神とは何かWhat Is God?
神とは何だろうか。言葉で説明しようとすれば遠ざかり、語ろうとすれば姿が隠れてしまう。どれだけ近づこうとしても、ついに到達できない境地。私にとって、それが神であり、神の一つの姿です。
あえて神を語るなら、それは「原体験」だと考えます。神は頭で考えるものではない。言い換えれば、頭で考える境地に神は存在せず、原体験という言語を持たない境地において、神は多元的かつ無数に存在するということです。この性質を前提すると、原体験を持つ人々でなければ、神への理解は不可能だということが見えてきます。しかし、それは神の理解においてある人にはできて、ある人にはできないという問題ではない。そうではなく、原体験は誰にでも開かれているが、その原体験を授かるか否かは各人の人生によるということです。この意味で神は万人に開かれており、決して限定的な層にのみ閉ざされているわけではない。
振り返ってみると、古伝承を編纂した8世紀前半の古事記や日本書紀には、「神とは何か」という問いもなければ、定義もありません。少なくとも8世紀前半までの日本の祖先は、神への問いや疑問を持っていなかった可能性が高いのです。ただし、それは日本人の祖先にとって神が存在しなかったからではなく、人間が問いかける境地に神が存在しなかったことの表れです。個人、あるいは対関係や共同関係で得る原体験は、場所の数だけ無数に存在する世界があったのですが、これを言葉にする際に生まれたのが「八百万神」という考え方でした。
八百万神は神道の根本性質として語られますが、私の言葉で言えば、原体験の中に神が宿っていることの表現であり、場所ごとに異なる原体験の性質によって、神が異なる無数の世界の反映でもあります。ある意味、「八百万神」として言葉に転化した瞬間、それまで生き生きとしていた神々と人間の共存世界に境界線が引かれていき、やがて分離して閉ざされていく歴史と共にあったと言えます。もしかすると、私たちは今、ここに苦しんでいるのかもしれません。ここには率直に吐露すれば、「そもそも人間は信仰や祈りを失っても生きていけるのか?」という個人的な問いがあります。
では一体、日本の歴史を参照した場合、どの段階で神への問いが浮上したのでしょうか。この問題を厳密に特定することは不可能ですが、逆説的に言えば、神への問いが各人の中で自覚され始めた時、神は姿を隠したということです。つまり、神に対する問いが私たちの中に芽生えた瞬間、神は私たちの前から姿を眩ます。これが神の実態だと想定するならば、私たちが考える範疇においては、やはり神は存在しない、あるいは希釈されていると言えるでしょう。
実際、日本神話にはこの時代の感性を示唆する表現があります。一般的に天地創造譚と呼ばれる神話の冒頭を読むと、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒ、ウマシアシカビヒコヂ、アメノトコタチという5神が登場します。これら神々は神話において[別天つ神]と呼ばれる特殊な存在です。日本神話では主に[天つ神]と[国つ神]という二つの神々に大きく振り分けられており、両者に規定されない無数の神々は名前を持たず、動物などとして表現されます。ただこの次元で言えば、神話的に見た場合に天皇に連なるのは天つ神であり、天つ神の最高神格は皇祖神・アマテラスに据えられます。
一方、冒頭の別天つ神は異なります。[天つ神]ではなく[別]と示されていますが、これは天皇の系譜に関わる存在ではなく、むしろ天つ神を信仰する人々にとっての原初的な神々を、神話に配置するために実態を持たせた仮の姿に見えます。そして別天つ神として登場する5神は、神話において[隠身]という表現で記されています。この点に私は疑問を感じたのですが、なぜ編纂者はこのような表現を使わなければならなかったのか。
つまり、別天つ神は姿を隠しており、人々の前に現れることがない。これは肉体などの実体を伴って現れることを意味しておらず、言葉などに象徴される人間による「規定以前」の存在を実態として持つことであり、ゆえに身を隠していると表現されます。もっと言えば、木や葉、土や海などの自然対象の次元でさえなく、それ以前の原初的な姿に神が感知された古い記憶を語っているように見えます。なぜ初期の神々は身を隠す必要があったのかを考えると、この背景には、日本で神が実体を伴う歴史的な変動が起きたことを示唆しています。そのターニングポイントは、仏教伝来です。
改めて考えると、信仰や祈りの対象が理論化されていなかった時代を長く生きていた人々が、突然、鋳造された仏像と壮麗な寺院を有し、経典を持った僧侶を有する「宗教」を前にした時の心理的な衝撃は、想像を絶する亀裂があったはずです。ただし、仏教伝来は538-552年頃と言われていますが、広く根付くまでには相当な歳月を要しており、当初は貴族や皇族など限定的に布教されました。明確な実体を持たない信仰を日常生活において続けていた段階が、突如、引き裂かれたと想定されますが、それによって変容を被ったのが実は神だと考えることができます。
