役小角と山岳信仰・修験道の始まりEn no Ozunu and Japan's Ancient Mystical Mountain Tradition
狭い国土が険しい山脈に囲まれた日本では、古来より山岳信仰が活発に行われてきました。しかし実は、太古の縄文人や弥生人は山岳信仰を持っておらず、こうした動きが現れるのは遥か後代の話です。その中心的人物が、役小角、別名・役行者です。役小角は古代日本の山岳修行者の始祖的存在ですが、これは後に『山伏』と呼ばれて1000年以上も密かに活躍する集団の源流でもあります。役小角はその功績から史実と伝説が交錯し、歴史的に崇拝されながら日本で最も神秘的な存在として語り継がれてきました。
役小角は634年頃、現在の奈良県御所市に生まれたと伝えられていますが、出生についての確実な公式記録は残されていません。平安時代初期に記された最古の説話集である『日本霊異記』などの伝承では、役小角は賀茂氏の一族に属していたことが記されています。この賀茂氏とは、後の平安時代に陰陽道と呼ばれる秘術を駆使する集団の始祖・安倍晴明(921-1005)の師である賀茂忠行の祖先であり、一族の源流には秘伝の呪術の存在があります。
幼少期より聡明で仏法に深い関心を寄せ、自ら経典を学び修行に励んだとされる役小角は、少年期から「五色の雲」に乗って仙人の集う宮殿に飛び、仙人と共に修行する空想を抱くほど、霊的な世界に憧れていました 。こうした素質と環境が、後の役小角の思想と修行の基盤を形成します。実際には役小角は出家はせず、在家仏教修行者である『優婆塞』として故郷の葛城山にこもり、本格的な山岳修行を始めます。葛城山や大峰山などの山深い洞窟に30年以上も籠もり、松葉や草の汁を食して暮らすという厳しい自給自足の行を積んだと伝えられます 。この長年の修行の中で、役小角は密教系経典の『孔雀明王経』由来の強力な呪法を独自に習得し、不思議な能力を身に付け、徐々に政治のフィクサー的存在にのしあがります 。
さらに「飛行術」とも言える力で空中を自由自在に飛行し、五色の雲に乗る術を会得した上、鬼神を使役する法術を体得します。民間伝承によれば、彼は山中で祈念し、多くの鬼神を呼び集め、これらの鬼たちに水汲みや薪集めなどの雑事を行わせていたとされます 。その命令に従わぬ鬼がいれば、彼は呪術で縛りつけたとも伝わり、そうした鬼の神を駆使する能力が各地に広まり、非常に有名な人物となります 。
神を超越する神秘能力を獲得した役小角でしたが、やがて様々な噂が飛び交うようになり、政治的中枢を担う朝廷を転覆しようとしているとデマが流されます。これにより、699年5月に当時の文武天皇(在位697-707)は、69歳の役小角が呪術を駆使して謀反を企てたとする罪に問い、政治に影響の及ばない遠く離れた孤島・伊豆大島に流刑します。この時の出来事は、797年に成立した『続日本紀』に記されています。またこの時、昼は島で大人しくしていましたが、夜になると「飛行術」を駆使して海を越え、富士山に飛んで修行をしていたとも伝えられます。実は、日本で初めて富士山に登頂したのは、この役小角です。
この流刑は、701年に天皇の恩赦によって取りやめとなり、一転して朝廷は役小角を正式に政治の有力者として迎え入れようとします。しかし役小角は伊豆大島から奈良への帰路の途中、突如空に舞い上がって消え去ります。一説には、そこから中国の唐に飛び去り、中国の仙人たちと暮らしたと伝えられており、役小角は以降は人々の前から姿を眩ませ、歴史の記録にも残っていません。没年はこの701年と言われるも確証はなく、その後の消息は史実では不明です。一体、これほどの有力者はどこに消えたのでしょうか?
その後、長らく人々は役小角は「生きながら不死の存在になった」と語り継ぎ、伝説の不老不死の仙人として後世に名を残します。そして役小角以降、山岳に隠れ籠って修行を続け、超人的な能力を開化した伝説は語り継がれることになり、多くの仏僧が寺を捨てて山に向かい、独自の修行を始めます。これが山伏の始まりであり、さらに一つの大きな宗教ムーブメントである『修験道』の成立に繋がっていったのです。
インド由来の密教、中国由来の道教、日本由来の山岳精霊信仰をミックスし、独自の哲学を研ぎ澄ませた役小角。今も謎多き役小角の伝説は、日本各地に残されています。