和の変容 1:聖徳太子から水戸学へThe Transformation of Wa: From Shotoku Taishi to the Mito School
Transformation of Wa 1
今週は、一年ほど前にリリースして反響の大きかった「Transformation of Wa」を、さらに思考を深めた現在の視点から読み解いていきます。なぜなら、最近の日本は憲法改正を巡る問題で真っ二つに割れており、再び不穏な雰囲気が漂い始めているという主張が増えつつあるからです。事実、軍国主義が加速した「1930年代の日本に戻った」という声は多方面で叫ばれ始めているのですが、その主張が私にはどうしても腑に落ちないのです。むしろ状況は1930年代の状況よりも「遥かに悪い」というのが、個人的な考えです。
大前提ですが、今日の米国の独断的な暴走を見れば、欧州を含めて長らく米国の武力に守られてきた全ての国々が、第二次世界大戦後の歴史を見直すことは生存の観点から合理的な選択です。日本も米国の意図のもとで着実に再軍備、核武装(おそらく米国からのレンタル)、徴兵制の復活などへ進み始めていることは事実であり、ゆっくりと米国が持つ日本の権益が中国に移譲され始めています。米国は東アジアでの一定の影響力を保持しながらも、事実上の運営はコストの観点から中国に委任したいのでしょうが、この動きは戦後日本の宗主を担ってきた米国から、新たな宗主として中国に変わる未来を示唆しています。
この動きが着実に国民にも察知され始めているため、自民党首脳部や改憲派はどうしても中国を仮想敵にしたい。そこでマスメディアを通じて、日々雑な反中ニュースをばら撒きながら、改憲を実現しようと動いていると言えます。ゆえに、米国の自壊は改憲派にとっては有利であり、護憲派にとっては不都合となります。
「米国は守ってくれない」という当たり前の事実を国民がようやく直視し始めた今、明らかに発言力を増すのは自国で武装する選択です。現時点の世論では護憲派が多数となっていますが、日本政府は常に世論を無視するため、こうしたデータは参考になりません。個人的な見解として言えば、そもそも憲法改正を巡って「改憲」か「護憲」かの二元論の議論に陥っていること自体が問題であり、どちらも戦争加担の未来においては大して変わらないと見ています。つまり、共犯です。この意味は、二十年程度先の日本で明らかとなるでしょう。
しかし、実際問題として国際的にも日本の動向に関心が高まっていることは事実です。そこで次の道を示すためにも、読み解くことが極めて難解な日本のある特質について見ていきます。それがWaです。一体、日本がどういう未来に向かうのかという姿を和の観点から提起していきます。
現在の「不穏な雰囲気」をあえて言語化すれば和となりますが、和の本質的な理解を踏まえない限り、今後の日本の動向を考えることは不可能です。そこで本記事から「和の変容史」を開始します。現時点の予定では、本記事が軸となる飛鳥時代から江戸時代の概観、次が近現代、最後に古代の視点で和を読み解き、改憲でも護憲でもない次の世界を提起します。おそらく三部作になるでしょうが、最も理解が困難でありながら、極めて日本的な性格を持つ和の理解を深めてください。和の変容を読み解く作業となるため、全て長文のエッセイでリリースします。
まず、私は近代的な[和](Wa)の概念を現代の文脈では「日本的全体主義」とイコールと考えており、どのように体制哲学として国民統治に利用されてきたかという問題を探ってきました。従来の歴史観では、1945年の第二次世界大戦敗戦と共に、そうした「古いシステム」は崩壊し、GHQ主導のもとで日本は「新しいシステム」を迎えて、繁栄を遂げたと美化されます。この新しいシステムが「欧米的な民主主義国家としての未来」ですが、そのような教科書通りに歴史は動きません。全ての論者がここで見逃したことは、「和」が生存するために変容したということです。システムに新旧はあっても、システムを生み出す精神にそうした考え方は通用しません。
要点は、戦後の日本政府やGHQなどが和を変容させたのではなく、和自体が生存するために自ら変容したということです。この視点が肝心です。何度かShitsuraeで書いているように、日本語には主語もコプラもないため、近代的な主体の考え方はありません。最も分かりやすく言えば、和が主体として変容するのです。
問題は、和の歴史にあります。そもそも和の起源は相当歴史を遡るため、私は「和の歴史」はほぼイコールで「日本史」と言えると考えています。むしろ歴史の表面が日本なら、裏面は和と言えるほど両者は同一だと思います。その文脈に準じて、古来より和は「日本の美徳」とされてきたことは日本人なら誰もが教わることですが、これは本当なのかという問いから始めたいと思います。現在も和を讃美し、美化する言説は絶えませんが、主唱者たちが和の実態を理解しているようには到底思えないからです。もちろん、批判者たちも理解していません。
