共同幻想 11:歴史という問題Communal Illusion 11: The Problem with History
長年のフィールドワークを通じて、「歴史」には多くの問題があることを肌で実感してきました。私にとって日本のフィールドワークは近代の無化に直結しており、次の時代を考える有力なリソースとなっています。まず、近代国家の樹立には国民の創出が必要不可欠であったため、歴史的に共通の文脈を持たない人々を強制的に統一しなければなりません。この際、近代化を成し遂げた全ての国が採用した手法は言語を統一することでした。近代化を遂げた西洋も日本も同一の手法によって近代化の基盤を形成しており、現在は中国がこの手法を用いて統一を図っています。
中央が定めた共通言語は、次に教育システムを通じて全国の学校を通じて児童へ普及されます。この国民創出の過程で、同時に行われるのが国家創出です。国家創出では不特定多数に向けたわかりやすい物語を提示する必要があるため、必然的に土着的な性格は棄却されます。これは土着的な歴史、文化、精神などを一々取り込んでいては、絶対に近代の統一国家など樹立できないからです。つまり、近代化では容赦なく土地の文脈は破棄されます。こうして場所を次々と破棄して中央による空間が捏造されていくのですが、これが近代国家創出の典型的手法です。この時、必ず生まれるのが「空洞の歴史」です。空洞の歴史と私が呼ぶのは、近代国家の中央に位置する政治家・官僚・学者などによって歴史という実態の外部だけが皮膜のように形成されたものですが、中身は空洞のままのことを言います。ある意味、中身を持たない歴史を捏造し、それを徹底的に拡散することでしか近代は持続できないのですが、これがかなり効果的でした。
この構造が生まれた背景には、明治以降に急速に整備された知的権威のあり方があります。日本の近代化(西洋化)は1868年以降の明治時代から始まりましたが、そこで「日本」という実態の皮膜を打ち立てる中核を担ったのが帝国大学(現・東京大学)出身者です。当時は大学へ行くこと自体が稀有であり、帝国大学の教授は神も同然の権威を持っていました。それ以前の江戸時代では儒教を通じた教育が標準であり、国家的な学校教育システムは存在せず、全国各地で私塾という個人が村民に教える場所が無数に存在しました。それは近代的な意味での教育ではなく、師匠と弟子が顔を向かい合って行う人と人の学習です。江戸時代の日本型儒教では、一人ひとりが考える機会を授ける優れた師匠が各地に無数存在しましたが、明治以降に導入された大学システムは特定の教授に権威を集中し、またエリート主義の観点から誰もが通えるものではなかったため、必然的に上下の権威を強めていきます。つまり、日本には伝統的に優れた教育システムがあったのですが、これを明治政府が強制的に撤廃したということです。その撤廃は新たな為政者による新たな権威創出が目的でした。
この過程で彼らが語る空洞の歴史としての「日本」が、主に帝国大学の出身者と教授によって喧伝されていき、後の第二次世界大戦に至る日本の国家像を形成し、やがて国民の共通認識として定着していきました。なにより近代学問の最大の問題点は、権威を担う人々が「知らないものがあってはならない」という妄信を勝手に抱え込んだことに尽きます。この無意味な盲信が生み出した結果は惨状であり、豊かな日本の文化精神を抹殺していく源泉となりました。
ここから「日本ではないものを日本」として語る言説が、権威を担保として疑われることなく歴史の中枢に据えられる時代を迎えます。これはアカデミズムの構造的な問題ですが、近代初期に生まれたこの暴力性は、江戸時代には存在しなかったものです。個人的には、どこかの権威を持つ誰かが主張した説よりも自分の足を使って移動し、現地で感じ取った体感を信じてきましたが、これ以上信用できるものはないと確信しています。現地に出向けば、一般的な意味での歴史が的を外している姿は誰でも容易に理解できるからです。その観点から言えば、日本は一つの来歴で語れる場所ではないし、統一国家でもない。その本質は「多様性」という言葉で片付けられるものではなく、「多元的世界」と呼ぶべきものです。この多元的世界としての豊かな日本を読み解くためには、既存の「日本」という枠組みではない角度から、真摯に見つめ直す必要があります。ある意味、これは近代日本が構築した歴史像の否定です。
