日本の歴史上、最も有名な女性 卑弥呼Himiko's Rise to Power in Ancient Japan
日本の歴史上、最も有名な女性が『卑弥呼』です。読者は聞いたことのない名前でしょうが、この人物が戦後から今日まで多くの日本人の探究心を呼び覚まし、今も無数の議論が生まれる土壌となっています。そこで今回は、卑弥呼という謎多き人物についての時代背景を見ていきます。
弥生時代後期と言われる2世紀末から3世紀中頃にかけて、日本には『倭国』という国があったことが中国の史書『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝倭人条)に記されています。これは当時の日本が魏との関係が深かったことが要因ですが、魏の使者が日本で調査した記録を記したものと考えられています。
『魏志倭人伝』によれば、この時代の倭国では諸国(当時は統一状態ではなく、日本国内に無数の国を束ねる首長や豪族が乱立していました)の男王たちが互いに争い、長年にわたる内乱状態にあったことから、社会が大きな政治的混乱に見舞われていたと記されています 。これは『倭国大乱』と呼ばれており、この内乱が収拾つかなかったことから、有力な男の首長たちは戦乱を収拾するために協議を行い、特定の君主を立てるのではなく、共立して一人の女性を王に擁立することに決めました。それが、女王・卑弥呼です 。
こうして卑弥呼即位以前に70〜80年ほど続いた男王による統治の乱立状態が一時的に終焉し、倭国は女王による新たな体制へ移行します 。この背景には、紀元前2世紀末ごろから倭国内に小規模な勢力が多数林立し、勢力争いが激化していた事情があります。実際、考古学的にも弥生時代後期の集落には大規模な環濠や高地性集落の出現が確認されており、各地で軍事的緊張が高まっていたことが示唆されています。こうした兆候は弥生時代以前の縄文時代には見られません。権力構造の変動期にあった倭国は、内乱を終息させる統一的な指導者を切実に必要としていたことから、女性の力を必要としました。
しかし問題は山積みです。この倭国がどこに存在したのか、卑弥呼とは何者なのかについては、今も激しい議論が続いています。大きく日本では倭国の所在について『九州説』と『畿内説』(現在の奈良県南部)があり、個人的には畿内説を支持していますが、未だ確たることは判明していません。
こうした中、2世紀末には倭国から中国後漢への朝貢が行われていた形跡が見つかっており、史料によれば西暦107年頃に倭の王が漢に使節を派遣したり、それ以前の57年には倭の王が漢から金印(皇帝と関係が深いことの証明)を授けられたことも記録されています。これは倭国の中で早くから対外関係を樹立できる有力な首長(王)が存在したことを示す根拠となっています 。しかし後漢末にはそうした勢力は日本で衰退し、再び群雄割拠状態に陥ったと考えられています。「長年の戦乱を収束させるため、諸国の首長たちが協調して卑弥呼を女王に擁立した」という魏志倭人伝の記述からは、卑弥呼の即位が内乱終結の切り札として期待された様子が読み取れます 。
彼女の登場は、倭国における政治的統合の画期的出来事であり、この共立政権の成立をもって古代日本の最初の広域的な統治権力が生まれたと考えられています 。近年の研究では、卑弥呼即位に至る動乱の具体像を解明するため、当時の考古学的痕跡(戦乱による集落の破壊痕や権力中心の移動など)と史料との照合が急速に進められています。その結果、倭国を中央集権とする広範囲な『邪馬台国』の連合が成立した時期は、概ね2世紀末〜3世紀初頭頃と推定され、この頃から古代の大和地域(現在の奈良県南部)に新たな王権の台頭が見られるようになります 。つまり、倭国大乱が一時的に収束し、卑弥呼が擁立されたことが、日本列島における国家形成の端緒となったのです。
では一体、卑弥呼はどのような経緯で女王となったのか?
