なぜ、あなたは旅行するのか?Why Do You Travel?
このシンプルな問いに、あなたはどう答えるでしょうか?
この数年間、観光の本質について思索を巡らせながら、日本各地を移動してきました。確かに、ソーシャルメディアを通じた均一な共通体験を求める声は、未だ根強い影響力を持っています。一方で、そうしたメインストリームに違和感を持つ旅行者がいることも事実であり、一概にツーリストとして語るべきではありません。
日本では、各地を来訪して見聞することを[観光]と言います。これは中国の『易経』に記された[観国之光 利用賓于王]という一節に由来します。現代的に言えば、来訪する国、社会、人の光るところを観察し、他所者として学ぶという具合です。そして光を観察することは、同時に影を観察することです。この時、どちらか一方に偏り過ぎてはならず、旅行者自らの自制心と他者や他国への敬意が要されます。
観光に陰陽の思想を据え、来訪した街の中で自らを中庸にする。この実践により、利己的な現代旅行者とは違い、真の学びを得ることができます。本来の観光とは学びであって、一方的に消費することではありません。
何を学び取るかは人によって異なりますが、それは各々の適性によって変わり、誰かの言説によって左右されるものであってはならない。つまり、本来の観光はインプットですが、必ずアウトプットが前提されています。アウトプットは勘違いされていますが、旅行写真をインスタグラムやサブスタックに共有することではありません。
旅行を終えて、あなた自身が暮らす国、社会、コミュニティ、他者との関係に戻った後、そこでの学びを活かして、より良い未来を目指して実践するということです。これが観光の本質です。
今年に入って、行き詰まった観光業関係者から「次の観光」を考えるためのアイデアが欲しいと相談され、関西を中心に新たな提案を行なっています。この時、私自身が基本に据えているのは、上述した観光の本質であり、旅行者数や売上高などの「数」を求める従来の視座とは異なります。
例えば、私自身も暮らしている大阪の主要観光地である難波、心斎橋、梅田、新世界などは、実は歴史的には海の中でした。ほとんどすべての観光客がこの地域を来訪しますが、本当の大阪はそこにはないということです。
そこで大阪の成立史において語られる流れを、独自の観点で見ていきます。今日の大阪という呼称は現在では[大阪]の表記ですが、かつては[大坂]でした。この呼称の初出は、1496年に蓮如が記した『御文』が最古です。元々は地域名を指す用語ではなかったのですが、カリスマ的な宗教家だった蓮如の数々の偉業によって、あっという間に大阪の呼称が広がりました。
その最たる事業が、石山本願寺の建立です。石山本願寺は、現在の大阪城の地に建立されていた大規模な寺院です。そもそも蓮如は、親鸞を開祖とする浄土真宗の僧侶です。彼は浄土真宗本願寺派の第8世宗主、真宗大谷派第8代門首であり、当時の仏教界における大御所の一人でした。ここで大阪史を読み解く際に、重要となる本願寺について示しておきます。
まず、本願寺の起源は寺院ではなく墓です。1263年に浄土真宗の開祖だった親鸞が死去すると、京都の東山にある鳥辺野という地域の北側辺りに石塔が建てられ、そこに遺骨を治めました。鳥辺野は、当時の京都市内周囲に存在した巨大墓地の一角ですが、この地は大谷と呼ばれていました。
この歴史が直接的に関わってくるのが、京都市内の寺院です。京都駅から市内に向かって歩けば、通りを挟んで巨大な寺院が二つ見えてきます。西本願寺と東本願寺です。両寺院は共に浄土真宗ですが、その歴史は複雑怪奇であり、長い時代を通じて混乱の果てに、東本願寺側では宗派を真宗大谷派、西本願寺側では宗派を本願寺派と称するに至っています。しかし本来、本願寺に西も東もなかった。一体、どういうことなのでしょうか?
