに読み解く際の難解さが潜んでいます。

例えば、神に関する無数の考察においても、主には自然現象や精霊、祖先の霊、人物の霊魂、さらには超越的な原理までを含む非常に多義的な概念として提示されています 。そこでは太陽・月・雷・風といった自然や、歴史上の偉人・祖先の霊魂、動物・植物に宿る精霊、人に福禍をもたらす霊的存在、さらには世界の根源となる原理的存在まで、畏敬や畏怖を感じるあらゆるものが神と呼ばれてきました 。ここを踏まえて、江戸時代に初めて古事記を読解する基礎を打ち立てた国学者の本居宣長は、神について「何事であれ、並外れて優れ(あるいは異様)、畏れ多いものを『カミ』と言う」と述べています。つまり神の概念範囲は極めて広い、というよりも無限であることを示したのです。

一般的な理解では、日本人を自然信仰や「ヤオヨロズ(八百万神)」信仰と見る側面から、山や川、巨木や巨石、火や雷などの自然物・自然現象の中に神秘的な「何か」を感じ取り、それらを畏れ敬って祭るようになったことが神の起源だと考えられる傾向にあります。そして、この感覚が神道の根本を形成しており、後世になってこれらの超常的な存在を総称して「神」と呼ぶようになったと見なされます。そのため、古事記や日本書紀が編纂された時代でも、既に多種多様な神の存在が示唆されており、神は断じて一元的な存在ではないことが理解できます。ここで注意が要されるのは、神は人間のように実体を伴い、かつて地上を動き回っていた存在ではないという点です。そして単純に自然物や自然現象を神に定めたわけでもありません。簡潔に言えば、『人格化された神』ではないということです。

全体的な概念把握は今後段階的に行いますが、今回は天皇の皇祖神に定められている『アマテラス(天照大御神)』を見ていきます。例えば、アマテラスを太陽神と同一視する視方は現代日本でも一般的ですが、古事記はそうした記載を一切行っていません。『アマテラス=太陽神』と見做す視座においては、日本神話の『天岩戸隠れ』という説話が頻繁に参照されています。この神話が曲解される過程で、太陽神であるアマテラスが隠れたことで世界が暗闇になり、再び地上に現れたことを以って「光をもたらした」と解釈されるのですが、これは古代日本人の信仰とは関係ありません。つまり、ある時代に何かしら信仰の変動が生じたのですが、その時代というのが『神仏習合』の時代です。

仏教伝来からの激しい政治闘争を経て、やがて仏教の浸透期を迎える中世に入ると、日本の神は仏教との融合によって新たに発展を遂げます。中でも平安時代(794-12世紀末)から鎌倉時代(12世紀末-1333)にかけて、僧侶や神職の間で神仏習合思想が広まりますが、ここで「神は仏の権現」だと主張する新たな『本地垂迹説』が唱えられたことが鍵となります。この背景には、日本で外来宗教の仏教を絶対的な宗教として樹立するためには、仏教以前の神の概念と巧みに習合する必要があったからです。この新たな主張により、数千年かけて培われた神の概念は大きく揺らぎます。

本地垂迹説では、日本の神は仏教の『垂迹: 仏菩薩の仮の姿』に過ぎない存在と見做され、その『本地: 本体』は仏であると解釈されます。注目点としては、仏教が仏像や寺院などの偶像崇拝を有する宗教だったということです。仏教以前の信仰において、古代日本人は人格を有する神の信仰は持たず、かつ実体を伴うこともなかったことから、この仏教の偶像崇拝の性格が神道にも深刻な影響を及ぼします。ある意味、この時に神は仏のように人格化されていき、実体化する傾向を強め始めたのです。

こうして本地垂迹説に基づき、神道で天皇の皇祖神に設定されていたアマテラスは、密教の大日如来の垂迹として同一視されるのですが、ここで太陽を象徴する性格を有する大日如来の大陸的な観念がアマテラスに介入します。つまり、それ以前にアマテラスを太陽神と見做す信仰はなかったのです。この観点から、アマテラスは実在した神ではないということです。