その過程には当時の社会的・文化的背景が深く関わっています。魏志倭人伝によれば、卑弥呼は「鬼道(呪術)を駆使して人々を魅惑する巫女的な存在」であり、年長で独身の女性であったと記されています 。彼女は普段は人前に姿を見せず、弟に政務を補佐させていたと記されており、謁見できる人物は非常に限られていました。このような記述から、中国側では卑弥呼を神秘的なシャーマンとして描写しており、使者の目には奇異に映っていたことが伺えます。
男性の首長たちが争いを続けた末に、女性である卑弥呼が選ばれた背景には、「霊的な権威による統治」への期待があったと考えられており、これは古事記でも神話に女性のkamiによる統治体制が存在したことを彷彿とする記載があることからも、何かしらの歴史事実を含有していると想定されます。戦乱により民は疲弊し、そこに飢饉や疫病が発生して戦いどこではなくなった諸勢力にとって、超自然的な力を持つ巫女が仲裁者・統合者となることは、現実的な解決策になり得た時代でした。当時の日本に、かなりスピリチュアルな世界が存在したことが理解できます。
そして注目すべきは、当時の倭国における女性の立場です。近年の研究では、主に弥生時代にかけて、女性首長が各地で活躍していた可能性が指摘されています。考古学的にも各地の墳墓から女性と判明した被葬者の例が増えており、全体の3〜5割は女性首長だったという分析もあります 。中には武器を副葬された女性墓も見つかっており、女性が政治・軍事に広く関与していたことを示唆しています 。こうした知見から、卑弥呼の即位は決して突飛な出来事ではなく、当時の社会では女性による統治が受け入れられる土壌があったと考えられており、邪馬台国の勢力範囲は限定的ながらも、全国各地には広範囲に女王が君臨していた可能性が示唆されています。
私は個人的に古事記など日本の古代伝承を読み解いてきましたが、そこでは明らかに男王と女王(巫女)による指導者が対になって統治する古代制度の存在が想定されます 。これは巫女である女王がkamiからの託宣を降す祭儀を執行し、その言葉がそのまま男王の政治に直結するという体制です。いわば『神事を司る女王』と『政事を司る男王』の体制ですが、古事記の神話でもこれは兄弟姉妹によって行われていたと記されていることから、特定の統治体制が分散的に生まれていた可能性があります。別の機会に書きますが、実はかつて琉球国と呼ばれていた沖縄では、1429-1879年まで続いた琉球国の統治体制として、この弥生時代的体制がそのまま適応されています。
これは魏志倭人伝に記される卑弥呼と弟の関係を見ても分かりますが、霊的指導者である卑弥呼と、政治の実務者という弟(名前は記されていません)の役割分担だった可能性があり、東アジアの他地域にもみられる古代の統治形態が日本でも行われていた証拠となり得ます。
また卑弥呼擁立の社会的要因として、宗教的カリスマ性以外に「中立性」も考えられます。各地の豪族間の権力抗争を終わらせるためには、特定の有力豪族出身の男性を統一王に立てるのではなく、直接軍事行動に関与していない女性を据える方が諸勢力の合意を得やすかったとも考えられています。女性である卑弥呼が選ばれたことで、既存の勢力抗争の図式を超越した「調停者」として機能し得たことも見逃せません。加えて彼女が高齢の独身女性であった点も、子孫による王位世襲の野心とは無縁であり、安心して擁立できる人物像につながった可能性があります。
ただし、あくまでもこれらは魏の使者が見聞きした当時の日本の状況を、後に三国志を編纂した陳寿という歴史家が3世紀後半にまとめたものであり、言語の差異などを踏まえると、どこまで正確かは不詳です。実際、卑弥呼が本当に独身であったのかについても懐疑的な声があり、また卑弥呼の没後には再び男王が後継者を自称して戦乱が再開しますが、即座に別の13歳の女王が擁立されたことも記されています。この女王については不詳なことが多いのですが、卑弥呼の世継ぎにあたる人物だとも言われており、近親者であった可能性があります。
以上のように、謎多き卑弥呼の即位には、当時の倭国の社会における宗教観が大きく影響しており、シャーマンである霊的指導者への期待と、現実的な権力均衡策の両面から支持されたと考えられています。今後も興味深い卑弥呼についての洞察を深めていきます。