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京都に散らばった遺体の記憶The Memory of Corpses Along Kyoto’s Roads

都市の道端に無数の死体が散乱する光景。今では平穏な雰囲気を装う京都市が抱える古い記憶は、私たちの想像を絶する悲惨な世界でした。次々と人が倒れ、死んでいく日常に対する庶民の絶望に対して、日本に伝来してから既に数世紀が経っていた既存の仏教では、対応することができませんでした。

仏教に限らず、全ての宗教はある限界を抱えています。その限界を信者拡大の権力欲に溺れて誤魔化すか、あるいは真っ向から立ち向かうかは人や教団によります。平安時代が終わり、鎌倉時代に入って以降の日本仏教史が直面したのはまさにこの課題でした。何しろ、既存の宗教権威を利用した政治・経済・軍事の全てを掌握し、意のままに為政者を操ろうとする有力僧侶の意図を凌駕する勢いで死んでいく人々の現実は、その限界を世に晒す出来事でしかなかったからです。

こうした中で消滅するのが共同幻想です。共同幻想は強固であればあるほど、その消滅は呆気なく、同時に破壊的な影響を人々に与えます。それだけ人々が共同幻想を「世界」だと信じているからです。そしてこのシリーズで時代概観を踏まえて辿ってきたように、実際に共同幻想の外部を模索し始める動きが起きたのは、数世紀に渡って平安京の共同幻想を形成する原動力の一つであった比叡山延暦寺の天台宗から始まりました。

共同幻想の醸成元であった比叡山を離れて都市へ向かい、言葉を絶する世界を目にした一部の僧侶は、山に籠って修行を為すことがあまりに世の中を無視した利己的な事実であることに直面して自分自身に幻滅します。そこで真っ向から人々の苦しみに寄り添うために、自分たちにできることはないのかを考え始めます。その筆頭格は歴史的には法然となりますが、時代を考えればその他にもこうした僧侶は登場したことでしょう。

ただ、なぜこの文脈で最重要な系譜が後に浄土教として語られる宗派へ向かったのかについては、なかなか理解することが難しい。実際には法然以上に浄土教の文脈で拡大の力に寄与したのは浄土真宗側の親鸞ですが、問題はこの師匠・法然と弟子・親鸞として安易に考えることのできないほど、この時代の信仰を巡る問題は混迷を極めていたということです。混迷していたからこそ、親鸞ただ一人が本質を見抜くことができたと言えます。

私たちはどうしても歴史としてこれらの動きを見ることを避けられないため、法然と親鸞の関係から浄土を巡る考察を連続的に行なってしまいがちですが、私は問題はそこではないと考えています。第一、単純に浄土を巡る問題が重大であったならば、ここまで浄土教が日本で圧倒的な地位を築くことはなかったはずです。では一体、この時代に見抜くべきことは何なのか。実はそれは複雑な問題ではなく、たった一つのシンプルな問いに答えることにあります。それが死です。

法然から親鸞への新時代の仏教系譜の動きは、まさにこの死の問題というシンプルな問いを徹底的に考え抜くために生まれています。言い換えれば、死の問題を巡る徹底さにおいて、法然と親鸞の宗教的世界観は根本から異なっており、この観点では彼らを同一視することはできません。確かに親鸞は同じく比叡山に幻滅し、平安京で独自の布教活動を開始した法然に影響されています。しかし影響されたからと言って、親鸞は法然の正統な継承者かと言えば、その視方は危ういものとなります。むしろ親鸞は全く別の宗教を生み出したと考えた方が良い。彼は一般的に言われる浄土教への否定において、誰よりも浄土への凝視を徹底させているからです。

親鸞から見れば、師匠・法然の浄土への考え方も杜撰で甘過ぎる。事実、親鸞は死、念珠、念仏、浄土などを含めて実体化する仏教の考え方を徹底的に否定しています。これは宗教としては究極的であり、最終的な考え方だと言えます。そこまで全てを否定して突き詰めた時、一体最後に残る宗教の姿はどこにあるのか。これこそが親鸞が挑んだ世界であり、この観点では唯一無二です。

ガンジス川の河川敷に小屋を建て、死にそうな人をそこに連れてきて、僧侶が世話をしたり説教をしたりして最後は浄土に行けるような感じを演出する。この仏教的な風習は日本への仏教伝来以降、京都市の鴨川近郊でも同じようなことが行われていました。当時の平安京は、この鴨川を一つの境界と位置付けており、鴨川を越えれば死者の世界でした。鴨川は生と死が渾融する世界であり、ゆえに平安京の貴族が立ち入ることはなく、多くの市民も寄りつくことを拒みました。現在、鴨川の辺りで大勢が昼も夜も集まっていますが、歴史を知っている者や生粋の京都市生まれの人は今もここには近づきません。歴史への無知とは、本当に恐ろしいものです。法然はこの鴨川を越えた東山から布教を始めたと言われていますが、親鸞はこうした風習も徹底的に否定します。

