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水墨画を支えた源流The Sources Behind Japanese Ink Painting

日本の水墨画が著しい芸術的発展を遂げた時、その継承されてきた歴史に流れる源泉にあったものは何なのでしょうか。

それは一つではなく、いくつもの水脈が注ぎ込むことによって生まれたものですが、今回はその源泉自体を形成した大きな流れを見ていきます。ここで語らなければならない人物は、日本人絵師ではなく中国人絵師の牧谿です。

牧谿は、13世紀後半の南宋から元初にかけて生きた臨済宗の禅僧です。山間部の四川省の出身で、のちに紹興府に移り、禅宗の高僧・無準師範(1177〜1249)の門下に入ったとされています。この無準師範は日本とも縁が深く、後に日本国内で臨済宗の流布に尽力した円爾(聖一国師)をはじめとする優秀な日本人留学僧を多数輩出した師匠です。円爾は無準師範より直伝された臨済宗の教えを根本としながらも、禅だけに固執せずに日本密教をミックスしており、独自の観点から日本に禅宗を広めた人物です。しかし彼の功績は宗教に限定されません。実は、彼が宋に渡って修行を積み、日本に帰国してから九州の博多や京都で寺院を開山し、禅を普及する第一人者の一人として活動する中、晩年に故郷に帰ったことから今日に連なるある文化が生まれています。それが静岡茶です。

円爾の故郷はかつて駿河国と呼ばれた現・静岡県静岡市です。静岡県は今も日本有数の茶畑を有しており、生産量も全国トップクラスに多い地域ですが、静岡茶のはじまりは円爾だと伝えられています。これは禅の普及に尽力し続けた円爾が、晩年に故郷の静岡に戻った際、宋から持ち帰った茶を植えさせ、茶栽培を促進したことが発端です。実際に円爾自身も茶を日々飲んでおり、茶には不老長寿の効能があると信じられた当時の考え方を踏襲しています。つまり、円爾は禅を通じて故郷の文化促進にも大きな影響を与えたのです。これは自分のことばかりを考える利己的な名誉心が強い人々とは異なり、円爾が故郷の未来を願い、真剣にそのために生きたことを伝えています。それは禅を通じた文化ですが、この観点が重要に思えてなりません。禅は入り口であり、終わりではないということです。私は禅は人生を包み込むものであり、それ自体が答えではないと考えており、日常生活を生きる一つひとつの行為自体に禅の精神は宿ると考えてきました。それは別に寺院で特別に禅の修行をせずとも、誰でも実践できるものです。こうした観点は、歴史的に優れた禅僧が共通して持っていたものですが、どうも私にはその背後には中国の無準師範の影響があるように思えてならないのです。

ここで注目したいのは牧谿の同門には、後に日本に渡来する無学祖元(1226-1286)や兀庵普寧(1197-1276)が含まれていたことです。両者ともに臨済宗の僧侶であり、共に日本の臨済宗に大きな影響を与えています。兀庵普寧も無準師範に師事しており、この時に留学中の円爾と交流を持ったと思われ、実際に1260年に兀庵普寧を南宋から日本に招いたのは円爾です。兀庵普寧は時の為政者・鎌倉幕府の最高指導者であった北条時頼の要請で鎌倉にある建長寺の第二代トップに任命されています。北条時頼は臨済宗の普及に熱心な指導者だったのですが、鎌倉と静岡は隣国ですから、ここで臨済宗の影響力が強まっていきます。重要なことは、無準師範という禅僧がこの宗教的、文化的背景の精神的支柱として存在していたことです。おそらく、彼は一つの教えに固執せず、文化に理解ある優れた心の広い指導者だったのでしょう。幸い日本にはこの臨済宗系統が流れ込んだため、無準師範の系譜と言っても過言ではないでしょう。この系譜が、後に水墨画の歴史にまで直接関わることになります。

