契沖と五十音図 国学の始まりOrigins of Japan's Gojuon Chart and Its Cultural Impact
前回の記事では、大きく現代日本語の主要ルーツが東北アジアの西遼河の農耕民に由来し、弥生時代を作る新たな人々が日本に渡来したことに始まると書きました。続いて、今日の日本語の基礎である『五十音図』が、どのように形成されたかを見ていきます。
弥生時代に日本語の原型が築かれて以降、6世紀の仏教伝来などの影響を受けて以降も、『五十音図』という体系化は行われておらず、さらに時代を進んだ江戸時代まで待たなければなりませんでした。この江戸時代とは、各地の侍の君主による覇権闘争の時代を経て、はじめて日本を統一した徳川家康(1543-1616)の樹立した江戸幕府に由来します。注目すべきは、徳川家康は新たな体制の未来を、学問の積極的な促進に見ていた点です。
ここからShitsuraeでも何度か取り上げた中国由来の儒教が爆発的に日本で採用されるようになり、相対的に中世まで圧倒的勢力を誇っていた仏教が衰退します。すると今度は、隆盛した儒教に対立する新たな日本固有を標榜する学問が打ち立てられます。それが、国学です。この国学の開祖は興味深いことに、仏教の僧侶に始まります。その開祖となる人物が、契沖(1640-1701)です。
江戸時代前期の僧侶・契沖は、仏門にありながら日本の古典と言語研究に深い関心を寄せ、後の国学の基礎を築きます。ただし契沖の在命時に国学という呼称はありませんでした。これは後に国学の歴史を編集する過程で、開祖は契沖だと捉えられるようになったからです。契沖は『万葉代匠記』(1690年)などで、古い日本の言葉を用いて制作された万葉集の研究に没頭し、実証的な手法で古語の音韻を探究する新たな姿勢を提唱します。
この背景には、江戸時代に徳川将軍の号令の下で、学問が武家に限らず庶民にも広がり、従来の権威的かつ閉鎖的な師弟関係に頼らず、合理的な考証を重んじる風潮の高まりが強く影響しました。契沖自身は真言宗の僧として梵字(インド由来のサンスクリット文字)の研究にも通じており、密教で陀羅尼を正確に唱えるための音声学的知識も身につけていました 。この源流にあるのが、前回も触れた真言宗の開祖・空海(774-835)です。こうして契沖の仏教的素養(密教)と古代日本語への探究心が不思議な結合を果たし、そこから日本語の仮名音を母音と子音の二軸から整理するという画期的な五十音図の体系化へと至ったのです。
契沖は日本語の音声について「東の辺境ながらその声音は最も清く雅であり、中国やインドにも通じる」と述べています。中でも注目すべきは、「我が国の言葉には霊妙な効力が宿る」と主張したことです。これが読者も聞いたことがあるでしょうが、日本の『言霊』のことです。実は言霊の隆盛は、この国学とは切っても切れない関係にあります。
このように契沖は、日本語を中国やインドの言語に匹敵する体系と霊性を持つものと捉え、その音韻構造を解明する思想的立場の先頭に立っていました。この背景には、当時の知識人が中国文化を礼賛する傾向に依存するあまり、日本文化自体を全く見ていなかったことに対する強烈な批判がありました。この批判精神こそが、後の国学勃興の基礎となります。日本は数千年も隣国の大国・中国から大きな影響を受けてきましたが、いよいよ脱中国を目論む時代に足を踏み入れたのです。
しかしそのためには、日本語の言語構造を明らかにし、それが中国に匹敵する深い精神性を持つことを示さなければなりません。当然、太古より文明化が進んだ歴史を有する中国を参照するわけですから、この作業は容易なことではありませんでした。こうして契沖以降、国学者は何代も偉業を継承しながら、古代日本語の重要参照書籍であり、現存最古の歌集『万葉集』の研究に打ち込むことになります。万葉集の成立は不明な点が多いのですが、収録されている長歌・短歌などは、7世紀前から8世紀中頃までです。
さて、五十音図は馴染みがなければ難しいでしょうが、端的に言えば、日本語の仮名音を表音的に整理した表です。図としては、「母音を軸とする段(横列)と子音を軸とする行(縦列)」から成ります 。例えば、ア行(あ段)は五つの基本母音「あ・い・う・え・お」からなり、カ行ならこれに「子音/k/」を付加した「か・き・く・け・こ」が並ぶという具合で構成されます。この表は、5つの母音系列と10前後の子音系列(清音)との組み合わせで仮名音を体系的に配置したもので、日本語の音節構造を初めて論理的に分析、かつ簡潔に整理したものです 。
一方で、それまで学者に使用されていたのは『いろは順』と呼ばれるものです。こちらは推定10世紀末から11世紀半ば頃に成立したものですが、仮名47文字(または48字)を重複無く用いることで、歌(いろは歌)を通じて仏教の無常観を表現するために開発されました 。ただ、「いろは順」はそもそも順序自体に言語学的な意味はありませんでした。そのため、中世から江戸時代にかけて、五十音図の行や段の配列順序は固定されておらず、用途に応じて様々な並べ方が試みられる混乱状態にありました 。
例えば、五十音図は縦横の軸(子音と母音の系列)さえ保持すれば、行・段の順序を入れ替えても体系が保たれる柔軟性を持つのに対し、いろは歌は一字一句順序を変えられない固定的なものであり、かつ無数の伝統的なルールがあります。ゆえに多数の流派が存在し、特定の流派の体系は秘伝として扱われてきました。秘伝ですから、特定の階級以外はアクセスできない閉鎖的なものだったのです。
こうした歴史に対して、江戸時代はかなり開明的な思想を発揮することのできる時代でした。そうした時代の風を受けて、『五十音図』という名称を用い、現在知られる形にまで整備したのは契沖の功績です。彼は著書『和字正濫抄』(1695年成立)において、この音図を提示して仮名の用法を論じます。この五十音図は「仮名音に内在する秩序を可視化」した点で思想的意義が大きく、それまで曖昧だった音の区別も体系内で位置づけることで明確化され、日本語音韻への科学的アプローチを可能にしました。
契沖の示した音図は、日本語にもサンスクリットや漢字音のような整然とした音体系があることを示し、後の国学者たちによる古代日本語の音の探究や、言霊を学問的に研究する未来にも大きな影響を与えました。
契沖の登場以降、いよいよ日本語は体系的に構築されていきます。そして、それまでは「山を越えれば別世界」と言われていた日本の村落社会を大きく変えていくのです。視方によっては、体系的な日本語の成立が、1868年の幕府転覆運動へと結びつく動因だったと言えます。