堂々巡りの対話から抜け出すEscaping the Circle of Endless Argument
どれだけ言葉を尽くしても、立場を変えて説明しても、相手の言い分を聞いても、結局、最後には同じ場所に戻ってきてしまう。答えがない堂々巡りの中で、私たちはそれ以上の努力を無駄と感じるようになり、大抵、答えを出さなければならないと焦り、「妥協」という言い訳をして、相手が間違っているや、相手には理解する気がないからだと考えます。この時、分かり合えなさの原因を相手の側に置き、自らを正当化し、納得させる。
だが、それは本当に相互理解に至る道なのか。分かり合えないと感じるその瞬間、私たちは無自覚のうちに、自分の側だけを唯一の正しさとしていることは多い。いや、ほぼ全てにおいて、そのようにしている。自分の見ている世界が世界であると結びつけ、それを自己肯定し、最後には相手はそこから外れた劣った存在だと考える。思うに、「正しいと間違っている」、「善と悪」などに典型的な二元論の罠は、常に自分自身の問題であり、他者、社会、政府、世界の問題ではない。自分が正しい、自分が善だと確信すればするほど、世界は実際には狭くなる。これが正しいと信じれば信じるほど、息苦しくなる。確信は力になると教えられたはずが、反転して自分を閉じ込める檻として作用する。
その最悪の形は、自分だけが善であり、正しいと盲信した結果、相手として想定している存在を遮断してしまうこと。この遮断が起きるのは、常に自分の世界が極限まで狭くなった時で、決してそれが普遍だからではない。極限まで世界が狭くなった時、残された明確な何かを、そうした人々は守るべきものとして勘違いするため、必然的に自ら対話を閉ざす。相手が対話を閉ざすのではなく、自ら閉ざすのだ。なぜなら、自ら対話を閉ざせば、相手が悪であり、相手が間違っているという自己便宜を守ることができるからだ。そしてその自己便宜は、共通の狭い世界に幽閉されている人々には同意として響く。
この反転作用に、なぜか人は気づかない。歴史を見る人々、あるいは全く異なる文化圏の違和感をどう受容し、どう対話するかを生涯を通じて格闘してきた人々から見ると、こうした反転作用に行き詰まる人々の姿は正直、理解に苦しむだろう。人間は高尚な生命体だと教えられたが、実際にはまるで違う。近代が消し去ってしまった「私とあなたのたった一つの関係」。そのたった一つの関係は、密度・濃度が高く、そこには熱が宿り、魂が宿る。このたった一つの関係が作用するためには、場所が必要だ。最初に場所が生まれるからこそ、私とあなたは心から真摯に向き合い、一つの関係を四苦八苦しながら生み出すことができる。その場所とは、関係が生まれる前提であり、心と心の関係において創造される。
仮に人々が語るように、正しさや善を手にしたはずであれば、どうして私たちは自由になるどころか、窮屈、より正確に言えば偏屈になるのか。なぜ、現代は偏屈者の巣窟のようになっているのか。しかも、偏屈者の巣窟では、その偏屈が善であり、正当だと反転するため、もはやどうすることもできなくなる。なにより、彼らはこの問いへの答えを持っていない。理由は明白で、真理を自分自身の外にあるものとして探しているからだ。どこかに唯一の真理があり、それを発見して手に入れれば、すべては解決する。それは信念ではなく盲信だが、それに気づかずに人々は外の世界に真理を探しに行く。それを美化するために、物語が用意される。事物に、他者に、社会に、国家に、そして世界に。だが、実は外に真理を探しに行けば行くほど、私たちは自分から遠ざかり、人生の果実を手にする機会は最後まで訪れない。そしてそれは、人生の徒労である。
言い方を変えてみよう。私たちは世界に近づけば近づくほど、自分から遠ざかる反転作用に陥る。これは原理であり、必然である。そして自分から遠ざかるほど、世界はそれに合わせて狭くなる。世界は狭くなったのだが、自分から遠ざかって疎外された人々にとっては、世界は近づいたように錯覚する。こうして起こったことは、世界を所有し、獲得したという驚愕する妄信だった。この500年は、まさにそうした妄信の時代だった。
この奇妙で繊細な違和感は、少しでも精神世界を人生で探究しようとした者にとっては、言葉にできない不思議な感覚として、どこか覚えがあるだろう。だが、ここに一つの真理が示唆されている。なぜ、世界に近づけば近づくほど、自分から遠ざかるのか。自分から遠ざかるほど、世界は狭くなるのか。この問いに徹すれば、意外にも真理は明確になる。つまり勘違いされているのは、世界に近づけば近づくほど、自分の存在が確定されるということ。この拡散されている考え方は間違っており、虚偽である。私たちが考えなければならないことは、この反転する作用が何によって起きているかということだ。
