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陰陽師の系譜:暦を統べた静かな覇権The Lineage of the Onmyoji: Those Who Governed the Calendar

陰陽師の系譜: 静かな覇権を握った「暦」を統べる者たちの世界

陰陽師。小説、映画、アニメなどのコンテンツに登場するため、日本では呼称は知られた存在ですが、実際のところ彼らが何者であり、どういう系譜で登場したのかについてはほとんど知られていません。また、陰陽師の残した文化遺産は今も日本に宿るのかという問いは、私にとって最も興味をそそられることの一つです。

まず、陰陽師という言葉から連想するのは、見えない世界で活動する特殊な技術者集団です。陰陽師のイメージとして語られる能力は多様ですが、見えない世界を舞台に活動することは前提となります。例えば、神々を操り、鬼の姿を見透かし、呪いによって人を死に至らせたり、厄災を与えたり、逆に厄災を阻止したりする。これらが彼らに付与された責務であり、それは千年以上も日本の権力機構の中枢に浸透してきました。

つまり、陰陽師の歴史的影響力に目を向けた時、今もなお陰陽師の残した文化遺産、あるいは精神遺産は日本で消えておらず、私たちの中で覆われてしまっているだけだと言えます。彼らを理解する時、そのキーワードは「呪い」にありますが、呪いはネガティブな意味ではなく、多面的な角度から見ていかなければなりません。

陰陽師を語る上で、歴史上最も有名なのが安倍晴明(921-1005)という一人の魔術師です。日本人の誰もが名前を知るほど有名な安倍晴明は、今も京都市内の一角に建立された晴明神社で奉祀されています。ただし、一般に安倍晴明として語られるイメージは後世に理想化されたものです。ちょうど安倍晴明が没する11世紀から12世紀頃、当時の平安京内部の人々が思い描いた「理想の陰陽師像」が、絶大な影響力を誇った彼の名の下に習合され、像が形成されたのだと思います。つまり、史実における陰陽師の輪郭と、一般に語られ続けるコンテンツとしての安倍晴明を通じた陰陽師のイメージには決定的なズレがある。ここに惑わされないことです。

個人的には、実際に活動していた陰陽師の方が、物語として語られる安倍晴明よりも遥かに面白い。なぜなら彼らは、朝廷や宗教、さらに貴族・皇族・僧侶・神官・庶民の世界の中枢に深く食い込んでおり、それでいて静かに存在し続けた稀有な人々だったからです。このような人々は歴史的にも稀であり、他に類を見ません。そして陰陽師のイメージとして語られるのは呪術ですが、実は彼らが静かな覇権を何世紀も掌握することができた真の根拠はそこにはありません。では一体、陰陽師が表に裏に活躍し続けることのできた源泉は何だったのか。それが暦です。

ここで暦の考え方を変えることから始めましょう。現在の暦は日曜日を定休とした「7日間で1週間のサイクル」が標準化していますが、この暦が定着した理由は、ユダヤ教の影響を強く受けているキリスト教とイスラム教が世界的宗教として爆発的に拡大したこと。資本主義が定着した世界で労働者管理に都合が良かったこと。7日間という期間が月の満ち欠けを基準にした太陰暦と相性が良かったこと。この三つが主な理由となり、近代産業社会の拡大と共に広がりました。ただこの背後には、各地に固有だった暦が破壊されていった歴史があることを忘れてはなりません。近代化を実現するための鍵は、実はそれまで使用されてきた暦を破壊することにあるからです。

言い換えれば、もし近代化への強烈な否定が各国・各民族から起きる場合、真っ先に暦を新暦以前に戻す方法が最も効果的です。例えば日本では現在の暦を新暦と呼び、それ以前に使われてきたものを旧暦と呼びます。そしてユダヤ教もキリスト教もイスラム教からも影響を受けていない日本を考えると、新暦を破棄することは近代以後の主権回復の動きへと繋がります。ですが、面白い出来事があります。