そうした問題意識の中で、この記事で扱いたい一つのテーマがあります。それが日本列島への渡来ルートをめぐる歴史の通説です。一般的な日本史では、海を越えた移民の動きは朝鮮半島南部を出立し、対馬・壱岐島を経由して九州北部に到着したと明記されています。確かに九州北部は古くから沿岸部の要衝であり、一帯には複数の強い氏族が点在していました。代表的なのは福岡県宗像市を本拠とした宗像氏と、福岡県志賀島を拠点とした阿曇氏です。彼らは海を制した複数の初期勢力の末裔であり、地の利を活かして中国・朝鮮との交易利権を手中に収めて台頭した歴史を持っています。後代に奈良盆地南部で統一国家の祖型が生まれる以前、九州北部の海を制した氏族が謳歌する時代があったのですが、このことは歴史から忘れられています。大半の人々は海路を知ることの重要性を軽視しますが、日本の周囲は海であることを考えれば、この観点の理解なき日本の理解などあり得ないことは自明です。それは古代史に限定されず、現在に至るまでの日本史全体に通じている主要なテーマであり、この視点をしっかりと持たなければ、全ての時代における文化伝来などの姿を読み解くことはできないはずです。
ただ海上を移動する海人族の痕跡は波に消えてしまう以上、陸の考古学などの痕跡からは検出が困難な世界です。言い換えれば、日本の歴史として語られるほぼ全ては陸の視点から見た歴史でしかなく、それ以上に重要なファクターである海の視点がないという大問題を孕んでいるのです。その世界に触れるために、まずこの二つの氏族から見てみましょう。彼らを理解する手がかりは、宗像氏ならその祭神に、阿曇氏ならその名前の分布と信仰形態に潜んでいます。そして古代の海に関わる氏族に共通する興味深い傾向としては、三神を奉祀する形式が繰り返し現れることは見逃せません。これを単なる宗教的な装飾として見るのは間違いであり、三という数からは、海を渡る行為そのものの記憶が刻み込まれていることが読み解けるのです。
まず、宗像氏の本拠・宗像大社では神域にある三つの島それぞれに女神が祀られています。沖ノ島の沖津宮にタゴリヒメ、大島の中津宮にタギツヒメ、本島側の辺津宮にイチキシマヒメとなっており、沖ノ島は九州本島から沖合50km、大島は11km、辺津宮はかつて離島で今は地続きの場所です。この三社の配置は単なる宗教的な聖域の話ではなく、朝鮮半島から宗像側へ渡来する際の海路の記憶を段階的に伝えたものだと私は考えています。渡来者はそれぞれの島に順に寄り、段階的に禊を行い、最終的に宗像氏の本拠に上陸したということです。いわば「三つの禊」という作法が古代の海路に存在し、異なる土地の穢れを祓い切った者だけが、はじめて土地の神と同化して同胞と見做されたのです。言うまでもなく近代的な「人種」という奇妙な問題など当時は存在せず、渡来した者は穢れを祓い切った時、はじめてその土地の神と同化できました。この霊的な同胞の考え方の名残が、宗像大社の三社体制として今も残っており、最初の禊の地である沖ノ島は今も入島が禁じられた聖域となっています。
宗像の信仰はタゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメから三女神の信仰と呼ばれていますが、これら女神の信仰は全国各地に広範囲に及んでいます。有名な神社で言えば、厳島の厳島神社(広島県)や江ノ島の江島神社(神奈川県)などですが、これらは宗像氏の移動の軌跡を伝えています。宗像三女神が全国各地で祀られている事実は、彼らが単に九州北部の入り口となる玄界灘の番人であったのではなく、海路を通じて広域に展開した氏族であった姿を物語っているのです。
一方で阿曇氏の本拠・志賀海神社では、宗像氏のように島を舞台に三神を奉祀するのではなく、海自体を[底・中・表(Soko・Naka・Uha)]の三層に分けて神を奉祀しています。
これを神格化したのがソコツワタツミ、ナカツワタツミ、ウハツワタツミという三神で、神話でも阿曇氏の祖神として明記されています。「ワタツミ」という神が彼らの祖神ですが、広義に海の神のことで神話にも登場します。また「阿曇(アヅミ)」という名前そのものが海の神を表す古語「アマツミ(海津見)」の略とも考えられるため、彼らは氏族名と祭神が一体になっていることが見えてきます。現代の感覚では[底・中・表(Soko・Naka・Uha)]は上下軸の垂直構造として捉えられがちですが、それは近代的な解釈であって間違いです。宗像氏と同様に、これは朝鮮半島から志賀島へ至る海路の記憶を三段階で伝えたものと見るべきでしょう。
