C:\SHITSURAE\> TYPE SJ341.TXT

SJ341.TXT2026-04-2853KB

神仏習合という試練Shinbutsu Shugo as a Trial for Shinto

6世紀に仏教が伝来して以降、長期的な歳月をかけて進展した神仏習合。単純な信仰のミックスではなく、神道が宗教としての素質を獲得するためには、避けては通れない試練でした。神仏習合という特異な現象は、まさに「神道」が確立するための転換点ですが、読み解くことは極めて難しい。私はこの現象を「神と仏の幻想領域の婚姻」と捉え返しながら、その本質を見ていきます。今回の記事では、神と仏が渾融し始めた時の混乱を描いていきます。

最初に自覚することは、仏教や儒教が伝来する以前から、日本には固有の神道があったという一般的な認識は事実を語っていないことです。むしろ神道は中国側で宗教として完成された仏教や儒教の影響によって、千年以上の歳月をかけて宗教を獲得したと見た方が妥当です。つまり、神道が仏教や儒教などの外来宗教に対抗する側面を持つためには、仏教や儒教からの強い圧力を必要としたのです。ですが、外部から強い圧力がかかっても絶対に消滅することはない。ここが神道に限らない信仰の本質です。

On Dogenシリーズを通じて、貴族政権の平安時代から武家政権への変動を様々な角度で提示しましたが、この時代の理解が神仏習合に直結します。仏教伝来初期から神仏習合は徐々に進展していたものの、明確に「神と仏の関係」が意識されていたとは言えず、数百年の過程で徐々に自覚されていったというのが正確です。その最大の転換点となったのが、[本地垂迹説]の登場でした。

しかし、この本地垂迹説が難問です。簡単に言えば、「神を仏の化身と見做す思想」ですが、この理解、普及、受容の過程で次々と問題が生まれており、まさに信仰の混乱期と呼ぶに相応しい状況でした。ですが、こうした信仰の混乱の渦中にこそ、次の萌芽が潜んでいます。その萌芽は単に神道や仏教に限定されず、茶道などの文化精神にまで流れ込む源泉であるため、非常に注意深く見ていく必要があります。いわば、「日本の心」の源です。

平安時代から鎌倉時代にかけての神観念の特徴は、この混乱を見事に表しています。端的に言えば、仏が神に化身することが、仏による衆生救済の究極的表現と考えられたことです。言い換えれば、仏教における「利益衆生」という根本的な考え方を背後に掲げながら、表向きの看板には仏を立てずに神を立てるという方法です。しかし、お気づきでしょうが、それなら仏の優越性はどこにあるのかという疑問は当然生まれます。

事実、これこそが当時の最も深刻な問題でした。なにしろ、仏教教義を骨格に展開しているにも関わらず、表に立つのは仏教の崇める仏ではなく、なぜか神道側の神だからです。直接仏教の教義と仏を信仰で結べば良いものを、それができなかった。逆に言えば、それだけ神への信仰が土着的に根付いていたということです。ゆえに、僧侶にとってはこの問題を解決することが先決となり、ここから複雑怪奇な歴史が始まります。つまり、神仏習合における本地垂迹説はゴールではなく、混迷のはじまりだったのです。

当時の仏教側からすれば、仏菩薩は既に自らの姿で衆生の前に現れており、実際に衆生に対して様々な利益を施しています。しかし、その仏教側の僧侶たちが、それだけでは解決できない本質的な問題に直面しており、何とか打破しようとして本地垂迹説を生み出したのです。一体、僧侶は何を問題視していたのでしょうか?正直、彼ら自身にも分かっていなかったというのが本音でしょう。

ここで見逃せないことは、本地垂迹説は仏教側に恩恵をもたらしたこと以上に、実は神道側に独立の道を開く直接的な機会を生んだことです。神仏習合の名の通り、実際には双方に利益を生み出す複雑な現象であり、特に神道が教義や神学を獲得する最大の契機となったということです。この過程がなければ、近代的な神社神道や国家神道は生まれませんでした。

では、神仏習合の起源はどこに設定されているのか?

