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和の変容 2:多極化世界の和Transforming Wa, Part 2: Wa in a Multipolar World

Transfoming waの第二弾: 多極化世界の和

和がイコールで大衆形成(mass conformity)なのではなく、大衆形成を生み出す見えない作用・働きを「和」だと私は位置付けます。混同されやすい二つの界域は、明確に思考を弁別して考えなければなりません。そして和がmass conformityを生み出すために必要なのは、政府、社会、特定の指導者や集団ではない。和自体の意志によって変容し、その変容の影響を私たちが随時被っているということです。ゆえに和を人間側が意図的に修正、改変することは不可能です。この認識が和の理解の根本であり、大衆形成を生み出す見えない力です。

この前提を踏まえて、先週リリースしたTransformation of Waの続きを始めていきますが、当初の予定から変わり、今回のパート2/3で論じ切る予定だった明治維新から近現代の歴史は、大きく分けていきます。今回扱うのは、幕末と呼ばれた明治維新に至る時代から明治維新が成功するまでです。Part1/3の内容を前提に進めていくため、まだお読みでない方は1/3をお読みください。

和の変容史において注視する時代は、1868年に勃発した明治維新の前後です。というのも、この時代の構造的転換点が生まれた直接的な原因は、和の変容という観点から読み解くことが可能だからです。今回のテーマは、和が統一を目指して大きく変異を始めた動きとなります。

この時代は300年続いた徳川将軍家の江戸幕府が終わり、西洋列強を背後とする新政府の樹立に繋がる近代日本の構造的転換点として美化されてきました。しかし、明治維新を担った人々は共通した一つの思想や目的を持っていたわけではなく、本質的には時代の趨勢によって集まった雑多な武装集団です。この意味では、後に登場する大日本帝国の軍隊の統一性とは大きく異なります。なぜなら、二つの時代において和の姿は全く違うからです。一方で近代史では、この文脈はかなり美化されており、明治維新は大義名分としては「尊王攘夷」で一貫していたと規定されます。その実態は「幕府打倒」ですが、このような大義名分を本気で信じていた人々はさほど多くはありません。

大半は金を稼ぐこと、地位や名誉を求める者、名前を売ってどこかの藩に雇用してもらうという具合に、実利的な理由を目的に参加していたからです。このような人々は常に日和見であり、時代情勢によって右にも左にも付きます。つまり幕府打倒を標榜する一部の人々にとっては、この日和見を一時的にでも味方に付けて、革命を実行した上で、彼らを自らのもとで統治することが問題になります。明治維新直前の時代は、江戸幕府末期という意味で「幕末」と呼ばれますが、その幕末から明治維新を実行し、明治政府を樹立する主軸となったのが、現・山口県の長州藩と現・鹿児島県の薩摩藩です。

大きな流れとしての江戸時代は、江戸にあった幕府、京都にあった朝廷、各々の地域にあった藩という次元で考えることができますが、誤りやすいのは、300年の江戸時代には「統一された和」など存在しなかったことです。言い換えれば、「日本の和」や「日本人の和」などの一極的な捉え方は、江戸時代に存在しないものであり、明治以降の歴史において形成された「新しい考え方」です。個人的には江戸時代は、現代の地政学的な意味で使用される多極化世界の日本列島での姿だと見ています。

明治維新の動乱は簡略化されていますが、必ずしも長州と薩摩だけが原動力だったわけではありません。この激動の時代に起きていた要点は、日本を占領しようとする欧米の外部勢力に対して、日本が如何に抗戦するかを実行した一点に付きます。つまり、幕府への求心力が低下する過程で、幕府、藩、朝廷が一致団結しなければ、欧米によって占領される危機が目前に迫った時、和が統一という状態に向けて先に変異したということです。この変異が歳月をかけて変容となり、やがて時代に反映されて歴史となります。

当時、日本の未来を憂いた人々は、どのようにしてこの一貫した力が作用しない日本を、一つとして形成するかという新たな問題に身を投じたのです。ここが重要です。読み解いていくと、和という無数に分散存在していた力の帰属先をいかに統一し、その統一された和に干渉しようとする欧米を排除するという問題になります。つまり、ここでは複数の多極化世界的な和を統合する動きではなく、あくまでも統一の力によって欧米を撃退しようとしたことが分かります。ここに「一つの力」という新たな視点が生まれました。

一方で和を一つの力にするならば、「誰が」主導権を握るかが問題になります。既に徳川将軍家や幕府にその力はなく、ましてや天皇にもそこまでの力はない。これは当時の誰もが自覚していたことですが、すると問題は、「どの藩」が主導権を握るかという問題に転移します。これが覇権を巡って争った明治維新の一つの真相です。