まずは基本から見ていきます。和の概念が提唱された文献的な起源としては、聖徳太子(574-622)の定めた憲法十七条第一条に由来します。720年に成立した日本書紀によれば、604年に制定されたと記される日本初の憲法には、[和を以て貴しと為す]と記載されていました。この意味を噛み砕いて言えば、「争わずに協調することを何より尊い」と説いたものです。この読み方が、和の変容史を通じて時代ごとに意味を変質させます。そもそもなぜ、聖徳太子はこのような提言を憲法で語ったのでしょうか。
古代史最大の偉人として崇拝されてきた聖徳太子は、かつて一万円札にも刻印されたほど、日本人にとっては馴染みの深い人物でありながら、その実態は謎に包まれています。しかし、これは非常に不思議なことです。ここで問うべきことは、今から1400年前の素性が定かでない人物を崇めた理由は、どこに由来したのかです。その理由を端的に言えば、聖徳太子が「天皇中心の国家」を造った張本人だと見なされたからです。ただ重要ですが、聖徳太子自身がそのような提唱をしたのではなく、後代にそう見なされたということです。この聖徳太子の実態を乖離した美化の起源は、日本書紀成立事業の実質的なイデオローグとなった藤原不比等(659-720)です。
同時に興味深いことですが、現在、かつての美化された聖徳太子像が急速に崩壊し始めています。極端な説では「聖徳太子は実在しなかった」という声も高まっているほどですが、現時点では彼の実在は確定的で、問題は伝承されてきた事績への疑惑に移っています。注目点は、聖徳太子の実在に関する議論が始まったのは、1999年に中部大学の歴史学者・大山誠一が提起した一冊の本から始まるということです。つまり、20世紀が終わるまでの歴史において、聖徳太子の事績は疑われた形跡がないのです。これは一体どういうことなのか?
大山は、「聖徳太子」という超人的な政治家・思想家の人物像は、実在しなかったと主張。この意図は、「聖徳太子」と呼ばれる厩戸王という皇族は実在したが、彼は当時の有力者の一人に過ぎず、今日語られるような超人的な人物ではなかったという点に集約されます。そしてこの厩戸王を後に選定し、「聖徳太子」として、日本書紀編纂時に神格化して描いた実質的な指導者が藤原不比等だったと指摘しています。
なぜ、この聖徳太子の神格化の問題が日本の構造に直接関わるかと言えば、この時代が日本初の国家形成の礎だと見なされるからです。要するに後の天皇中心の国家という近代の実像を形成するためには、この時代の賛美は欠かせません。個人的には大山の説に賛同しながらも、より共同幻想の視点で解釈しています。聖徳太子は実体として存在した人物ではなく、当時の朝廷によって行われた数々の事績を共同幻想として疎外した実態だと見ています。つまり、日本側で国家形成の礎と呼ばれる数々の朝廷主導の事業が、日本書紀成立期の実力者である藤原不比等のもとで統合され、幻想の領域に聖徳太子なる像が形成されたということです。難しいでしょうが、ここに和の変容が起きています。
要するに厩戸王は実在したが、聖徳太子は創作だということです。ただし、単純な創作として片付けられる問題ではありません。聖徳太子を創作することで、幻想の次元で「日本」なる統一国家樹立へ向けた一歩が生まれたということです。聖徳太子とは7世紀前後の朝廷の事績を集約して8世紀前後に疎外した幻想だということです。ただし日本の場合、この幻想は実態を伴います。
この観点で見ると、聖徳太子が日本史で最も美化されてきた人物である理由が見えてきます。実在した人物ではなく、共同幻想だから美化される余地を常に有しているということです。つまり、聖徳太子には様々な精神や思想が流れ込み、時代によって変質する余地があるということです。そもそも聖徳太子についての記述は極めて少なく、古事記や日本書紀に基けば、第31代・用明天皇(在位: 585-587)の皇子であり、両親は共に第29代・欽明天皇(在位: 539-571)の血筋に位置します。この欽明天皇が百済から仏教が伝来した時の天皇だという点を見逃してはなりません。要するに聖徳太子は皇族ですが、皇位継承権を持つ有力者の一人に過ぎません。一方で当時の日本には「天皇」の称号はないため、聖徳太子が生きた時代は天皇以前だと言えます。天皇の称号は後の第40代・天武天皇(在位: 673-686)から第41代・持統天皇(在位: 690-697)の頃に始まりました。
聖徳太子の事績を日本書紀側の記述から整理すれば、以下のようになります。
◯ 574年、用明天皇の皇子として生まれる。
◯ 593年、叔母の推古天皇即位に伴い摂政となり、蘇我馬子と並ぶ実質的な政治指導者として国政を主導。