かつて2011年、気候の移ろいが大きく変わり始めたことを受けて、日本気象協会が現代日本の気候に合わせた新しい二十四節気を作ることを目標とした準備委員会を設け、一般からも意見を募ったことがあったのです。そして2012年秋頃に「二十一世紀の二十四節気」を発表し、それを定着させていきたい意向を示しました。すると、ある組織が猛反発。それが産業界でした。

産業界は「これまで培われた季節感を混乱させる」と主張し、政府などに強烈に圧力をかけます。この結果、あっさり計画は中止したのですが、産業界は季節感と言っていますが、要するに労働者管理です。これが乱されることは彼らにとって不都合であり、ゆえに気候がいかに変動しようとも、明治以降に採用された新暦を改変することは許さないという論理です。

ですが、現在の暦は無味乾燥な退屈なものです。なにしろ私たち人間は別に労働者管理されるために生まれてきたのではなく、そのようなことを前提に暦に束縛される理由はないからです。宗教的、あるいは信仰的にそれが理に適っている場合ならまだしも、その外部で従う必要はないはずです。この点を踏まえて言うならば、本来の暦とは私たちを取り巻く「時間」を視覚に変換したものです。日本の暦に大きな影響を与えた古代中国で、暦は過去を記録すると同時に、未来を予測する道具でもあったからですが、この性格が暦を身近でありふれたものでありながら、同時に深遠で難解な存在にしています。

現代暦法が上述の観点で標準化したように、常に「暦を握る者が世界を掌握する」世界線が確かに存在します。もしかすると人類が目を向けなければならないのは、「誰が暦を握っているのか」なのかもしれません。例えばパンデミックからリモートワークなどが定着しましたが、「労働者管理」としての暦というフレームワーク自体は何も変わっていません。暦はいつの時代も為政者の自己顕示欲が反映された性格を有しており、その性格を持つがゆえに、暦を操ることのできる特定の集団は力を持つことができるのです。日本の場合で言えば、それが陰陽師でした。

陰陽師の仕事は、時代に則した暦をつくり、日々の吉凶や方角の禁忌を判断することにありました。結果、彼らは「時間」を管理する技術者として、千年以上にわたって日本の権力構造の内側に座り続けることができたのです。ただ、陰陽師がなぜ権力の中枢に入り得たのか、その影響がいかに静かに持続したのか、そしてそこから何が現代の基層へ流れ込んだのかについては、語られることがありません。そこでまずは、彼らの源流に目を向けてみましょう。

大前提に、日本の陰陽師の源流は中国にあります。中国にも[陰陽家]や[陰陽師]と呼ばれた人々がいて、担っていた職務は日本の陰陽師とよく似ています。この理由は明白で、陰陽師の術法である「陰陽道」(後に日本で固有に生まれる道です)の本質が、中国の「数」に関わる数学から魔術までを含んだ独自の技法に淵源を持つからです。ただし、中国の陰陽家がそのまま渡来して日本の陰陽師になったのではない。ここに興味深い歴史が潜んでいます。

重要なことは、陰陽師という技術者集団が中国から伝来したのではなく、中国側の陰陽家が持っていた叡智が断片的・連続的に日本に伝わり、最終的に統合・昇華される形で日本側の陰陽師が独自に誕生したことです。この事情があるため、意外かもしれませんが、陰陽師に付随する占いや暦法、呪術を日本にもたらした最初の運び手は、6世紀に日本へ伝来した仏教に付随する僧侶でした。一見、陰陽師と僧侶には相関性があるようには見えないでしょうが、実は日本でこの二つは深いところで結びついていました。

なぜなら、新たに伝来した仏教を布教するための寺院では、釈迦の降誕会や涅槃会といった行事を特定の月日に行い、その時刻を定める必要があったからです。この正確さは従来の日本には存在せず、かつてのように太陽の動き、月の満ち欠けなどで判断する時代から大きくアップデートされます。しかし、ここで最初の問題が起きます。歴史的に見れば、東アジアの暦は中国主導の太陰太陽暦であり、現在の西欧的な太陽暦のように計算が単純ではなかったことです。