なぜ、こうした日本独自の観点が生まれたかを説明します。それは明治維新の立役者が武士であり、武道の心得があったからです。日本における武道では、散逸している「気」を自らのもとに統一できるか否かが勝敗を分けるのであって、戦闘能力の高さは勝敗とは無関係です。この原理が江戸時代を通じて武士に染み込んでおり、さらに徳川家康以来幕府の体制哲学となった儒教の教えが武士階級に貫徹されていました。つまり幕末期の武士に起きた重要な変質は、武士の身体と精神を統一した状態を「国」の健全な姿に見立てて独自に解釈し、その理想的な国の実現を目指して行動したということです。この時、それまでは武士各々の生き方であった次元から超越し、欧米に対抗する国家形成の意図が生まれています。国家形成の流れに、武道と儒教という武士固有の技術が介入しているのです。

問題は、これは江戸時代では武士階級に固有の考え方であり、他の階級の人々には無関係でしたが、大日本帝国の軍国主義の渦中で、この武士階級固有の技術が国民への強制という形で現れたことです。つまり、武士という身分は江戸時代を通じて一部でしかなかったにも関わらず、大日本帝国時代は国民の誰もが武士の階級へと変質したという奇妙な現象が起こります。これは幕末の時点で和に武士道が介入した影響として読むことができます。

彼らが特に問題視したのは、将軍を掲げる幕府と天皇を掲げる朝廷が完全に分裂し、日本の力が統一されていないことです。一つの力で国家形成をするためには、大前提に幕府と朝廷の統一が必要です。この捉え方は、特に幕末期に主張された「公武合体」という考え方が鍵を握っています。なぜなら、公武合体はまさに朝廷と幕府を合体し、一つの力を強制的に作り出す試みだったからです。この公武合体が、今回のテーマに潜んでいます。

明確にすれば、一つの力としての公武合体が実現できなければ、欧米の植民地になることが目に見えていたからです。1825年に後期水戸学の会沢正志斎が提唱した「祭政一致」の考え方にも典型的ですが、幕末の人々にとってこれらは中身を失ったスローガンと化しており、あくまでも力の主権先の問題として解釈されていきます。いわば幕府をアップデートする形で「統一国家」を実現するか、あるいは幕府を打倒した新たな体制のもとで「統一国家」を実現するかに分裂したのです。これらは明確に二分化していたわけではなく、双方が繋がったまま明治維新に流れ込みます。つまり、和が日本の国土を統一するために変容を始めたのですが、この統一に向かう力を内包した和の動きは、日本近海での欧米側の挑発行為によって変質しました。

その近代日本を生み出した和の動きを読み解いていきます。最初に踏まえておくことは、1868年の明治維新が起きた時点で、後期水戸学の先鋭的な思想家が全員死去していたことです。一方で1829年に水戸藩で行われた抜本的な藩政改革が、この時代の新たな潮流を形成しています。いよいよ水戸学で育まれた思想が、実践行動に転移を始めたのです。その改革の指導者となったのが、九代藩主・徳川斉昭です。彼は水戸藩主として大改革を行う過程で、それまで見向きもされなかった下級・中級武士に対して、実力があればチャンスを与える政策に転換します。この藩主の改革は若い武士に歓迎され、血気盛んな彼らは期待に応えて躍動し、改革派として主君に忠誠を誓います。一方で古い武士の身分秩序を重んじる藩内の保守派からは強い反発を買いますが、この時、水戸藩保守派は日本で「調子に乗っている」という意味で使用される「天狗になっている」という言葉で改革派を軽蔑。政敵から蔑称として呼ばれた「天狗」という響きを気に入った彼らは、後に明治維新に繋がる過激派組織「天狗党」の母体となります。

日本近海での欧米の挑発行為に憤激した水戸藩改革派は、水戸学の尊王攘夷を思想から実行段階に移すべきだと強く主張。さらに徳川斉昭の大改革が他藩にも影響し、これまで江戸時代を通じて目立たなかった下級・中級武士が自らチャンスを求めて水戸藩に学びに出向きます。しかし、一向に幕府の為政者は動きません。そして徐々に激動の幕末期が始まる象徴的出来事が起きます。

1850年中頃、病弱だった十三代将軍・徳川家定には世継ぎがいなかったため、幕政は真っ二つに分裂。あくまでも伝統的な血筋を優先し、紀州藩(現・和歌山)の若い徳川家茂を推す勢力と、国難を乗り切るためには血統以上に統治の才能の方が重要だと主張し、英明だった徳川慶喜を推す勢力です。前者が保守派の「南紀派」、後者は改革派の「一橋派」と呼ばれます。この分裂は、江戸時代が始まって以来続いた政治力学の問題が表面化した瞬間であり、徐々に統一に向かう和の影響を受けていきます。

