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出雲大社と伊勢神宮式システム:千家尊福A Hero Who Confronted the Ise Jingu System

日本の神道はアニミズムとイコールでイメージされる傾向があり、これは年々多くの人々の認識として一般化しているように感じます。また現代日本人の大半も神道への理解は皆無に等しく、かつ「神道は宗教ではない」という根強い意見も未だ残っています。しかし、歴史的に『神道』が「宗教」でなくとも、「宗教性」を持っていたことは事実です。特に552年の仏教伝来期の影響を受けて以降、1000年以上の歳月を掛けて、神道はかなり体系化されて成熟しています(特に平安時代)。ここで宗教性から『神道』を見ると、概ね射程は6世紀以降になりますが、当然それ以前から神道に繋がる信仰が多様に存在したため、誰もその謎めいた全貌を明らかにできないのです。

重要なことは、歴史的に蓄積されてきた神道の宗教性が露骨に現れ始めたのは、それほど昔の話ではなく、1868年の明治維新後に樹立された新政府による宗教政策に由来することです。特に新政府が『祭政一致』理念の元で神道を国家基盤に据える激動の時代に行われた様々な政策や思惑を理解していくことで、神道に固着した宗教的性格を掴むことができるでしょう。そのためには無数の考察を必要としますが、今回はこれまでShitsuraeで少しお伝えしてきた『伊勢神宮式システム』の樹立期において、新政府官僚による信仰の破壊行為に対して、立ち上がった一人の人物について見ていきます。この人物がいなければ、今の日本の神道という信仰はなかったかもしれません。

日本を訪れた経験があれば、無数の神社の中でも最高神格に設置される三重県・伊勢神宮内宮(皇大神宮)が、天皇家の祖神と位置付けられる「アマテラス(天照大御神)」を奉祀していることはご存知でしょうが、このアマテラスに対して、古層には強大な神が日本各地に多く存在しました。その代表的な神こそ、島根県・出雲大社が奉祀する「オオクニヌシ(大国主神)」です。かつて本殿は96mもの高層神殿だったという言い伝えが残る出雲大社ですが、近年、その伝説が本当だった可能性が明らかになりつつあることから注目を集めています。出雲大社の奉祀起源は、オオクニヌシを奉祀する神社祭祀に関わる「アメノホヒ(天之菩卑能命)」という神に由来します。これは神話でオオクニヌシが神殿で祀られる際、アメノホヒが祭祀を担ったからです。

このアメノホヒの系譜から、後に出雲国(いずものくに)を統べる「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」という氏族が登場し、代々世襲で引き継がれていきます。しかし、14世紀を通じて氏族が分裂した影響から、現在では「千家家」と「北島家」に分かれて祭祀を分担しています(対立しないように公平に行われます)。基本的に祭祀の最高権威は代々千家家が継承しており、現在は第84代出雲国造の千家尊祐が担っています。ここで、前回まで記した関連記事を読んだ読者であれば、「あれ、明治時代に神社の世襲は廃止されたはずでは?」と疑問に思うでしょう。その通りで、ほとんど全ての古い神社の世襲は政府によって廃止されたのですが、僅かに世襲を続けることのできた神社があったのです。その筆頭格が島根の出雲大社や丹後の籠神社などです。この背景には神の神威の神の強さや序列、さらには古代史が広く関係しているため、今は難解でしょうから今後Shitsuraeで少しずつ触れていきます。

しかし実は、出雲大社であっても明治政府による「伊勢神宮式システム」の影響を避けることはできず、一時は世襲禁止の波が及び、社領と神官の大部分を取り上げられるなど大打撃を被りました。それでも出雲大社で千家家が復古した背景には、たった一人の将来有望な人格者の存在があったからです。この人物がいなければ、もしかすると出雲大社も伊勢神宮同様に官僚支配となり、今日の信仰は失われていたかもしれません。その人物こそ、第80代出雲国造の千家尊福(1845-1918)です。私が歴史上、最も尊敬する神職です。

まずは、新政府が樹立してから4年後の1872年、徐々に役人が近代官僚システムを樹立する過程から見ていきます。日本人の精神的根幹の信仰を破壊する暴挙を政府が行うことに対して憤怒を抱いた尊福は、1872年にわずか26歳の若さで出雲大社宮司に就任すると、若いエネルギーを活かして新政府の圧力に屈さず、全国各地の出雲信仰を有する神社や組織に対して、古代より連なる出雲の正統性を主張する宣教師を派遣します。これによって分散しかけていた信徒の結集を図ったのですが、ここで出雲信仰のネットワーク維持に奔走した若き尊福は、新政府の神道政策に不満を抱く一部の有力神職に認められ、1878年に父の後を継いで正式に「出雲国造」となります。