中国のような統一状態にあり、既に権力網が国土一帯に巡っていた状況とは異なり、仏教伝来初期の日本には、そこまでの統治は実現されていませんでした。8世紀前半に成立した古事記や日本書紀にも記されていますが、時の天皇擁する朝廷は他国を部分的に服属・同盟させていますが、大半は支配下ではなく、彼らの影響力が及ぶ範囲は限定的でした。

ゆえに、いくら主に大和(現・奈良県中南部)に拠点を有していた朝廷が仏教の影響を拡散させようとしても、暦は全国にまで流通することはありません。すると同日に仏教行事を国家的に行おうとしても、当然ながらそのようなことは実現できなかったのです。こうした事情から、寺院に属する僧侶は自前で暦を計算する必要が生まれたのですが、ここで彼らが採用したのが中国で発明された[漏刻]と呼ばれた水時計です。この漏刻を造り、僧侶は時を報せる暫定的な対処を行なっていました。

また布教拡大の観点に限らず、僧侶たちは病人が出れば医術や呪術で対処し、災厄を除くために読経し、占星術で国難を予言する必要もありました。これは仏教とは無縁だった日本において、外来宗教が浸透するために必要不可欠な段階です。なぜなら朝廷の皇族・貴族・氏族、さらに庶民は実際的な利益がなければわざわざ外来の宗教組織に帰依する必要はないからです。特に為政者にとって重要な利益となるのは、自らの治世が安定的に拡大することと、内乱の予防、そして服属できていない国々を自らの支配下に取り込むことでした。

この需要に応えられるか否か。ここに仏教が日本で根付くための鍵があったのですが、既に中国側で試行錯誤が繰り返されていたため、このような問題はどんどん解決されていきます。個人的には大航海時代に日本に続々押し寄せた宣教師が布教するキリスト教が根付かなかった最大の理由は、ここにあると考えます。

こうした朝廷の事情を察知した多くの僧侶は、本来僧侶の仕事ではないことまでを担い、中国側から流入した先端的な技術を身につける必要に迫られたのです。ですが、彼らには強みがありました。それは経典を読むために、当時としては貴重だった漢字を駆使する能力と、数の概念を中国経由で獲得していたことです。

初期陰陽師の知が「静か」であり、見過ごされがちな背景には、「文字」と「計算」という少数の専門家にしか扱えない知識が力だったからですが、もう一つは、仏教の内部に生きる僧侶が初期陰陽師的な役割を担っていた特殊性にあります。しかし、この静かな陰陽師の時代が大きく揺れ動き、一気に彼らが台頭する機会が生まれます。そのキーマンが天武天皇です。

皇位継承権を巡る672年の内乱に勝利し、自ら第40代天皇(在位: 673-686)として即位した天武天皇は、文明国だった唐を手本に中央集権型の律令国家建設を進めます。そして実は、天武天皇自身が陰陽師でした。彼は即位前、自ら内乱の予兆を察知して出家し、奈良県吉野の山中に籠って修行を積むのですが、これは皇位継承を断念したからではなく、時の天智天皇(天武天皇の兄)が病に臥せており、死期が近いことを悟っていたからです。つまり天武天皇は、天智天皇が死去すると共に、皇位継承を巡る戦を仕掛けるために「出家」という偽装工作を行ったのです。暦から戦の時機を立案することは、三国時代の諸葛亮に通じています。

この空白の期間に、天武天皇は占星術や式占を学んで習得しています。彼にこうした叡智を授けたのは、当時最高の呪術者だった役行者です。後の熊野古道に繋がる修験道の開祖ですが、その源流は複数の叡智を独自にミックスさせる技術にありました。つまり、役行者を通じて即位前の天武天皇は呪術を授かり、共に皇位奪取のための時機を練り、ひたすら準備に励みました。