こうして幕府内が将軍の跡目問題で二分化する渦中で起きたのが、米国が日本の市場開放を強要した日米修好通商条約の締結問題です。既に統制力を失っていた幕府は調印する意向を示しますが、幕府が米国に屈したという印象を回避するために、ここで天皇を掲げる朝廷に直訴します。つまり、責任の所在を徳川家から天皇家に転移させ、米国の圧力に屈したのは朝廷だと位置付けようとしたのです。この問題が火種となり、江戸と京都の対立が深まっていきます。しかし幕府の思惑は、欧米が日本に介入する未来を徹底的に嫌う孝明天皇によって打ち砕かれます。孝明天皇が幕府からの依頼を拒絶し、絶対に米国の強要には応じないという立場を示したため、幕府は窮地に追い込まれたのです。この孝明天皇の決断は、尊皇攘夷派が勢いよく台頭する理由としては十分であったため、徐々に幕府を打倒した方が手っ取り早いという論調が目立つようになります。

この不穏な時代の中、登場したのが南紀派の大御所・井伊直弼です。幕府最高権力者の大老に就任した井伊直弼は、天皇の命令を無視して独断で日米修好通商条約に調印した上、次期将軍を南紀派の徳川家茂に決定します。こうして十四代将軍として徳川家茂が就任したのですが、何とこの時彼は12歳。大混乱する幕政を子供の将軍が担えるはずもなく、井伊直弼の独裁的な強硬手段に対する反発が各地で活発します。ここをチャンスと見た反井伊直弼を掲げる水戸藩の尊皇攘夷派が一気に台頭すると、井伊直弼は自らの反対勢力を一掃すると宣言し、過激な弾圧作戦を開始します。こうして1858-1859年まで続いた弾圧により、敵対する一橋派の大名たちは次々と罷免され、幕府を批判した人々が次々と処刑されます。この大事件を「安政の大獄」と呼びます。大きなターニングポイントです。徐々に和が統一するための選別が始まっています。私は日本で独裁者が登場しなかった理由は、ここにあると睨んでいます。和が特定の主義思想を持つ者を利用はしても、絶対的位置にまで押し上げることがないからです。ここに日本独自の他文化の受容に関わる基層が潜んでいます。

井伊直弼は、最大の敵を水戸藩主で一橋派を率いる指導者だった徳川斉昭と位置付け、彼に対する生涯の水戸藩内での謹慎という罪を命令します。主君に対する屈辱は、尊皇攘夷思想を育んでいた水戸藩の若者たちが過激化するために十分過ぎる理由となり、彼らは主君への名誉回復を掲げて徐々に地下活動に身を投じていきます。安政の大獄で真っ先に幕府を見限る決断を行った水戸藩の藩士は、藩や主君に迷惑をかけてはいけないと自ら脱藩し、江戸に潜伏して井伊直弼暗殺作戦の実行に動きます。脱藩とは、藩を自ら除名して無所属の浪人になることです。この水戸藩の武士の行動が、水戸学の精神として継承されてきた水戸藩の和を、分散して弱体化しながら、地下活動に流れ込む動きとなり、やがて過激派の主要思想へと変質していきます。つまり、この瞬間に水戸藩で培われてきた高尚な和が、統一の力になる可能性が絶たれたのです。この時点で覇権闘争の舞台から水戸藩は落ちますが、彼らは水戸浪士と呼ばれます。

1860年3月24日に、水戸浪士は井伊直弼暗殺に成功。主導者を失った幕府保守派はもはや再起する力を完全に失いました。この事件が動乱の1860年代の幕開けとなります。ただここが日本の興味深いことですが、一見すると統一性のない混乱状態のように見える幕末の状況は、実際にはかなり統一された動きを持っています。これは儒教の教えが、江戸時代を通じて武士の心身に染み付いた影響だと思います。視方を変えれば、幕末期に儒教の教えが昇華する形で和が変容を遂げ、敵味方に分裂しているように見える人々を、一つに内包し始めたとも言えます。つまり、この時代は既に和が各地の主義主張や立場の異なる人々を統一しており、後は最終帰属先がどこに決するかが問題だったということです。その帰属先は前述の通り、幕府でも朝廷でもなく、実は藩だという観点が重要です。要するに、幕府と朝廷が形成してきたひとつの和に至る力が、いずれかの藩によって飲み込まれる過渡期の運命を迎えていたのです。この過程自体は千年以上かけて起きたことですが、ようやく日本列島を統一しようとする和が姿を表し始めたのです。

