古事記と日本書紀が生まれた事情Kojiki and Nihon Shoki's Role in Forging Early Japan
日本最古の神話・伝承などを体系化した歴史書『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)。一体、なぜ同時代に二つの歴史書が必要とされたのでしょうか?それについて伝統的に『古事記は内向き=国内向け』、『日本書紀は外向き=対外発信』の歴史書と位置づけられて弁別されてきましたが、実はこの観点が明確になってきたのは近代の研究以降の話です。そのため、そもそも8世紀前半頃にこれら書物を制作した人々がそうした意図を持っていたかは今も曖昧であり、冷静に日本史を見ると古事記と日本書紀は時代に応じて日本国内で活発に活用されていたことが見えてきます。言い換えれば、日本は古事記の動きと日本書紀の動きとして以降の歴史全体を捉えることができます。
まず、こうした安易な解釈が生まれた背景には、古事記と日本書紀の制作が行われる当時の時代状況に由来します。6世紀中頃に仏教伝来が起きて以降、主に大和(現在の奈良県南部)を舞台に権力争いが激化するのですが、この時に大きく天皇を挟んで政治的に『排仏派』と『崇仏派』に二分します。排仏派とは神道の歴史由来で初代・神武天皇より祭祀などで関係を持っていた物部氏が率いた一派ですが、この時には事実上、物部氏は邪魔者を朝廷から排除して独裁状態に入っていました。この朝廷内で激化する権力闘争の隙を捉えて、一気に勢力を拡大して発言力を持ち始めたのが蘇我氏です。
この蘇我氏については今も確たるルーツは分かっていませんが、当時奈良県南部には大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々が数多く暮らしており、その結びつきの中で台頭した人物であることから、個人的には蘇我氏も大陸との結びつきが深かったのではないかと考えています。蘇我氏率いる集団は大陸との行き来が深いことから、仏教との親和性が高く、新天地での影響力を高めるために仏教を掲げて天皇に受容を迫ります。これに対して物部氏は外来の仏教を信仰することは、日本の神道における神の怒りを買うと反発。両者は激しい議論を日夜交わし、政治的実権を氏族に領有されていた天皇は何も決められずに右往左往します。この天皇の決断力に欠ける態度が、蘇我氏の台頭を許す直接的な原因となります。
こうして排仏派と崇仏派は衝突し、遂に戦争に至って渡来の人々とも結びついた蘇我氏側が圧勝したことで、物部氏は壊滅して政治的実権を完全に喪失し、朝廷は蘇我氏の独裁体制に入っていきます。これは半世紀近く続くのですが、この新興氏族に深い恨みを抱いていたのが旧派の氏族の末裔たちです。こうして蘇我氏の覇権が綻ぶ時代になると、かつて物部氏と双璧を担っていた中臣氏の末裔と、皇族の中大兄皇子がタッグを組んで武装蜂起を起こし、一連の『大化の改新』(645)というクーデターとして帰結します。蘇我氏はこの時、壊滅します。
しかし時代は蘇我氏によって仏教が各地に急速に布教され、寺院や仏像などが配置されていたことから、彼らも仏教の影響を免れることはできません。そして中大兄皇子は天智天皇(668-672)として即位し、執政を氏族から取り戻そうと画策し始めるのですが、今度は日本ではなく朝鮮半島側で異変が起こります。
7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅という三国が激しく対立していました。この三国のうち百済は古くから日本と深い同盟関係にあり、技術・文化の伝来先でもありました。ですが、660年に朝鮮半島に進出を強めた東アジア最大国である唐と新羅が連合軍を組み、侵攻したことで百済は滅亡します。この時、百済の王族の一部と遺臣たちが日本に亡命し、「百済復興支援」を正式に要請したことで、国内の事態も一変し始めます。天智天皇は、外交・軍事的に強い繋がりを持っていた百済の滅亡は日本の国家的危機と捉え、仮に唐・新羅の勢力が朝鮮半島全体を掌握すれば、次は日本列島にも圧力が及ぶと判断し、百済の再興を助けるための大規模な遠征軍を派遣します。ただし天智天皇の即位自体も事実上はクーデターであったことから、そもそも彼は朝廷の統制さえ取れないまま、準備もせずに他国の戦争に乗り込んでしまったと言えます。