一般的には、奈良時代(710-794)です。当時の首都だった奈良は仏教黄金時代を迎えており、次々と寺院が建立され、仏像も大量に製作されました。この渦中で[神身離脱]という興味深い出来事が起きていました。

神身離脱とは、神自身が「自らが神の身であることに苦しんでおり、仏法によって救済されたい」と託宣したと考える思想です。神が仏に救済を求めるという説ですが、後の本地垂迹説を理解する鍵となります。ただこの時点では、「神が仏に救済を求める」と考えた通り、明らかに神は仏よりも下位の存在に位置付けられています。また神が仏教的な輪廻の苦しみの中にある衆生の一種に位置付けられており、そこでは神が仏法を聞き、修行によって神の身を離脱することを望む存在として描かれています。非常に興味深いのですが、かなり問題が多いことが見えてきます。神仏習合の初期混乱を表しています。

神身離脱の思想が強烈な影響を持ったのは、首都の奈良ではなく、ひとつは福井県敦賀の気比神宮、もうひとつが三重県桑名の多度神宮でした。そしてこれらは人間が生み出したイデオロギーとしてではなく、神自体の託宣を担保にしていることが重要です。つまり、人間自体の意見ではない、これは神の意見なのだと変質させ、その託宣を政治的に語っていったという流れです。

ややこしいのですが、当時は神社の神官は、個人的に仏教信者である場合がほとんどすべてでした。ゆえに彼らは神からの託宣を受けると、神宮寺という形で神社の境内や近隣に寺院を建立していきます。これは奈良時代後期から平安時代初期に全国規模で広がった現象ですが、多度神宮寺(三重)、気比神宮寺(福井)、鹿島神宮寺(茨城)、宇佐神宮寺(大分)、若狭比古神宮寺(福井)などが代表です。いずれも神社の中では古社であり、地域にとっては最高神格を有する信仰地ばかりです。つまり、首都に限らず、全国規模で神と仏の関係が急速に見直され始める最初の契機が起きたのです。この動きが地域の上層に位置する神社から始まっていることが重要です。まずは上層を神から仏に替え、そこから下層を掌握する方法です。

ですが、これは奇妙な出来事です。奈良時代は朝廷主導で国家仏教体制が敷かれており、この体制下では仏法は普遍的真理と位置付けられていました。江戸時代に幕府が体制哲学に儒教を採用したように、当時は仏教を採用したと見た方が正しい。信仰の問題として一蹴できるものではないのです。この渦中で、神道とは呼べないものの、在来の神はその枠組みの中で再解釈される必要があったのです。いわば、神身離脱は奈良時代な体制の中で、神を仏教とどう結びつけるかという厄介な問題が絡んでいるのですが、この時点では仏教優位が前提されています。

この時、神の観念が変容し始めていたことも見逃せません。奈良時代の仏教的な影響を受けて、日本の神は祟りをなす畏怖の対象に位置付けられており、そこから人間同様に喜怒哀楽を持っているため、時に苦しむ存在だと位置付けられました。この考え方は仏教の輪廻思想にとって都合がよかったため、必然的に「神も輪廻の中に存在する」という解釈が生み出されます。これは当時の一般的な仏教教義における輪廻を軸に、超越性を持つ仏菩薩を特殊な存在に位置付ける試みですが、同時に神の処遇が深刻な問題になり始めていたことが興味深い。つまり、仏教礼賛が進めば進むほど、仏教を礼賛している当人たちが、「神とは何なのか?」が分からなくなってしまったということです。言い換えれば、それ以前の長期的な日本史において、「神とは何なのか?」という問いは、問題にならなかったことが見えてきます。

また、当時各地に存在した地方豪族を見る必要があります。当時の日本は統一国家ではないため、各地の豪族は各々に強力な力を持って地域を治めていたのですが、彼らはほぼ例外なく神道側の神に権威を由来していました。このことから、彼らにとって自身らの土地の神を仏に直結させることが、信仰とは無縁に政治的な問題だったことが見えてきます。なぜなら、時の中央である奈良の朝廷が仏教を国家的に崇めている以上、密接な関係を持つためには、外交的にも仏教を受容する折衷的な方法が表向きに重要だったからです。つまり、地方豪族にとって仏教は信仰対象ではなく、自らの宗教的かつ政治的権威を高め、朝廷からの恩恵を約束するための実利的な判断でした。言い換えれば、当時の大部分の人々は仏教を政治的手段と見ており、心から信仰していた人々は僅かだった可能性が高い。

一般的には、この神身離脱を神仏習合の第一歩と位置付け、後の平安時代後期から本地垂迹説に発展したと考えます。しかし、学者の言うように信仰は簡単に変質するものではない。

事実、学説的に本地垂迹説が全国に広がったと考えられる鎌倉時代以降も、すべての神が仏菩薩の化身に見做されていたわけではありません。この時、かなり厄介な存在として浮上するのが、本地垂迹説における[権神](Gonshin)と[実神](Jisshin)という神の観念です。

