日本人の均質性を問う(1):稲作中心の見方Challenging the Rice-Centered View of the Japanese (1)
『日本人は一つの均質な集団だ』という見方は今や根強い前提となっていますが、この見方が樹立した背景には近代の学問の限られた視野、さらには政治情勢などが複雑に関与しており、読み解くことは容易ではありません。私はアカデミックとは無縁で、個人的に歴史、文化、習俗、信仰などを統合的に考察し続けているため、アカデミックが準じる均質な集団という見方には同意できず、むしろ亜流として継続的に主唱されている、日本列島の暮らしを重なり合う層として見る立場に目を向けています。それをここでは便宜的に『重層説』と呼んでおきます。
しかし同時に、どこかの時代を通じて日本人の多様な源流が一つの物語として体系付けられ、その結果として均質な集団という見方が勃興した側面を考慮しなければなりません。つまり、どちらか一方の是非を問うても無意味であり、むしろ日本思想ならではの統合的領域から深い洞察を注意深く行う必要性を感じています。
日本の古層には、未だ解明されていない複雑な人々の混じり合いが随所で起きています。昨今では遺伝子解析技術が考古学などにも広まり、様々な新説が発表されて注目を集めていますが、この成果も一概に『=日本人の実態』として結びつける傾向に変わりはなく、むしろ正しい日本理解を妨げる次の要因だと考えます。遺伝子は参照になっても、文化的混淆の複雑性を開示することはできず、かつ検証した特定の個体に強く依存することから、特に縄文・弥生・古墳時代の人々の全貌として考えることはできません。
そもそも昨今の政治事情を脇に置いて冷静に考えると、ユーラシア大陸の東の果てに位置する島国・日本という地理・歴史的側面から考えれば、アジア各地を経由して日本に渡来した人々が古来より多く存在したことは排除できないはずです。その大部分は隣の中国、朝鮮を経由してですが、さらに東南アジアや中央アジア、遠くはペルシャからの渡来もそれなりにあった可能性は様々な痕跡から読み解けます。このように複雑な系統が数千年をかけて混ざり合っていった結果、現代日本人に繋がるのですが、では一体、なぜこうした複雑性を取り込まない均質な集団という見方が多数派になったのでしょうか。
この背景には近代の学術的系譜などが複数関与しているのですが、今回は均質な集団という見方の大きな根拠を形成した『稲作中心説』について見ていきます。
『稲作中心説』とは、日本人という一つの文化の形成に「稲作(水田稲作)」が関わったという主張に端を発しており、『日本人=水田稲作』の観点から歴史を総合的に解釈する学派と位置付けられます。その源流を形成したのが、民俗学者の柳田國男(1875-1962)です。
日本初の民俗学者として優れた功績を築いた柳田ですが、一方で終生「日本人は稲作の人々」という考え方にこだわり、この前提を放棄せずに各地の民俗を体系化していきます。柳田の唱えた『稲作中心説』とは、日本人は稲作農耕民として一つの文化を共有しているという考え方であり、彼自身は民俗学の中で『常民』という概念を提唱し、この対象を水田稲作を営む定住型農耕民として位置づけました。
柳田は山間部の村落であっても、稲に対する特別な信仰があると指摘しており、「食物としては粟でも稗でも食うが、神を祭るには絶対に米がなければならない」と述べており、ここに彼の信条があったことが分かります。ここを前提したため、彼はどんな辺鄙な村落でも、神を奉祀するために人々が稲を作ろうとしたことを強調しました 。これは日々の食事は雑穀で済ませていても、『ハレ(祭礼)』の場に限って必ず米を用いるという習俗を意味しますが、これが日本各地に共通する文化的基盤だと柳田は考え、ここに日本人は一つの文化を共有しているという説を打ち立てたのです。
柳田は確かに参考になるのですが、自らの説を強化するために柳田が、日本人の起源を洞察する際には常に稲作文化を軸に語ったことには注意が要されます。その集大成が、晩年の著作『海上の道』(1961年刊行)です。同著は、南の島々から稲と稲の信仰を携えて北上し、日本列島に至った人々こそが日本人の祖先であると述べたものです。この「稲作民の南方渡来」という柳田による日本人像は、まさに日本文化の源流を稲作に求めた柳田の日本人観を示す好例です。これ以降、柳田の影響を受けた柳田民俗学とも呼ばれる学派では、村落の年中行事や農耕儀礼(田植えや収穫祭など)の全国的な類似性が重視されてしまい、逆に言えば稲作以外の信仰を無視するという極端な態度を取っていきます。