現在の世界を俯瞰すると気付くが、人々は「何か」を求めて右往左往しているにも関わらず、自分たちが正しいと盲信している。冷静に俯瞰すると、これほど奇妙で愚かなことはない。なにしろ、人々は求めている「何か」が何かを知らないにも関わらず、なぜか自分たちを正当化しているからだ。そして気づかぬうちに、その正しさなるものを異なる文化圏の人々に対して強制し、異なる文化圏の秩序を乱す。個人的経験から考えても、これは異文化の観点では避け難いものであり、どれだけ私たちが自覚的になったところで、完全に解消できるものではない。私たちは、各々に生まれ育った文脈が異なるからだ。世界は一つではないし、人類は一つではないし、誰もが友人ではない。そんなことは、当たり前のことだ。これは幻想でも虚構でも物語でもない。当たり前のことなのだ。
文脈が異なるということは、引き受ける歴史、精神、文化、所作、日常の営みのすべてが異なることであり、絶対に「相互理解」という現在使われている意味での境地には達しない。なぜなら、その次元に「相互理解」はあり得ないからだ。私たちが主張している意味での相互理解とは、所詮、誰かの基準を暗黙、あるいは意図的に設定値に据え、そこを逸脱する要素を無自覚、あるいは自覚的に排除することによって実現したものでしかない。つまり、これは相互理解ではなく、相手の存在を心で認めた次元ではない。なぜなら、相変わらず土台は二元論だからだ。
私がここで提起したいのは、近代を経験してしまった「私たち」が語る世界とは、実は人類で見れば少数派でしかなく、今地球に存在する人類の圧倒的多数は、私たちが語る世界を共有していない。ここが、第一の論点。今も平然と世界や人類や人間を人々は語っているが、この根本的な問題を自覚していない。近代を経験したか否かは、思っている以上に重要であり、近代をどう定義するかは別としても、真剣に考えなければならない基層にある。そして近代ではなく、近代化の崩壊にある今、私たち近代の経験者にとっては、どうしてもこの世界を前提に語ってしまうが、残念ながらそれは盲信であり、虚偽であり、真理ではない。大半の人類は、私たちがそう信じたい気持ちとは全く別に、近代の経験者ではない。もちろん、程度の差はある。そして重要なことは、何も近代が正しく、善ではないということ。それが世界だという考え方自体が、私たちが分かり合えない根拠を暴きながらも、そこを見ないようにするための設計が、社会、あるいは国家的に起きている。ここまで見抜くことは容易ではないし、その大きな母体を変えることはできない。市民社会の歴史文脈がある一部地域の人々なら、何かしらの変革は可能だろうが、それとて地球で見ればわずか一部であり、世界ではない。つまり、自らの文脈における正しさや善は、あくまでもその文脈でしか通用しないものであり、絶対にその外部に出してはいけない。これが侵略の原理である。よって、現在の意味での相互理解は侵略・剥奪であり、相当深刻に問題視しなければならない。
この反転作用に陥った時、必ず人々は自分の世界を反動的に肯定し、正当化し、善とした上で、それを必ず相手に押し付ける。これまでの時代なら、それはほとんど表面化しないものであり、国際政治や外交などの領域に比較的限定されていたため、ポスト・コロニアリズムなどの文脈で考察する余裕があった。だが、今この反転作用による上述した錯合は、政治家でも外交員でもない無数の人々によって代替された。その象徴が観光客だ。残念ながら、この問いに向き合い、自覚的な上で他国や他文化に向き合うような観光客は一握りであり、大半はそのようなことを考えず、知らないうちに他国、他文化を侵食し、剥奪している。相手の文化、精神が失われようとも、彼らにとっては知ったことではない。これが侵略者の原理である。侵略者とは、何も見るからの悪ではないのだ。善人の恐ろしさは、ここにある。そして問題は、その善人という規定はどうやって決められてきたのかということだ。
儒教の『論語』には、ある古い教えがある。[郷愿は徳の賊である]という言葉だ。郷愿とは、何も悪いことをせず、角を立てず、社会生活を営み、円満な人生を送る善良な優等生のこと。要するに、良い子であろう善良であろうとするあまり、偽善に傾く人のことだ。孔子は、彼らによって善悪の基準が骨抜きになると警告した。ゆえに孔子は、「徳」という儒教が重視してきた人間の至高の善は、こうした善良な人々によって盗まれると論じた。言い換えれば、明らかな悪は警戒できるが、本当の問題は善人の顔をした偽善者であり、彼らが警戒されないまま全体を蝕み、最後には必ず崩壊するということ。この二千年以上の古い教えが、今、私の中に反響している。