また阿曇氏の移動の痕跡は、宗像氏よりも広範囲に及んでいます。北九州から瀬戸内・近畿・東海・信濃・関東・北陸にまたがる地名の分布がその軌跡を今も伝えているのですが、特に山間部奥地の長野への到達が象徴的です。この古い痕跡を伝えるように、標高500-800mの山中盆地である長野県安曇野には、海の神を祀る穂高神社が建てられています。そもそも地名の安曇野も阿曇氏の名残であり、祭神は阿曇氏の祖神であるホタカミとその父にあたるワタツミですが、毎年9月に行われる例大祭では、海から遠く離れた山の奥地であるにも関わらず、高さ6mもの船形の山車が登場します。食文化の観点でも、安曇野は今も「えご草」という海藻を食べる習慣が残っており、この食文化は阿曇氏の本拠地がある福岡県の郷土料理と同じ素材を使ったものであることから、海人族が山奥にまで持ち込んだ食の記憶が千年以上を経た今も生きている証です。また穂高神社では20年に一度遷宮が行われるのですが、その時には土台に志賀島の砂が使われたという伝承が残っており、志賀島から安曇野へ、海と山を繋ぐ見えない糸が今も切れずに続いている姿が見えてきます。
一見すると、どうやってそのような大規模な移動をしたかと思うでしょうが、阿曇氏の信濃への移動ルートは明白です。彼らの拠点がある志賀島から北九州を通じて日本海を経て、新潟県糸魚川市付近に至り、そこを流れる姫川を遡れば安曇野へ進出できます。糸魚川は現在は寂れていますが、実は縄文時代の一時期に覇権を握った王国であり、日本唯一のヒスイの交易路と大発展を遂げていました。ヤマトには卑弥呼という女王がいましたが、この地にはヌナカワヒメという女神が部族を束ねていました。彼らが樹立したヒスイ交易網は、何と縄文時代の時点で北は北海道、南は九州南部の沖合の種子島にまで及んでおり、海を使った交易が縄文時代から非常に活発だったことが理解できます。阿曇氏がこの海上交易ネットワークの上に移動したと考えると、彼らが単に魚を獲る海人族ではなく、物流と情報を握った古代の広域ネットワークの主体であったことが見えてきます。
また彼ら海人族は海だけを舞台に活動していたわけではありません。想像を絶する航海技術を駆使し、海・河川を伝って内陸部へと勢力を拡大していきました。同時にあまり注目されませんが、縄文人は自ら海を越えて台湾、東南アジア、オセアニアを移動しています。実際、戦前の貴重な民俗学の調査では、和歌山の漁師がオーストラリアに漁場を求めて季節移動を行う風習があったことを伝えており、北陸の能登半島北端の漁師が同じく漁場を求めて関東の伊豆諸島に季節移動を行っていたことが記録されています。これは縄文時代から代々土地の人々に伝えられた潮流・海流・季節風の記憶ですが、残念なことに近代以降に急速に消失してしまい、幸運にも戦前から戦後初期に民俗学者が収集した記録以外、完全に失われてしまいました。
こうした歴史から考えると、日本史を実質的に動かし、形成してきたのは海人族だったことが見えてきます。この観点から日本史を見ると「海の視点」が重視されるため、必然的に一般的な歴史が語る一元的な考え方は棄却されます。海の視点に目を向けた時、九州北部の玄界灘一帯が情報・交易ネットワークを担ったことは事実ですが、それはあくまでも事実の一端に過ぎません。その理解を進めるためにも、まずは『魏志倭人伝』に目を向けていきます。
3世紀前半の日本を部分的に記した中国側の『魏志倭人伝』には、日本側の30の国が記されています。ただし魏志倭人伝に30国が記されているとは言っても、残念ながら記載された国の所在はほとんど分かりません。これは後代にヤマト側の勢力が強い時代を迎え、朝廷などが生まれる段階に入った後、他地域の勢力が弱体化したことと関わっており、いつしか忘却されてしまったからです。個人的にはヤマト側の朝廷に服属した国々の国名が、次々と土地の古い言葉からヤマト朝廷側の言葉に置き換えられていったからだと見ています。
暫定的にかつての国の所在を理解することは可能です。例えば中国が漢代だった頃に日本側の王国と見做されていたのは伊都国という王国ですが、これは現・福岡県沿岸部の糸島市周辺であり、国際交易を含めた要衝でした。糸島から東を向けば阿曇氏の志賀島があり、そこから宗像氏の拠点があるため、伊都国の王は海人族を使って台頭したことが容易に想定できます。そして伊都国の西側沿岸部には強国の末盧国があり、末盧国は松浦地方と呼ばれる現在の長崎県唐津市周辺に比定されています。末盧国として比定される現・唐津市周辺からは、紀元前900年頃の水田稲作の跡が発見されており、魏志倭人伝が記録するはるか以前から、この地が海を舞台とした文化流入の受け皿だったことを示しています。また13世紀のモンゴル帝国による日本侵攻の際でも、主戦場となったのは唐津近郊です。