牧谿も同門の僧侶との交流の中で、無準師範の広い心を学んでいったと考えられます。そして重要なことは、牧谿自身が日本を来訪することはありませんでしたが、彼と共に学んだ中国側の僧侶が後に日本へ招かれることなどが契機となり、牧谿自身の名前が日本国内で知られるようになったことです。牧谿の水墨画作品が日本国内で大人気となったのは、この無準師範を軸とする中国人僧侶と日本人僧侶の交流が、日本に直接流れる水脈が築かれたからです。つまり牧谿の絵が日本に渡ることのできた背後にあったのは、単なる商取引ではなく、臨済宗という宗教ネットワークそのものの存在があったことは見逃せません。臨済宗の日本国内での普及過程で、牧谿の水墨画が国内で人気を博しており、14世紀中頃には無数の贋作が作られていたと言われています。そして何より、牧谿の水墨画は中国側では評価されていなかったのです。

牧谿の水墨画を理解するうえで、その背後にある禅の思想を押さえることは不可欠です。既に書いた通り、水墨画は単なる芸術的才能の賜物ではなく、禅という日常の生き方そのものの反映です。禅がなければ水墨画はなく、だからと言って水墨画は禅を普及させるための道具でもない。この感覚は宗教意識が強い場所にとっては難解でしょうが、そこに禅の本質があります。そもそも禅は教えるものでもなければ、教わるものでもないからです。良い師匠につけば、その日常の所作一つに禅の真価が現れるため、別に説法などを行う必要はありません。実際、禅の日本史にはこうした逸話が豊富に残っています。

事実、臨済宗が掲げる根本精神のひとつにfuritsu monjiがあります。これは悟りは文字や言葉によって伝えることはできないものであり、師と弟子の直接交流の中にのみ伝わるという考え方です。これは書物を読み、経典を解釈することによって仏法を学ぼうとする旧仏教の立場とは根本的に異なっており、仏教の教えを一部の人々が占有しようとすることへの反動です。難しい話を抜きにすれば、師と弟子の顔を合わせる日常の中に、既に仏法の真理はあるではないかという考えです。これは別に禅宗の師と弟子の関係に限らず、すべてにおいて開かれているということです。おそらくこの真理を誰よりも無準師範が理解し、実践していたからこそ、その影響を受けた弟子たちが登場し、中国どころか日本の歴史にまで大きな影響を与えたのだろうと思います。古くから禅においては、合理的な言語の体系や形式化された規則こそが悟りへの到達を妨げると考えられていますが、これは現代では中々実現し難いことです。別に禅に限らず、たった一人を真剣に見るだけの話ですが、この単純なことほど現代では困難なことはないからです。

furitsu monjiの思想は、当然ながら牧谿の水墨画に反映されています。実際に彼の絵には、当時の中国の正統な水墨画が備えるべきと規定していた三遠法構図も、精緻な皴法も、厳格な骨法用筆も存在しません。正統な技法では山は皴法によって質感を表現することが正しいかったのですが、彼は墨の滲みと濃淡だけで大気ごと把握しています。これを単純に「形式への反抗」と呼ぶには物足りず、形式自体を経由しない直接的な把握を目指した結果だと考えることができます。そもそも「形式への反抗」という考え方は、西洋的な美術史の文脈では通じても、牧谿の系譜には通じない評価です。仮に牧谿が「形式」について考え、意図的に逸脱したのであれば、日本人絵師たちの心を動かすことはなく、また牧谿の作品を伝えた時の臨済宗系僧侶の心を掴むこともなかったはずです。形式を軸に水墨画を考えることの限界は、まさにこの点に凝集されます。無準師範の禅に形式などないからです。