最終的に主導権を握ったのは長州藩ですが、ここからは幕末期の長州藩の和という性質を読み解いていきます。なぜなら、この和が近代日本の和の主要な性質を担う源泉となったからです。

近代に結ばれる長州藩の和の源泉を形成する母体となったのが、吉田松陰です。1830年に現・山口県萩市で生まれた吉田松陰の重要な特徴は、徹底した目的成就の実践主義と、独自の兵学にあります。前者は儒教の中でも陽明学によって培われ、後者は叔父が教えていた山鹿流兵学に由来します。江戸時代の二大兵学の一つである山鹿流兵学を叔父から取得した松蔭は、何と9歳で藩が運営する明倫館の兵学師範となり、15歳でもう一つの長沼流兵学を修養しました。若くして日本最高の兵学師範の一人となった吉田松陰が指標になるのは、挑発行為を繰り返していた欧米との戦争に、日本の兵学だけでは勝てないという確信を抱いた重要人物だからです。

この若い彼に絶大な影響を与えたのが、現・長崎県平戸市にあった平戸藩の思想家・葉山左内です。清国がアヘン戦争で英国に敗北した原因を分析した葉山は、欧米の軍事力が強大だったことと、アヘンとキリスト教で中国の内政を撹乱させたことにあると主張。日本の場合、江戸時代前期の時点でキリスト教は排除できており、アヘンも入っていなかったため、問題は軍事力に絞られます。

こうして清国の敗因を踏まえた上で、葉山は国内の兵学の限界を指摘し、いち早く西洋兵学を導入し、それを活用した海防を形成しなければ侵略されると論じます。1850年に松蔭は葉山に師事しており、師匠の画期的な考えに感銘を受けています。この時、日本兵学最高峰の一人が、このままでは西洋との軍事衝突はできないと悟ったことが、幕末期の動乱の原動力となります。吉田松陰は水戸学の尊王攘夷思想の中で、尊王を崇拝していましたが、攘夷は現時点では不可能だと察知したのです。この尊王攘夷の変質を見逃してはなりません。吉田松陰という人物の中で再解釈された尊王攘夷思想は、やがて彼を師匠と崇めた長州藩の弟子に継承されていき、歪んだ形で明治維新の成功に結びつくからです。

吉田松陰は尊王を標榜しながらも、今攘夷を行うのではなく、徹底して西洋の兵学(軍事力)を先に学び、日本の軍事能力を高めてから攘夷を行うべきだと主張します。実践主義だった彼は、自らがその先頭に立とうとして、ロシア戦艦や黒船に乗り込んだため、幕府の逆鱗に触れてしまい、1850年代の時点で危険人物とみなされていました。そして行動が問題視された吉田松陰は、遂に長州で幽閉となり、自らが未来を変えるという可能性が一時断ち切れてしまいます。すると彼は考えを一変し、自らが目的を果たさずとも、続く人々が実現すれば良いと考え、叔父が運営していた松下村塾という私塾を引き継ぎ、長州の若者に自らの思想を叩き込みます。松下村塾では、吉田松陰独自の尊王攘夷思想が教えられると同時に、兵学師範ならではの実践的な戦闘力向上を叩き込むスパルタ教育が行われ、師匠と弟子の絶対的関係の中で、想像を絶する修行が行われたと伝えられています。いわば吉田松陰という指導者のもとで運営された松下村塾の実態は、テロリスト養生機関だったのです。吉田松陰が弟子に叩き込んだことは、絶対的な目的成就の思想であり、「目的のためには邪魔者を殺すこと」を厭わないという強烈な過激思想が松下村塾内で伝達されていったのです。

明倫館は藩校なので過激思想の伝達には制限がかかりますが、松下村塾は彼個人が運営する機関であったため、どんなことを教えても外部に漏れません。こうして長州藩の若者たちは、絶対的指導者である吉田松陰の思想を継承し、後の明治維新の立役者へと育っていったのです。吉田松陰の存在によって、和は過激な思想を内包したのですが、これは近代日本の軍国主義化が加速する1930年代頃に復古します。松下村塾と明倫館の彼の教え子が明治政府の為政者になったことで、吉田松陰を母体に変容した和が、近代日本のシステムにまで流れ込んだと見た方が良いでしょう。

しかし、純粋に流れ込んだわけではありません。前述の通り、もし日本でカリスマ的な独裁者が君臨するならば、この吉田松陰が最後の覇権を握ったからです。ですが歴史はそのようにはならず、むしろ和は強烈な過激思想を内包はしながらも、統一のために切り落とすという選択をしています。