実際、九州北部は古代から国際交流が色濃い場所であり、今各地を巡っても地名や人の顔、性格を含めて相当複雑な混交が起きていたことが体感できますが、ここで一度立ち止まる必要があります。まず、魏志倭人伝は魏が掌握した朝鮮半島帯方郡を起点とした位置関係の記録であって、当時の日本列島全体をまとめたものではありません。この視点が日本史においてほとんど考慮されておらず、あたかも日本の最古の歴史書と見なされていまっています。しかし、それは絶対にあり得ないのです。
大前提ですが、三国時代の中国は魏・呉・蜀に分裂しており、当時の位置関係を大きく整理すれば、中国の歴史的な中心地である中原(ちゅうげん)を含む華北の黄河流域の北半分を支配していた魏。中国西南部に位置する四川盆地を拠点とする蜀。華南の長江中流から下流にかけての地域を支配した呉となります。つまり、三つの国々は全く異なる勢力圏を軸にしているため、必然的に「魏から見た日本」と「呉から見た日本」では、全く異なる地域を指していた可能性があります。特に魏は朝鮮半島の帯方郡を掌握して以降、そこから日本側の勢力を観察していたため、九州北部に日本の国々が集中して記されることは自然です。一方で呉は江蘇省南部・浙江省・福建省・広東省などを支配した国であり、現在の南京を首都としていました。蘇州は当時「呉郡」と呼ばれた呉の中心地であり、そもそも国名「呉」の由来となった春秋時代の故地です。
実は、魏志倭人伝に記されているWajinの習俗には明らかに南方的な要素が含まれています。それは入れ墨や朱を身体に塗る習慣、貫頭衣の着用、水中での漁労を得意とする風俗描写などですが、これは明らかに九州南部・奄美・琉球などの呉と古くから交流のある地域の文化的特徴であり、九州北部とは関係ありません。事実、これら地域の人々はかなり後代まで自分たちが呉のルーツを持つと語っており、一時は呉と同一の文化圏にあったと私は考えています。つまり魏志倭人伝の記録は魏だけの視点に限って編纂されたものではなく、九州南部・奄美・琉球などの呉と古くから交流のあった地域の記録が明らかに混入しているのです。言い換えれば、魏志倭人伝とは「魏の視点から見た日本の一部」の記録であり、当時の日本列島全体の姿ではありません。しかし、なぜか日本史ではこのような視点を持っておらず、あたかも中国全体が日本全体を見たかのような角度で歴史を展開しているのです。魏と呉の勢力圏の違いを考えれば、当然彼らそれぞれに見える日本は違っていたはずです。
この理解をより現実的にするために、時代を少し下らせ、記録の信憑性が高い事例に目を向けてみましょう。
この歴史を考える際、私が最も注目しているのが8世紀中期に律宗を日本に伝えるべく6度目の渡航でついに成功した唐僧・鑑真(688-763)のルートです。なにしろ鑑真の第6次渡航は、中国江南の蘇州を出立し、東シナ海を横断して現在の鹿児島県坊津町秋目に直接到達しているからです。つまり、朝鮮半島南部を経由した九州北部ルートではない。坊津はかつて日本三大港の一つに数えられた国際的な港であり、古代から東シナ海交易の要衝として機能していました。鑑真はここに到着した後、陸路・海路で北上して九州北部の太宰府に入り、しばらく滞在してから奈良へ向かっています。太宰府は長らく公的な入国管理機能を持ち、渡来者はまずここを経由することが慣例でした。しかしその太宰府に至る前の「上陸地点」が、九州北部の玄界灘ではなく九州南西部であったことは、非常に重要な事実です。今ではこの意義が全く無視されています。
さらに重要なのは、この時代に活発となった日本から唐へ仏教を学びに出る遣唐使が、基本的に東シナ海横断ルートを使用していた事実です。実は遣唐使の航路は大きく変遷しており、630年から665年頃までの初期は朝鮮半島沿岸を北上する北路が使われていました。これが従来考えられている朝鮮半島南部ー九州北部の海路ですが、ある時代以降にこの航路が閉ざされてしまいます。その原因が7世紀の朝鮮半島で起きた動乱です。
