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写真と記憶、体験:日本思想からImages And Experience Through Japanese Philosophy

全ての瞬間をスマートフォンで撮影するようになった現代。写真はかつて、大切な記憶をそのまま保存するものだと考えられてきました。しかし現代では「写真は記憶」どころか「写真≠体験」、つまり写真は体験そのものではないという指摘もあり、写真=記憶から写真≠体験という価値観に移りつつあります。それでは、写真は何を記録しているのでしょうか。いや、そもそも写真は記録したことなどあったのでしょうか?そこが私の思索の立脚点です。そこで本稿では、神道の自然観、禅の思想、俳句の美意識など、日本の伝統的な思想や感性を踏まえた私の写真についての考え方を、少しだけ開示します。

これまで、一般的に写真は「思い出を残す」ためのものと位置づけられてきました。実際、一枚の写真を見ることで、写っている光景から当時の情景や自分の気持ちがさまざまに蘇ってくることは事実です 。このメディアの特性から、写真は現実の一場面を封じ込めた記録であると同時に、それを見る人にとっての記憶でもあるという認識が広まって今日に至ります。特に現代では誰もが経験しているように、スマートフォンで気軽に撮影できるようになり、かつて一部の人々しか扱えなかった写真メディアは、完全に民主化されました。その結果、旅先でも日常生活でも、とにかく誰もが全てを記録しようとスマートフォンを向ける姿に日々遭遇するようになりました。この現代的な現象について、体験よりも記録が優先されがちだと指摘される向きも強まっており、実際、写真を撮ることに集中しすぎると、肝心の出来事が記憶に残りにくくなる現象も報告されています。しかし、本当に問題の肝心はそこにあるのでしょうか?

私自身も日本の調査のために全国各地を訪れる際には多くの写真を撮っています。これらを公開することはありませんが、これまで撮影した日本各地の祭り、神社、民俗、物、風景などの写真データが大量にクラウドに眠っています。頻繁になぜソーシャルメディアで公開しないのかと聞かれるのですが、自分が撮影している写真を理解できる人は少ないからといつも答えています。なぜならば、私が撮っているのは対象ではなく、『心性』だからです。つまり、私にとっての写真は記録でも記憶でもない、ゆえに公開してもほとんどの人にはその本心が分からないため、公開しないという態度を以前から取っているに過ぎません。これはソーシャルメディア依存が過剰となった現代的な文脈で注目を集めている脱ソーシャルメディア、あるいはデジタルデトックスとは全く異なる考え方ですが、私の基本的な信念としては、テキストメディアを理解できる僅かな人々に限っては、時機を見て公開しても構わないという考えです。

つまり私にとって写真は読むメディアでもあるため、実は写真・動画以上にテキストメディアを重視しています。しかし同時にこの意図は、テキストに書かれたことを読むことを意味しません。こうした観点は、これまで自分自身も明瞭ではなかったのですが、面白いことにAIが台頭してきたことによって、これまで不明瞭だった点がかなりクリアに見えてきました。というのも、AIの台頭の本質はテキストメディアの重要性が再考されることにあるからです。ですが現代人、特に私同様に1990年代以降に生まれた世代は、インターネット、ソーシャルメディア、スマートフォンなどと強く結びつきながら育ってきた世代であるため、中々この意味を理解することができずに停滞しているように感じます。

常々私は、技術的民主化は歓迎すべきことであるが、同時に深い思考を持たなければ、単なる便利なツールに成り下がると感じており、深い思考を日々鍛錬する僅かな人々こそ、技術的民主化を積極的に駆使する時代だと考えます。この観点が現代人には抜け落ちているため、今日のような見るのも嫌になる光景が世界各地で広がっていると言え、それが結果的に日本では『新時代の公害』というニュアンスで語られるようになっていると言えます。なぜなら本当に技術的民主化において重要なことは、技術によって何が可能かではなく、根本的に誰もが深い思考で日々思索している未来の理想を表現する最大のパートナーだからです。ここを理解しているか否かが、新時代を生き抜く一つの鍵だと考えます。

そのため、私は写真で対象自体を撮っているのではありません。ここに写真メディア(カメラも含めて)を開発した西洋的コンテクストとは異なる、日本思想の観点があります。今はまだ示唆する程度に留めますが、ここに潜んでいるのが言語構造の違いです。簡潔に言えば、日本語に主語はない、コプラもないからこそ、日本人独自の写真観を樹立することができるのです。私はその対象と呼ばれるものが場所、人物、物であれ何であれ、そこに宿る『心の動きの残渣』(心性)を感じ取っています。それを『風土』という日本概念の現代的解釈に位置付けていますが、これは時空など存在しないということです。そこが私の写真に対する根本の考え方になります。

この考え方を写真の深部に据えているため、異質なように思えるかもしれません。つまり、一般的に考えられている意味での主体、客体もない、主観も客観もないのが日本思想であり、ゆえに写真というメディアは『私』が『対象』を撮影するものではないということです。ここで苦闘してきた歴史こそが日本の写真史であり、日本人写真家たちですが、彼ら自身は日本語の言語構造に注意を払わなかったことから、そこを突破できませんでした(この辺りは今後少しずつ記事にします)。なぜなら彼らも多くの日本人同様、日本語には主語があると錯合しているからです。

この私独自の思想には、茶道に由来する『一期一会』、古くから伝わる『もののあはれ』、さらには古代日本の自然信仰から神道、言霊、禅、さらには『余白』や『間(ま)』などに至る複合的な日本の感性がミックスされており、一言で言い表すことは不可能です。しかし、これらを写真メディアではなく、テキストメディアを通じて日々伝えることで、テキストを読むことのできる僅かな人々に「何かを感じる」機会が生まれます。ある意味、ほとんど毎日Shitsuraeで記事を書いてリリースし続けているのは、私自身が主観ではなく、『日本』を伝える唯一かつ最適な手段であると考えているからです

私は日本を『思想の森』と考えています。まるで富士山麓の樹海に足を踏み入れるように、地図もなければコンパスも効かない深い森に入っていくことが日本思想の世界です。いつの日か、写真を公開する適切な時期は来ると思いますが、それまで膨大なテキストをお読み頂ければ、これほど嬉しいことはありません。