空海と四国遍路の隠された目的Kukai's Secret Purpose For The Shikoku Pilgrimage
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『四国四十八ヶ所』として知られる全長1,400kmの『遍路』は、古来より多くの仏教信徒が歩いたルートですが、古くからこの遍路を開いたと位置付けられる真言宗の開祖・空海(774-835)には裏の目的があったと言われています。つまり空海は、信仰における仏教信徒のために遍路を開いたというよりも、むしろ同時に天皇による勅令で何かを調査し、四国中を踏破したということです。そのため、今も遍路の起源を空海に求めることに対して異説が残っており、個人的にも遍路は信仰ではなく、調査の痕跡が後世に宗教的観点から美化されたようにも感じます。
もちろん、これは空海自身が四国出身であったことも関係します。774年に讃岐国(現・香川県)沿岸部で生まれた空海は、後に超人的な偉業を数々残し、やがて和歌山の高野山に籠って真言宗(真言密教)を開祖しました。ここで疑問となるのは、なぜ真言密教の聖地として高野山が選ばれたのかです。空海ほどの賢人がその土地を選んだからには、それなりの理由があったはずです。伝説が多く実態が中々掴めない空海について、この記事では異なる角度から見ていきます。単に密教信仰ではない、当時の天皇や朝廷の政治的思惑が深く関係しているからです。
以前の記事で、名もなき一人の僧侶でしかなかった空海が、突然、当時の国家事業である遣唐使のメンバーに大抜擢され、留学僧として義務づけられていた20年の修行期間を大幅に短縮し、たった2年で帰国したことについて書きました。しかもその短い期間で空海は、当時中国最高峰の僧侶・恵果阿闍梨から全てを伝授されています。この時、恵果は自らの後継者に空海を選び、「1日も早く故郷に戻り、密教を打ち立てよ」と伝えたと言われています。これは中々現代ではイメージが掴みにくいでしょうが、空海と同じ船で唐に渡った当時日本の有力僧侶であった最澄とは比較にならない次元で異例のことでした(最澄は後に比叡山延暦寺を開く天台宗の開祖です)。
注目すべき点として、空海は唐で手当たり次第、日本に伝来していない経典などを集めて購入し、全てを船に積んで帰国後に朝廷に献上しています。一説には、空海が持ち込んだ大量の経典は、一冊も当時日本に現存していた経典と被らなかったと言われており、空海は日本在住時に現存していた全ての著作を読んでいたのではないかとも言われています。これは名もなき僧侶には不可能なことですから、何かしら国家が所蔵する文書にアクセスする権限を付与されていたということです。
また無銭だった空海が、大量の経典や仏像などを買い漁ることができた背景には、何者かの資金援助がなければ不可能だったことから、表には語られない裏の国家プロジェクトに空海が関わっていた可能性も指摘されています。しかし、その全貌は未だ分からず、多くの興味深い仮説が提唱されるに留まります。このように謎多き超人・空海は、今も多くの日本人を魅了してやまないのです。
ただ、空海が唐から帰国後の815年に遍路が開かれた可能性を考えると、中国で彼は密教に限らず、儒教や道教など様々な知見を取得し、それらを統合的に駆使して何かを探していたと言えます。それが、水銀です。事実、空海は『朱』(土硫化水銀、辰砂)にまつわる伝承が多い人物でもあり、彼の足跡と水銀との関連を示唆する史料も少なくありません 。また伝説的な『即身成仏』を一旦除いて考えると、831年に空海は病気で高野山にこもったとも伝わることから、その病気の原因が水銀中毒だったという説も指摘されています。
しかし読者は水銀が当時どのような価値を持っていたか、なぜそこまでして水銀が必要だったかを理解することは困難でしょう。そこで空海と水銀産地の関係について詳しく見ていきます。