こうして663年に日本・百済連合軍は、現在の韓国・錦江河口付近にあった白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。この戦いは主に水軍(艦隊)による海戦でしたが、唐軍の戦術と兵力に圧倒され、統制など取れていない日本・百済連合軍は壊滅的な敗北を喫しました。記録によれば、多数の日本兵が溺死し、艦隊は壊滅状態だったとされています。ここで大敗を喫した天皇と氏族は、次は日本への侵攻だと誰の目にも明らかだったことから、戦々恐々として全ての意欲を失い、あろうことか天皇は大和を放棄して軍事侵攻が難しい滋賀県琵琶湖近辺に遷宮を行って逃げてしまいます。これが当時の日本の中心勢力である大和の人々を失望させ、一気に求心力を失ったことが後の古事記・日本書紀の制作事情に関わってきます。
白村江の戦いに敗戦したことにより、以降の時代で日本で大きな変化が生じていくのですが、重要となるファクターを簡潔に示しておきます。これは実は日本が江戸時代を終えて明治維新に入り、そこから近代化へ向かった大きな変動と匹敵します。
•防衛体制の強化:九州北部に『水城(みずき)』や大野城などの防衛施設を築き、中国・新羅の侵攻に備えますが、大半は各地から集めた軍勢で、天皇に対する求心力は乏しかったとも言われています。
•国家体制の再構築:求心力を失ったことから、律令制度の整備を急速に進め、中央集権的な統治体制への移行を加速する原因ともなり、天皇が執政を握る体制樹立が画策されます。
•唐との外交関係の再構築:やがて日本は唐との直接衝突を避ける方針に転じ、遣唐使を通じた朝貢外交を行うようになり、仏教は日本で繁栄の時代を迎えることになります。
そして天智天皇の逃げ腰に辟易したのは大和の氏族や民だけではありませんでした。この態度を最悪の統治者の姿だと捉えて、このままでは天皇家が壊滅すると強い危機感を抱き、体制再構築に加え、天皇の主権を氏族の手から取り戻すことを密かに胸に秘めた人物が登場します。それが天智天皇の弟であった大海人皇子です。
天智天皇は滋賀の近江大津宮で病に臥せて死期を悟ったことから、大海人皇子を呼び寄せて皇位継承を依頼したと伝わりますが、実は自身の子・大友皇子を即位させるための陰謀でした。この時、既に求心力を失っていた天智天皇の側近は、次の時代を見越して強い指導者像を体現する大海人皇子に通じる者も居たことから、呼び寄せる際に派遣された人物が大海人皇子に皇位継承を了承すると暗殺されると告げます。この助言を理解していた大海人皇子は天智天皇の申し出を断り、天智天皇の長男こそが次期天皇に相応しいという素振りを見せて暗殺を免れて、自らは皇位継承の意思はないことを示すべく、出家を装って奈良県南部の吉野山に逃れていきます。この時、吉野山で暗躍していたのが何度がお伝えした役小角(役行者)でした。当時最高の知性と呪力を有し、未来を見ることのできる役小角に助言を求めた大海人皇子は、各地の山岳を自由に行き来する役小角の力を借りて、密かに近江大津宮近郊の山岳に潜む部族たちを集結、天智天皇の死後に一気に攻め入ることを計画します。
こうして672年1月7日に天智天皇が死去すると、皇位継承権は大友皇子に移りますが、着実に準備していた大海人皇子は天智天皇の死から約半年後の6月24日に軍勢を一気に侵攻させて、たった一ヶ月で大友皇子を討ち取ります。そして求心力を回復するために、再び大和に戻って天武天皇として即位しました。この時の事情は記されていませんが、当時の大和系氏族や民は歓喜して新たな天皇を迎えたと考えられます。
ここで一気に天皇の実権を高める施策を天武天皇は次々と実施するのですが、その一つが『正統性の再構築』でした。これはそれ以前の時代の天皇は単なる氏族権力の隠れ蓑であり、実質的な権威を持っていないことに対する反動で、しっかりと天皇自らが執政を握るための国策でした。その天皇主権の統治のために急務であり、最も障壁となっていたのは、実は氏族ごとに伝わり、語られる古い神話・伝承の存在でした。なぜならば、これらは氏族のルーツを正統化するものであり、この古い神話・伝承が天皇のルーツと関係することが明確化されない限り、氏族は天皇に従う道理はないからです。この古代的感性が残った状態では、とても統治など不可能です。それでは唐に太刀打ちする以前の問題だと捉えた天武天皇は、天皇・氏族のルーツを自身の元で体系化することによって統治を強める中央集権体制を画策し、ここで画期的な『古事記』編纂が国家プロジェクトとして先に始まったのです。