当時、唐・新羅連合軍が朝鮮半島統一に向けて躍進する過程で、660年に古くから日本と密接な関係にあった朝鮮半島南部の百済が滅亡します。ここで百済の王族や遺臣らは日本に対して救援を要請し、日本側は百済復興支援の名目で数万規模の軍勢を朝鮮半島に派遣します。しかし、663年に白村江という現在の韓国忠清南道で海戦が勃発した時、日本・百済復興軍は大敗を喫して再起不能となります。この敗戦前後の動乱では、故郷を失った百済の難民が大量に日本に亡命していますが、これは当然ながら九州北部に到達するルートが主要でした。この大事件を契機に、日本側では文明国の唐を模した律令国家建設を加速する動きに入りますが、この記事に即して重要なことは、朝鮮半島で勢力を拡大した新羅経由の海路を公式に使いにくくなったことです。
新羅が朝鮮半島の覇権を握ったことで、朝鮮半島経由の海路が事実上使いにくくなったため、朝廷は702年以降は九州南端から種子島・屋久島・奄美などを経由する海路を主に使用し、奈良時代後半以降は、九州西部の五島列島から一気に東シナ海を横断する海路へ移行しています。つまり7世紀の白村江の敗戦という大事件が、渡航ルートを朝鮮半島経由から東シナ海直航へと転換させたのですが、注目すべきはこの代替ルートの出発地が坊津周辺、すなわち鑑真が到着した場所と重なることです。これは7世紀の政治事情によって急に開発されたルートではなく、それ以前から存在していた海路の再活性化と考えるべきです。
この文脈で最重要なことは、鑑真が出立した蘇州近郊が三国時代(222-280年)における呉の中心地だったことです。8世紀に遣唐使が往来し、鑑真が渡海した拠点が古代から呉の勢力圏と重なっていたことは偶然ではないはずです。東シナ海を直接越えた日中間の往来が、三国時代以前の漢代頃からすでに存在していたと考えることは、むしろ自然なことです。つまり渡来ルートの問題に立ち返ると、朝鮮半島南部から対馬・壱岐を経由して九州北部へというルートは、古代の唯一の海路ではありませんでした。それは魏と関係を持った特定の勢力圏における主要ルートに限定された話であり、呉の影響にあった別の勢力は東シナ海を直接渡っていた可能性が高いのです。すると到達地点は大きく変わってきますから、九州北部に集約されて考えられてきた移民との混交の歴史は、根本から見直しが要求されます。
事実、日本海沿岸部の各地には他所からの渡来伝承が数多く残っており、古代の海上交通がいかに多元的であったかを物語っています。海人族の視点から日本列島を見ると、この多元性はさらに鮮明になります。阿曇氏が九州北部の志賀島を拠点にしながら、糸魚川ルートを経て信濃の内陸深くに定着したように、古代の移動は海と川と山を縫うように展開していました。宗像氏が玄界灘の三島を結ぶ祭祀ネットワークを構築したように、彼らは単に物資を運んだのではなく、宗教的な空間そのものを海路に沿って作り出していたのです。
九州北部の玄界灘が「太古から東アジア唯一の玄関口だった」という日本史の通説は、魏の視点から構築された歴史の枠組みを近代になって一元化した杜撰な歴史観でしかなく、東京の大学の机上で組み立てられた、フィールドワークの裏づけを欠く土地勘のない言説でしかありません。私はその土地の風を浴びたこともなく、土を踏んだこともない人の発言を信用しませんが、それは体感こそが歴史読解の最有力ソースだと確信しているからです。しかし、これが近代日本の全方位に向けて広がってしまっています。この全方位的な過ちによって形成された日本は日本ではないのです。これは日本に限ったことではないのですが、誰もが「日本」として語る時に実際に語っているその国が、本当に本質を捉えたものなのかについては反省が求められるように思います。
玄界灘は確かに主要なルートの一つでしたが、同時に東シナ海を直接渡るルートがあり、日本海沿岸を伝うルートがあり、さらには九州南部から南島経由のルートもありました。古代の日本列島はそれぞれ異なるルートで到達した人々が層を成した、まさにモザイク状の多元的世界だったのです。また北赤道海流がフィリピンのルソン島東海域の海上で向きを北に変えるあたりで誕生する黒潮は、縄文時代から繋がっていた最も古い航路の一つです。
こうした多元的世界を見えなくしてしまったのが、近代における「一つの日本」という物語の要請でした。大きな物語が世界的に力を持ち得なくなった現在、本当に私たちがしなければならないことは、その古びた物語を誇張してゾンビとして延命させることでもなければ、異なる物語で破壊することでもありません。私たちがすべきことは、足を動かして風を浴び、そこから多元的世界という本質を開くことで大きな物語を緩衝することなのです。