こうして用済みとなり、和に見捨てられた吉田松陰は、徐々に焦りを覚えて暴走していきます。1858年に井伊直弼が日米修好通商条約に独断で調印したことに激憤した松蔭は、井伊直弼の右腕で老中の間部詮勝の暗殺計画を弟子の前で発表し、参加の決意表明を強く求めます。ここで指を刃先で切り、流れた血で判を押す「血判」という江戸時代の武士独自の方法が取られたのですが、これは血判を押してからは、目的成就まで意見や立場の変更は認めないという武士流の命をかけた誓約です。ですが、吉田松陰の思惑とは異なり、師匠の計画に賛同したのは90人居たと言われる弟子のたった17名であり、しかも松蔭が日頃から高く評価していた主要な弟子は誰もが反旗を翻したのです。

この弟子の不同意に松蔭は激昂し、主力弟子の久坂玄瑞と高杉晋作に絶交宣言を書き残して、徹底的に罵倒します。一方で久坂や高杉、さらに松蔭の盟友だった長州藩リーダー格の桂小五郎などは、松蔭に対して一人の要人を殺したところで、幕府が倒れないことは明らかである上に、老中を暗殺すれば長州藩が敵として攻撃されると主張します。方法を改めるべきだと何度も諭しましたが、既に暴走状態に入った松蔭を止める術はありません。結局、長州藩首脳部に計画が漏れてしまい、松蔭は投獄、後に江戸に送還されて井伊直弼の主導する安政の大獄で処刑されてしまいます。

崇拝する師匠が29歳で呆気なく幕府に処刑された事件は、長州の若者に強烈な衝撃を与えます。そして彼らは師匠の遺志を継承し、必ず幕府を打倒すると心に決めたのです。しかし、ここで松蔭の意思に染まっていた彼らの主軸は、師匠が消えたことで大きく分裂します。つまり、松蔭のもとで変容した長州藩の和が、異なる変異を表し始めたのです。松蔭の計画に賛同した過激派が長州藩から一掃されたため、計画的に目的成就に向けた実行が可能になったからです。

ここで二人の筆頭的な弟子の動きに分裂します。久坂玄瑞は幕府を暴力によって打倒するのではなく、先に長州藩自体を乗っ取り、長州藩を利用して幕府を乗っ取ることを画策。一方で高杉晋作はそうした政治的思惑に関心を持たず、農民や町人なども混合した「奇兵隊」という民兵を独自に組織化し、あくまでも軍事的に目的成就すべきだと画策。松蔭亡き後の二人の主要な弟子の動きは、残された長州藩の若い弟子たちの動きにも影響しますが、興味深いことに、二人とも明治維新まで生き残ることはなかったのです。つまり、次々と未来を作ると思われた主役が倒れていき、最後に残った人々が明治政府を築いたのです。これは非常に興味深い現象ですが、和の観点からしか読み解けません。ある意味、日本に英雄はいらないということです。

久坂は藩内部の勢力拡大に方針を転換し、長州藩を尊王攘夷の象徴に仕上げることを目論みます。実際、水戸浪士によって井伊直弼が暗殺されると、彼の思惑通りに長州藩首脳部は尊王攘夷に傾き始めたため、久坂は桂小五郎と結託し、彼らに反対する勢力を一掃し、あっという間に長州藩を乗っ取ることに成功します。そして長州藩の意向として、正式な後ろ盾と豊富な資金をバックアップに、久坂は1862年に藩代表として堂々と京都に乗り込んだのです。当時の京都は、井伊直弼暗殺で一層過激化した水戸浪士が多数潜伏し、毎日のように暗殺が起きる激戦の舞台でした。しかし、水戸浪士のように脱藩した武士は潜伏するしかないが、久坂は堂々と京都の長州藩邸に本拠を構え、豊富な予算と藩の公式な外交として動き回ることができます。この違いが、明治維新を決定的に分けました。水戸浪士は既に水戸藩で培われた和を統一させる力を失っており、長州藩側の和に争う術を持たなかったからです。

久坂が京都で目指した目的は、朝廷を動かし、幕府に「欧米列強を武力で除去する」攘夷の勅令を引き出すことでした。前述の通り、松蔭の影響下にあった久坂も、欧米との直接対戦には勝てないと知っていましたが、天皇の勅令を受けた以上、幕府は命令に従って欧米と戦争を行わなければなりません。すると必然的に幕府は敗北しますから、その弱体化した幕府を長州藩で乗っ取ろうと画策したのです。この「狡猾な思惑」が、後に「日本の和」として語られる決定的な転換点となります。近代に「純粋な日本精神」として語られた「和」ですが、実態はそのようなことはなかったのです。その実態は幕府を弱体化するための狡猾な戦略だったのですが、この久坂の京都上洛により、水戸藩で育まれた攘夷という純粋な思想は、完全に中身を形骸化しました。思想が中身を失ってスローガンに変異した時、必ず人々は暴走します。