それを理解するために目を向ける歴史が、本地垂迹説です。これは大陸宗教との接触が深まる過程で、貴族や皇族などの為政者を教団に取り込むことに成功した僧侶が、庶民に仏教を広める普及段階に入った時に生まれたものです。ただし、政治的な思惑を持ち、自らの利権を重視する為政者であれば、金品や権力などを提示すれば親仏にも排仏にもなりますが、日常生活自体が信仰であった当時の庶民に対しては、そのようにうまくいきません。本地垂迹説は、庶民への布教を円滑に進めるために僧侶が生み出した方法だったのですが、これによって仏ではなく、神が変容する契機となったことは見逃せません。
一般的に勘違いされているのは、これ以前に神道が存在し、神への信仰が日常に存在したとする視方です。私は神道はそれ以前には存在せず、仏教と仏への宗教的な信仰を通じて、神道と神は宗教的な祖型を獲得したと見ています。
この文脈から本地垂迹説を読み解くことは、極めて難解です。しかし、僧侶の視点から見た時に、庶民に浸透していた神への信仰を仏教に回収するために、仏教の信仰対象である仏や菩薩が、日本の衆生を救うために「仮の姿(垂迹)」で顕現したのが神だと位置付け、その「本体(本地)」は仏だと理論化したことが重要です。つまり、庶民が神を信仰していたと考えたのは庶民ではなく僧侶であり、庶民の側にはそうした自覚はなかったと言えるのです。このような措置が必要だったのは、仏教という宗教への信仰に帰依するためには、庶民が神の信仰に帰依していると位置付け、その自覚を僧侶側から庶民に刷り込む段階が必要だったからです。
なぜなら、庶民は自らの信仰を自覚しておらず、そもそも神を実体化して崇めてなどいません。そうした状況下で、偶像崇拝的要素を強く持つ仏教を信仰することを迫っても、なかなか庶民レベルでは動かないため、僧侶は庶民を教団に取り込むためにあらゆる手段を考えねばなりませんでした。結果的に見れば、彼らは古事記や日本書紀で編纂された中央集権的な神話に登場する古代氏族の神々を、庶民の信仰対象へと転用し、そこと仏を結びつけるという高度な宗教技術によって突破口を開いたのです。
重要なことは、それまで実態を持たなかった神が仏を介して実体化されたことであり、偶像崇拝において表裏の関係に回収されたことです。つまり、それ以前に神が実体を持つことはなかったのですが、仏という鋳造された分かりやすい信仰対象を目にした庶民は、実体を伴う仏の姿に神を重ね始めたということです。この瞬間、神は仏を通じて血肉を獲得し、信仰対象として人々の祈りを引き受ける姿を得ます。これが日本で神の信仰が具現化した初期的な動きだと考えます。
この目論見は見事に的中し、本地垂迹説は絶大な効果を発揮し、既に中央側の信仰対象に位置づけられていたアマテラスは密教の大日如来、ハチマンは阿弥陀如来などとして再定義されていきます。神仏習合とも呼ばれる現象ですが、これは神が仏を通じて再解釈された時代のことです。言い換えれば、既に宗教として理論化されていた仏を通じて、非理論化の世界にあった神が規定された大きな転換点だったということです。
この結果、見逃せないのは「神と仏」が二元的世界で語られる素地が形成されたことです。今の私たちが考える意味での二元論ではありませんが、当然、二元論である以上は反転も可能です。実際、本地垂迹説における神と仏の関係に異を唱えて関係を反転させ、カリスマ思想家として後世に大きな影響を与えたのが室町時代の神道家・吉田兼倶でした。
京都市の聖域・吉田山に今も本宮を構える吉田神道(唯一神道)の創祀者となった吉田兼倶は、既に浸透していた本地垂迹説を反転し、神道が根本(種子)であり、儒教は枝葉、仏教は花実に過ぎないと喝破します。神道家とは言っても、この時代はほぼ仏教の影響を被っており、むしろ吉田兼倶の提唱に目を向けると、そこには儒教の影響が強く介在しています。神道が根本(種子)であり、儒教は枝葉、仏教は花実に過ぎないという彼の主張に儒教の影響は典型的ですが、彼が神を万物の根源に置き直した瞬間、神道というそれまで実体を持たなかった存在が、いよいよ仏教を母体として宗教的な出産段階を迎えることになります。
反本地垂迹の立場から独自の教義を説いたカリスマ宗教家の吉田兼倶の登場により、神道からすべてが派生したという新たな宗教的価値観が生み出されました。歴史的に見ると、神や神道は仏や仏教によって宗教的に肉付けされたと言えますが、この二元的な素地は、神の実態から遠ざかる原因にもなりました。ある意味、どんどん神から離れていく歴史が、私たち人間の心に深い傷を残しているようです。