そして内乱を勃発させる時期、作戦、誰を味方にするかなどを陰陽師的な叡智を駆使して立案し、672年に内乱を勃発させ、見事に勝利を治めたのです。この天武天皇自身の陰陽道を駆使する体験が、その後の治世と見事に結びついた時、陰陽師が台頭する世界が用意されたのです。

即位後、彼は「大陰陽時代」と呼べる画期的な改革の礎を自ら主導します。それが唐の「太史局(国立天文台のようなもの)」をモデルに陰陽道の技術者集団が所属する「陰陽寮」という機構を設け、占星台を建てて全国に暦を頒布したことです。この時代は急速に朝廷の覇権が拡大していた途上であり、仏教伝来初期とは状況が異なりました。

これらを含んだ法令が、天武天皇のもとで発布された飛鳥浄御原令です。ただこの飛鳥浄御原令は現存せず、詳細は不明な部分が多い。一般的にな歴史では、後の701年にアップデートされた大宝律令が発布され、この時に天武天皇が目論んだ律令体制の実装が成立したと考えられています。

事実、大宝律令では明確に「陰陽師の規定」が据えられています。ただし、当初の陰陽師の職掌は[占筮相地]、つまり占いと地相を見ることを専門としており、彼らは占い師としてスタートしました。一見すると大した改革に見えないでしょうが、実は大宝律令ではもう一つの改革が含まれていました。それが仏教伝来以来、僧侶が担ってきた「占い」が朝廷によって禁じられたことです。これが陰陽師にとっての転換点です。

一方、天武天皇の崩御後に生まれた大宝律令以前、彼の飛鳥浄御原令の段階で既に陰陽寮の原型や陰陽師は誕生していた可能性が高く、大宝律令はその体系的な規定に過ぎないとも考えられます。また飛鳥浄御原令の主導者は天武天皇ですが、大宝律令の主導者は当時のフィクサー藤原不比等(659-720)という人物です。この藤原不比等の四人の息子が、後の710年以降に現・奈良市に形成された平城京、794年以降の大貴族時代となる現・京都市の平安京の支配者となります。つまり、ここで陰陽師の力の活用者が皇族と貴族に転移し、特に藤原家に宿ったということです。だからこそ、奈良時代(710-794)から平安時代(794-)に陰陽師は大きく台頭できたのです。

大宝律令制定後、藤原不比等の影響を受けて、占いに携わっていた僧侶は次々と還俗させられましたが、僧侶ではなく俗人として陰陽寮に所属することになりました。つまり、仏教の影響下にある僧侶をそのまま陰陽寮に所属する陰陽師として移行させるのではなく、一度仏教のフレームワークから距離を取らせた上で、再び国家的に新たな肩書きとして埋め込んだのです。これは既に朝廷に絶大な影響を持ち始めていた仏教の政治的影響力を抑止する政策ですが、ここで僧侶とは区別される「陰陽師」という職分が生まれました。この背景には、もしかすると天武天皇の時代に僧侶と陰陽師が区分されていなかった事情があったのかもしれません。この時点で中国の歴史的な陰陽家とはまったく異なる存在が誕生しています。

この歴史を鑑みると、陰陽師という存在は、初期日本仏教時代の曖昧かつ渾融とした状態を引き受けた僧侶なる集団が、生存と布教のために多方面の技術を獲得していき、やがて専門的な職能として切断され、最終的に仏教という庇護下から、国家という庇護下に転移した瞬間に誕生したと位置付けられます。これは大陸的な強い宗教意識がある国では成立が難しいものだったでしょうし、極めて日本的な性格と言えるかもしれません。

そして専門技術者集団として国家的に位置付けられた陰陽師の登場により、陰陽寮の内部と外部が厳しく弁別されます。こうして外部に位置する神官や僧侶、そして庶民に至るまでの一切の者が、天文・暦・時間計測を学ぶことは厳しく禁じられ、関連文献の持ち出しも私有も禁じられました。こうして天武天皇のもとで主導された日本の陰陽道は、藤原不比等を通じて大幅にアップデートされ、9世紀初頭まで陰陽寮の国家機密として独占的に管理する母胎を生み出したのです。

ですが、ここで疑問が生まれます。確かに天武天皇のもとで生まれた陰陽師は重要な存在であるものの、これだけではそこまでの力を持つようには思えないからです。だとすると一体、彼らが実権を掌握する力を持つに至った本当の理由は何だったのか?

