仏像に心を奪われるときWhen a Buddhist Statue Captures the Heart
これまで日本中で多くの仏像を見てきましたが、本当に心を魅了される仏像はほんのわずかです。日本全国にどれだけの仏像があるかは分かりませんが、推定で30万体以上あると言われています。元々仏教の歴史を持っていなかった国が、仏教信仰を始め、1500年程度の歳月でここまで急激に拡大したのは感慨深い思いがします。ただ私の興味は、30万体以上の中のわずかな仏像だけが、なぜ私の心を掴んで離さないのかということにあります。一部の仏像だけが言語化できない魅力を持っているのはなぜということは、あなたも感じたことがあるかもしれません。もしかすると、これが日本人が最初に仏像を見たときに感じたことなのかもしれません。
一般的に日本に仏教が入ってきたとき、それまでに見たことない偶像崇拝を前面に押し出した仏像や僧侶や寺院を見た在地の日本人は、その壮麗さに魅了されたか、あるいは畏怖を感じたと歴史家たちは共通して語ります。しかし、そうした見方は妥当なのかということを疑う必要があります。
そもそも仏教が日本列島に伝わった経緯自体、単純ではありません。公式な記録としての仏教伝来と、非公式に持ち込まれていた仏教伝来では、当然ながら事情は全く異なりますし、後者側は記録上は残らないため歴史の闇に消えています。しかし、普通に考えれば、いきなり日本列島の深い内陸部に位置していた古代大和にまで直接伝来したとは到底思えません。それに重要なことは、この仏教伝来に関わったのは、インドでも中国でもなく、朝鮮半島の勢力だったということです。事実、日本側に仏教を公式に伝来させたという意味では、古代朝鮮の百済の聖明王が仏像・経典・僧侶を大和朝廷に派遣したことに始まります。
視方を変えれば、既に仏教は朝鮮半島まで進出していたのです。それならば、未だ解明されていない古代の複雑な海路を通じて、朝鮮半島や中国沿岸部一帯から日本列島への渡来ルートを経由して、仏教がもたらされていた可能性は私は高いと考えています。またその伝来ルートは一方通行ではなく、日本列島側から渡り、仏教を日本に持ち帰った可能性もあります。古代海上交通という視点に目を向けない限り、ここはどうしても不可視になる点です。
一応、仏教が公的に伝来した年次については、これまで538年と552年の二説が古来から並立しており、現在では538年が有力とされています。そしてこの背景にあったのは、仏教が持つ宗教的威光とは全く無縁の朝鮮半島の政治情勢です。当時の朝鮮半島は百済・高句麗・新羅に分かれており、三国が頻繁に戦を起こしていた時代です。ここで古代より日本側と密接な関係にあった百済の聖明王は仏像・経典・僧侶を遣わすことで、より強固な同盟関係を日本との間に築こうとしました。ただしこの日本とはあくまでも大和のことであり、日本全土を意味しません。つまり仏教伝来は純粋な宗教的交流ではなく、半島の政治力学が産み落とした外交的行為だったのです。
そしてこの百済からの贈り物は、当初から歓迎されたわけではありませんでした。当時の欽明天皇は仏像の到来に感心しながらも、受容には慎重を期し、とりあえず重臣の蘇我稲目に付して「試みに拝んで奉ってみろ」という程度の措置を取るに留めました。この説話からも、天皇自らが積極的に信仰することは、大和の政治力学に強く影響していたことが見えてきます。つまり、百済側も大和側も仏教伝来は極めて政治的、それも内政的な位置から考えられていたことが見えてきます。これは未だに無視され続けていますが、古代東アジアの力学では、中国ー朝鮮ー日本の動きは連動していたからです。中国が揺らげば朝鮮も日本も揺らぐ。日本が揺らげば、朝鮮も中国も揺らぐということです。この三つ子の関係は現在の東アジア情勢を見る際に重要となりますが、通常、こうした視方は無視されます。