◯ 603年、冠位十二階を制定。
◯ 604年、十七条憲法を発布。
◯ 607年には遣隋使として小野妹子を派遣し、国書を煬帝に送る。仏教を篤く保護し、四天王寺・法隆寺などを建立。
◯ 622年に49歳で薨去。
これが一般的に日本人が理解する聖徳太子の事績ですが、その渦中で和の概念が聖徳太子の幻想と共に昇華されたということです。「争わずに協調することを何より尊い」の意味を持つ[和を以て貴しと為す]を単純に見れば、仏教受容を巡る激しい争いが起きていた時代と無縁ではなかったのでしょう。この時代は崇仏派の代表的指導者である蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子のトライアングルが成立し、一気に仏教が浸透したからです。この時代の仏教国教化政策の動きを賛美し、政治的に利用価値があると踏んだのが、後の藤原不比等ですが、もう一人関与した人物がいます。それが僧侶の道慈(?-744)です。
ただし、道慈の生涯は謎に包まれています。702年に遣唐使で唐に渡って仏教を学び、718年に帰国してからは大安寺の動向に関与した筆頭人物だと伝わります。特に彼は日本仏教界が経典に従う唐の仏教と異なり、独自独断で仏教を語る態度を厳しく批判し、僧侶の質向上を掲げて唐から僧侶を招聘する提案を行うなど、盛んに活動した痕跡があります。同時に日本書紀編纂事業にも関与したという説も指摘されていますが、実態は分かりません。何かしら藤原不比等と共に、聖徳太子の美化に関与した可能性は高いと言える程度です。
大阪の四天王寺や奈良の法隆寺などの名寺院も聖徳太子が建立したと言われており、彼は実質的な政治指導者としても語られてきました。一方で当時の権力構造は単純ではなく、表の政治指導者が聖徳太子、祭祀の実権が推古天皇、裏の覇権は蘇我馬子によって分散していました。この蘇我馬子が当時の崇仏派の指導者であり、大陸や半島から流れてきた帰化移民を束ねて、ヤマト(現・奈良県中南部)で圧倒的な勢力を形成した実質的なリーダーです。推古天皇の即位から飛鳥時代と呼ばれますが、この飛鳥時代のトライアングル構造が、日本初の全体主義的傾向を打ち出した最初の時代と位置付けることができます。つまり、古代の和が変容し始めた土台が飛鳥時代にあるのです。しかし、当然ながら日本全土の全体主義として拡張することはできません。あくまでも、ヤマトという小さな圏域内での話です。
これだけを見ても、聖徳太子の事績が後代に捏造されたという主張は納得できます。同時に問題となるのは、聖徳太子の見直しを通じて、古代における和の提唱者の実像が大きく崩壊を始めている現状は、日本の近未来に何を示唆しているのかを読み解くことです。私は前述の通り、この動きは共同幻想の問題として見るため、単純に聖徳太子の事績は嘘だとして済ますことはできません。聖徳太子への見直しが進むことは、共同幻想自体の変質を必ず伴うからです。ここをしっかりと読み込んでいきましょう。
ここで目を向けるべきは、聖徳太子が美化された歴史が、江戸時代から明治時代の構造的転換点と連動していたことです。実は江戸時代以前の聖徳太子と言えば、「仏教興隆の祖」と「和の徳の体現者」として肯定的に受容される傾向が強かった。この背景には、中世以来盛んとなった太子信仰(聖徳太子への信仰)の影響が、仏教の宗派を問わずに広がっていたことも関わります。いわば聖徳太子という幻想が、共同幻想として仏教宗派を超越した位置に動いたのが中世です。そもそも幻想であるため、聖徳太子への信仰が受容されたのです。実際、この潮流で彼が建立に関わったと伝わる四天王寺や法隆寺などは宗教的権威として聖地となり、彼自身は「日本仏教の父」という位置付けで語られていました。ここまでは聖徳太子を作り上げた藤原不比等の意図通りと言えます。
しかし、江戸時代に入ると聖徳太子の評価が大きく変質します。その理由は明白です。千年続いた仏教の影響力が完全に喪失し、仏教批判を掲げた儒教と国学が勃興したからです。中でも先陣を切ったのが国学者の本居宣長(1730-1801)と平田篤胤(1776-1843)です。彼らは日本固有の精神を復古する目的を明確に掲げていたため、聖徳太子のように外来の仏教を崇拝した者や、中国を模範したシステムを日本に持ち込んだ人物を徹底的に批判します。
ここで本居宣長は、「中国的なもの」を広義に示す[漢意](Karagokoro)という用語を用いながら、独自の主張を展開し始めました。漢意は中国に限らず、すべての外来要素というニュアンスです。つまり、彼らは聖徳太子は賛美されるべき存在ではなく、むしろ日本を歪めた張本人と見たのです。一方で勘違いされやすいのですが、国学者は極端に仏教排斥を主張したのではありません。彼らは信仰としての受容は認めるが、それは日本自体の理解があった上でのことだと考えていました。これは当たり前の話です。今も自国の文化を理解せず、外国文化を礼賛する人々が多いですが、それほどの愚行はないからです。