なにしろ誰もが死について答えられないにも関わらず、いかにも死について知っているかのように振る舞うからです。宗教家は常にこの問題を抱えて歴史を歩んできたと言えますが、未だ誰一人として死それ自体について答える者は現れていません。要するに「死らしきもの」については全ての宗教家は語っていますが、「死それ自体」について宗教家は誰も語っていません。それは待っていれば救世主のごとく現れるのではなく、本質的に人間は死を語ることの限界を最初から最後まで抱えているからです。この限界は人間である以上、誰もが超えることのできないものです。

日本仏教は、伝来当時から知識階級の人々によって形成されてきました。いつの時代も知識人は何でも知っているような顔をして、何についても発言し、何でも知らなければならないと考えます。そうした飾り立てた態度こそ、僧侶とその他を区別するための唯一の境界線だったからです。しかし、そのようなことが嘘であることは人間の限界においては妥当です。そして親鸞は、ここへの強烈な反動を露わにしていました。親鸞は「死なんてものを考えるな。それが一番良い」と言っています。当時の仏教諸宗派や僧侶が死を知っているフリをしていた状況下で、ただ一人この態度を貫徹したのです。

当人にとっては、死はいつどんな場合にやってくるのか分からない。それに対しては予測することも何もできない。それは私たち人間が未熟だから予測できないのではなく、本質的な死は「人間の予測」とは全く無縁の境地に存在するものだからです。後述しますが、「人間の予測」とは主体の捏造です。つまり、死をそもそも予測すること自体が根本的な過ちであって、本来的に予測不可能なものを予測しようとすること自体が間違っているのです。死は人間に付随する境地にあり、人間によって解される存在ではなく、全く異なる原理で存在するため、幾ら人間が知ろうとしても決して知りえないものなのです。それなのに、世の中は死について分かったようなことを言う人々が次から次へと登場します。

発展した文明人を自負する現代人も、その自負とは裏腹に何も変わっていません。自分は死を知っているかのように誰もが振る舞うが、それはおかしいと誰かが強烈に否定しなければならない。死について分からないから分かろうとすることが無意味なのは、そもそも死は私たちが考える範疇や予測として計算できる範疇とは全く異なるものだからです。ゆえに親鸞は、その不可能性と死について考えることの限界性、さらにはそのようなことを考えること自体の無意味を誰よりも自覚し、死については考えるなと主張したのです。

親鸞登場から既に700-800年も経ちながら、今も人類は同じことを続けています。死について考える方法が宗教から医学、科学などに変移しただけで、やっていることは何も変わっていない。医学や科学は死を知っていると自認しているが、それとて親鸞から言わせればかつての仏教宗派の態度と微塵も変わらない。医師による死の宣告も、かつての傲慢な僧侶と何一つ変わらない。つまり、医学も科学も死を知らない。それにも関わらず、知っているかのように振る舞って人々を欺いているのです。そして親鸞の論点は、従来の日本仏教とは全く異なりました。

「浄土教の死」をテーマにするならば、親鸞は人が死んだら浄土に行けると人々が言っているものが死であって、それは実際の死とは違うと喝破しています。これは法然の浄土教における阿弥陀如来によって約束された死に対して、それが実際の死ではないことを見抜いた達見です。確かに人間は、人が死んだ後に想定・約束される浄土、天国、ユートピアなどに行ける前提までは知っています。これは歴史的に哲学や宗教、さらには医学や科学によっても知っていることだからです。しかし、いつどういう形で死ぬかは全然分かりません。この実際の死について何かを言うと、誰もが検討はずれになるのはこの死についての識別ができていないからです。つまり、今も昔も死について語る時、それは実際の死を見ていないということが批判軸として上がってこなければならないのです。誰も実際の死について語っておらず、疎外された死について語っているに過ぎない。それは実際の死ではないため、幾ら語ろうが何にもならないということです。ここを徹底的に凝視し、否定して実際の死の問題を浮上させたのが親鸞です。まさに激動の時代の頂点に相応しい人物の登場でした。正直、日本仏教史でもここまで興味深い人物は居ないのではないでしょうか。