神は言葉によって論じることができないがゆえに、言葉を使うと、その語り手を通じて、時代ごとの教義やイデオロギーによる変容を被ります。これが神の肉体だと前提すれば、本当の問題は神の正体が何かではなく、「誰が」神について語っているのかという点に絞られてきます。
その後、仏教の影響が衰退する江戸時代に入ると、新たに力を獲得した儒教を背後に据える儒家神道など特殊な人々が登場し、今度は神が儒教精神に結びついて解釈されたりしました。その動きに反動的に登場したのが国学者ですが、中でも本居宣長が論じた神は非常に本質を見抜いていると感じます。
国学者の本居宣長は、神とは天地の神々や社の御霊に留まらず、人間をはじめとする鳥獣木草から山や海に至るまで、尋常ならず優れた徳があって、可畏きものすべてを指すと論じました。この文脈は掴むのが難しいのですが、宣長が優れていたのは神は人間の「理」では測り知れない不可知のものであると据えて、頭脳によって論じることはできないと考えた点に尽きます。これは歴史的に見た場合、仏教の教義、仏像、宗教的に理論化された信仰によって神が理解されるようになり、儒教によって神が解釈され始めた傾向に対する反動です。つまり宣長は、僧侶も儒者も神道家も神を伝えているのではなく、神をそれぞれのイデオロギーによって歪めているだけであり、そもそも神を論じる行為自体に問題があると知識人を喝破したのです。
では、頭脳によって論じることができない神とは何なのでしょうか。私なりに彼の言葉を翻訳すれば、本居宣長は神の正体を「畏怖」と捉えた感性があったと見ています。つまり、宣長は頭ではなく原体験で神を知っていたことを表しています。一方、当時も昔も、神を論じる知識人や宗教家は原体験を持っていない場合が多数であり、宣長のように原体験を言語化することはなく、あくまでも自らの生きた時代性格の影響から論じることを避けられませんでした。
本地垂迹説も同様です。これも理論的な話であって神についての原体験は無視されており、その観点から神を知っていたのは僧侶ではなく庶民だったことが見えてきます。しかし、宗教家は自分たちが神を知っていると振る舞い、理論化して寺院や仏像や経典を掲げて庶民に布教活動を行うことにより、庶民が神を知らないという立場を植え付けます。これが結果的に本地垂迹説に結びついたため、この意味では吉田兼倶の反本地垂迹も同根であり、神を言葉で語ろうとする態度自体は同じです。
本来、神を語るのに言葉はいりません。その後も散々神は語られてきましたが、いまいちピンと来ないのは、誰もが知識によって神を語るからであり、そこに知識以前、言葉以前の原体験がないからです。逆に言えば、原体験を持つ人が語る神は生きており、疑う余地なく存在します。それは宗教以前ですが、原始宗教と呼ばれるものとも違います。宗教という性質自体がないということです。
近代以降、神は信仰対象としての祈りを失い、分析対象として論じられる存在へと転化しました。この瞬間、私たちの中から何かが失われたのは確かですが、今も昔も神は畏怖の原体験に多元的に実在します。なぜなら、原体験は常に固有だからであり、その瞬間、その場所、その人、その心理状況など複合的な要因によって異なるからです。これが神が無数である八百万神信仰の起源であり、その正体は漠然とした不安や、畏怖として読むことができます。
神は学者の脳内にも書物にも存在せず、土地を生きる民の日常に存在しました。土地が異なれば、自然環境も異なり、風俗も異なる。だから日本では八百萬の神であり、場所ごとに無数の神が多元的に共存してきたのです。この次元の神に実体を伴い、集約された一神論はあり得ず、むしろ一神論があるとするならば、原体験自体を神として持つことによって可能となるはずです。また比較神話学が無意味なのは、基本条件である場所などを全無視するからです。こうした考察は神自体に触れることはなく、あくまでも近代次元の学問の範疇でしかない。そこに神は存在せず、彼らが神に触れることはないのです。
この問いは自分自身でも常に思案し続けていることですが、ここから神は学者や宗教家の脳内に存在せず、土地に生きる人に存在するという観点に触れていきます。先週、私は東北の岩手で友人と共に過ごしたのですが、そこで彼が語った「原体験」は、まさに神が何であり、神は誰のもとに存在するかを見事に表していたからです。
東西を峻厳な山脈に囲まれた内陸の盆地で生まれ育った友人は、ある時、突然海から呼ばれたと語ります。彼が生まれたのは青森県八戸という港町ですが、生まれてすぐに岩手県北上に転居したため、ほとんど海に縁がないまま育ちました。しかし、40歳になった途端、彼は自らの心の奥底から立ち上がる海からの誘いを強く自覚し、その強い意志に導かれるがままに船を購入しました。