実際に本居宣長や平田篤胤以降の国学では、聖徳太子を「神道と仏教を調停した人物」と読み直す動きもありました。ある意味では、仏教の政治的影響力に比例して聖徳太子は読まれていると言えます。この時代ごとに変質する聖徳太子の幻想が、最も複雑な形で現れたのが水戸学です。この水戸学が今回の記事の主軸です。水戸藩(現・茨城)の人々から生まれた独自の学問は、江戸時代の武士精神の観点で神道と儒教を統合した特異な思想ですが、これらはある一つの事業を通じて形成されました。それが『大日本史』の編纂事業です。
事業の始まりは、水戸藩の第二代藩主・徳川光圀(1628-1700)に遡ります。18歳の光圀は中国の司馬遷『史記』の「伯夷」に纏わる伝承を読んでいた時、深く感動して、日本も同様の歴史書を編むべきだと志を立てます。ここで光圀は、後に彰考館と呼ばれる学問機関を江戸に作ります。ここから始まる水戸学ですが、大きく二つの時代があります。まず、17世紀後半から18世紀前半にかけて、主に江戸の水戸屋敷で盛んになったのが「前期水戸学」。続いて、19世紀以降に水戸藩の水戸城下で盛んになった「後期水戸学」です。
この事業で光圀は、史記以降に中国の史書の基本となった「紀伝体」の形式を選択します。日本側の歴史書として重宝された日本書紀などは、年月日順に出来事を並べる「編年体」で構成されていましたが、ここで光圀が異なる形式を求めた時、歴史が精神を獲得して動き始めます。つまり、飛鳥時代から藤原不比等に集約された歴史観が、水戸藩の藩主の意向で変容する契機が生まれたのです。紀伝体は中国の作法に従い、「本紀(帝王の伝記)」・「列伝(人物伝)」・「志(制度史)」・「表(年表)」から構成される司馬遷以来の中国正史の標準形式です。光圀は日本を中国に伍する文明国として歴史叙述するという意識を持っていました。簡単に言えば、編年だけの退屈な「死んだ歴史」を「生きた歴史」に変えるプロジェクトです。
1657年に光圀は水戸学の総本山となる彰考館の原型を立ち上げ、全国に学者を派遣して、寺社・公家・武家が所蔵する一次史料を集めさせます。こうして光圀主導のもとで一つの藩が学問を研磨研鑽し始めた頃、偶然にも彼は明から亡命してきた「ある儒者」の話を聞きます。それが朱舜水(1600-1682)です。中国側の動乱で故郷を追われた朱舜水は長崎に亡命しており、ようやく落ち着いた時には既に60歳を超えていました。しかし、非常な人格者であったため、亡命先の長崎では日本人が次々と彼に心酔し、噂が噂を呼んで光圀のもとまで評判が伝わりました。そこで光圀は、朱舜水こそ次世代の学問を担う彰考館の指導に相応しいと直感し、即座に使いを派遣して朱舜水を招聘し、彼を1665年7月に彰考館の指導者に任命したのです。
ここで明の儒者が介入したことは、水戸学の思想的基層を見る上で必須です。特に朱舜水を通じて水戸学に流れ込んだのが、朱子学と陽明学の折衷思想でした。当時の日本は朱子学一辺倒であり、陽明学が本格的に知られる前だったため、非常に特異な思想として映ったことが考えられます。ここで朱子学のような知識主義に停滞せず、実践を伴う思想を持っていた陽明学が水戸学に流れ込んだ時、後の革命運動の理論的支柱を水戸藩が担う未来が始まりました。そして水戸学の精神的支柱である大日本史の編纂事業を通じて、和が具体的に姿を現す大きな出来事が生じます。なぜなら大日本史の編纂方針は、従来の歴史認識に準じるのではなく、徹底的に歴史認識を改める視座が貫徹されたからです。
その基本精神に貫かれていたのが、「名分を正す」という朱子学的な歴史観です。簡単に言えば、誰が正統な天皇か、誰が家臣として節義を全うしたかなどの判定を、歴史叙述によって明らかにし、それを通じて藩士の教育にあたったということです。この地道な作業は、江戸時代後期に巨大なムーブメントが生まれる母体となります。編纂事業を通じて、一人ひとりが内省を行い、歴史の人物に感動し、憤怒しながら、日本への理解と洞察を深めていったのです。このような動きは、当時の日本では水戸藩だけが行なっていました。
江戸時代後期になると、腐敗した幕府のシステムに反発心を抱く人々が全国各地で登場しましたが、誰もが先鋭的な水戸学を教える水戸藩に留学しています。つまり、水戸学は単なる学問ではなく、もはや次の時代を創造するために欠かせない思想の源泉と見做されていたのです。この水戸学を通じて、全国規模で反幕府を主張する尊王思想の源流が形成されます。つまり、水戸学が江戸時代と明治時代を結んだ精神的支柱であり、水戸学がなければ、日本の近代化と呼ばれる明治維新は呆気なく失敗していたでしょう。