親鸞は、仏教の手から五色の紐を垂らして、その紐を掴みながら最終的に臨終の念仏を唱えると浄土へ行けるという考え方を編み出した浄土教に対して、それは嘘であって、そのようなことが分かるはずがないと否定します。そして分からないのに、そういうことを予め想定すること自体がおかしいとなぜ気づかないのだと主張し、その欺きや嘘によって大勢の人々が迷いに陥っていることを見抜きます。

ゆえに親鸞は、臨終に際して臨終の念仏を重要視する浄土教の考え方は間違いであって、真の浄土とはそういうものではないと唱えたのです。つまり、浄土を巡る問題において、親鸞は全く異なる世界を抉っているということです。この観点から見ても、法然は従来の浄土を無批判に真似しているだけですから、親鸞とは全く異なることが見えてきます。法然の教えに人々が一時的に魅了されたのは、時代の趨勢と目新しい考え方だったからです。しかし、親鸞にとっては法然の浄土教は浄土ではない。だとすると自分が見つめている浄土とは何なのか。そこが親鸞の生涯を通じた問いです。この問いは生やさしいものではなく、自らの命を削る激しい内省において展開されたものです。

こうして何十年にも及ぶ激しい内的格闘を経て、親鸞が提示したのがryoという字です。この思想は親鸞最晩年の86歳の手紙[自然法爾の事]という文章の中に残されているのですが、親鸞が浄土の究極的な境地に至った叡智が記されています。

このryoは日本語の[料理]に使われる言葉から想定されるように、手段であり素材です。親鸞は[弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり]と書いています。翻訳不可能なので私なりに解義すると、人間の思慮分別を無化したところに阿弥陀仏の本願力があり、そこに人間自身の計らいや思惑を無化した、あるがままの自然の作用があると説いたものです。ここで特に英語圏の言語構造において頻繁に捉え違いが生じるのが、この文脈を「無化」ではなく「超越」と捉えてしまうことです。ここは特に英語のような言語構造においては避けられないことですが、超越ではなく無化だと頭の片隅に置いておけば、禅の境地が開かれてきます。鈴木大拙も英語圏の人々に禅を伝える時に超越のような言葉を使っていますが、それは東洋的思考の人々にとっては無化と捉えた方が伝わるものであり、超越という用語自体が禅ではない境地へズレる原因になってしまいます。

jinenは今では日本語でシゼンと訓みますが、中世頃から二つの読み方があり、明治以降にNatureの訳語にjinenがあてられて根本から意味を失ってしまった時、シゼンという読み方だけが残りました。それは明治以降の慣習であり、歴史的にはジネンと訓みます。難しいのですが、[自]は主語・主体・主観・自我・意識を全て無化した状態のことで、[然]はその主体が無化された境域で作用・働き現れる存在のことです。つまり、人間には主体などない、そのようなこと自体が嘘だということです。嘘であるにも関わらず、知識人によって主体があると人々が盲信させられたことによって、自然の摂理を破壊してきたのが典型的な近代史です。江戸時代まで自然破壊など考えもしなかった日本人が、近代化と銘打った西洋化を遂げて以降、たった160年という驚くべき速度で日本列島の自然を片っ端から破壊し、駆逐したことを考えれば明らかです。主体という嘘は自然を破壊し、その摂理に対して異様なまでの攻撃性を露わにします。

親鸞は否定によって、既存の共同幻想を思想的に砕くことを生涯をかけてやっています。浄土教の前提となる通俗的な浄土を無化して、そこから浄土の本質を浮上させ、死に浄土を置かずに生と死の中間に浄土を置き直したのが親鸞です。ここで親鸞がやっていることは、「生と死の分離」によって死の側に一方的に従属させられてしまった浄土を、本来の姿である「生と死の非分離」の位置に据え直したということです。親鸞はここに浄土があると捉えたのですが、こうした非分離の視座は法然にはないものです。ゆえに浄土教とは言っても、浄土真宗側の親鸞は根本的に質が異なります。言い換えれば、法然側の浄土宗が「分離の浄土」、親鸞側の浄土真宗が「非分離の浄土」です。本質は親鸞側にありましたが、この視座は今の浄土真宗ではとっくに忘却されてしまい、「分離の浄土」になっています。つまり事実上、現代日本で浄土真宗は存在せず、浄土宗という法然側に集約されてしまったと言えます。

浄土とは彼岸ではなく、生死双方を見渡せる視座の場所である。このように再定義したのが親鸞なのです。こう考えると、親鸞の思想から学ぶことが多いように思えてきませんか?