その最大の理由が、都城の造営事業です。陰陽師の台頭が占いの国家的独占にあったならば、陰陽師の地位を決定的にしたのは、律令国家がもたらした都城の造営にあったと言えます。そして律令制を初めて公式に発布したのは天武天皇ですが、本格的に実行されたのが次の第41代・持統天皇(在位: 690-697)、そして続く第42代・文武天皇(在位: 697-707)の時代だったからです。この持統天皇から文武天皇時代の実質的な指導者が、藤原不比等でした。

まず、天武天皇の律令体制は「飛鳥浄御原宮(672-694)」という場所で行われましたが、その後彼が崩御し、替わって即位した持統天皇時代に入ると、藤原不比等の影響力が圧倒的となり、その意向で都が飛鳥浄御原宮から少し北上した藤原京(694-710)に遷宮されます。ちなみに持統天皇は天武天皇の皇后であり、彼女自身も役行者を通じて陰陽師の叡智を持つ呪術師でした。

実は藤原京以前、天皇の宮は一代ごとに移る慣習があり、明確な都市空間はありませんでした。ところが藤原京以降、碁盤の目のように東西南北を直線道路で区切った方位の明瞭な都市構造が出現します。これが日本史でも決定的な転換点となり、続く平城京(現・奈良市)を通じて平安京(現・京都市)に結びつきます。そしてこの都城設計の思想に必要不可欠だったのが、陰陽師の叡智だったのです。つまり、ここに日本の都市設計のルーツがあります。その痕跡は今では見えにくいのですが、日本各地の主要都市ではどこも活用されています。

陰陽師が活躍する余地が生まれたのは、この都城と密接に関わっています。なぜなら、古くからの土地に根づいた祭礼やタブーを持たない人工都市では、暦による日の吉凶や方角の禁忌が、貴族たちにとって新しい生活規範として受け入れられる土台を生み出したからです。

事実、大宝律令制定後から4年後の705年には、35歳の官人の出仕の吉日時を、陰陽師が選んだ木簡が藤原京跡から出土しています。同時に、これまで僧侶が担っていた漏刻も陰陽師の手に移り、陰陽寮が知らす時報によって、「時間」という観念そのものが形成されていきます。言いかえれば、陰陽師は新しい都市生活を運用するための、いわば基本ソフトを供給したのです。これが、彼らが中枢に入った第一の理由ですが、ある意味、仏教という強い宗教組織に帰属する僧侶では、ここまでの実行力がなかったと言えるでしょう。つまり、時代に求められたのが宗教組織から無所属の陰陽師だったのです。

同様に陰陽師が力をつけた背景にあったのが、厄災への対処を独占したことです。律令制によって交通の便が良くなり人の移動が速まると、当然、病原体も速く動きます。藤原京は推定人口3-5万人、続く平城京(現・奈良市)に至っては推定人口10万の人口密集地でしたが、下水も十分でない不衛生な環境でした。その結果、737年に遣新羅使が持ち込んだ疫病により、平城京の貴族や官人の4割近くが死亡し、首脳部が壊滅するパンデミックが起きています。

また9世紀は律令国家の動揺期であり、災害が多発しています。特に新羅の海賊が九州沿岸を襲撃し、社会は不安に覆われていました。こうした中で、あらゆる厄災が起こった時にその意味を占い、予兆を察知し、祭祀によって対処する陰陽師の存在感が否応なく増していったのです。これは陰陽師が当時の天皇・貴族・僧侶・神官・庶民が「得体のしれない不安」に怯える最中、この不安を言語化する能力を持っていたと考えれば分かりやすいはずです。いつの時代も人々が恐れるのは言葉にできない不安や恐怖ですから、陰陽師はこの時代の要求に誰よりも応える技術を持っていたのです。