移動が特権的でなくなった現在では、多くの人々に異文化との接触が解放されたと言える。実際、氾濫する観光客を見ていても、彼らは悪ではない。むしろ世界の定義では善人だが、だからこそ問題なのだということはリベラルな空間では問われない。善人の顔をした偽善者の問題は、観光においては「文化の剥奪」を破壊的に連鎖する。かつて植民地時代に侵略者がやったことを、今は善人の顔をした偽善者が代替している。これが問題なのだが、問われることはない。なぜなら、彼らは自分たちを善人だと思っているからだ。つまり真の問題の位相は、その当事者たちが世界と向き合っていないことに尽きる。そしてそれは、何も観光だけではなく、すべての世界と呼ばれる領域にまで反映されている。原因は、彼らが世界を知っていると思い込んでいることにある。私たちは今、未曾有の危機にあるという感覚は誰もが共感するだろうが、その根本的な位置にあるのは内省の有無だ。それが、私の位置付けとなる。
ここで私が想起するのは、王陽明が[良知]と呼んだものだ。良知を私の言葉で言えば、真理は自分の外にあるのではなく、自分自身に内在しているということ。だから自分自身を差し置いて、いたずらに真理を外の世界に求めることが、そもそもの誤りなのだ。ただし、この真理への応答は、上述した善人の顔をした偽善者には、「頭の中で理解される知識」として納得されるが、王陽明の言葉はそこにはない。つまり、善人の顔をした現代の偽善者は頭は良い。理解度は高く、相手が何を言っているかを論理的に理解する能力は高い。だが、だからこそ彼らは問題なのだ。孔子がなぜ、彼らを善人の顔をした偽善者と言ったのか。その核心がここにある。そして王陽明は、この観点を最も鮮烈に抉り抜いた。
一体、どういうことなのか?
一般的に王陽明の学派を陽明学と呼び、中国で生まれたものの、むしろ日本側で活発に受け入れられた歴史がある。ただ、ここで知識は頭で理解するだけでは無意味であり、行動が伴わなければ本当に知ったとは言えないという陽明学の観点が、結局のところ理解度の高い善人の顔をした偽善者にとっては、あくまでも知識として消費されてきた。だが本来、孔子や王陽明にとっての「知識」とは、ただの行動を主張しているのではない。そうではなく、「感激すること」に核心がある。私は王陽明の言葉を行動の実践としては読まず、感激に据えている。
つまり、知識のインプット先が書物であれ何であれ、本当の問題は、あなた自身が心から感激したことにあるのであって、その感激自体が王陽明の語る真の知識の取得となる。言い換えれば、感激のない知識など、なくて構わないし、むしろそのような知識の蓄積は、人々にとって悪害でしかない。教育システムは、この感激を持たない知識の集積であり、社会的な歯車として役立っても、それ以上の力は持たない。教養と言われるが、教養のための勉強には感激はない。そしてこの悪害の知識の蓄積によって、人々は壊れ、世界は壊れた。エリートや知識人の言葉が今の世界に対して何もできないのは、この原因を彼ら自身が理解できないからだ。
一度、あなた自身の人生を振り返ってもらいたい。単に大学で教わった知識と、あなた自身が心から感激した知識は、同じ言葉でありながら、次元が違うことは明らかだろう。単に社会的キャリアを高めるために学んだ知識と、あなた自身が身体で得た知識は、同じ言葉でありながら質が違う。そもそもあなたは今、なぜ生涯に渡って「それ」に取り組んでいるのか?そこには必ず、感激に伴う「原体験」があったはずだ。そして今、私が徹底的に重視しているのはこの原体験にある。
文化、歴史、宗教、政治、医療など何であれ、その道に進む動機の根源に原体験があるか。この有無は、人間の生涯を想像以上に変貌する。そして原体験がなく、ただ社会的キャリアのために選択した人々は、社会的には善人だが、むしろ全体を蝕み、最後には崩壊する原因となる。これが孔子の見た現実だった。今も同じだ。一方、その分野が何であれ、原体験を持つ人々は、それが自分自身の生涯の動機であり、信念でもあるため、間違っていることや納得できないことに対しては、容易に迎合しない強い意志に至る。そして前者は責任を引き受けず、すべての問題を先送りにして言い訳ばかりするが、後者は原体験が使命へと結実するため、責任を自ら引き受け、問題を先送りにせず、言い訳などせず、世のため人のために己のできることを尽くす。