改めて整理しておくと、本地垂迹の[本地]は「本来の姿であり、如来や観音などの仏菩薩のこと」です。一方で[垂迹]は「仏が救済のために姿を変えて現れること」で、この場合は神として現れます。この大きな基準から見て、以下のように整理できます。

◯権神: 垂迹としての神のことであり、本地を持っている。

◯実神: 本地を持たない衆生のひとつとしての神。

神が多層化しているのでややこしいですが、権神がいわゆる本地垂迹説のターゲットであり、実神はその外部的な存在に位置付けられています。この時、私が思想から重視していることは、神道と仏教の本質的な捉え方において、「外部」が生まれ始めていることです。それ以前の日本の信仰次元では、このような二元的な考えは存在せず、ましてや信仰が外部のような考え方において実践されることはありませんでした。一体、権神と実神が浮上した時、彼らはここで何を想定していたのか?

意外かもしれませんが、私は仏教とは無縁の中国思想が介入したと見ています。つまり私は神仏習合は、仏教におけるインドとはほとんど無縁の思想背景から生まれたものであり、この文脈こそ、「中国と日本の思想的問題」という特異な位置から見直す必要があると考えています。また、中国思想と言っても儒教や道教などが絡み合っており、さらに中国人自体が打ち立てたのではなく、中国思想の影響を受けた日本人側が打ち立てていることを考慮してください。当時の日本側で儒教は体系化されていないため、中国同様の視座から見ると何が起きたのか分からなくなってしまいます。

いわば、神仏習合の難解な動きに潜んでいるのは仏教ではなく、それよりも起源の古い日本と中国の関係の中にあるということです。そのため、読み解くことが難しいというよりも、事実上不可能です。なぜなら、神仏習合に関与した大勢の人々が、神と仏の問題と見てしまっており、中国からの影響を見極めていないからです。これは今も同じです。神仏習合は神道の仏教の問題ではなく、実は日中の思想的関係の問題なのです。

ここで鍵を握っているのが実神です。

本地を持たない衆生のひとつと考えられた実神ですが、実神は古事記や日本書紀に登場する神格を持つ神々ではないのです。ここが非常に重要です。例えば、神話で高い神格を付与された神々は、ほぼ例外なく本地垂迹の影響を被っており、ほとんどが仏菩薩の化身として解釈されています。しかし、その外部が生まれているのです。その主軸が[鬼神]・[龍神]・「蛇神」です。ちなみに、龍神と蛇神はこの時点で同化していますが、日本土着の古層にいたのが蛇神で、中国から伝来したのが龍神です。これらは仏教伝来よりもさらに古い起源を持っています。

鬼神・龍神・蛇神は本地を持たない神として位置付けられますが、実はこれらの神は仏教以前に、既に古代中国思想の影響を受けて外部化されていた神々です。より正確に言えば、仏教思想ではなく中国思想に影響を受けた日本人僧侶が、本地垂迹における神だけではなく、古代中国で卑下されていたような神もいると考えることが一般常識だったのです。この一般常識は中国側の書物を通じて取得された知識であるため、日本側の信仰の現場とは無関係であることに注意が必要です。つまり、名を持たない周縁の神ですが、こちらが土着的な神だと言えます。言い換えれば、場所に根付く土着的な神を、本地垂迹でも排除できなかったということです。問題は、この時代に始まった出来事ではないことです。

この傾向は、本地垂迹説以前の712年の古事記や720年の日本書紀の時点で見られます。つまり、仏教とは無縁に起きていることへの強い自覚が要されます。日本神話には蛇、猪、鳥、ウサギなどの動物神も多く登場しますが、これらは本物の動物ではなく在地の国つ神であり、神話編纂時代に朝廷の天皇系と結びつきを持っていなかった地方豪族の起源です。あるいは敵対していた部族とも言えます。特に日本書紀は中国人編纂者が直接関わったため、その外部化は露骨ですが、重要なことは在地の神を朝廷系の神が排除できなかったという事実です。

その象徴的な出来事が、天皇の祖神に位置付けられる天つ神のアマテラスが、ヤマトを追い出された事件です。鍵を握っているのが、歴代天皇の中で実在が確定されている最初の第10代・崇神天皇です。この崇神の時代まで、宮中ではアマテラスとヤマトオオクニタマという二つの神を大殿の内に並べて奉祀していました。ヤマトオオクニタマについては別途書きますが、要するにヤマトという国自体の魂であり、最強の場所の神です。この場所に由来する国の魂を支配者たちは自らに憑依させて調整し、繁栄をもたらすように制御する技術が必要となります。ここでも登場するのは神からの託宣です。