久坂は、攘夷というスローガンを実行不可能と知った上で政治的罠として叫び、幕府の権威を合法的に破壊して、長州藩に実権を転移させる企てを開始します。つまり、吉田松陰がそうであったように、長州藩の武士は誰も攘夷を信じていなかったのです。表向きには尊王攘夷を叫びながら、実は信じていないという観点が極めて重要です。同じように、彼らは尊王も信じていないということです。吉田松陰亡き後の長州藩士は、水戸学の思想を中身のない政治的手段として活用する大きな転換を作る母体となったからです。つまり、徳川将軍家が持つ覇権を自らが握るための道具として、彼らは暴力革命を起こしたということです。結果論ですが、その彼らが近代日本のシステムを作ることになりました。

一方で高杉晋作が作った民兵は、武士の身分どころか農民や町人も交えているため、吉田松陰に始まる主要な弟子の異なる動きによって、既に大日本帝国が実行した暴挙の基礎は整いつつあったと言えます。それが後のパートで語る戦争勝利を目的に据えた国民の「総動員」という考え方です。その影には吉田松陰の教えが響いており、目的を果たすためには自らの命を捧げ、邪魔者は殺すという考えが通底しています。この系譜が第二次世界大戦期で特攻隊を生み出した源泉です。そして長州藩で歪んだ尊王攘夷思想は、江戸ではなく天皇を擁する京都で揉まれていき、どんどん変容していきます。

そして久坂が長州藩代表として京都に入った1862年、同じく薩摩藩も京都に乗り込みます。ここに明治維新の立役者となる二つの藩が京都で揃ったのですが、実はこの時に両藩はある藩に遅れを取って焦っていました。それが現・高知の土佐藩です。1861年夏に土佐藩の尊王攘夷思想を実践する土佐勤王党を結成した指導者の武市半平太は、江戸で長州の久坂玄瑞や桂小五郎、薩摩の過激藩士たちと接触を繰り返し、三つの藩が連携して尊王攘夷運動を展開する構想を秘密裏に掲げていました。ただし、当時土佐藩は藩としては尊王攘夷ではなかったため、土佐勤王党は独自に京都に入っていました。しかし、1862年に長州藩が尊王攘夷に動いたように、土佐藩も動きます。こうして藩のバックアップを受けて堂々と京都に乗り込んだのが土佐藩、長州藩、薩摩藩ですが、いずれも徳川将軍家の江戸から遠く離れた西日本の辺境だったことが重要です。ただし、この中で薩摩藩だけは尊王攘夷に傾いておらず、あくまでも幕政改革を朝廷の権威によって実現する前述の公武合体を方針にしていました。つまり、土佐藩と長州藩は行動目的で連携しているが、最初から薩摩藩とは方針が異なったのです。この藩の方針の相違が、そのまま明治維新後の政府覇権を巡る激しい闘争の原因となります。

その彼らが次の覇権を巡って競い合う舞台として選んだのは、江戸ではなく天皇が住む京都でした。つまり、誰よりも名乗りを上げた藩が天皇を抱き込む権利を獲得し、徳川将軍家の江戸に挑んで乗っ取る計画を立てたのです。こうして京都に乗り込んだ三つの藩は、成果を競い合うように過激化し、毎日のように暗殺を繰り広げて京都市内を恐怖に陥れます。

こうしてそれぞれの思惑が交差しながら、三つの藩は京都で次の覇権を巡る前哨戦を開始。しかし、翌1863年に予期せぬ事件が起きます。1863年の夏が終わる頃、尊王の主役となる孝明天皇自身の秘密命令を受けた薩摩藩と現・福島県の会津藩が、何と長州藩を京都から追放したのです。孝明天皇は攘夷を支持していたため、尊王攘夷自体に疑念はなかったのですが、長州藩が倒幕を目的にしていることに気づき、態度を一変させたのです。孝明天皇は、過激な倒幕は国内の秩序が乱れると強い反対を表明しており、特に長州藩の自意識過剰な専横には嫌悪していました。ここで天皇が薩摩と会津の尊王攘夷側に付いた衝撃は、長州藩の面々には絶大でした。なにしろ尊王の絶対的存在である天皇の命令に背けば、自らの運動の大義名分が立たなくなるからです。こうして久坂は京都内部の政変によって京都を追われてしまい、長州へ撤退せざるを得なくなります。この京都の政変に激昂したのが、長州藩の武士たちです。