重要なことは、親鸞自身は本願寺という寺院も、浄土真宗という宗派も作っていなかったことです。彼はあくまでも師匠の法然の弟子として生き、関東布教などを経て、晩年は京都で著述活動に専念しました。つまり、親鸞は寺院も持たず、教団組織も作りませんでした。そのため、親鸞は死後に教団化された人物と言えます。
教団が生まれる契機となったのは、親鸞没後から9年が経った1272年頃です。ここで覚信尼という人物が、親鸞の弟子と、親鸞が布教活動を行った関東の門徒たちの協力を得て、大きな決断を行います。覚信尼は親鸞の末娘ですが、親鸞の墓所を大谷から移して改葬し、そこに大谷廟堂を建立したのです。
大谷廟堂の土地は、覚信尼が夫より譲り受けた土地です。流れとしては、親鸞の娘である覚信尼が土地を寄進し、関東の門弟らが資金を捻出して親鸞を奉祀する大谷廟堂を建てたということになります。これが本願寺の歴史が始まった瞬間です。
ただややこしいのは、実質的なオーナーは関東系門徒(高田派と呼ばれます)の集合体であり、京都側にオーナーは不在だったことです。そのため、京都側で廟堂を管理する[留守職]という特殊な役職が生み出されたのですが、この管理人には親鸞の血縁者がなるという決まりが設けられました。
しかし、当時の時代事情として見逃せないことは、現在の京都市に広がっていた平安京を中心とした時代は終わっており、関東の鎌倉側に首都機能が移行していたことです。つまり、従来は平安京の人々に見下されていた関東系の人々が、既にある程度の実権を持ち始めていました。そのため、覚信尼の決断は結果的に歪な構造を生み出してしまい、後の歴史にまで大きな影響を及ぼすことになります。
この時の歪な構造は、廟堂が本願寺として政治的影響力を獲得する時代に入ると、「血脈の正統性」と「関東門徒の自治」の対立として表面化します。この転換点になったのが、親鸞没後58年後の1321年です。親鸞の曾孫である覚如(1270-1351)の登場により、信仰は露骨な政治実権を巡る対立となり、やがて武士が乱立する激動の時代に入っていきます。
1302年、大谷廟堂の管理人職を巡って、親鸞の孫である覚恵と異父弟の唯善が激しく対立します。この問題は7年後まで続くのですが、1309年に京都の天台宗・青蓮院の決議により、覚恵の長男である覚如が廟堂を継承することが決定されます。この判断に激昂した唯善は、大谷廟堂を破壊した上、実質的オーナーの関東系門徒の庇護を求めて鎌倉に逃亡します。
廟堂が物理的に破壊されたことを好機として、覚如は政治的な目論見を果たすべく新たな計画を打ち出します。それが親鸞の廟堂という墓でしかないものを、教団本部の寺院として再建することでした。実際、1312年に覚如は寺院化を標榜して額を掲げています。この時は比叡山延暦寺側の激しい抗議によって、撤去を余儀なくされましたが、紆余曲折を経て、1321年に覚如の指導下で寺院化が行われて「本願寺」と号して成立します。
以降、本願寺教団は自ら本願寺を自称するようになり、大規模な政治活動が始まります。また政治的手腕のあった覚如は、本願寺の宗教的正統性を実現すると同時に、もう一つの施策を水面化で進めていました。それが系譜の正統化です。
1331年に彼自身が撰述した『口伝抄』では、二つの系譜が提起されています。一つは宗教的系譜の正統性で、[法脈]と呼ばれるものであり、法然を起点に親鸞へ繋がり、やがて覚如へ結ばれます。もう一つは血脈で、こちらは親鸞から覚如へと結ばれます。そして自らを本願寺三世と自称し、本願寺教団の教義を創造しました。つまり、浄土真宗の教えという教理を頂点に据え、その流れが法然から親鸞へ渡され、やがて自らに結集したという位置付けです。
言い換えれば、浄土真宗における教義の正統性と、親鸞の血脈の正統性が自分に合流していると主張し、ゆえに本願寺こそが浄土真宗の本流だとした権威のイデオロギーです。ただし、覚如が本願寺を立ち上げても、その後の150年近くの歴史において、本願寺は浄土真宗の中では弱小勢力でしかありませんでした。
事実、親鸞の門弟による高田派が関東で台頭する中、本願寺は比叡山系列の青蓮院の末寺扱いに甘んじていました。本願寺にとって独立は悲願であり、浄土真宗の利権を手中に収めることは、生存の観点でも必須でした。