ちょうど北上から東側の山脈を越えれば、2011年に東日本大震災で津波被害にあった三陸という沿岸地域に出ます。三陸はリアス式海岸が連なる景勝地であり、東北全体の過疎化が進んでいるため、沖合に出ると他の船に会うことはありません。事業を立ち上げて10数年が経ち、ようやく従業員に仕事を任せることができ、40歳になって子供を授かった友人は、自分の時間を確保することを重視しています。そこで彼がとった方法は、定期的に一人で三陸の沖合に出て静かに過ごすことでした。重要な点は、彼がリラックスする時間を確保するために海に出ることを選んだのではなく、海が彼を呼び、その強烈な導きに素直に従った結果、彼自身の魂のヒーリングになっているという事実です。そこには頭脳を用いた計算や意図はありません。
船のエンジンを止めれば、周囲は波の音に包まれ、壮大なリアス式海岸の絶壁が海面に鎮座する。他に船はおらず、広大な海原にたった一人身を置く経験が、彼の心の奥底にある原始の記憶を蘇らせたのです。その瞬間、彼は「畏怖」を感じたと言います。しかしそれは怖い感覚ではなく、むしろ還る場所に還ってきた安心であり、魂が共鳴するものです。まさに宣長が語ったように、友人が海原で抱いた原体験は、「理」では測りえない不可知のものであり、それが神の御業です。
「なぜ、自分が海にここまで魅了されるのかわからない」と彼は語ります。そして彼はその異様な感覚を言葉にできないと言いますが、私はそれは言葉にする必要のないものであり、その漠然とした確かな畏怖こそが神であり、あなたにとっての信仰なのだと伝えました。どうしても人は、神は実体を持たなければならないという社会的な先入観に惑わされますし、言葉にできなければ不安になります。しかし、そのようなものはそもそも神ではなく、原体験における畏怖に神は宿っており、友人の場合は大海原に宿る神々と共に在るのです。さらに言えば、自分でも理解できない漠然とした感覚が海を強く求め、それに従って沖に出る行為。この行為自体が信仰であり、その行為の連鎖と集積が一つの神として立ち現れてくるのです。これが宗教以前の神であり、本来、今も昔も変わらず人々のもとに存在する神の実態なのだろうと思います。
振り返れば私自身も、早朝の原始林に佇んだり、夕闇に包まれた砂丘に吹き寄せる潮風を浴びたりすることが大好きですが、それはその瞬間、言葉にできない畏怖を感じるからです。暗闇に包まれた砂丘に一人佇んでいると、方向感覚を失い、一面に同じ風景が広がる光景は、古代の人々が感じた畏怖の再体験です。そこに身を置いた時、怖さを感じるのですが、不思議と懐かしい感じがし、安心感に包まれます。
その経験を積み重ねて理解できたことは、畏怖とは神との接触であり、対話だということです。ゆえに木立の揺れ、吹き抜ける潮風、荒波の音、光の具合などが、すべて神の言葉として翻訳されます。私たちはその言葉を通して神と向き合い、対話し、祈りを捧げるのです。これが八百万神の源流にあり、私たち人類の太古の記憶に結びつく神の実態だったのだろうと、友人の話と自らの経験を踏まえて強く思います。
いくら神話や古伝承を読んでも、神を感じることはありません。しかし、一人で早朝の森や夕闇に包まれる海岸、暁闇の大海原に身を置いた時、人間は言葉にできない畏怖を感じる。その原体験を持って、神話や歴史に取り組むこと。なぜなら、その瞬間だけは太古から変わらぬ風が吹くからで、そこに神は宿っているからです。
神とは人類が持つ共通の「原記憶」とも言えますが、「漠然とした不安」でもあるため、人類はその記憶を封じ込めて生きてきました。つまり、原始の記憶は誰にでも開かれているが、ほとんどの人々にとっては覆い隠れている。この記憶を自ら目覚めさせるか、あるいは友人のように心に従い、大自然に身を置いた時に記憶を発動するかは人それぞれでしょうが、この原体験の有無が人生の質を分けることは確かに思えます。その原体験があってこそ、人は特定の宗教や教義に共鳴するのであって、心から信仰心を持って奉仕する。それは美しい信仰の姿であり、本来、そこに何の優劣もないはずです。
常々思いますが、近代的な無神論ほど虚しいものはない。無神は宗教における絶対神に対する無化としては機能しても、人間は根源的に神なきクリーンルームを生きてきたわけではありません。現代に信仰の回復と言えば、寺院や教会や神社に出向くことへと結び付けられますが、そのようなことをせずとも、私たちは神を信仰し、祈りを捧げることはできますし、先祖たちはそれを綿々と続けてきたのです。
友人の原体験を聞きながら、船で神が坐す三陸沖に出ると、かつて海に生きた祖先が感じた静かで容赦ない畏怖が、今も海原に漂っていることを感じました。