前者は社会的には重用されるため、旅行などの経験にそれなりの金額を投資できる。だが、彼らは原体験を持たず、感激という「経験」を持っていない。ゆえに、その経験のためにいくら金を注ぎ込み、時間を割いたところで、実は何も学んでいない。知識は蓄積でき、それを彼らは社会的キャリアにおいて多少は活用できるが、真に何かを知ることはなく、生涯を通じて何も知らない。だが、社会的には誰よりも何かを知っていると規定される。
後者は社会的に重用される機会は少ない。なぜなら、前者が重用される強度が高まるのは、大抵官僚制が強くなる時代だからであり、責任回避、自分のキャリア優先、問題先送りが社会においてルールとなるからだ。だが後者は、既存の社会やシステムが崩壊し、混乱の段階に入った時、必然的に台頭の機会が訪れる。なぜなら、前者は平穏な時代の汎用的な問題解決能力(つまり、大学知)は高いが、大学で教わらない問題への対応能力はないからだ。別の言い方で言えば、彼らが盲信している世界以外の世界の問題に対する能力はない。つまり、実際には彼らは何もやっていない。
そして後者は、むしろこちら側の問題解決能力が高い。彼らは原体験を持っており、感激によって生命を全うしているため、別に金をかけて世界中を旅行せずとも、一冊の本の一説、大切な相手との対話、日常の風景、歴史から生涯感激することができる。その感激によって、彼らは自分の目的地を決める。なぜなら、感激は必ず行動を伴うからであり、その行動の永遠の過程こそが真の知識だからだ。よって彼らは即座に行動し、感激を伝えるに相応しい相手を探し求め、そして知識を会得する。
この前者と後者の「知識」は全く違う。そして前者は頭では論理的に異文化は違うと理解しているが、感激に基づく経験や知識はないため、あくまでも法制度や倫理の観点として明文化しなければ理解しない。つまり、イデオロギーになる。しかもその理解は極めて浅薄であり、常に異文化や他国の人々、あるいはルーツやバックグラウンドの違う人々を許容する力とはならず、あくまでも頭の中の多様性や受容や理解というものを社会的に反映するために、相手側に押し付けるに過ぎない。
一方、後者は感激した原体験という賞味期限のない原動力で行動するため、そこに前者が頭で考えるような論理的な理解はなく、「心と心」で相手に向き合う。真の多様性はここに立脚しなければ実現不可能であり、実際、この数十年行われたリベラルな多様性は、基本的に前者に依存していたため、完全に失敗し、今や反動勢力によって駆逐されつつある。理由は明白だ。頭で理解した程度の知識で考えられた多様性というイデオロギーは、感激という原体験を共有する人々にとっての多様性ではなく、あくまでも自分の世界が正しく、善であるという前提を立場の弱い相手に押し付け、相手側の異質を除去するためのものだったからだ。
だからわざわざこの世界では、肌の色、形姿、髪質、目の色、服装、信仰、学歴、キャリアなどが「明文化」されなければならない。「これはマイノリティです」や「これは差別です」と明文化しなければならないような世界は、本当の世界ではない。あまりに馬鹿げた茶番が、平然と「倫理」を装って通用する世界は、私から見て恐ろしく異質である。この虚偽に塗れた世界が、今崩壊を始めているが、孔子に基けば当たり前なのだ。そしてこの崩壊は、今の人々が考えているように悪によって起きていることではない。ゆえに、自分たちを善とみなし、悪を滅ぼさなければならないという論理は存在しない。むしろ、その善良な偽善者たちによって世界は崩壊しており、彼らの自己責任なのだが、彼らは常に自らの責任回避をするため、その問題には絶対に至らない。結果、世界は崩壊を加速する。
この責任回避の堂々巡りは、常に仮想敵を必要とする。だが、後者にとってこれほど馬鹿げており、愚かで危険なことはない。そして前者が気づかないことに、後者は気づいている。それは真理は自分に内在するということ。実は、これ以外の真理などは存在せず、すべて幻想なのだ。最も重要なことは、真理が自分に内在するということを頭で理解することではなく、自分自身の原体験において知る以外に方法はないということ。つまり、いくら真理は自分に内在すると訴えても、まったく意味がない。ここを多くの人々は勘違いしてしまうのは、自らが持つ原体験の存在に気づかないからだ。だから王陽明は、自らの生命をかけてここを体現した。原体験を持つ者と、持たない者の世界は全く違う。同じ用語を使っていても、言葉としては次元が違う。ゆえに、相手を納得することはできても、その相手が原体験を持たず、頭で論理的に理解する能力しか長けていない場合、結果的には伝わらない。むしろ、それを稼ぐための知識として利用されることが常に起こる。