しかし、それ以降も本願寺は弱く、信徒も集まらない不遇の状況が続きます。そうした中、登場したカリスマが前述の蓮如でした。蓮如が生まれた当時の本願寺は壊滅的で、誰も相手にするような教団ではありません。そうした状況下ですから、蓮如は貧困の中で育ちましたが、1457年の43歳の時、父から本願寺の主導権を継承すると、即座に改革に着手します。この改革が、その後の歴史を変えました。
当時の本願寺は青蓮院の末寺であり、天台宗系であったため、本堂には天台宗の本尊や経典が普通に置かれていたと云われています。蓮如は本願寺独立を目指し、天台宗系の影響を本堂から破棄し、すべて焼き払ってしまいます。さらに天台宗的な法主と門徒のピラミッド型関係をなくし、参詣する門徒と自ら平等に会って対話し、個々に異なる悩みを解決するために時間を注ぎました。
この方法は、開祖・親鸞が一般の門徒を広く受け入れる土壌を作った功績を、蓮如が再解釈して再現した成果と言えます。同時に、門徒に対して難しい経典の教義を教えるのではなく、徹底的に対話と手紙で伝道活動を行います。この方法は当時の仏教界における画期的なメディア革命であり、絶大な効果を発揮しました。しかし、本願寺の蓮如の動きは、ある教団を刺激します。延暦寺です。
延暦寺から見れば、自らの末寺のひとつに過ぎない本願寺が、許可もなく勝手に活動を始めたことは、相手を刺激するには十分でした。しかも蓮如は、この時点で天台宗系の経典などを焼き払っています。結果、押し寄せた比叡山衆徒によって本願寺は破却されてしまい、さらに比叡山側のプロパガンダにより、本願寺は「比叡山の本尊を中傷し、自分だけが正しいと主張する狂信集団」と位置付けられます。宗教弾圧から辛うじて逃れた蓮如は、京都の隣国だった滋賀の近江に脱出しますが、やがて比叡山と敵対していた園城寺に匿ってもらっています。
1471年には、関西から北陸の越前吉崎(現・福井県あわら市)に出向き、御坊を建立して活発な布教活動を開始します。蓮如の登場により、荒地だった吉崎は急速に発展し、あっという間に寺内町が形成されるほど栄えています。この流れで蓮如は二冊の著作を出版し、大量複製による教義拡散を軸に、手紙を通じた門徒との独自ネットワークを構築します。
そして対等な対話を重視する蓮如の信念は、文字を読めない人々に絶大な影響を与え、今日に浄土真宗が日本最大教団の一派になる礎を築きます。この地道な活動が身を結び、やがて吉崎御坊には全国から大勢の参詣者が来訪するようになり、何もなかった吉崎は一大宗教都市へと変貌します。
順調だった北陸生活でしたが、1473年に浄土真宗が抱える歪んだ構造が問題を勃発します。意外なことに、発端は浄土真宗内の抗争ではなく、加賀国を支配した守護大名の富樫氏の内紛でした。蓮如が活動した吉崎は、ちょうど越前藩と加賀藩の国境に位置していたため、必然的に巻き込まれることになったのです。
当時の富樫氏は分裂しており、兄・富樫政親と弟・富樫幸千代が家督を巡って激しく争っていました。この直接的な原因が、1467-1477年まで勃発した応仁の乱という大規模な内戦です。この時代、再び首都は平安京側へ戻っていたのですが、中央政権内で起きた内戦は、大きく二つの勢力に二分されます。東軍が細川家、西軍が山名家です。平安京内部の実権を巡る争いは、徐々に各地に飛び火していくのですが、ここで加賀国の富樫氏では、意見が一致せずに兄弟間で東軍と西軍に分かれてしまいます。
兄の富樫政親が東軍側、弟の富樫幸千代が西軍側です。つまり、応仁の乱の地方戦だったのですが、この抗争が思わぬ形で蓮如に飛び火します。この事情の理解は重要です。
まず、蓮如側の本願寺派にとって、ここで二つの致命的なリスクが顕在化していました。ひとつは、敵方の富樫幸千代の勢力が関東側の高田派と組んだことです。同じ浄土真宗内で圧倒的な勢力を誇った高田派の参入は、明らかに吉崎の本願寺派の利権を狙った動きであり、本願寺派の活動を根こそぎひっくり返す危険があります。さらに富樫幸千代は、隣の越前国の守護代(二番目の実力者)だった甲斐敏光とも組みます。
この二つの動きは、越前と加賀の境界である吉崎で活動してきた蓮如にとっても不穏でした。しかし、1473年の戦の時点では蓮如が武力抗争を否定したため、兄の富樫政親は敗れてしまい、加賀を追われてしまいます。ただ政親の追放は、蓮如にとっても具合が悪く、敵方勢力の勃興は本願寺派への弾圧に繋がります。
