日本語が難しいと思われる理由 日琉語族と五十音図Understanding Japanese Language Difficulty from a Historical Perspective
日本語が難しいと思われる大きな理由の一つには、実は言語系統が異なる側面があります。日本語は、英語やフランス語などのヨーロッパ系言語(インド・ヨーロッパ語族)とは系統を異にしており、『日琉語族』という独立した系統に属する言語です 。この日琉語族には日本語のほか、現在の沖縄や奄美諸島などの『琉球諸語』が含まれており、これらは共通の祖語である『日琉祖語(Proto-Japonic)』からどこかの時代に分岐したと考えられます。
比較言語学の観点からも、日本語と欧州系の言語との間には、語彙や音韻体系の体系的対応関係は見出されていません。また歴史的経緯から見ても、日本語はインド・ヨーロッパ語族とは別系統で発展してきたことが徐々に明らかになっています。そのため、日本語は大枠では『アルタイ諸語』、さらに現在では『ツラン語族(Transeurasian)』と呼ぶ大語族仮説に属すると考えられており、引き続き調査が行われています。つまり、インド・ヨーロッパ語族とは系統を同じとしない独自の系統に位置付けられることが、英語やフランス語を母語とする人が日本語を学ぶときに難しいと感じる理由です。はっきり言えば、英語などの言語構造とは根本的に異なります。
では一体、この現代日本語のルーツは、日本で独自に生まれたものなのでしょうか?これまでの研究では、現代日本語の祖先にあたる日琉祖語は、古代の弥生時代に大陸を経由して伝来したという見方が有力になっています。概ね、日琉祖語は紀元前9世紀頃に朝鮮半島を経由して日本の主に北部九州)に伝播したと推定されています 。これは1万年以上も続いた縄文時代から、大陸から渡来した人々を中心とする弥生時代という新たな時代に変わる変遷期と考古学的にも一致しており、日本語の誕生は大陸から新たな人々が列島に到来したことを強く示唆しています。
この日琉祖語を話す人々のルーツは、中国東北部で他の言語族(ツラン語族=アルタイ系)の祖形から分岐した後、朝鮮半島南部に入り、それから日本へ渡来したと考えられます 。一方、朝鮮半島ではその後、紀元前5世紀頃に別系統の原始朝鮮語(Proto-Koreanic)が大陸から広がったことで、先住言語であった日琉祖語を駆逐していったという可能性が高く、それ以降は失われたと考えられます 。以上から、日本語の源流は弥生時代にさかのぼり、ヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族による拡散とは、全く別個の系譜であることが分かります。
ただし、その過程にはさらに複雑な別の言語系統を有する人々との交わりがあったと考えられており、概観は明らかになりつつあっても、細部までを解明するにはまだまだ歳月が必要です。すでに縄文の人々にも複数の集団が分かれていたのではないかという説もあり、古代の列島における人々の複雑な交わりによって、独自の日琉祖語が誕生されたとも言えます。
しかし、現在のように日本語が体系化される契機は、それから1000年以上もの歳月を要したとも考えられます。その一つの根拠が、日本語の音韻体系をまとめた『五十音図』の存在です。この五十音図については、開発者が誰なのか、いつの時代に成立したかについて謎に包まれていますが、その最初の契機は古代日本では独自の表音文字を持たなかったことから、中国の漢字を借りて、日本語の音を表す万葉仮名が開発されたことに遡ります。こうした流れは、古事記(712年)や日本書紀(720年)の成立にも大きく寄与しますが、この文化を大きく開花させたのは平安時代です。
当時、朝廷の貴族や仏僧、神官などは文字を読み書きすることが教養だったのですが、従来の中国語から漢字を借用して日本語の音を表現する方法に満足できなくなり、万葉仮名を草書化した「平仮名」や、漢字の一部を簡略化した「片仮名」を発明します。これにより、中国語に依存する状態からの離脱を試みて、日本語を書き表す「かな文字体系」が成立します。これは「仮名」と呼ばれますが、この仮名が普及する過程で、徐々に「日本語の音(音節)」を体系的に整理しようとする意欲的な試みが生まれました。
この背景には、中国から伝わった漢字音の研究と韻書の影響が一定程度浸透したことと関係しています。奈良時代から平安時代には漢詩の作成が日本でも盛んになるのですが、この時は中国の韻書に倣い、同じ韻母や音の特徴を持つ字を縦横に配列した図表である『韻紐図』が知られるようになります 。この影響で、日本語の和歌でも同じ母音を持つ音節の共通性が意識されるようになり、日本語音声を母音と子音の要素で整理するアイデアが芽生えたと考えられます 。つまり、中国の漢字音韻学からの強い刺激により、日本語でも母音が音韻体系の軸として初めて認識されるようになったのです。
それに加えて、仏教伝来に伴う「サンスクリット音韻学」という『悉曇学』と呼ばれるものの導入も、五十音図成立に大きく寄与しました。特に真言宗を開いた日本密教の開祖である空海(774–835)や、天台宗の円仁(794–864)といった平安初期の有力僧侶たちは、中国の唐に渡って梵字(サンスクリット文字)とその発音法を学びました。サンスクリットの悉曇文字では、母音・子音を体系的に表に配列するインド系の音声理論が確立されており、空海らはこの知識を日本にもたらします。つまり、この時にインドを通じて、別の言語系統と日本語が学的に接触したのです。
実際、日本最古の音韻表は、平安時代中期の仏典注釈書『孔雀経音義』写本に付記された音図であり、これが五十音図の原型と考えられています 。つまり平安時代までに、梵語由来の音韻表記法が日本語にも応用されたことで、仮名音を縦横の表で整理する枠組みが誕生していったのです。
ただし、この時代の時点では現代日本語の根幹である五十音図という名称はなく、また一部の知識人に限定的に共有されるものであったことから、体系的な日本語の誕生には至りませんでした。では一体、この閉鎖的な状況が変わったのはいつ頃なのでしょうか?その一つの鍵となるのが、Shitsuraeで何度か扱ってきた江戸時代の国学なのです。