ただし、大日本史の編纂事業は光圀一代では完成せず、その事業は何と約250年に渡って水戸藩のプロジェクトとして継承されました。基本的な成立は1715年とされますが、未完のまま残された部分が多かったため、18世紀末から19世紀の後期水戸学の人々が悲願の成立に向けて邁進しました。その時代の指導者となったのが、九代藩主の徳川斉昭です。祖先の光圀が始めた水戸藩の事業を何としてでも完成させる意欲に燃えた斉昭は、藩の予算を学問に注ぎ込み、プロジェクトを大きくアップデートします。
この後期水戸学の大日本史編纂事業に関わった主軸が、藤田幽谷(1774-1836)、藤田東湖(1806-1855)、会沢正志斎(1782-1863)などの先鋭的な思想家たちです。後期水戸学を作った彼らから学ぶために、全国の大勢の若者が水戸藩へ向かいました。長州藩(現・山口)で革命運動の精神的支柱となる若き吉田松陰や、薩摩藩(現・鹿児島)で革命運動の指導者となる若き西郷隆盛も、彼らに会うために遥々水戸藩を訪れました。この長州と薩摩が明治維新を興した主導的存在ですが、両者とも革命思想の源泉には水戸学があります。
一方で、前期水戸学と後期水戸学の思想は根本的に異なります。なぜなら、後期水戸学の時代は欧米列強が日本近海で挑発行為を繰り返しており、国内では欧米を排撃するか否かを巡って真っ二つに意見が割れます。この欧米排撃思想を「攘夷」と言います。この攘夷議論の渦中、最も先鋭的な思想を供給する母体となったのが、後期水戸学の思想家たちです。彼らの本拠地は江戸に近い茨城の水戸にあり、太平洋に面していたため、日常的に欧米の挑発行為を目にしていました。
こうして日本への圧力を強める欧米に激昂した水戸藩の志士たちは、従来無関係に起きていた二つの思想を統合します。こうして誕生したのが尊王攘夷思想です。尊王攘夷とは、徳川将軍家ではなく天皇を頂点とする国家システムを作り、天皇のもとで人々を統合して一致団結し、全体の力で欧米を排撃するという思想です。つまり、大日本史編纂の250年に及ぶ事業が、時代の流れで変容を遂げた結果、近代へ向かう最大の転換点が生まれたということです。こうした動きは、欧米の挑発行為とは無縁だった前期水戸学にはありません。海に囲まれた列島の日本は、外国の挑発によって過激になるということを歴史は教えています。
この水戸学が生み出した大日本史は、主に三つの特徴を有します。第一に、朱子学から史料実証主義の伝統を抽出して、以降の歴史観に大きな影響を与えたこと。次に、天皇の正統性を巡る歴史問題に対して、従来の説をひっくり返したこと(後述します)。最後に、近代に生まれた天皇制イデオロギーの母体となったことです。つまり、「天皇が治める国家」として日本を再編し、徹底的に皇室の正統性を理論化する。この流れで大きな変容を受けたのが、聖徳太子だったのです。
こうして水戸学は、聖徳太子を「君臣の義の忠実な体現者」、「皇統の体現者」として評価する新たな視座を打ち出したのです。聖徳太子から仏教の影が完全に消去されており、極めて水戸学的な精神で聖徳太子がアップデートされたことに気付くでしょう。事実、水戸学は国学の影響を受けて、仏教擁護者としての聖徳太子を徹底的に批判しています。彼らの論点は、外来の影響によって日本固有の精神は歪むという主張に置かれます。これは外来批判における国学の思想的な意図だけではなく、実際の日常で欧米の挑発行為に憤激していた水戸藩特有の論理が昇華された結果です。そして水戸学は陽明学も採用しているため、知識と行為が一致するという思想を貫徹しており、攘夷は理論的にも妥当な判断だと見做されていきます。
重要なので繰り返しますが、光圀の時代であれば問題ありませんでしたが、後期水戸学の時代は外来の対象が「中国」から「欧米」に変わっています。ゆえに後期水戸学は、聖徳太子の幻想に残存する外来的性格を美化する従来の視座を破棄し、日本仏教の父としての従来の視座は、日本精神の破壊の第一歩となったと再定義します。その論理的帰結として水戸学は、外来の欧米による日本に対する挑発を排撃し、彼らを母国に帰すことを徹底的に主張したのです。なぜなら、かつての仏教が流入した結果として日本精神は歪んだのだから、欧米が介入することはさらに日本精神が歪むと考えたからです。実際、今になって振り返ると、彼らの危機感は極めて妥当でした。
なぜこの記事で江戸時代の思想潮流を見たかと言えば、この動きが和の変容に直接関わっているからです。ここで改めて、聖徳太子の事績として語られてきた憲法十七条の[和を以て貴しと為す]を見つめてみましょう。すると、明らかに儒教の影響を受けていることが見えてきます。現に『論語』には[禮之用 和爲貴]という記述があり、日本側では[礼の用、和を貴しと為す]と解釈されています。つまり、聖徳太子の掲げた[和を以て貴しと為す]は、明らかに論語を踏まえた表現となっているのですが、一方で中国と日本の根源的な差異も浮上しています。