崇神天皇の時代、ヤマトは疫病の流行や飢饉で崩壊しており、崇神が治める民の半分が死去。多くの民が新天地を求めてヤマトを離れ、謀反が相次いだとされています。ここで崇神は統治が崩壊した原因を神威だと考え、宮中でアマテラスとヤマトオオクニタマという異なる二神を奉祀していたことが原因だとします。この結果、両神を宮の外に遷す話になるのですが、重要なことはヤマトオオクニタマは同じヤマトに留まりながら、天皇の皇祖神であるはずのアマテラスがヤマトを追放され、最終的に現在の伊勢神宮の地に落ち着いたと記されていることです。

さらにもう一つのファクターも見逃せません。この統治崩壊は、単に二神を宮の外に遷すだけでは達成できなかったからです。では、崇神はどのように難局を乗り切ったのか?それがある国つ神の託宣です。神名をオオモノヌシといいます。

オオモノヌシは、日本最古の大神神社の主祭神で、最高神格を持つ国つ神の一種です。現在の奈良県桜井市にある大神神社近辺には、崇神の宮があったと考えられていることから、実質的に天つ神のアマテラスを追い出したのは、国つ神のオオモノヌシだったことが示唆されています。つまり、場所のヤマトオオクニタマを治める国つ神のオオモノヌシの方が、外来のアマテラスよりも強大だったということです。この難問を解決しなけれは、ヤマトにおける崇神の統治は安定しなかったということですが、重要なことはオオモノヌシの助けを借りなければならなかったことにあります。

この時、ヤマト在地の部族の姫だったヤマトトトヒモモソヒメという女神にオオモノヌシが憑依し、託宣を授けます。ちなみにヤマトトトヒモモソヒメが、女王・卑弥呼の神話における表現です。シャーマンだった彼女の託宣に従い、崇神が解決策を実行すると、ヤマトは再び治まったという説話です。ただし、これ以降はアマテラスがヤマトに戻ることはなく、最終的にアマテラスを奉祀するに相応しい地を求めて、巫女が旅をする説話が語られています。現在の伊勢神宮の地に奉祀された背景には、このような動乱があったのです。

なぜ、本地垂迹説の歴史に神話の一説が重要かと言えば、このオオモノヌシが蛇神だからです。今もオオモノヌシを奉祀する大神神社の神は蛇であり、特に白蛇の信仰を持っています。境内には蛇に捧げる供物の場所が用意されており、参拝者は蛇の好物である卵を捧げる風習があります。日本各地に蛇神信仰は非常に多いのですが、その最大神格はオオモノヌシにあると考えられています。

この神話の一説が語っていることは、天皇の系譜に位置する崇神天皇や天つ神・アマテラスでさえ、ヤマトの蛇神を除去することができなかった古代の記憶です。日本書紀のように天皇の支配正統性を強調するための歴史書でさえ、この逸話を挿入せざるを得なかったこと自体、オオモノヌシが相当強い力を持っていたことの現れです。一方で蛇神である以上、多くは語らず、あくまでも外部化しようとする意図自体はあります。

また神話には、古語で「服属しない」という意味を持つ「まつろわぬ」という概念が登場することを以前書きましたが、この神々は中国思想の影響を受けて、鬼神などに転化されていきます。つまり、本地垂迹説を掲げる僧侶の課題になっていた実神は、相当古い歴史的文脈を持つ存在だったということです。

では、ここで神の処遇に行き詰まった僧侶はどう対処したのか?

ここに絡んでくる思想が浄土真宗です。On Dogenシリーズの動きを改めて想起しながら読み進めてください。

神仏習合における本地垂迹説が勃興する以前、平安京に彗星の如く登場した法然(1133-1212)はある思想を提起していました。それが[専修念仏]という思想です。

発端は彼の著作『選択本願念仏集』です。ここで法然は、阿弥陀仏の本願に選び取られた「行」は「称名念仏」ただ一つであると主張し、諸行を捨てて念仏一行に専念することを説きます。この核心を抽出し、さらに徹底したのが親鸞(1173-1263)です。

法然の弟子から浄土真宗の開祖となった親鸞は、法然の専修主義における甘さをすべて排除します。具体的には、法然の専修主義が「念仏という行を選ぶ」という主体的な選択の甘さを残すことに対して、親鸞はその選択する主体性すら相対化します。この結果、すべては阿弥陀仏の本願力である [他力] によって成就するのであって、人間の側には選び取る能力すら無いという思想を打ち出します。これが親鸞の専修主義の到達点である絶対他力の立場です。