その後、欽明天皇の治世下で大和に大規模な疫病が流行すると、排仏派の物部氏を中心とする古代氏族の奏請により、仏像は難波の堀江に流し棄てられ、伽藍は焼き尽くされるに至りました。こうした激烈な抵抗の根底には、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の内部対立があり、やがて587年の用明天皇の時代に物部氏が滅びて仏教は正式に受容され、ここで新時代の潮流に乗って台頭した聖徳太子が法隆寺や四天王寺を建立して興隆の礎を築きました。ただ古くから、この聖徳太子は実在しなかったという視方が根強く残っています。それは聖徳太子のものと伝わる肖像画が疑惑に満ちており、当時の官職で存在しない位だったなど様々ですが、現状は聖徳太子自体は実在したが、これまで語られてきたイメージは全て後代に捏造されたものだという視方が優位となっています。
しかしさらに視方を変えれば、聖徳太子の実在を認めることが、一部の人々にとって都合が悪いとも考えられます。この理由は未だ定かではありませんが、個人的には聖徳太子の血筋に何かしら不都合な問題があり、それを置き換えるために後代に改変が行われたのだろうと見ています。事実、仏教隆盛時代を築いたのは、帰化移民を束ねて一気に政治覇権を掌握した新興氏族の蘇我氏を中心に、擁立された用明天皇と用明天皇の子とされる聖徳太子のトライアングルによって構成されています。個人的には、聖徳太子は移民の子だったと見ています。ゆえに、こうした帰化移民を束ねて朝廷の皇統を掌握しようとする新たな動きが、旧勢力の物部氏・中臣氏・大伴氏などの強烈な反発を招いたと言えます。ただ一方で、大伴氏は真っ先に移民勢力側へ寝返っており、朝鮮半島の利権を与えられた見返りに旧勢力を裏切り、結果的に物部氏によって滅亡させられています。おそらくこの時代、大和に限定すれば、在地の氏族を筆頭とする勢力と移民の氏族を筆頭とする勢力が内政を巡って激しく対立し、ここで新時代の力学が生まれつつあった。この力学を無視して仏教伝来の本義を見抜くことはできないということです。単に仏教の壮麗さに魅了されたというだけでは、何も語っていないことと同じです。
この経緯を踏まえると、歴史家が語る「壮麗さへの魅了」という仏教受容の解釈は、あまりにも表層的で無意味だと分かります。事実として、仏像を巡って大勢が死に、寺が焼かれている。それほどの政治的・精神的な衝撃が、この列島の人々に走ったのです。つまり、仏教の信仰自体が問題の土台にあったのではなく、内政の覇権を維持する観点で受容か排除かの選択を迫られながら、それでも最終的に仏教を取り込んでいったその過程にこそ、日本人が仏像に対して抱いた複雑な感情の原型があるのではないかと私は思います。その瞬間、政治的思惑を超越した仏教伝来が起きたという解釈です。
あなたは仏像を見る時、どのように見るでしょうか?
仏像に現れるシミやくすみなどは、単なる木造や金銅の物質が経年劣化を迎えた証拠ではなく、その仏像がそれだけ長きにわたって、時代に生きた人々のそれぞれの祈りを受けてきたことの証だと私は考えています。その時空を超越した無数の祈りが、仏像にシミやくすみとなって顕現する。いわば、私にとって仏像は信仰対象ではなく、時間を無化する祈りの力であり、真価は線形的時間では未来において現れるものです。おそらく、この祈りの力に魅了された人々が初期的には仏教ではなく仏像へ傾倒し、日本側で仏師と呼ばれる専門職業が誕生した根本要因でした。
日本の仏像には木造製が多く、ヒノキ、カヤ、クスノキ、ツゲなどを主に用いますが、時代ごとに素材を変遷しています。また興味深いのは仏教伝来時に朝廷に入ってきた仏像は金銅製の釈迦如来像だったのですが、徐々に木造製へと比重を変えていったことです。一般的には材料コストと重量の問題があったと言われていますが、単純にそれだけを理由にするのは仏像の魅力について誤ります。ここで私が問題にしたいことは、仏像の素材の変遷という学術的アプローチではなく、「仏師の心」です。一体、仏像に魅了された仏師は、なにゆえに素材を変えながら、独自の工法を成立させていったのか。そこには工法としての漆・石・土の使用も関わってきますし、大陸や朝鮮半島と異なる自然環境を持つ日本列島に応じて、土着的な形で仏像が日本化(厳密には大和)されていった流れがあります。