厳密には[和を以て貴しと為す]は[以和爲貴 無忤爲宗]と表記されており、その意味はほぼ論語の表現を踏襲しています。ここで和は同調として読まれているのですが、一方で続く条文には[上和下睦 諧於論事]とあります。当時の考え方を読むのは困難ですが、単純な同調としての意味ではなく、議論と合意形成の原理として和が位置付けられているという具合に理解してください。そもそも中国側の和の概念自体、一元的な意味として読むことは不可能です。
このように見ると、不思議な感覚になります。日本仏教の父として礼賛されてきた聖徳太子が、なぜ儒教なのかは誰も説明できないからです。日本書紀の記述によれば、論語は3世紀終わり頃に百済経由で伝来したと書かれています。ただ3世紀終わり頃から日本書紀成立までの歴史を概観すると、幾度も焚書や紛失が起きているため、論語がどうやって聖徳太子の時代まで伝わったのかは全く不明です。ただ、少なくとも聖徳太子在命時に論語は一部知識人には知られた文献だったと言われています。もしかすると、日本書紀編纂時の人々が論語の影響を受けて着色した可能性もありますが、この辺りは今となっては特定できません。
ここで注意したいことは、聖徳太子の事績かは不詳ながらも、日本初の憲法に儒教の考え方が適用されていることです。しかも、仏教を加速的に普及させる明確な意図を持った時代に、儒教精神が国家基盤の創出に介入しているのです。ここを見逃してはなりません。古代の国家形成の初期の時点に介入しているのは、神道でも仏教でもなく儒教なのです。これが示唆する歴史は、既存の歴史観を一変させます。しかし、歴史観以上に思想の問題が根強く残っています。
この辺りの歴史を読むことを難しくしている理由は、聖徳太子が論語を経由した憲法制定に入った時代には、まだ中国側で新儒教と呼ばれた宋代の朱熹による朱子学などが生まれていなかったからです。朱熹は13世紀の人物ですから、少なくとも聖徳太子とは600年程度の時代差があり、日本書紀編纂時とも無縁です。江戸時代に徳川幕府の体制哲学に採用されたのは朱子学であり、後期には明の王陽明の陽明学が一部に注目されますが、聖徳太子の時代は遥か昔です。つまり、聖徳太子の憲法も日本書紀も儒教の影響を受けてはいるが、朱子学の影響を受けていない。ゆえに、孔子の読み方は全く異なったことを考えなければならないのです。ある意味、孔子の原理主義的な読み方をしなければならないのですが、これが現代では不可能であるため、この歴史の姿が全く明らかにならないのです。
そこで本記事の理解に繋がるでしょうから、ここで私の一つの読み方を例として提示しながら進めていきます。この理解に欠かせないのが儒教における[忠](Chu)の考え方です。孔子の唱えた忠は、朱子学以降に「上への絶対忠誠」として解釈されましたが、私は孔子は自分自身に忠実になり、その上で他者に向き合うことを説いたと見ており、朱熹の視方には同意できません。朱子学の読み方では、年長者や立場が上の人物に逆らってはならず、何があっても忠誠を誓うことが美徳とされます。これは日本の和を読む際に極めて重要となることです。実際、江戸時代の朱子学における文脈では、徳川幕府を頂点とするシステムへの武士たちの忠誠は、この読み方で展開されていました。しかし、孔子はそのようなことは言っていない。
この忠を念頭に置きながら、問題の和を見てみましょう。これらは同根の問題を抱えているからです。まず、朱子学の観点で[和を以て貴しと為す]を読むと、「争わずに協調することを何より尊い」という意味は次のようになります。
「共同体を乱さないことが、最も優れた徳である。」
簡単に言えば、波風を立ててはならないという禁忌ですが、村落共同体の次元で言えば、規範を乱すなというタブーです。この時、朱子学では目上の人への絶対忠誠という基本思想が介入するため、意味はかなり変質します。つまり、親や兄弟、社会的地位の高い人への忠誠を徹底し、共同体を維持するために自らを捧げるという思想に変容するのです。ここで朱子学の忠は、自分を殺してでも、他者や共同体の利益を守ることを第一とする美徳に転移するため、和を乱さないという崇高な目的のためには、自分を殺すことも必要だという意味になります。これは和が実際の村落などの「見える共同体」を表しておらず、「見えない共同規範」を示唆しているということです。実態がないため、時代ごとに変容します。ここが和の理解の根本になります。