この事情を察した政親は、翌年の1474年に蓮如に対して本願寺派を加賀国で公的に認可する条件を提示し、その代わりに要請に応じて内紛に介入を求めます。実は長らく、この時でも蓮如は武力抗争に反対していたため、彼を平和主義者として語る視方が一般的だったのですが、近年の調査では武力介入の指導者だった可能性が指摘され始めています。蓮如の本願寺派が政親側に加勢したことで、今度は一転して幸千代側が敗北し、加賀から追放されます。
当然、政治的な思惑も見逃せません。たった一代で宗教都市を作った手腕を買われて、政親から支援要請を受けた蓮如ですが、政親からすれば、大勢の門徒を抱え、絶大な影響力を持つ宗教指導者を抱え込めば、自分に優位になると見ることは必然です。蓮如はあまりに露骨な政治抗争への関与に躊躇したと言われていますが、この抗争は単なる応仁の乱の地方戦以上に、浄土真宗内の代理戦争の意味も持っていました。こうして内紛に引き摺り込まれてしまった蓮如の決断が、事態を急変させたのです。
なにしろ相手は、時勢に応じて考えをコロコロ変える指導者。政親は本願寺派の協力で相手を加賀から追放しましたが、本願寺門徒の勢いを恐れて、勝利した翌年1475年から激しい弾圧を加え始めたのです。約束を反故にした政親に対して、本願寺門徒は憤慨。ここで蓮如の門徒だった下間蓮崇が、政親を打ち倒すために門徒を結集し、蓮如の命令と偽って一斉蜂起を命令します。この蜂起は政親側に抑圧されてしまい、加賀の本願寺門徒は隣国の越中(現・富山)に逃れます。大失態に怒った蓮如は蓮崇を破門し、蓮如自身も北陸を離れてしまいます。
ただし、1488年代に入ると本願寺勢力が越中で復活し、何と1488年には政親を20万人以上の軍勢で滅ぼしたのです。
北陸での活躍と失敗を経て、蓮如の名前は各地で有名となり、行く先々でも強い影響力を獲得します。北陸から関西を転々としながら、当時の国際港だった堺を軸に大阪での布教活動に力を入れた蓮如は、京都の山科で山科本願寺を建立します。本願寺派の本拠地である寺院は、比叡山僧兵からの圧力を考えて、高さ7mの壁と深い水堀に囲まれた城塞都市として築かれました。
さらに蓮如の名声は仏教界随一となり、山科時代には幕府の将軍・足利家と急速に接近します。その結果、1481年に高田派以外の浄土真宗系教団が、蓮如の本願寺派へ合流するという転換点を迎えました。何と浄土真宗の事実上の統一は、たった一人の人物によって成し遂げられたのです。蓮如が生まれた時、門徒もおらず壊滅寸前だった本願寺は、このようにして奇跡的な復活を遂げたのです。
蓮如は1489年に引退しますが、勢力的に関西各地で伝道を行い続けており、大勢の人々から崇敬されます。まさに生涯を通じた草の根運動の宗教家ですが、その蓮如に人生の最後のプロジェクトが与えられます。それが石山御坊です。大阪の上町台地北端に建造された小さな御坊でしたが、やがて大阪の成立史自体を大きく動かしていきます。この頃、大阪という呼称が生まれました。
ただ蓮如在命時の石山御坊は小さい建物に過ぎず、1499年に死期が近いことを悟った蓮如は山科本願寺に移っています。こうして蓮如は、同年5月に山科本願寺で85歳で没しました。彼が最後に建立した石山御坊は、16世紀に武士が戦を繰り広げる過酷な時代の渦中で、一躍脚光を集めることになります。
きっかけとなったのが、1532年の宗教対立です。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった本願寺派の山科本願寺が、何と法華宗の門徒によって破却されたのです。この事件を受けて、本願寺を山科から大阪に移し、大阪御坊がある場所で1533年に大阪本願寺を創建します。これが石山本願寺の誕生です。蓮如の功績により、既に浄土真宗の信徒は大勢いたため、彼らは大阪を新天地と見て一挙に集まり、あっという間に巨大な寺内町が形成されます。
そして石山本願寺が生まれた地こそ、実は古代大阪の中心点なのです。その後、石山本願寺は武将・豊臣秀吉によって打倒され、その跡地に大阪城が築造され、大阪の大動脈として江戸時代を通じて栄えました。しかし、この地に目を付けたのは蓮如が始まりだったのではなく、太古の人々の信仰地に起源を持っています。つまり、大阪の歴史は常にこの地で始まり、終わり、幾度もアップデートを繰り返しながら、今日に至るということです。
では一体、この地に最初に目をつけたのは誰だったのか?
大阪城を基点に大阪成立史に目を向けた途端、そこに浮上するのは現在とは全く異なる大阪の姿なのです。次回は、大阪の太古の世界へ皆様を導いていきます。