こうした問題は、歴史が抱えてきたことだ。それを突破する方法は、実は一つしかない。真理は自分に内在することを原体験で知る者が、「たった一人」のために全力を尽くすこと。これ以外に方法はなく、多くの人々に伝えることなどできない。ある程度、希釈した思想としては共鳴し、それなりの人々に伝えることはできても、宗教の歴史が証明しているように、あっという間に形骸化する。これは避けられない。だからこそ、誰かに伝える責任を引き受ける者は、不特定多数に向けてではなく、「たった一人」に伝えることを続けるしかない。そしてこれが未来であり、可能性であり、近代ではない地平である。これ以外に、近代の息の根をとめることはできない。そして近代を拒絶することに意味はなく、近代を緩衝し、共存する新たな場所を開かなければならない。世界を拒絶せず、世界を緩衝し、共存する新たな場所を開かなければならない。
真理は自分に内在する。これは、実は世界とは自分に内在するものであり、私たちが主張している世界など存在しないということ。だが、存在しない世界が存在するように振る舞うのであって、こうした幻想領域が実体化する振る舞いも存在する。西洋では虚構や物語は存在しないものに位置付けられるが、日本の観点では幻想は実体を伴う。この双方向の作用があるため、そこから[もののけ]などの妖怪のルーツになる存在たちが各地で生まれた。世界が存在しないという原理は、自分に内在する世界に到達した瞬間、自明なものとなる。だが、幻想には自己幻想、対幻想、共同幻想があり、各々の幻想は異なる原理で作用・働いている。この幻想構造において、世界は多元的である。ゆえに、私たち一人ひとりの世界が違うことは当たり前であり、その徹底的な自覚に至る時、実は多様性としてリベラルが語ってきた頭の中の世界ではない、原体験に基づく界域が開かれる。それが[相反共存]だ。
この考え方は、真理は自分に内在するという感激に達した者たちにとっては、当たり前のことだが、世界は一人ひとり違う。そしてそれを善良な偽善者たちによる相互理解の土台に据えた瞬間、その力は失われてしまう。一人ひとり世界が違うということを原体験に持つ者は、相手が世界を持っていることを原体験で自覚する。この自覚の質が問題だということ。そしてこの場合、一人ひとりが世界を持っている以上、相互理解というものは通用しない。なぜなら、必然的に差異の除去に帰結し、その基本軸を決定するのは常に特権者だからだ。
だが、[相反共存]はそれ自体の中に生きる。一人ひとりに遺伝子が異なるように、人類などという総体も存在しない。地上を徹底的に見つめ、日常を見つめ、たった一人の相手に向き合う者は、差異を埋めようとはせず、理解によって解決しようとせず、異なる存在という原理を軸に据えた上で、相手と対峙する。勘違いされやすいが、たった一人に向き合うということは、カウンセラーのように生やさしいことではない。
かつて日本の武士が向き合う時、刀を抜かずとも勝負は決していた。たった一人に向き合うとは、命をかけた行動であり、それは相手が徹底的に異なる、つまり異質な敵だという前提に立っている。そこには相互理解などない。今やそうした考えは消え去ったが、本来の茶道こそがその現場だった。茶室に迎え入れる主人は、来訪する客人(異質な存在)を徹底的に歓待するが、それはたった一人の客人のためだけの行動であり、相手と対立、闘争しないための高度なホスピタリティ技術だった。武士が向き合う時、彼らは敵を悪だと憎悪に燃えていたのではなく、心から相手に敬意を払い、その中で真剣に向き合い、どっちが斬られても文句はないという覚悟のもとで行われた。そのようなことは、当然、明文化されない。明文化された時、その覚悟は失われる。そして武士は近代戦争によって消え去ったが、茶道は明文化によって消え去った。
私たち一人ひとりが、すでに一つの世界である。
何度も言うように、これは頭で理解する知識としては意味がなく、原体験として到達する瞬間に至らなければならない。そのために学ぶのであり、時にはメンターとの出会いを必要とするのであり、移動をするのだ。これが反転すると、ただの自己満足になり、誰のためにも生きることはできない。誰かのために生きるとは、今の世界で言われるような緩いものではない。そこには必ず生死が関わっている。命をかけてでも、たった一人と向き合うこと。その積み重ね以外に、この世界を変革する方法はない。なぜなら、革命は社会や国家に対して行うものではなく、ましてや他者を変えるためのものでもないからだ。革命とは、常に自分自身に対して行うものであり、一度で終わるものではなく、生まれてから死ぬまで永遠に続くものなのだ。