一方で、孔子の忠を念頭に置けば、朱子学の和の解義とは全く異なる姿が見えてきます。孔子の忠は自分自身に忠実になり、その上で他者や共同体に対しても同じように真摯に接することの教えです。ゆえに共同体以前に自らと内省し、正直な心で自分自身と接し、そこから他者と同じように関わるという豊かな考えになります。つまり、個々が内省を踏まえて他者と接すれば、必然的に共同体は穏やかで豊かになるということです。これが孔子の読み方における和だと私は考えます。両者は全く異なりますが、いつの時代も権力を求める為政者にとって都合が良いのは、朱子学の読み方であることに注意してください。事実、この理由から多くの為政者は朱子学を重宝しており、現代日本でも絶大な影響力を誇っています。
孔子と朱熹を通じた理解の相違を踏まえると、和を通じた共同体の考え方が根底から異なることが見えてきます。個人的には、朱熹の登場よりも遥か以前に活用された飛鳥時代の論語は、おそらく孔子の読み方に近い本質を持っていたと考えています。つまり、聖徳太子の憲法に朱子学を持ち込んではならず、徹底的に孔子に戻った読み方をしなければならないのです。しかし、これが誰にもできません。しかも朱子学から聖徳太子の和を読むこと自体が、未だ疑われたことはないのです。結果、近代以降に[和を以て貴しと為す]は、欧米列強に対抗する軍国主義の潮流の中で、国民統治の武器へと変容し、大惨劇を招く原因となります。ここが構造的な転換点であることを押さえておいてください。続編の近現代を扱う箇所でも、非常に重要となります。
水戸学を経由した尊王攘夷運動は、最終的に1868年の明治維新に結びつきます。ここで徳川将軍家の実権は崩壊し、今度は革命の主軸を担った長州藩と薩摩藩の武士たちに為政者が転移します。ただ元々両藩は長らく敵対関係にあり、徳川幕府を倒すために無理に同盟させられた具合ですから、当然ながら革命成功後に分裂します。明治政府樹立と共に利害が対立した結果、最終的に1877年の西南戦争が勃発。ここで薩摩藩のリーダー・西郷隆盛が死去したことで、長州系為政者の覇権時代を迎えました。何より、この時に形成された長州系為政者の時代はまだ終わっておらず、現在も続いています。問題はこの過程で和がどのように変容したのかです。その鍵を握っているのが、14世紀の公卿・北畠親房が残した『神皇正統記』です。
先ほど、水戸学が皇室の正統性を巡る歴史問題に対して、従来の説をひっくり返したことを書きましたが、北畠親房の存在がこの問題に直接関わります。当時は南北朝時代と呼ばれており、二人の天皇が在位する不思議な状況に陥り、両者は正統性を巡って激しく戦を繰り広げていました。最終的に北朝が勝利したため、正統性は歴史的に北朝として語られたのですが、水戸学は詳細な考究の末に南朝が正統だと主張します。この南朝の実質的な指導者だったのが北畠親房です。ゆえに水戸学にとっては最重要人物の一人であり、彼の著作『神皇正統記』は根幹に据えられます。南朝と北朝のどちらが正統かという問題は、20世紀初頭の明治でも論争に発展しており、時の政府を転覆するほど甚大な影響を及ぼしました。
『神皇正統記』の根幹は、君臣の統合が国家秩序の根本だと主張していることです。ここで統合の意味として[和合](Wago)という用語が使用されているのですが、この用語を日本から読めば、「異なる和を統合する」という意味になります。非常に重要ですが、和は一つではないのです。
和は一つではないからこそ、複数に分散している和を統合しなければならない。これは南朝と北朝に分裂した皇室を、今一度南朝のもとで統合すべきだという北畠親房の主張ですが、ここが後の日本史に絶大な影響を及ぼします。既に近代の統一国家・日本、単一民族・日本人の説の源流が姿を表し始めています。後期水戸学が北畠親房を参照したのは、偶然ではなかったのです。
ただし前述の通り、水戸学は特定の学派に依存しておらず、神道、儒教の諸学派、国学を統合する特異な性格を持っていました。そのため、彼らの和の変容には複数の精神が絡み合っています。例えば、江戸時代を通じて朱子学の筆頭人物だった林羅山(1583-1657)は、和を身分秩序の中の調和として読んでおり、江戸幕府の体制の中で、自らの身分秩序を守ることが和だと考えたことが分かります。林羅山は徳川幕府の開祖・家康に重用され、体制哲学の権限を与えられた人物ですから、この視方が江戸時代の政治において貫徹されたことが分かります。
一方で林羅山の朱子学的な解釈を否定する動きも多発しており、儒教の学派ごとに読み方が変わるような状況でした。その上、国学の和の読み方も異なります。国学では、和は中国の影響によって概念化される前の作用と働きとして考えられたのですが、彼らはこれを「やまとごころ」と呼びました。儒教的な秩序原理も仏教的な原理でもなく、列島の風土と神々に対する自然な情緒的共鳴として和は位置づけられたのです。国学者は漢字で[大和心]と表記し、本居宣長は中国的な影響を指す[漢意](Karagokoro)の対抗軸に[大和心]を配置しています。これが次の平田篤胤になった時、大和心は次第に近代的な国家論の和へと変容を始めます。