最後に見逃せないのは、職掌の統合です。藤原不比等に始まる藤原家黄金時代の系譜である平城京の時代、後継者の藤原仲麻呂(706-764)が政権を担っていた頃に行われた陰陽寮改革で、神や霊による病に対処する中国系の呪医であった「呪禁師」と呼ばれた存在が、それまで所属していた機構から陰陽寮へ所属替えになったのです。

これは占いで神霊の意思を知る者が、その結果に基づいて祓や祭りを執り行うための統合です。こうして陰陽師の職務は、「占い」、「呪術・祭祀」、「暦日・方角禁忌の勘申」という三本柱へと拡大していき、都の為政者は陰陽師なしに執政を行うことができないほど生命線となります。

この土台が奈良で形成されたからこそ、京都に遷宮した平安時代に、陰陽師は誰にとっても必要不可欠な絶対的存在となったのです。こうして10世紀に入ると、「陰陽の技術」で為政者に奉仕する専門家集団は「陰陽道」と呼ばれるようになります。ここが陰陽道の誕生です。

そして陰陽道が誕生した時代に台頭したのが、賀茂氏と安倍氏という氏族です。つまり、奈良に都が構えられていた時代から、京都に都を構える構造的転換期において、陰陽師に関わる氏族の新旧対立が始まり、やがて新興氏族の賀茂氏と安倍氏に代替されていったのです。ですが、賀茂氏と安倍氏が台頭できたのは偶然でした。その契機となったのが、960年に起きた平安京の大火災です。

この文脈に関わってくるため、中国で生まれた高度な占い技術の基礎について書いておきます。前提となるのが「式占」です。式占とは式盤という道具を使って行う占いの総称ですが、代表的な式占は三つあります。それが「太一式(正式名称: 太乙神数)」、「遁甲式(正式名称: 奇門遁甲)」、「六壬式(正式名称: 六壬神課)」です。これら三種の式盤の基本構造は共通していますが、それぞれ専門の盤を必要とするため、これらには互換性がありません。難しいことを省いて端的に言えば、太一式の盤で六壬式は占えず、その逆もできません。

そして古代中国の陰陽における最高神は天の中心、北極星に擬せられる宇宙の主宰神である「太一」であり、この最高神の名を冠した「太一式」は、国家や皇帝の命運や軍事など、規模が大きく頻度の低い重大事案の際に活用されました。事実、太一式は唐でも日本でも私有が禁じられており、軍事など特別に重要な事項の占いに用いられた格式の高い占法です。この事情から、盤そのものが国家の重宝であり、半ば神聖な独占物だったのです。ここに癒着したのが、いわゆる奈良時代の一部の陰陽師(旧氏族)です。

一方で六壬式は、対照的に実務の主力でした。時刻と日の干支から基本構造を立て、自分と相手、自分と物といった二者関係の吉凶などを細かく占うことができます。失せ物、移転の方角、個人の運勢、日取り選びといった、頻度の高い日常的な問いに広く応用が利き、今でも神社の占いと言えばこちらが一般的です。この根本的な差異が、偶然の出来事で命運を決したのです。

これまで宮中で用いられていたのは太一式であり、中国から伝わった特別な占いの道具「太一式盤」がなければ成立しませんでした。しかし、火災で太一式盤が焼失してしまい、古い氏族が得意とした太一式が力を失います。こうして新時代に生まれた隙間から、同じく中国から伝わりながらも、それまであまり注目されていなかった六壬式が重要な占いにも代替的に使われるようになり、これを得意とした新興の賀茂・安倍両氏に有利に働いたのです。