事実、金銅製の釈迦如来像が伝来して以来、聖徳太子が関わったと考えられる法隆寺の釈迦三尊像(623年)や、薬師寺の薬師三尊像なども金銅製です。有名な奈良の盧舎那仏は超大型の金銅仏ですが、これは国家総力を挙げた事業の象徴であるため、この文脈では参照すべき仏像にはなりません。さらに工法の観点で言えば、乾漆造は木や粘土で原型を作り、その上に麻布を漆で何層も貼り重ねて形を作る工法で、興福寺の阿修羅像が代表例で、軽量で精緻な表現が可能です。そして塑像は粘土を芯材に盛り上げて形を作るもので、奈良時代に多く使われる工法となり、東大寺戒壇院の四天王像が有名です。ただ重くて脆いため、後の時代には廃れていきます。石仏は彫刻として独立して作られることもありますが、日本では路傍や磨崖仏が多く、寺院の本尊級になることは大陸に比べると少ない傾向があります。
つまり日本の仏像の素材の変遷をおおまかに言えば、飛鳥・奈良時代の金銅から平安時代の木造と漆や彩色仕上げへと移行していったイメージです。木造が定着した理由のひとつは、日本の豊富な木材資源と、木の加工技術の高さにあると言われていますが、この視方は本当に妥当なのか。妥当の意味は、当時の人々の心情を捉えているのかということです。この観点で見た場合、私は従来の仏像に対する視方は、本質を一度も触れたことがなかったように感じるのです。問い方を変えるなら、以下です。
仏師はなぜ、金銅ではなく木造に魅了されたのか。
多分、あなたもこのような問い方をこれまでしたことはないでしょうが、ここは肝心となります。最初に私の考えを言っておくと、それは祈りを滲透しずらい金銅に対して、木造は祈りを直接的に滲透させるからです。
元々、大和を舞台に始まった動乱の世において、仏教ではなく仏像の力の源泉は一元的・二元的ではなく、多元的世界の窓口になったことに要因があったはずです。仏像は多くの人々が生きるために、あるいは権力のために祈りを捧げた対象ですが、同時に自戒や自省を促す最良のツールとしても機能してきました。つまり、私の視方では当時の日本人は仏教に魅了されたのではなく、仏像に魅了されたというのが正しい捉え方に思えてならないのです。もっと言えば、それは今も変わらないと言えます。仮にこの視方が的を得ているならば、日本を見る時に重要なことは仏教ではなく、仏像に魅了された歴史を軸に据えることです。そうしなければ、日本仏教史の解義はこれまで同様に退屈な解説に終始します。
仏像という一つの物体自体は、不変の存在です。しかし、仏像を見ていかなる行為を為すかに関しては、人の数だけ千差万別に変わる。この不変存在が持つ多元性こそが、仏像の最大の魅力であり、言い換えれば仏教の進化そのものだったのではないかと私は感じています。例えば、この心の動きを形にしてしまったのが、頭上に11の顔を持って全方向に救済する密教系の十一面観音像です。幸いにも日本には奈良時代の十一面観音立像が飛鳥の聖林寺に現存していますが、これを見ると、既に奈良時代の在地の人々が、初期仏教の仏像に対する視座を維持できなくなってきたことが露骨に理解できます。つまり、形にしたということは人々の信仰の多元性が失われ始めた証であり、この頃には既に仏像への魅了感度が低下し、中央集権的な仏教化が進み始めた時代だったと私なら判断するのです。「中央集権的な仏教化」とは、あくまでも朝廷の主導するという意味です。
残念ながら、こうした見方は今や忘却の彼方に追いやられてしまい、仏像が本来持っていた祈りを滲透する多元性は失われてしまいました。今も仏師は日本に居ますし、かつての仏像を再現するようなプロジェクトも各方面で展開されていますが、彼ら自身が全く自覚していないのは、科学的に再現することには何の意味もないということです。いかに古代仏像を精密に再現しても、人の祈りを滲透しない仏像には何の価値もありません。しかし、未だにこの時代の祈りの多元性が消えたわけではないということは、ある場所に向かえば分かります。それが東北の太平洋側です。