私のように日本人を一つの均質な集団ではなく、重なり合う層として見る僅かな人々は、この時に柳田系民俗学が無視した存在こそが稲作よりも起源の古い可能性を考えており、これらを一括して排除する態度に賛同できません。しかし柳田の提唱した共通性が日本人の精神的統一性の証左と位置付けられてしまい、特に天皇を頂点とする国家の一体性とも結びつけられて長年解釈されました。柳田の稲作中心説は民俗学のみならず、広く戦前・戦後の日本人論にも絶大な影響を与え、稲作を中核とする均質な日本人観を支える一因となったのです。この時に彼らの考察対象から除外された空白地域の人々の暮らしは、その後も無視されていき、稲作を行わず、稲を奉祀しない人々は日本人ではないと位置付けられていきます。この最大のプロパガンダが、「日本人の主食は米だ」という強い主張です。
この柳田の考察に逸早く疑念を抱いたのが、Shitsuraeでも何度か触れた民俗学者・折口信夫(1887-1953)です。折口は柳田の均質な日本人像に同調せず、独自に柳田が無視した古層を探って辛抱強く調査を続け、次々と論考を発表して真の日本民俗学の基礎を築いたと私は評価します。しかし一方で日本民俗学の父として位置付けられ、かつ戦前・戦時の均質な日本人像を前提とする軍部(特に陸軍)と相性の良かった柳田が圧倒的に崇められたことから、折口は異端としてそれほど重視されませんでした。
ここは、均質な日本人像を前提とする『柳田系民俗学』に対して、重層的な古層を前提とする『折口系民俗学』に分岐したと捉えれば理解が進みます。個人的には日本・日本人を理解するならば、折口の論考に目を通すことは必須だと考えているほど重視しています。逆に言えば、折口を理解していない無数の日本人論は、その提唱者の主観が強いことから注意が必要です。そして折口の系譜から登場し、柳田の唱えた稲作中心説を見事に反駁したのが、民俗学者・坪井洋文(1929-1988)です。
ですが坪井の名前は現在では完全に忘れられており、見向きもされない状況が続いています。個人的には「折口ー坪井」の民俗学こそが真の日本を開示する成果であり、鍵だと考えますが、均質な日本人像に固執する人々にとって、彼らの説は極めて不都合な側面を持ちます。坪井が無視される最大の理由は、坪井の提唱した『イモと日本人』(1979年)にあります。坪井は柳田以来の稲作を中心とする恣意的な歴史観や民俗観に対して異議を唱える内容を同著で発表、歳月をかけて調査した記録から柳田の日本人観に挑戦しました。
要点を限れば、坪井は日本各地には稲以外の作物を中心とした文化体系が色濃く残っていることを指摘しました。一般的に現代日本では、正月になると「餅」を食べることが伝統文化だとされますが、実はこれも柳田の稲作中心説に由来する見方で、本来、日本各地には正月に餅を食べない地域が多く存在しました。そして餅ではなく、こうした地域では正月に里芋を奉祀しており、食べていることを坪井は実証します。さらに里芋に限らず、山芋、粟・稗などの雑穀などを主とする伝統的食文化がある実態を解明し、稲を文化に持たない人々の存在を示したのです。
ここで読者は勘づくかもしれませんが、雑穀や芋類は『畑作』系統の食物です。これは簡潔に言えば、柳田の主張した『水田稲作』への対抗ですが、実は前者の方が圧倒的に日本全土に広がっていたのです。中でも坪井が重視したのは『焼畑』ですが、こちらは今となっては皆無に等しくなり、事実上絶えてしまったと言えます。なぜならば、この系統の文化は柳田的な水田稲作系文化に駆逐されていったからです。実際、現代日本人は米を主食と考えるほど稲文化は浸透しており、各地の祭祀でも稲が奉祀され、正月も大半は餅を食する文化に置き換わっています。
そしてこの柳田による誤った主観的日本人像は、やがて同時代に勃興する考古学にまで影響を与えてしまい、後に水田稲作崇拝を天皇崇拝と結びつける戦時体制へと向かっていったのです。