「日本にはなぜ神がこんなに多いのか?」Why Countless Gods Shape Japan's Sacred Landscape
海外から日本文化を深く知ろうとする人が抱きがちなこの疑問は、日本固有の神観念である「八百万の神」に由来します。まずは読者の理解が進むように、文化人類学や比較宗教学の立場から、これまで日本の神道が万物に霊性を認めるアニミズム(animism)の一形態と捉えられてきたことを前提に考えていきましょう。
噛み砕いて言えば、「八百万の神」は森羅万象あらゆる事物に神秘的な精霊が宿るという世界観であることから、この点は多くの読者にも理解しやすいように思います。実際、日本では岩石、滝、花から組織や成長、さらには人生で起きる抽象的な現象や概念に至るまで、ほぼあらゆるものが神の顕現であると考え、信仰心を持ちます。これは日本では『神霊』という概念で表されてきましたが、世界的な一神教のように唯一絶対の創造神は日本には存在せず、無数のkamiの存在を前提とする点が、日本の信仰観の大きな特徴です 。例えば、神社に行くと交通安全の神、学業成就の神、安産の神という具合に初めて訪れる人には見慣れない独自の信仰が息づいており、いずれも現在でも広く信仰されています。
車を購入すれば交通安全の神に祈り、試験の前には学業成就の神に祈り、出産時には安産の神に祈るという具合です。最も極端な例では、京都の石清水八幡宮ではトーマス・エジソンを「電気の祖神」として祀る奇祭すら存在しており 、こちらはパナソニックなどの電気メーカーなどに所属する人々の参拝が絶えません。
しかし、神道の信仰をアニミズムの一形態と見る外からの視座は、どうも神々とともに暮らしてきた人々にとっては腑に落ちるものではないことも事実です。では、その伝統の内側では、この「八百万の神」という多神教的概念をどのように捉えてきたのでしょうか。最初にyaoyorozuを日本語表記すると「八百万」になりますが、これは八百万という数量を表しているのではなく、「数えきれないほど多い」ことを意味する古代の慣用表現に由来します 。実際、文献上でも実数としての八百万神が列挙されているわけではなく、古代日本人にとって数えきれない無数の状態を表す表現が、今日にまで継承された結果と言えます。
例えば、Shitsuraeでも何度か取り上げている日本最古の神話・伝説を記した『古事記』(712年)には『天岩戸神話』という重要な神話があります。これは荒い性格の素戔嗚という神が、姉のアマテラスに悪事を働いた結果、アマテラスが岩戸に隠れこもってしまい、世界が闇に包まれたという神話です。その時、「八百万の神」が天安河原という神聖な河原に集まり、天照大神を岩戸から出すために相談し合ったという記述があります。これが「八百万の神」の文献に見える初期の用例です 。この場面での「八百万」も「極端に数が多い」という意味で使われていることから、八百万の神とは「無数の神の総称」であることが理解できます。
同様の慣用は他の古典にも広くみられます。例えば古事記よりも8年後に成立した『日本書紀』では「八十万神」、和歌集『万葉集』では「一千万神」、出雲国風土記では「一千五百万神」など、桁違いの数字を活用して神の多さを表現する用例が見られます 。これら数字に一貫性はないのですが、これらはいずれも「ありとあらゆる神」という意味を含んでおり、古代日本人が感じ取っていた自然界や生活世界に遍在する無数の神聖な存在を示す表現であることが分かります。
こうして育まれてきた土着の神観念ですが、やがて中国を経由して伝来した外来宗教の仏教との接触により、大きな影響を受けます。肝心な点は、6世紀に仏教が日本に伝来した時、日本人は仏や菩薩を外国から来た神という意味の「蕃神」と呼び、在来の神と区別しつつも、同時に仏や菩薩を『神の一種』として自然に受容したことが『日本書紀』に伝えられていることです 。つまり仏教伝来の初期の時点で、早くも仏は神の一つとして捉えられたのです。もちろん、仏教伝来の初期から物部氏を中心とする排仏派と、蘇我氏を中心とする崇仏派に分裂して幾度も戦が起きましたが、これらは朝廷の政治権力を巡る争いの表向きの理由であることから、人々の日常では比較的スムーズに受容されたと言えます。
こうした器用なことができたのも、古代日本人に神という信仰の深い土台が培われていたからです。まるで新たな信仰を包み込むように、あっという間に受容してしまいました。そのベースには仏教の仏が優位なのではなく、神が根底にあるからこそ初めて仏を受容し得たということです。この独自の信仰における価値観が、歴史を通じて激しく揺れ動き、多様な形で日本史を形成してきたのです。
この最初の動乱期は、仏教が普及する過程に現れました。初期的には仏を神の一種と捉え、神によって仏を包み込んで消化してしまった古代日本人の信仰観を否定し、仏こそが根本であると関係を逆転させる新たな動きが生じます。この大きな動きを『神仏習合』と言います。
この神仏習合の時代に入ると、仏教信仰の派閥が急速に拡大してかなりの権力肥大化を招きます。そこで多くの人々を仏教に帰依させるために僧侶たちは戦略を考え、遂に『本地垂迹説』という新たな哲学を樹立します。これを端的に言うと、仏が神の一種なのではなく、神が仏の仮の姿(垂迹)であり、本来の実体(本地)は仏そのものであるという大きな変動です 。この戦略は見事に功を奏し、あっという間に大勢の人々を仏教に導くことに成功したため、仏教の絶対的地位の確立は躍進し、古代日本の哲学と反転する時代に入っていきます。
特に京都に首都機能が移った794年の平安時代以降、この考え方によって神と仏は本質的に不可分の存在(つまり対等)とされていき、徐々に熊野権現や白山権現など神仏混淆が次々と生まれるほど両者は融合する混乱時代を迎えます 。こうした奇異なことが起きたのは、人々が元々「八百万の神」という非実体への信仰を持っていたからです。平安時代以降は貴族の権力肥大化が仏教の主要宗派と結びつき、民の生活が激しく脅かされた時代であり、これは結果的に民の側に立った武士の台頭へと帰結します。
ただこうした不安の時代には、伝統的な「八百万の神」という信仰では人々の要求を満たすことができず、むしろ仏教のように可視的な仏像や経典を伴う宗教の方が、時代の要請に合っていたからです。このように「八百万の神」は徐々に仏教的宇宙観とも重ね合いながら融合し、中世日本では神も仏も包括する包摂的な信仰体系が独自に発達したのです。
まずはこの神仏習合をしっかりと理解することが、「日本にはなぜ神がこんなに多いのか?」という疑問を解決する最短距離だと言えるでしょう。