全てを論じることはできませんが、和という一つの概念は、このような複雑な水脈が合流して形成されたものだということです。そして北畠親房の和の考え方を取り込んだ後期水戸学は、決定的な再編を行います。繰り返しますが、当時は欧米との対外危機の中で国家論が考えられたことを常に考慮すべきです。こうして和は様々な時代からの影響を被りながら、遂にピークに達します。後期水戸学のリーダー格である会沢正志斎が1825年に発表した『新論』は、それを象徴的に語っています。彼は北畠親房の和合の考え方を適用しながら、水戸学の性格である神道、儒教、国学を巧みに調合した結果、天皇を中心とする祭政一致の体制を提言するに至ったのです。
これが江戸時代を終わらせる思想となりました。会沢正志斎や藤田東湖の思想を支えていたのは間違いなく和合であり、彼らは異なるものを次々と統合する思想的戦略を誰よりも徹底していました。この思想は儒教側では朱子学とは相性が悪いのですが、一方で知識と行動を一致する思想である陽明学と共鳴します。ゆえに彼らの思想の影響を受けた若者たちは、やがて革命こそが必然であるという判断となり、実際に明治維新を起こしたのです。
彼らの下で神道と儒教は「神儒合一」として統合されるなど、大きな変革が起きています。会沢正志斎が考えた天皇を中心とする祭政一致の体制も同じです。祭祀権と政治権が分かれていた江戸時代的状況を天皇のもとで統合し、国民全体が天皇への絶対忠誠において一つになるという構想のことだからです。もちろん彼の在命時に国民は概念的には存在しませんが、様々な思想やイデオロギーを習合させた和の提唱が、明治以降に絶大な影響を及ぼしたことは事実です。つまり、和は単純化すれば「一つ」という意味なのです。だから理解が難しい。
なぜなら「一つ」という意味は、時代ごとに変容するからです。近代的な国家形成では、国家も民族も「一つ」として巨大な圏域に統合されますが、近代以前にそうした考えはあり得ません。そして常に「一つ」という圏域を設定すると、必ず排除される集団が出てきます。現代の世界では、これらを近代的なフレームワークで欧米的に理解しようとしますが、日本の場合、この構造には「見えない共同規範」としての和が関与します。そして和は一つであり、同時に「皆と同じであること」へと結ばれます。日本が近代を経験しても個人主義が生まれず、国際的に全体主義として理解された理由もここにあります。日本人が個人の主張に問題を抱えている民族的性格なのではなく、和の変容から解読しなければ見えない境地です。
つまり、日本人の意思決定には個人の主体意志が関与しているのではなく、和という非主体の意志が関与しているということです。ほぼ全ての日本人が語る「個人主義と全体主義」の問題は、ここが完全に見えていないことです。ここが見えていないと、全ての主張は転倒します。
さらに和と同一である「見えない共同規範」は、様々な別称を持ちます。この理解に私がいつも考えているのが、出雲大社の主祭神であるオオクニヌシです。この神は神話で様々な呼称で呼ばれており、オオナムチ、アシハラノシコヲ、ヤチホコ、ウツシクニタマ、オオクニタマ、クシミカマノミコト、アメノシタツクラシシオオカミなどがあります。同じ神であっても、信仰される場所や時代によって呼称が変わったということですが、これがまさに日本の和の本質だと私は考えています。ゆえに、和を断定的に論じることは絶対にできません。共同幻想の視点から読み解かなければならないからです。
この「見えない共同規範」の別称は、江戸時代なら体制哲学にもなった朱子学に由来しますが、実は反幕府として体制を転覆した明治政府の樹立以降も、江戸時代の統治原理は密かに採用されたのです。ここが見えないため、和の変容が断絶したように錯覚してしまうのです。つまり、江戸時代から明治時代の構造的転換点において、実は徳川幕府の駆使した朱子学が極めて効果的であったため、明治政府も近代システムの国民統治に朱子学を使ったのです。しかし、表向きに旧為政者の体制哲学だった朱子学を使えば、反幕府として体制を革命で転覆させた彼らの立場が問題になります。そこで密かに朱子学を近代システムに取り込んだのですが、実質的な理論的支柱は今も朱子学です。つまり、江戸時代から明治時代は実質的には変わっていないのです。単に為政者が置き換わっただけです。これは革命を装った大規模な嘘です。
この狡猾な体制転移の主導を担ったのは誰なのか?
それが、長州藩の山縣有朋です。ここから和の変容は近代に入り、やがて大日本帝国の精神として悪用される時代を迎えます。次回は、近代から現代の和の変容を見ていきますが、その時、今回は語らなかったもう一人の江戸時代の人物の存在が重要となってきます。
ぜひ、続編をお楽しみに。