というのも、それ以前まで陰陽道で影響力を握っていたのは、国家など大きな出来事を占うための太一式であり、その技術は一部に占有されていたのですが、彼らは日常用途である六壬式を卑下していました。しかし太一式に必要不可欠な盤が消失した以上、旧来の陰陽道実力者たちは無能です。しかも彼らは自らが国家の命運を占うプライドを持っていたため、皮肉にも突然の厄災に対応できませんでした。ここで台頭したのが、六壬式の技術を有する新興の陰陽道氏族だったのです。なにより、国家の命運を左右する大火の到来を、旧氏族は予期できなかった。この信頼の欠損が、必然的に新興氏族台頭の機会を開いてしまったのです。

六壬式は日常用途で使用できる上、特定の神聖な品に依存しません。盤は代替可能であり、日常の多様な相談に応える汎用性もありました。そしてこの性格が、大規模化する都市構造において、適合性があったことは言うまでもありません。平安京の人口は流動的だったと考えられていますが、概ね推定人口5-20万人程度だったと想定されています。平安京は多くの人々が生きる都市であり、それなりに平穏な時代だったため、人の数だけ悩みを解決する需要が生まれます。そこで要求されたのは、不穏な時代に使える太一式ではなく、日常用途に最適化された六壬式だった。

もう一つの理由が、貴族が大きな世界で物事を見る目を放棄し、私利私欲に視線を狭めたことです。平安時代の苛烈な貴族社会では、出世・移転・縁談といった極めて私的な吉凶判断への需要が爆発的に増えており、もはや国家の命運を考えるような大局的な人物はいません。その需要に合致したのが六壬式だったのですが、ここに決定的な人物が登場します。陰陽師の賀茂忠行(生没年不詳)と賀茂保憲(917-977)の親子です。

暦道出身の父・賀茂忠行は貴族でしたが、当代随一の陰陽師として知られており、天皇から最も信頼される呪術師でした。彼の事績はほぼ不詳ですが、一説には陰陽寮の長官を務めたとも云われています。そして父に劣らず優秀な陰陽師だったのが長男の賀茂保憲です。賀茂保憲は、天皇や貴族の信頼を得て、暦博士・陰陽頭を歴任しました。いわば、この道の大御所だったのです。

さらに暦に限らず、賀茂氏台頭の決定的瞬間は、天台宗僧侶の日延が中国から「符天暦」という暦法を持ち帰った時に訪れました。この符天暦は8世紀後半に唐の天文学者が編み出した暦法でしたが、国家的には採用されませんでした。しかし、日本に伝来すると符天暦は賀茂保憲のもとで958年に暦の修正時に採用されます。すると、暦道支配を強める主導的な立場に立った賀茂保憲は、本来専門外の天文博士にも就任して力を拡大させます。つまり、陰陽師・賀茂保憲のもとで「暦」と「天文」が統合されたのです。

ここで、もう一つの陰陽道の系譜が登場します。それが弟子の安倍晴明(921-1005)です。やがて暦道は賀茂氏、天文道は安倍氏が支配する分散体系が生まれますが、実質的には賀茂・安倍両氏による陰陽道支配の基礎が十世紀後半に築かれ、十一世紀には陰陽師といえば賀茂氏か安倍晴明と認識されるようになります。ここに、私たちが思い浮かべる平安時代の陰陽師像の原型が完成したのです。

賀茂保憲も安倍晴明も、六壬式に習熟した新興の専門家でした。こうして需要に応えた賀茂・安倍両氏は、暦・天文・占いの業務を一族として世襲的に請け負う新体制を築きます。この瞬間、技術が血統に統合されていき、彼らは文字通り、替えの効かない象徴的な存在となったのです。国家がその知を特定氏族に独占させた以上、国家も彼らなしには動けなくなる。これが陰陽師が静かに、しかし強固に中枢へ根を張った仕組みだったのです。

今日、陰陽道自体は表舞台から姿を消したように見えます。しかし、もしも今、当時の陰陽師が現れたら、彼らは現代社会に使用される奇妙な資本主義に合わせた暦法を見て、どのような忠告を発するだろうか。一見、無意味に思える問いを考える時、もしかすると私たちは雁字搦めになって身動きが取れなくなっている「束縛の本当の正体」を目にするのかもしれません。