しかし複雑な問題はさらに続きます。仏教側が本地垂迹説という恣意的解釈を神に対して行ったことが反動を生み、激昂した中世の一部神道家たちは強烈な反駁を試みたのです。その象徴として先頭に立ったのが、伊勢神宮外宮の神官であった度会氏です。鎌倉時代後期になると度会氏が中心となり、今度は本地垂迹説を反転させた『神本仏迹説』を提唱します。これは「神こそが本源で仏はその化身」とする逆の論理ですが、こうして神本仏迹説を基礎に打ち立てられた新たな神道が『伊勢神道(度会神道)』となり、後世に絶大な影響を及ぼします。まだ神道が宗教としては不安定な時代です。

伊勢神道では、主要な目的として仏教よりも神道優位の体系を樹立することに注力しますが、そこで度会氏は内宮・外宮に伝わる古典を駆使しつつ、『内宮の祭神・アマテラス』と、『外宮の祭神・トヨウケ(豊受大神)』をそれぞれ宇宙原理に対応づける斬新な転換をはかって仏教に挑みます。また同時に伊勢神宮内部の覇権闘争に対しても度会氏は挑戦を試みます。これは度会氏が外宮の神官であったからですが、ここでトヨウケはアマテラスに先立つ根源神として位置づけられ、日本神話の天地開闢の神である「アメノミナカヌシ(天之御中主神)」に比定して、外宮の権威復古を画策します 。時代は内宮が外宮よりも権威を有する時代であったことから、そこに苛立つ外宮側の反動だったと言えます。

さらに度会氏は陰陽五行論にも精通していたことから、『内宮=火』、『外宮=水』という具合に五行思想に当てはめていき、陰陽五行論の観点から『水克火: 水が火に勝る』を打ち出してトヨウケ(外宮)の絶対的優位を主張します 。ここで『内宮=火』と見做された観点も、大日如来としての太陽信仰が合わさり、アマテラスを太陽と同一視する動きに繋がったと言えます。このように度会氏は、仏教優位の現状を打破することと同時に、伊勢神宮における外宮の権威復古を実現するために、神道の論理自体を独自に体系化して新たな神道を樹立したのです。

この大きな神道変革期を終えて室町時代(1336-1573)に入ると、今度は京都の神職であった吉田兼倶(1435-1511)によって『吉田神道』が創始されます。この背景には大規模な戦乱となった『応仁の乱(1467-1477)』で多くの神道関連書籍が焼失したことが影響しています。そこで吉田兼倶は自ら古典を補作・偽作しながら独自の教典・儀礼を神道において整えることを試みます 。吉田神道は仏教からの完全独立を意識した初の神道理論ですが、厳密には「意識した」のであって仏教の影響を完全に脱したわけではありません。ただし、この吉田兼倶の提唱が江戸時代の反仏教的思想に大きな影響を及ぼします。

このように中世における神仏習合による仏教からの恣意的な多元的・相対的な神の観念の解釈に対して、それに対抗する神道独自の原理の追求という二方向の展開が生まれ、後の神道史に深い影響を及ぼします。この過程で神は自然霊としての存在から哲学的概念にまで高められていき、また人格化や実体化が付加されて大きく変様します。ここが江戸時代に勃興する国学や明治時代の国家神道の基盤となる思想的遺産が形成された源泉であるため、複雑な歴史ですが見逃すわけにはいきません。ここまで、かなり端折って神の変様を見てきましたが、ここを前提にアマテラスの考察を加えていきます。

アマテラスには『天照大御神』と漢字があてられますが、その意味は『天を照らす神』です。『御』は尊称であり、『大御神』とは最上の神という最大の尊称を意味しますが、重要なのは『アマテラス(天を照らす)』と解釈された部分です。これが前述の中世における観念の変様過程で『天を照らす=太陽神』と見做されていくのですが、さらに遡って古事記神話の『天岩戸隠れ』の神話解釈も太陽神話へと変様します。

しかし、文字以前の音の観点から考えると、全く異なる神の実態が見えてきます。『天』を『アマ/アメ』と見做す視座自体は、古事記・日本書紀の編纂時代である8世紀前半時点で既に起きていますが、実は古代日本人は『天上界』という観念を持っていませんでした。個人的には、この天上界に関わる観念は古代中国からの強い影響を感じ、外来部族の伝来した新たな観念だと捉えています。そして冷静に古代日本史を見た場合、大陸・半島を経由して日本列島に渡来する部族は、当然ながら海を渡る必要がありました。古事記・日本書紀時代の神話では既に『天降り(アマクダリ)』という天上界から神が日本列島に直接降臨したという説話になっていますが、これも後世に生まれた新たな観念です。なぜならば、元々日本の『アマ』という音は、『海』を表す概念だったからです。