もちろん、牧谿の作品は一般的な美術史が語る言語では表現できないものですから、必然的に「描きすぎないことによって見えないもの」を示すというような評価に向かうことは避けられません。これは評価を言語化しなければならない宿命を背負った美術史では、仕方がないことであり、ゆえにこうした評価が「禅の精神を絵画に翻訳した作品」という牧谿への評価に繋がることも避けられません。確かに言語化する以上はそう言わなければならないのでしょうが、その評価を文字通りに鵜呑みにした瞬間、果たして牧谿の水墨画はあなたの心を掴むと言えるでしょうか。私が問いたいのはこの点に尽きます。牧谿の水墨画が美術史の観点から言語化可能なものだと誰もが疑わなくなった時、そこで見える作品は牧谿ではない。その視線にはかつて牧谿の友人や、海を渡った日本の禅僧や絵師を感激させた心はない。本当に考えなければならないことは、ここにあるはずです。そのために歴史や文化を理解するのであって、それが目的ではないはずです。仮にそのようなつまらないものであったならば、牧谿から始まる日本の水墨画の劇的な発展など歴史的に起きることはなかったはずです。この文化的系譜に流れる源泉は、技法でも仏法でも名誉でも正統性でもない。そこにあるのは、今向き合っているたった一人の人物のことを真摯に想うことができる心だけです。それが牧谿の水墨画では、自然との向き合いで起きているに過ぎず、彼らがやっていることはたった一つの人間としての姿です。南宋の禅が優れていたのは、ここを誰よりも理解していたからです。私は南宋で大発展を遂げた禅が、日本に大きな影響を与えたことは、本当に幸運だったと思っています。なぜならば、精神といういうか想いは中国ー日本で共通した源泉を持っていたからです。

確かに禅思想には、自然そのものの中に仏性が宿るという[山河大地、皆成仏道]の考え方があります。そしてこれは観音や如来といった人格的な仏を礼拝する偶像崇拝的な仏教観とは異なり、霧に包まれた山も、松の樹上に抱かれた猿も、竹林に立つ鶴も、すべてが等しく仏性の現れとして画面に並ぶことのできる世界観と言えることは事実です。牧谿が[観音猿鶴図]で観音・猿・鶴を三幅対として並列させた心も、この思想の視覚的表現とは言えますし、彼が身近な果実まで描いたことも、日常のあらゆる事物の中に仏性を見るという禅的な感性の表れと見ることができます。ですが、それは意図的に対象物を日常の事物に求めるような恣意的かつ利己的な動機ではなかったことには注意が要されます。現代人の場合、彼らの心を理解することは至極困難であり、事実上不可能と言えるからです。ゆえに現代人は牧谿を考えようとすると、どうしてもわざと日常の事物に目を向けようとしたり、描かない空白を意図的に生み出そうとしますが、その意識に基づく恣意性は牧谿の文脈では禅でも水墨画でもないのです。この倒錯は中国でも日本でも徐々に起きてくる問題であり、やがて禅自体が衰退する主因ともなります。禅の衰退は、禅を意識的に捉えようとする近代の始まりと共に、必然的に息の根を止められたと言えるでしょう。誰もが主体の確立や自立でしか世界を語ることのできない「心の困窮」の中、一体どのようにして彼らの心を理解できると言うのでしょうか。

さて、牧谿は生前には宰相・賈似道という大物政治家との関係もあり、当時の江南山水画の主流に位置づけられる画家として一定の評価は受けていました。しかし、南宋が元に滅ぼされたことが中国側で育まれた優れた禅の精神や水墨画が衰亡する直接的な原因となります。実際、南宋は1279年に滅びましたが、円爾(1202-1280)、無学祖元(1226-1286)、兀庵普寧(1197-1276)、そして生没年不詳ながら南宋から元の初期を生きた牧谿を改めて見てみると、彼らが総じて南宋末期に登場した人々であったことがわかります。このことは禅宗が中国が最もその真髄を発揮した時代が、南宋末期の社会的には動乱期に位置していたことを伝えており、日本側ではこの文脈は主に臨済宗へと継承されましたが、南宋滅亡の影響が日本に幸いしたことも事実です。それは南宋から元に為政者が刷新した時、新たな為政者側が南宋の文化や精神を否定し始めたことと無縁ではありません。

新たな為政者による古い為政者の否定は、何もこの時代に限らず歴史一般に起きることです。しかし、南宋が衰亡を避けがたい後期から末期頃に向かう過程で、中国側の優れた僧侶や文化が逃避先として日本を選んだことは極めて重要でした。実際、1260年に兀庵普寧が日本へ渡来し、無学祖元は南宋が滅びた1279年に日本に渡来しています。彼らは故郷で南宋の禅を実践することが困難となったのですが、幸いにも少し前に日本側の臨済宗宗祖・栄西(1141-1215)によって南宋の禅が広がっていました。この栄西の尽力により、禅に魅了されたのが当時の日本側の為政者であった鎌倉幕府の指導部だったことは本当に幸運でした。栄西の頃は鎌倉幕府の第二代将軍・源頼家の庇護のもとで京都に建仁寺が建立される程度でしたが、この流れは鎌倉幕府の政治的実権が北条氏に移行する過程で強まっていきます。特にこの文脈の最重要人物だったのが北条時頼です。