まず水銀(朱)は、古代より神秘的な金属として世界各地で珍重されてきました。特に空海が留学した唐代の中国では、道教系の神仙思想が盛んで、不老長寿を願った皇帝たちは競って水銀を服用したという説話があります 。中でも中国で『錬丹術』と呼ばれた『仙薬』づくりの秘儀において、水銀は金や銀よりも価値ある高級な材料と見なされており、《金・銀・銅》ではなく《朱・金・銀》の序列で重んじられていました 。そのため当時の人々にとっては、霊薬の原料である朱(辰砂)を求めて山に入ることは、ごく自然な感覚だったとも推測されます。
この神仙思想を脇に置いて現実的に考えると、水銀は仏教においても極めて重要な材料でした。なぜならば、朱色の『水銀丹』は仏画や寺院の彩色に多量に用いられただけでなく、仏像を金色に輝かせる『鍍金』の材料として必要不可欠だったからです。その好例が奈良・東大寺の大仏(盧舎那仏)です。完成当初、その巨像を覆った金メッキには莫大な量の水銀が費やされました。記録によれば、金が約437kgに対して水銀は約2,459kgも使用されており、比率にして『金1:水銀5.6』も要しています。このように道教の不老不死の仙薬から、仏教の荘厳な仏像や寺院の造立に至るまで、水銀は宗教的にも実用的にも不可欠の資源でした。ここが一つ空海の謎を読み解く鍵となります。つまり、古代より日本では霊薬・仙薬の観点などから水銀は重宝されていましたが、これが仏教隆盛と共に需要が大きく増加したということです。
奈良時代に国家事業として大仏造立が行われて以来、この流れは平安時代に引き継がれていき、国家の仏教政策として各地で寺院建立や大仏造営が数多く続けられました。特に第50代・桓武天皇(在位: 781-806)は、長岡京から平安京への遷都に伴い、国家鎮護を祈念する目的で大寺院を造営して威信を示す必要がありました。しかし、時の朝廷は極度の財政難に苦しんでおり、他の有力者たちからの資金援助を求めなければならないほどでした。こうして第52代・嵯峨天皇(在位: 809-823)の時代になると、さらに従来の仏教ではなく、真言密教や天台密教の興隆と相まって仏教事業が盛んに行われます。この新たな時代の波に乗ったのが、名もない僧侶の空海だったのです。
歴史上、もっとも大きな日本の仏教隆盛の流れにおいて、金メッキによる仏像や仏具の造営などが各地で活発に行われたため、水銀の需要が急速に高まります。そのため、朝廷は仏教造営のために支配圏を拡大する必要に迫られ、水銀などの資源を求めて全国各地へ進出しては戦争を行い、素材を調達して大量の金や水銀を確保する必要がありました。ある意味、水銀の確保と調達こそが国家存続の戦略的な課題となって慢性化していたのです。
ここで日本語の観点から古層を見る際、重要となるのが『丹生』という言葉です。日本各地には「水銀(辰砂)」の産地が点在しているのですが、その土地名には「丹生(にう)」の字が含まれるケースが今も残るからです。古代より「丹生」と名の付く地名や神社は「朱(辰砂)」との結びつきが強いことは考古学的にも実証されており 、私自身も幾つかの「丹生」に関わる神社や信仰地に出向いたことがありますが、そうした土地では古くから辰砂採掘が行われるとともに、水銀にまつわる独自の信仰が育まれました。
そして興味深いことに、日本における辰砂の主要産地を大きく見ると、なぜ空海が四国に遍路を築き、高野山に本拠を構えたのかが見えてくるのです。ここで重要となるのが、日本の『中央構造線』です。これは日本列島の中央部を東西に走る日本最大の断層帯で、九州から関東まで約1,000kmに渡って続きます。そしてこの中央構造線沿いに位置する代表的な辰砂産地は、古名に準じると以下となります。
・伊勢国丹生: 三重県丹生鉱山
・紀伊国の吉野・熊野周辺: 和歌山県高野山界隈
・四国山地中央部の『阿波国』丹生谷: 徳島県阿南市周辺
・九州中央部の『豊後国』臼杵: 大分県臼杵市
これに加えて、古代大和(奈良県南部)に朝廷の基礎が形成されて以降、719年に京都に平安京が進出する大きな歴史を考えると、最も朝廷に近く、辰砂を持続的に調達できる筆頭候補は和歌山と徳島になります。和歌山は陸路、徳島は海路を通じて朝廷との交易が活発でした。この観点から信仰を度外視して実利的な需要の側面を見ることによって、初めて空海の遍路・高野山開山における隠された意図が見えてくるのです。
次回は、ここに纏わる『丹生』を神と崇めて奉祀する独自の信仰を絡めて、さらに空海を掘り下げていきます。