親鸞はこの境地に到達したことで、必然的に一つの帰結を導き出しました。それが[神祇不拝]です。簡単に言えば、神々を礼拝することを退けたのですが、間違ってはならないことは、排他主義ではなく専修念仏の思想の論理的必然として到達したものだということです。

親鸞固有の考えを整理すれば、以下のようになります。第一に、阿弥陀仏の本願は衆生を対象とする絶対的救済の働きである。第二に、この絶対的救済を信受する者にとって、他の救済対象に祈ることは本願への不信を意味する。第三に、ゆえに専修念仏者は神祇に祈らない。

親鸞は『教行信証』において、外道や様々な修行を学ぶことの弊害を厳しく論じており、神祇に祈ること自体を無駄な行為として退けています。これは本願への純粋性を損なうという論理から生まれたものですが、その徹底こそが親鸞の核心です。当然、この徹底は親鸞の思想とは無縁に社会的に問題視されてしまい、彼は流罪となって思想も弾圧を受けて禁止されています。これは神と仏を巡る問題が、国家仏教にまで昇華された時代であっても、強固に続いていたことを表しています。つまり、日本では神を排除することは絶対にできないということです。ここに後代の神職が神道を美化した根本的な要素があります。

親鸞のような徹底した思想は貫徹できない。では、どうすれば良いのか?

親鸞亡き後、すべての僧侶が直面したのはこの問題でした。なにしろこの課題を解決すれば、政治的覇権を掌握する宗教的力を手にすることができます。

この問題に最も応えたのは、親鸞没後に生まれた彼の子孫でした。それが存覚(1290-1373)という僧侶です。浄土真宗の僧侶だった存覚は、祖先の親鸞の思想を踏まえながらも、現実的に神に対してどう態度を取れば良いのかを思案し続けます。その結果、ひとつの著作を書き上げました。それが『諸神本懐集』です。

存覚の意図は次の点にあります。浄土宗の開祖・法然や浄土真宗の開祖・親鸞の登場以来、専修主義の立場から神を拝めてはならない禁忌は盛んに主張されたが、実際の布教の現場においては現実的ではなかったことです。そして現場感覚から存覚が抱いた疑念は、そもそも神か仏かの二者択一が問題ではないかということです。なにしろ、いかに仏教を国家的に庇護していても、現場のレベルでは場所の神に対する信仰は厚く、到底排除できるものではなかったからです。そのため存覚は、浄土真宗の立場から神との向き合い方を解説した同著を書き上げたのです。重要なのは、浄土真宗の立場から書かれたことであって、仏教一般を代表するものではないことです。さらに開祖・親鸞の意図ともズレてくるため、ここで神仏習合にイデオロギーが介入してきます。

存覚が着手したのは、権神と実神を明確に分離して整理することにより、神に対する向き合い方をはっきり区別することでした。要は拝むべき対象と、拝んではならない対象を独自の観点で分離して整理したのです。この時、彼は権神は尊ぶべき霊的な存在であり、実神を厄災をもたらす邪神と切り分けているのですが、さらに論理を補強して権神を二層に分けています。この存覚の意図のもとで、権神の最高レベルの存在は釈迦をはじめとする過去に悟りに至った仏たちとなり、次のレベルは観音や地蔵のように仏に限りなく近い菩薩となったのです。

さらに本地垂迹の観点から、この仏や菩薩は衆生を利益するために仮の姿として神となったものだから、彼らを拝むことは良い。だが、それ以外の神を拝んではならないと主張しています。それ以外の神とは実神・邪神のことですが、存覚はこれらの神は生霊や死霊などであって如来の垂迹ではない。その素性は人間や動物など様々だが、いずれも祟りを持って人々を悩ます低級な存在であり、人々はこの祟りを治めるために邪神を拝んでいるに過ぎないと喝破します。

これは非常に分かりやすく、整理された論理であったため一定の影響力を獲得しました。しかし、神とは彼が意図したように、それほど単純化できる存在なのでしょうか?

未だ謎に包まれたままの日本の神々。個人的には仏という明確な対象が伝来したことで、神の存在は明確になったわけではなく、むしろ一層謎を深めたように思えます。神仏習合時代の人々の動きから見ても、また現代までの歴史を通じて見ても、神は未だ何か分からない存在であり続けています。言い換えれば、それが神だとしか言えないものであり、実態を持つ存在ではない。

明治維新後の神仏分離令によって、長い渾融の歴史から、再び切り離された神と仏。この本質的な問題は、未だ解決されたとは言い得ない境地にあるのです。