1246-1256まで鎌倉幕府の執政を司った北条時頼は、リーダーとしては稀有なほど人格者であり、信仰心が深く、何より質素で堅実に生きることを貫いた人物でした。彼の歴史的な評価は時の将軍よりも高く、幕府の執政を最高潮まで強化しながら、同時に庶民のことを誰よりも想い、誰もが生きていける世の中を作ることに懸命に手腕をふるいました。このような人物が執政をふるう時代の日本は幸運でしたが、この幸運が思わぬ形で影響したのが南宋の禅僧たちでした。南宋が崩壊を始める中、徐々に行き場を失い始めていた南宋の優れた禅僧たちは、新天地を求めて日本へ渡来し始めます。前述の無学祖元などもこの時代に日本に来訪しており、1263年に没した北条時頼と直接交流はありませんでしたが、南宋から日本へ移住した禅僧は北条時頼の人格と政治を高く評価しています。これは彼らが目にしていた南宋の指導者の腐敗と異なり、海を渡った先に理想的な政治指導者がいたからでしょう。そして北条時頼は自ら鎌倉に南宋出身の禅僧を招いていました。それが蘭渓道隆(1213-1278)です。

蘭渓道隆は宗に留学していた日本人僧侶との親交が縁となり、1246年に弟子を引き連れて日本に渡来します。その後、主に九州から京都で南宋の本格的な臨済宗を普及することに尽力していたのですが、やがて北条時頼が帰依する依頼を受けて鎌倉へ移住します。1253年に北条時頼は鎌倉に建長寺を創建し、ここを臨済宗一派の大本山に位置付けると、初代指導者として蘭渓道隆が任命されます。このように南宋が末期に入る頃、徐々に南宋側の禅僧の耳には日本という新天地が頭に入っており、多くの僧侶が日本移住を考えていました。しかし、1263年に優れた指導者の北条時頼が死去すると徐々に時代状況が変様を始めます。その原因は海を越えた大陸で起きていたモンゴル帝国の台頭です。

モンゴル帝国の進軍は東アジアに脅威をもたらしますが、日本侵略を目的とした1274年の襲来事件の際、蘭渓道隆は日本側の為政者に「元のスパイなのではないか」という嫌疑をかけられてしまい、その地位を失い流罪に処せられます。最初のモンゴル帝国側からの日本への侵略が起きた1274年は、まだ南宋は滅亡はしていませんでしたが、事実上当時の日本側の為政者は滅亡したように見ており、既に大陸側は元の時代になっていたと認識しています。そのため、蘭渓道隆のような南宋時代の禅僧たちが、元のスパイとして日本に入り込み、モンゴル帝国が日本侵略を実現するために画策をしていたという嫌疑になったのです。こうしたことは北条時頼のような指導者のもとでは起き得ないことでしたが、1274年に元寇の侵略と対峙した日本側にとって、この問題は深刻でした。結局、蘭渓道隆は流罪で流されますが、最終的には建長寺に戻って1278年にはここで没しています。その後継者として来日したのが無学祖元です。

南宋滅亡期に日本へ渡来した無学祖元は、短期間の来日と思っていたそうですが、ここで次の幸運が起こります。それが鎌倉幕府の執権に北条時頼の次男であった北条時宗が就任したことです。当時は南宋滅亡とモンゴル帝国による侵略の動乱が日本にも甚大な影響を与えており、鎌倉幕府の為政者も激しい混乱状態に陥っていました。その日本最大の動乱期であった1268-1284年にかけて、幕府執政を担ったのが北条時宗です。父親ほど優れた人格者ではなかったものの、父親譲りの禅の理解はあったようで、彼自身が無学祖元を呼び寄せた張本人であり、自ら強く説得して無学祖元を日本へ留まらせています。こうして無学祖元は建長寺の第二代指導者として就任し、日本国内に禅を根付かせるために生涯を通じて尽力しました。つまり将軍ではなかったものの、鎌倉幕府の執政を握る指導者となっていた北条家が南宋型の禅を受け入れる時代になったことが幸運だったのです。