なにしろ政変が起きる直前の5月に、長州藩は下関で欧米の船を砲撃しており、攘夷を実行に移したという自負があったからです。彼らは自らが尊王攘夷の主導者だと自認していましたが、そのプライドを大きく傷つけられます。しかし、天皇に反旗を翻すわけにはいかないため、ここで長州は自らを裏切った薩摩に対する怨念を募らせます。薩摩は長州は元々方針が異なっていたため、薩摩からすれば妥当な判断だったのですが、一度燃え上がった長州の過激な熱は、仮想敵を作らなければ維持できないほど張り詰めていました。こうして長州藩は薩摩藩を最大の敵と位置付け、天皇は薩摩藩によって洗脳されていると主張し始めます。この瞬間、既に尊王攘夷は私利私欲に転移したことが見えてくるはずです。ただし、一度京都で長州、薩摩、土佐の和が接触して変質し、そこから長州が撤退を余儀なくされたことで、長州の和を改めて研ぎ澄ます余地が生まれたことは重要です。つまり、和の統一では京都におけるこの接触が必要不可欠だったということです。

こうして過激思想を強めた長州は、翌年夏に「京都奪還」を掲げて、長州兵を動員して再び京都に乗り込み、天皇を誘拐して強制的に主導者として立て、「長州の目的」を完遂しようと動いたのです。吉田松陰の教えがここに生きていますが、その吉田松陰はいません。

しかし、長州の不穏な動きを察知した幕府は、即座に会津・薩摩・桑名の諸藩に対して長州討伐の命令を下し、その結果、長州は敗北して久坂が自害するという衝撃的な幕切れとなります。この時、久坂はまだ25歳でした。こうして吉田松陰の尊王攘夷が失敗し、久坂による長州藩乗っ取りによる尊王攘夷も失敗。その直後、下関に対する欧米側の砲撃事件が勃発し、ついに長州は攘夷は不可能だと判断したのです。さらに幕府も倒幕運動の筆頭的存在であった長州藩の弱体を見逃さず、即座に長州征伐作戦を開始します。つまり、国内は外国排撃から内乱の様相を呈してきたのです。この第一次長州征伐では、長州藩は幕府への恭順を近い、藩論は再び改革派から保守派に移行します。しかし、一度統一に動いた和の変容は、誰にも止めることができません。この未曾有の危機の中、今度は吉田松陰のもう一人の筆頭弟子だった高杉晋作が登場。1864年12月に挙兵し、あっという間に藩論を再び倒幕へと引き戻したのです。

こうして息を吹き返した長州藩でしたが、幕府側に武器購入を禁じられたこともあり、身動きが取れない状態が続きます。ここで暗躍したのが、土佐藩を脱藩した二人の浪士です。その名は坂本龍馬と中岡慎太郎。元々長州から信頼されていた中岡は、久坂亡き後の長州藩指導者である桂小五郎を説得し、薩摩藩との同盟を説得する役となり、同盟の条件として武器供給を全面的に約束します。逆に武器供給を担ったのが坂本龍馬です。彼は亀山社中という日本初の株式会社を長崎で創設し、大英帝国の武器商人が運営するグラバー商会を通じて、西洋の武器を大量に密輸・密売します。ただ公に長州は武器購入が禁じられていたため、ここで薩摩との同盟締結の条件として、取引は薩摩が肩代わりし、薩摩経由で長州に武器を供給すると提案します。

この武器取引は長州復活のために魅力的だったため、長州は坂本龍馬と中岡慎太郎の手引きにより、1866年3月に京都の薩摩藩邸で軍事同盟を結んだのです。ただし、この軍事同盟は秘密であり、実は明治政府樹立後までは公にされませんでした。つまり、明治維新の時期に人々は長州と薩摩が同盟していたことを知らなかったのです。その内容は、長州が幕府と戦争する場合、薩摩は長州の後方支援(武器供与・軍事支援)をするというものでした。これが非公開だった理由は、幕府を油断させるためです。幕府は前回の長州侵攻作戦では薩摩が言いなりになり、会津と共に長州を追放したのだから、次も言いなりになると過信していたからです。しかし、裏で薩摩は長州と手を結び、幕府の意向に従わないことが決まっていました。

非公開に薩摩藩と長州藩の同盟が成立した直後の1866年6月に始まった第二次長州征伐では、幕府の命令を薩摩が拒否し、長州に軍事支援をしたことで、長州は激しい幕府軍との戦争を何とか戦い抜きます。こうして7月に幕府保守派が担ぎ上げた将軍・徳川家茂が死去すると、幕府軍(保守派)は事実上敗北したのです。こうなると立て続けに全てが崩壊するもので、1867年1月には孝明天皇が死去し、長州藩の息がかかった明治天皇が即位します。こうして11月に幕府は実権を朝廷に返上すると申し入れ、12月には天皇主導の新たな時代が宣言されたのです。