実際、今でも漁労を営む人々を『アマ/海人・海女』と呼称する名残は日本各地の沿岸部で残っており、また九州南部の離島は今も『アマミ(奄美大島)』として海に関連する痕跡を残しています。さらに古代氏族で海を往来していた氏族は『アマ/海部氏』と呼ばれており、日本各地の沿岸部を中心にかなり強大な勢力を有していました。今も京都府丹後の沿岸部に建つ籠神社という古い神社の宮司は、この『アマ/海部氏』の子孫であり、詳細な家系図が国宝に指定されています。

この『アマ』という音の名残は、大陸系部族が日本列島に渡来する際の状況を考えれば理解できます。なぜならば、海を渡って無事に新天地に上陸するためには、『海路を示す神』という非実態の信仰が、生存の観点、さらには不安を抱える部族を束ねる目的から必要不可欠だったと考えられるからです。日本神話でアマテラスは稲をもたらす神として配置されていますが、要するに彼らは農耕部族であり、海路を進む技術を有していない人々でした。そのため、中国沿岸部や朝鮮半島沿岸部で、日本列島を往来することのできる技術を有する部族の助けが必要であり、さらに無事に日本列島に到着するための海路を示す神として、『海を照らす神』への信仰が高まったと考えています。ここで生まれたのが、『アマテラス(海照神)』の奉祀です。

これは日本神話でも度々道を示す神として鳥が象徴となっていることにも通じています。また北東アジアにルーツを持ち、日本に渡来して弥生時代を築いた人々の土器には、鳥を模した装束を着た祭祀集団が描かれています。私自身も各地で幾つか見てまわりましたが、彼らの首領(主に女性シャーマン)は『鳥装』をして舟に乗り、日本に渡来してきた太古の痕跡を絵画によって伝えています。縄文人は土器に絵画を描くことはなかったため、これは弥生人がもたらした新たな習俗でした。彼らは故郷を思い、自らがどのようにして新天地に到達したかを絵画によって土器に刻み込んだのです。そしてこの習俗は昨日触れた琉球の人々にも継承されていました。かつて琉球を離れて日本列島に渡る男子は、航海中に舟の周囲を飛ぶカモメなどの海鳥を神格化していた記録が民俗学から指摘されています。

端的に言えば、アマテラスは天上界の神ではなく、また日本在地の神ですらなく、日本から見て海の彼方(中国)から来訪した部族集団の神格化していた神です。そしてその源流は、未知の海路を渡る際に無事を祈って信仰した導きの神と言える存在でした。ここがアマテラスの起源となりますが、やがて渡来時代を終えて日本列島で同化する過程で、今度は部族のルーツを巡って正統性を主張する争いが激化します。この過程で複数の外来部族集団は分裂・統合を繰り返しながら肥大化し、やがて肥沃な盆地環境にあった大和南部(現・奈良県南部)に進出して、一つの体系的な国を樹立するに至ります。ここが日本建国の起源となります。ちなみに、大和南部が楽園と見なされた理由は、水田稲作の環境に最も適していたからです。

これこそが天皇の起源にも関わりますが、日本の歴史区分で言うところの古墳時代に相当します。これ以降、大和では仏教伝来、朝廷樹立、律令制の整備などの国造りが数百年をかけて行われていきますが、するとその過程で、統治の正統性はこの地に根ざすものとして語られるようになり、ルーツが海の彼方にあるという記憶は、物語の表から静かに退いていきます。この時、『アマ』という音は、かつての海を意味する概念から、天上界を意味する中国的な観念に切り替わるのですが、この変様は即座に起きたわけではなく、数世紀をかけて緩やかに転移した結果です。事実、民俗学者・折口信夫は来訪神の洞察において、初期的には海から来訪していた神が、後に山から来訪すると切り替わり、最終的には天から降臨すると切り替わったと指摘しています。

まずはここまでを理解して、読者の方々が神を理解できるように随時関連記事を発表していきます。