この南宋の禅僧と鎌倉幕府の北条氏の土壌は、南宋滅亡後に力強さを発揮します。この幸運によって大きな注目を集めることになったのが、牧谿です。実は牧谿の水墨画は中国では死後次第に忘却されており、元代に入ると「粗放にして古法なし」という酷評がなされて否定されています。その背景には、後代に文人画が流行した影響により、その系譜にない牧谿が低く評価されてしまったことが大きく関係しています。また文人画のように意識的に技法を作り、モチーフを描くようなことは牧谿にはありませんから、今と同様に評価し難かったというのが本音でしょう。言語化できないものを無理に言語化し、それによって自らの知識を曝け出すのが知識人ですから、牧谿が否定された背景には、彼らが言語化できなかっただけの姿も見えてきます。要するに牧谿の水墨画の言語は心であり、文字や書物や形式や技法ではないのです。この精神は元代に入ると中国側で失われていったのですが、不思議なことに日本側で隆盛する時代を迎えます。

ただ中国における水墨画の批評基準が確立されていたのは宋代です。宋代に確立された規範では、筆による線描が絵の骨格であり、墨はその補佐に過ぎないというhitsu shu boku ju (筆主墨従)の原則が徹底されており、三遠法に代表される空間構成の約束事、文房四宝を整えたうえで正統の方法で描くことへの要求などが評価の基準とされていました。この評価軸から見た場合、牧谿の絵は全て満たしていませんから、そもそも批評の土俵にさえ上がれなかったのです。当然、牧谿本人はそのようなことは絵の本質とは無縁であり、知識人の戯れに過ぎないことを知っていますから距離を取っていたのですが、これが後の歴史に大きな影響を与えることになるとは本人も思わなかったでしょう。

実際、中国側での牧谿の水墨画に対する評価の低さが、皮肉にも日本への流出を容易にした直接的な原因です。南宋末から元初、さらに元末から明初にかけての中国側の王朝交代による混乱に伴う作品の流出や、日中の禅宗寺院の交流が強固に形成されていた影響により、牧谿の水墨画は急速に日本に知られる転機を迎えます。前述の通り、牧谿の同門には無学祖元や兀庵普寧などの日本に来日して禅の普及に尽力した禅僧がおり、また円爾の他多くの日本人留学僧が南宋文化を肌で経験していました。この時、中国で至宝とされる評価軸に乗った名品は国外に流出しにくい状況でしたが、低く評価された牧谿の水墨画は、この海を越えた禅宗ネットワークを通じて自然に日本へと渡る機会を得たのです。こうして14世紀初めの鎌倉時代末には日本に伝わり、14世紀中頃には贋作が多く作られるほど人気を博し、当時の文献で単に[和尚]と言えば牧谿のことを指すほど親しまれました。

これは単に牧谿の絵画が日本に根を下ろしたのではなく、牧谿の心が禅宗ネットワークという文化精神を通じて繋がった瞬間でした。また当時の幕府が所在した鎌倉という土地自体も、非常に特殊な環境であったことも影響しています。On Dogenシリーズで見てきたように、当時の日本は公家から武家へと政権が移行する過渡期にあり、新興の武家階級は自らの権威を裏づける独自の文化を必要としていました。つまり、従来の貴族文化ではなく、武家特有の文化という確立が希求されており、その本場が鎌倉だったのです。この新時代の武家に相応しい文化という観点で注目されたのが中国から渡来した禅宗でした。重要なことは、当時の鎌倉の禅寺がほとんど「南宋そのもの」のような環境を形成していたことです。実際、建長寺などでは中国人禅僧を中心に中国語で説法が行われ、中国渡来の器物や書画で空間が飾られ、最新の中国文化が日常の細部にまで浸透していました。当時、日本から留学できる僧侶は限られていましたが、日本人禅僧は中国に帰らなかった優れた師とともに修行を続けることができ、純粋な禅が発展するという好条件にも恵まれていました。