この渦中、京都で坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かによって暗殺されます。未だ謎に包まれた明治維新の立役者の暗殺の真相は解明されていませんが、彼らも用済みだったということです。そして1868年1月、ついに明治維新が幕を開け、鳥羽伏見の戦いという未曾有の内戦が始まったのです。

1868年が明けると、薩摩藩を中心とする勢力は、徳川将軍家の覇権を終わらせるために、時の将軍・徳川慶喜を新政府から完全に除外する方針を打ち出します。これによって旧幕府側勢力の不満が高まったのですが、江戸での薩摩藩士を含めた浪士たちの挑発行為に激昂した彼らは、薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまったのです。この知らせは大阪城に拠点を張っていた旧幕府側勢力の耳に届くと、強硬派が勢いづき、便乗した徳川慶喜は会津・桑名などの兵団を主力とする1万5千の兵を京都に向けて進軍させます。対する新政府軍は、薩摩・長州を主力に5千程度でしたが、両軍は京都南郊の鳥羽と伏見で真っ向衝突。既に西洋の兵器を大量に入手していた新政府軍は、一気に旧幕府軍を追い込みます。そして決定的だったのが、朝廷が完全に新政府軍に屈服したことです。

これにより、新政府軍は天皇の命令で動く軍隊という名目が与えられ、旧幕府軍は朝廷の敵として位置付けられます。この効果は絶大で、あっけなく旧幕府軍は瓦解し、1868年春には江戸城が明け渡されて新政府軍が勝利したのです。この動きは、長州と薩摩の両藩が蓄積してきた和が、天皇という庇護を受けて一つになり、その「一つ」の外部である全ての勢力を排除する理由が与えられたことを意味します。そして天皇を掲げることに成功した新政府は、続いて最終戦争に入ります。つまり、長州藩と薩摩藩のどちらが覇権を掌握するかです。

しかしその前に、長州藩は自らを窮地に追い込んだ会津藩への復讐を企てます。かなり個人的な理由で会津藩を敵視した新政府軍の長州系勢力は、薩摩への恨みを会津に押し付けて、一気に北陸と東北各地に攻め込み、虐殺を繰り広げました。あまりにも残忍な虐殺によって、東北各地は新政府軍に屈服。長州藩が恨んだ会津藩の本拠地・会津若松城の攻防では、想像を絶する大虐殺が行われましたが、こちらも明治政府首脳部が長州系で占められたため、未だに正当化されています。

こうして個人的な恨みを晴らした長州系勢力は、新政府を樹立。少し力を蓄えた1877年に同じく恨みを持っていた薩摩系勢力の淘汰に動き、薩摩のリーダーだった西郷隆盛を自害に追い込む戦争を展開しました。こうして新政府は成立したのですが、一つの和が生んだ激動の時代は、最終的には吉田松陰以降の長州藩の形成した和によって強烈に変質したのです。そして一つの和として登場した明治政府樹立の流れで、長州藩が個人的に恨みを抱えていた会津藩などを虐殺によって一掃し、残った会津藩の人々は、故郷を追放されて僻地開拓に移されました。薩摩藩の力を除去する動きを見せた時、のちに「日本の和」として語られる基礎が完全に仕上がったのです。

この和の観点から見ると、実は現代日本の歪な諸問題も読み解けます。基本的なところで言えば、原子力発電所が建設される地域は、例外なく当時の新政府軍が敵と見做して殺戮を展開した地域です。福島県西部にあった会津藩を抱える福島県が象徴的で、2011年の福島原発事故の舞台になったことから理解できるでしょうが、これも明治の力学によって形成されたものです。そして今も長州最大の敵だった福島県は、日本国内で一番電波開通率が低い地域です。このような例は無数にありますが、「日本の和」などと語りながら、実態は日本を内包していないことは自明です。その外部をどう見るかが問題なのですが、そのためには内部を見なければ不可視のままです。

このように吉田松陰を軸とする長州の和が、こうして大日本帝国の礎を築いた歴史は、語られることがありません。しかし、和は単純な統一体ではなく、このような歴史自体を形成する力であり、日本人の行動にも深く関わっています。近代以降、和は「長州の論理」として翻訳されていき、これが言語化される過程で明治憲法や国家総動員法などが生まれていった。そう考えた時、私たちは従来語っている歴史が、如何に本質的ではないかということを知るのです。

そして私は、現代世界の多極化世界と一極化世界や二極化世界の闘争は、この時代を読み解くことから可視化されると考えています。その視点で、ぜひ現代を読んでみてください。