今日は2011年3月11日の東日本大震災から15年目です。この地震・津波によって壊滅的な被害を受け、行方不明者を含めて約20,000人以上がこの沿岸地帯を中心に死去し、今も震災関連死として人が次々と亡くなっています。実際この地域に入ると、言葉にできない悲しみが充満しています。例えばスーパーに入れば、そこですれ違う人々はほぼ間違いなく近親者や愛する人を亡くしています。現在メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースへ所属する佐々木朗希は、津波の被害が大きかった岩手県陸前高田市の出身であったため、この時の津波で父と父方の祖父母を失い、実家も流されています。そうした中でも、彼らは一歩一歩生きてきた。その積み重ねがどれほど辛いものであるかは、私たちには知ることができません。だからこそ、東日本大震災以降も毎日を生きていかなければならない中、希望となっているのが佐々木選手なのです。彼は単なる野球選手ではなく、土地の人々にとっては同じ苦しみを胸に秘め、なおも一歩一歩生き続ける象徴なのです。ただ勘違いしてはならないのは、こうした有名な人々に限らず、その土地の誰もがそうした日々をこれまで生きてきたことです。
その土地には、家族や愛する者を失った彼らの祈りを受けてきた仏像が数多く鎮座しています。その姿は、まるで何も言わずに彼らの胸に秘めた強烈な悲しみ、失った希望を滲透する受け皿です。そこには茫漠とした悲しみと、見捨てられることへの儚さが濃縮されているように感じることがあります。ここで私が学んだことは、仏像は人の悲しみを肩代わりしてきたのではないかということです。そしてそれは仏教伝来以前の長大な歳月において、かつて[依り代]と呼ばれていた風習が日本に土着で根付いていたからではないか。それこそが、仏教が日本で広がった重要な原因だと思うのです。言い換えれば、それまで漠然と自然を依り代として祈りを捧げてきた日本人にとって、仏像という祈りを集中させる対象が現れた心的な影響力は、現代人には絶対に到達できない境地にあるということです。
個人的には、そうした中で仏像の彫刻師たちにも、人々の祈りに応じて、仏像を捉え直す動きが生じてきただろうと感じています。その変遷は単なる仏像の様式・形式の歴史として体系化できるものではない。当時の場所の土着的な人々の祈りの繊細で大胆な動きを、仏像が引き受けているということです。その心的な祈りの歴史を知るために、日本で最も学びになるのは奈良です。ゆえに私も奈良を散々回って無数の仏像と向き合ってきましたが、この奈良の仏像の言語化されていない歴史は、本質的な問いを私たちに突きつけています。例えば、欲望を含めた様々な祈りを受け止める受動的な対象だった仏像を逆転させ、祈る者に対して能動的に迫ってくるように転換し、自戒や自省を求めたり、懺悔を求めたりするための仏像への変遷。これは非言語的な世界における仏師の格闘の痕跡ですが、それを誰よりも実現した人物がいます。それが日本最高の仏師と呼ばれた運慶です。
ちょうど仏教が日本全国に広がり始めた奈良の平城京時代から数百年を経た平安末期から鎌倉初期。既にかつての威光を失った奈良の地を拠点に、圧倒的な存在感を放つ運慶が登場します。運慶は生年不詳ながら12世紀半ば頃の生まれと推測され、興福寺を拠点に活動した奈良仏師・康慶の子として生まれました。父に師事して伝統的な奈良仏師の技を学び、1176年に奈良・円成寺の大日如来坐像を完成させています。これが現存する最古の運慶作とされています。