しかし、この禅の修行には思想的な変容が必ず伴います。禅がfuritsu monjiを掲げ、経典を必要とせず、人間性を直視する実践を根本とするということは、修行者の悟りの境地が必然的にその人の風土的感覚に深く染まることを意味するからです。当然、日本人禅僧が至る禅の境地には、無意識のうちに日本的な感覚が入り込みますし、その日本的な感覚とは鎌倉か京都か博多かによって大きく異なります。つまり体系化された禅など本当は存在せず、禅の悟りは極めて土着的な本質を表現するということです。この時代に南宋から禅を受け入れた器が日本の風土であった以上、やがてその禅は日本化し、そこから生まれる水墨画も日本化するという必然がありました。ただし、これは日本の固有性を強調するためではなく、源泉に南宋の心ある僧侶の精神があったことを絶対に忘れてはなりません。日本の禅はこの幸運な歴史があったからこそ、この100年程度で世界を感激することのできる力を獲得したのです。それを日本人の功績と誇ること自体に私は意味を感じておらず、むしろこの文化交差の源泉に禅の精神があることを今一度自覚する必要があるように思います。そもそも現在の日本の禅僧が、この文脈を自覚しているか自体が疑わしい以上、それが真に禅と言えるのかは真剣に考えねばならないことのようにも感じます。

また鎌倉における水墨画の受け入れが、禅宗画に偏ったことは決定的な意味を持っています。中国では院体画家の作品や文人画が正統とされ、こうした禅宗画は軽んじられていました。ところが日本では、禅寺の禅僧たちが自らの心でこれらを選び取ったために、中国で低く評価された禅宗画こそが正統な鑑賞芸術として受け入れられていったのです。この中国側と日本側のズレが、牧谿という最大の象徴を通じて展開されていることは大変興味深い。

ただ牧谿が日本側で絶大な影響を及ぼす時代を迎えたのは、彼の心が浸透する最初の動きとなった鎌倉時代ではなく、続く室町時代でした。幕府が所在した鎌倉で育まれた南宋の禅宗の国際交流は、意外にも鎌倉幕府が打倒され、京都側に幕府が置かれた室町幕府の時代になって爆発的な影響を及ぼすことになるからです。特に三代将軍となった足利義満の庇護下で生まれた北山文化が重要な位置を占めています。1369-1395年まで将軍を務めた足利義満は、とにかく牧谿を愛した指導者でした。実際に能阿弥が撰した『御物御画目録』によれば、足利義満の収集した中国絵画のうち、最も多くの作品が牧谿のものであったとされています。もちろん足利義満の蒐集には単なる審美的趣味を超えた政治的な意図が働いていたことは考えられるでしょう。彼自身、禅宗を国家的に庇護した南宋の文化体制を理想化しており、その方法を自らの統治を重ね合わせることで、文化的な正統性を主張しようとしていた事実があるからです。特に鎌倉幕府のように京都から遠く離れた地とは異なり、室町幕府は平安時代から貴族の為政者が跋扈する京都市内に所在していました。

これは日本初の武家政権となった鎌倉幕府の時代を通じて育まれてきた武家特有の文化が、いよいよ貴族政権の本場である京都に乗り込み、本格的に影響を与える時代に遷ったことを意味しています。武家特有の文化を禅宗に見た鎌倉幕府を継承・発展させる形で、室町幕府は禅宗を政治的影響力にまで高めることを画策したのです。この足利氏による政治的目論見により、牧谿の作品は中国国内での評価とは正反対に次々と秘蔵されていきます。中国で酷評されて安値で国外流出した絵が、日本において最高の絵画規範として君臨するという価値の完全な転倒がここに起きていたのです。こうした文脈から生まれたのが東山文化と呼ばれる大文化時代でした。今後機会があれば、この東山文化を通じた水墨画の歴史について書いていくことにします。