そして親鸞は浄土の共同幻想解体と同時に、人格神として擬人化された阿弥陀如来をも砕きます。こうして親鸞は、嘘によって形成された通俗的な阿弥陀如来を無化し、そこから本来の阿弥陀如来である色も形もない無の姿を浮上させ、阿弥陀如来の本質は人間を[自然法爾]の状態に導くための手段・素材に過ぎないと説きます。だからこそ、ここではryoの字が使用されているのです。こうした考え方は、本質的な意味でのアナキズムであり、むしろ積極的な老子のようなものですが、そうした思考を持つ人物意外には到達不可能です。ゆえに、既存の分離型浄土を信仰の核に据えて布教活動を展開する人々などにとって、親鸞の考え方は異端であり、危険思想と見做されます。これは全てを無化されてしまうと、彼らの利権や庶民との境界線の全てが消滅し、その境界線自体が嘘だったことが暴かれてしまうからです。いつの時代も、親鸞のような思想家は為政者が最も恐る存在です。そしてこうした人物は、決まって激動の時代が頂点を迎える頃に登場します。

従来の浄土教では、阿弥陀如来は帰依の対象として人間から分離されていました。要するに「人間」が「阿弥陀如来」に祈る、あるいは救いを求めるというように、分離した関係があったのです。個人的な推察では、おそらく日本に仏教が伝来した時点で既にこの分離は起きていたと考えており、この視座から日本仏教史を精査する必要があるように感じています。親鸞はこの分離した関係自体を全否定し、阿弥陀如来を関係の主客ではなく作用として捉え返し、素材・手立てと規定することによって、信仰の対象は実体ではなく関係なのだと根底からdisplacementします。この親鸞の関係は、主客の関係とは異なり、主客を無化した関係だということです。その境地は主体も自我も自己も意識もありません。そのような作用によって世界が動くという考え方は、嘘でしかありません。主体意識が世界を動かしているのではなく、主体を含めて全てを無化した時に作用する意識が存在しているということです。それは主体を前提に意識・無意識と分離させられた無意識のことでもない。徹底的に無化できなければその作用を感じ取ることはできないものです。

仏教が持つ偶像崇拝の脆さは、日本に仏教が伝来して以降、初期には問われたことですが、基本的に日本の初期仏教史は朝廷の古代氏族による権力闘争の文脈で行われてしまったため、この偶像崇拝における分離という観点は持たれていませんでした。それ以降、こうした脆さは問われず、いつの間にか信仰だけが爆発的に広がってしまった影響によって、人々はこの問いの意味さえ失っています。親鸞は、それを容赦なく木っ端微塵に無化してしまったのです。

人間が計らいや思惑を持って阿弥陀如来に向かうことでは、いつまで経っても本質は開かれてはこない。言い換えれば、人間が主体意識を持って神や仏に向かうことでは、いつまで経っても本質は開かれてはこない。

ryoとして阿弥陀如来が人間をjinenの状態へと引き寄せることによって、本質的な境地に至るということです。近代において主客は分離を明確化しましたが、この時代から既にこの種の問題が重大になっていたということです。近代化を経験した人間は一般に自分たちを主体と考える悪しき慣習を疑うことなく前提していますが、そのようなことがありえないのは、日本語に主語がないことからも自明です。主語は嘘であり、主体は嘘であり、そうしたものを幾ら研ぎ澄まして世界の王者を自演しても、所詮は自作自演でしかないため、いつか滅ぶ運命は避けられません。こうした主語・主体・自我・自己・意識の自作自演という近代人の巨大な詐欺は、今になって自然からの猛烈な反動を受けていますが、今更何を言っても遅いのです。

この親鸞の叡智は、今最も重要と言えます。誰もが唯一無二の主体であるかのように振る舞い、そのことに対して疑いを持たず、挙句の果てにアイデンティティクライシスという主体が存在しない問題を粉飾した結果起きる問題で苦悩している。死について語ることができないことは、阿弥陀如来について語ることができないことと同様に、それは主体から論じることが絶対にできない境地にあるからです。

全てを無化した時、そこにあるのはjinenである。それを親鸞は阿弥陀如来と呼んだだけの話ですが、そのjinenはnatureのことではない。このjinenを巡る問題は、特に江戸時代に突き詰められていきます。おそらく西洋主導の近代化が日本に起きた時、江戸時代に突き詰められてきたジネンとしてのjinenでは、近代化の観点で都合が悪かった。そこでjinenをシゼンとすり替えてしまい、あろうことかnatureの訳語として規定した。こうした嘘が近代史を作り上げ、そして一つの国の破綻へ向かう。親鸞が命をかけて挑んだ問題は未だ放置されたままです。言葉や概念として固定することへの徹底的な反抗は、現代においても意味を持つのでしょうか。親鸞の問いかけは、未だ一人ひとりの心に強く訴えられているように思えてなりません。