政府の悪行を見逃せば、将来の日本人の信仰が失われると考えた尊福は、政府にも積極的に出仕して宗教行政に携わりながら、同時に出雲大社の祭祀を守る二重の役割を果たします。しかしこうした尊福の動きを快く思わない人々によって、やがて窮地に立たされます。それが1875年の『祭神論争』です。この事件が尊福の人生を一変します。

『祭神論争』とは、新政府が統一した布教組織として生まれた「神道事務局」において、どの神を最高神として祀るかを巡って起きた激しい論争です 。事務局側は古事記・日本書紀の冒頭に登場する三神の『アメノミナカヌシ』『タカミムスヒ』『カムムスヒ』と、天皇の皇祖神・アマテラスを合わせた四神を祀る方針でしたが、ここで尊福は出雲大社のオオクニヌシを加えるよう強く主張します 。この時、尊福に敵対したのが、伊勢神宮の田中頼庸(1836-1897)です。田中は明治維新の一翼・薩摩藩(現・鹿児島)生まれの藩士でしたが、1871年に世襲が廃止されて骨抜きとなった伊勢神宮の「禰宜」(大宮司の最高側近)に大抜擢されます。つまり、伊勢とも伊勢神宮とも何の縁も関係もない人物が、このような信仰の重要責任者となったのです。

この祭神論争は読者にとってかなり難解でしょうが、『天皇崇拝=アマテラス奉祀』の構図に執着する田中が、神話の観点からオオクニヌシを事務局で奉祀することを拒絶したということです(『国譲り』という神話に関わります)。ここで大きく『伊勢派』と『出雲派』に分裂し、神道の宗教としての歴史を決定づける動きに向かいます。端的に言えば、尊福の主張を支持する「出雲派」と、田中の主張を支持する「伊勢派」に分かれたのですが、これが全国に波及して全ての神職を巻き込む大論争に発展します。

つまり、「伊勢神宮式システム」を樹立したい田中を筆頭とする伊勢派の思惑に対して、日本の神はアマテラスだけではないと反駁した尊福の出雲派だと見れば理解が進みます。これは田中から見ると、尊福は世襲廃止が実現されない出雲大社の千家国造であるという観点から、絶対に認めるわけにはいかなかったということです。個人的には、伊勢神宮式システムがもたらす金銭・物品の巨大利権を掌握したい官僚系神職が田中率いる伊勢派であり、反対に、神社の奉祀はそうした近代利権に還元できるものではないと反論した古代氏族系の尊福率いる出雲派と位置付けています。

この対立があまりにも激しく国家統制どころではなかったため、業を煮やした政府は事態を解決するために「神道は宗教に非ず」と一方的に宣言します。これは事実上、伊勢派の勝利宣言です。この背後には、田中の有する利権に目が眩んだ役人が多かったことも関係していると思いますが、注意すべきは伊勢派が尊福を排除するためだけに、何と明治天皇に直訴して強制的に裁定をくださせたことです。天皇が伊勢派の思惑に合意した以上、尊福らはそれ以上戦うことはできなくなり、結果的に事務局でオオクニヌシは奉祀されないことになり、出雲派は敗北します。

しかし、逆にこの祭神論争が契機となって、国家宗教としての『神道』を掲げる伊勢派と、場所に根差した信仰を未来へ継承しようとする『神道』を掲げる出雲派の分離が明確化します。つまり、『神道』という概念自体がこの時に分裂しており、今も混乱した状態で一つの定義として語られているということです。実はこの出来事以降、伊勢派の暴走によって国家神道体制が固まっていきます。実際、私も遠く離れた出雲大社には定期的に出向きますが、伊勢神宮には全く出向きません。

争いに敗れた尊福でしたが、彼の信念は揺らぎませんでした 。そして1882年に尊福は伊勢派の暴走を自ら抑止することを決意し、人生で最も重大な決断を行います。何と、自ら出雲大社宮司・出雲国造の地位を含めた全てを弟に譲り、自らは国家公認の神道教派『神道大社派』(後の出雲大社教)を創設して、全国各地の出雲系ネットワークの強化を図る覚悟を決めたのです。

こうして活動を続けた尊福ですが、やがて地位や名誉などの全てを捨ててでも自らの信念、さらには日本人の未来のために生きる姿に感銘を受けた「ある人物」が、尊福の人生を大きく変えることになります。

その人物こそ、日本の初代総理大臣・伊藤博文だったのです。