運慶が活動した鎌倉時代初頭は、On Dogenで見ている通り、政権が貴族から武家へと完全に移行し、さらに平安京の威光が失われた時代の渦中にありました。それは政治や宗教だけでなく、芸術の分野でも新しい動きが推し進められた時代と言えるでしょう。ただし、私は運慶を芸術的な意味で評価しているのではなく、祈りの多元性を復古させ、さらに時代に応じた最高潮の表現を実現していることに真価があると見ています。鎌倉時代以前の彫刻界では、和様彫刻を大成させた定朝の系譜に連なる平安的な京仏師が停滞する一方、奈良仏師は仏の瞳に水晶をはめる「玉眼」という新しい技法を取り入れるなどして、現実的な表現へと歩み寄っていました。ですが、運慶はそのさらに先を行きます。彼は一体一体の仏像に固有の個性と肉体の質感を与え、見る者に向かって能動的に迫ってくるような造形を追求したのです。これが運慶最大の特徴ですが、これを写実的と評価する戦前からの視方は、徹底的に排除しなければなりません。そんな陳腐な説明で済むならば、運慶が登場する必要などなかったからです。
運慶の集大成は、平清盛による1180年の南都焼討で東大寺の主要伽藍が焼失した後、重源上人が朝廷や源頼朝らの協力を得て進めた東大寺復興事業の総仕上げとして完成した南大門の金剛力士像です。運慶は快慶・定覚・湛慶ら一門の仏師を率い、1203年7月24日に造像を開始しました。阿形像は同年8月7日には南大門で立ち上がっており、二体が同時進行で造像されたことが、後の解体修理で像内から発見された経巻の奥書によって裏付けられています。像高8メートルを超える二体の巨像を、わずか69日という驚異的な短期間で完成させたことは、運慶一門の組織力と技術力の頂点を示すと同時に、復興に賭けた人々の烈しい意志の結晶でもありました。つまり、問題は仏師自体の心です。運慶の心には表面化しない強烈な[憤怒]があり、マグマのように煮えています。この心が仏像に宿り、まさに依り代としての力を獲得する源泉となったのです。
この顔が大きく足が短い5頭身に近いこの造形は、一見不自然に見えますが、実は門の高所から見上げる参詣者の視線を計算した緻密な工夫が施されています。仏像を受動的な祈りの対象として安置するのではなく、参道を歩む者の身体と視線に向かって像のほうから圧力をかけてくる。これが運慶の革新なのですが、その革新性は「仏像の視線」にあります。仏像をしばらく眺めた経験のある読者なら分かるでしょうが、仏像の視線は多種多様です。そして仏像の真価は、個人的にはその造形の美しさや壮麗さにあるのではなく、視線によって決まるとまで考えています。
仏像の視線は、祈る者の心にある「彼らが見ようとしない現実」を発動させる力を持っています。この発動の在り方は、仏像によって変わるため、仏像の数だけ存在すると言えるものです。何より重要なことは、仏像の視線の力によって祈る者の心が発動した時、その祈りは時空を無化するということです。極端に言えば、本当は仏教に経典も僧侶もいらないとまで私は考えていますが、それは仏像の力自体に仏教が何であるかの全てが宿っているからです。ただし、それは仏像である以上、仏師がその力に到達しているかが問題となります。大半の仏師はそのようなことを知る由もありませんが、運慶は日本で最初にその力に最も自覚的でした。ただし、歴史上に名前が残っていない仏師にもその自覚はあるため、ここを理解するためには、とにかく仏像を日本中で見る以外に術はありません。
以前、運慶が作った仏像を凝視していた時、その仏像の視線からの凝視によって、視線が無化された衝撃的な体験を私はしました。それがどんな衝撃だったかと言えば、主体・主観・主語・自我・意識の無化です。その瞬間、なぜ日本で仏教が広がったのかを私なりに会得したと実感したのです。このように、単純に寺院に訪れて仏像をぼんやり見ることと、仏像の視線を無化する力を体感することは全く異なります。私は人類史を「主体へ至る長大な歴史」と考えているため、この時代に仏像が日本に伝来したことには相当の意味があったと見ています。そして仏像は、主体が人々に発現する心の繊細で大胆な動きに対して、実はその主体化を奨励するのではなく、むしろ無化して元の状態に戻そうと試みています。
その元の状態とは何なのか。
これを一人ひとり問うことによって、人間が人間であることに対する仏教の激しい格闘の痕跡が蘇ります。ぜひ、読者も問い続けてみてください。そこには人間が宗教を生み出した原初の記憶が今も眠っています。