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火のないところに煙は立たぬWhere There Is No Fire, There Is No Smoke

この言葉は古くから日本で使われる諺ですが、その意味は「根拠のない噂は流れない。噂が立つということは、何らかの事実に裏付けられた原因があるはずだ」です。この諺は単なる噂に限らず、世界各地で伝えられてきた伝説にも通用します。

今でもそうしたことを信じようとすることは愚かだとか正気ではないと思われますが、それは科学の力を妄信し過ぎているからです。科学は所詮、最初にあがった火の所在を相当遅れてから事実だと補強する程度でしかありません。つまり、科学は絶対的真理ではなく、あくまでも既に語り尽くされたものに対する補足でしかないのです。ですが、この補足にこそ科学の本義があり、力がある。科学は主体ではないと考えた時、噂にしても伝説にしても、非科学的だと言われていることにリアリティが生まれることを誰もが体感できるのです。

私は日本各地をフィールドに日本の多元的世界を独自に調査し続けていますが、その中で複数の地域に広がるある伝説の存在を何度か目の当たりにしていました。それが「徐福伝説」です。徐福伝説の発端は、中国の最重要歴史資料である司馬遷の『史記』に記された記録にあります。司馬遷が史記を完成させたのは前漢の武帝の時代の紀元前91年頃とされていますが、徐福伝説はそれ以前の秦代に遡ります。

徐福伝説は中国史上初の統一を果たした秦の始皇帝(在位: 紀元前221-紀元前210)に深く関わります。ゆえに史記が制作された時代から見ると1世紀以上の歳月の隔たりがあり、また秦から漢へと覇権が動く動乱なども関与していたため、おそらく司馬遷の時代にこの種の出来事が既に伝説化していたことが想定されます。

徐福伝説とは、秦の始皇帝に捧げる不老不死の霊薬を求めて東方の海上の国へ向かった徐福が、3000人もの人々を引き連れて日本列島へ渡来し、一部がこの地に移住したという伝説です。この人数は伝説によって異なりますが、数千人規模での渡来が共通認識となっています。そしてこの東方の海上の国というのが古代日本列島です。

日本側では、平安時代に中国の文献にアクセスできた貴族や僧侶のエリート層が知識として徐福を知っていた段階に始まります。特に注目したいのが10世紀頃の僧侶・寛輔が、中国の僧侶との交流の中で「日本には徐福が目指した蓬莱山があり、それは富士山である」と語った記録が中国側の資料に残っていることです。寛輔は日本ではほとんど知られていない人物ですが、この人物の説話が中国五代の後周(951~960年)の954年に義楚によって編纂された『義楚六帖』に登場します。それによると、958年に義楚が直接寛輔より聞いた話として伝えています。ちなみに年代がズレているように見えるのは、同著が実際に刊行されたのが20年程度後の宋代の973年だったため、その間に補足されたからです。

蓬莱山とは中国側で不老不死の山ですが、ここで寛輔は蓬莱山と富士山を同一視していることが重要です。ゆえにこの時代の平安京のエリート層にとって、徐福が目指したのは富士山であるという認識が一部で広がっていたのですが、ここが日本側で始まる徐福伝説の物語のスタート地点と言えます。ただし、富士山は蓬莱山とは無関係であり、この頃に何かを契機として新たに生み出されたものです。その理由は比較的明白で、この10世紀の文献以前の日本側の富士山に関して書かれた書物には、富士山を蓬莱山や徐福と関係づける記述は皆無だからです。

例えば、平安時代前期の貴族で学者の都良香(834~879年)が晩年に記した『富士山記』は、山頂に天女が舞う神仙境として富士山を描いていますが、ここには蓬莱にも徐福にも全く触れていません。また成立年代未詳ながらも、遅くとも10世紀前半には成立していたと見られる有名な『竹取物語』にも、富士山が神仙思想と結びつけられて描かれていますが蓬莱や徐福については語っていません。

つまり、寛輔の逸話は平安時代後期にかけて平安京エリートに限定して生まれた新しい潮流に基づいているということです。どういう背景でこのように富士山を神格化し始めたかは別途書きますが、ここでは当時の知識人が書物の知識ベースで語り始めたことであり、徐福伝説を本当に支えていたのは各地で実際に継承された伝承であると理解してください。つまり、日本における徐福伝説には二種類の系譜があり、一つは中国側の書物から得た知識をベースとする伝説を当時の為政者側のイデオロギーに結びつけて発展させたエリート層の徐福像。一つは代々自分たちが徐福の末裔だと伝承した非エリート層の人々の徐福像です。

平安時代の徐福伝説は、あくまでも一つの知識でしかなかったのですが、続いて鎌倉時代に入ると伝説はリアリティを増します。

この理由は、さらに後代の江戸時代に勃興する反外来思想を持つ国学の登場の源流に位置するイデオロギーが生まれたからです。そのイデオロギーを生んだ筆頭人物が、公卿で歴史家の北畠親房(1293-1354)です。北畠親房が生きた時代は天皇が二人いる奇妙な南北朝時代に位置しており、二人の天皇がそれぞれ正統性を巡って内戦を繰り広げていました。このため北朝と南朝という二つの皇朝が成立し、それぞれに政治覇権を巡る為政者の争いが展開されていました。北畠親房は南朝側の大物であり、実質的な南朝のリーダーでした。

結果的に見れば最終的に勝利したのは北朝とされていますが、実はその正統性が南朝にあったことは今では周知の事実となっています。つまり、北朝側の皇統と為政者が正統な皇位継承権を有する南朝側から皇位を略奪し、自らを正統化したということです。日本の天皇における皇位の正統性の証明は、神話時代から継承されている「三種の神器」と呼ばれる宝物ですが、南朝側の皇統はこれを所持していました。

この三種の神器が天皇の正統性を担保するものであったため、北朝側はこれを制作して偽装し、お互いに正統性を巡る激しい争いに発展したのです。この時、南朝側の実質的指導者であった北畠親房は、南朝側の皇統の正統性を主張するために一冊の書物を書き上げています。それが1339年に著された『神皇正統記』です。その中の第7代・孝霊天皇の時代の記述において、北畠親房は「秦から徐福がやってきて、日本で死去した」という趣旨の記述をしています。

孝霊天皇は実在性が疑われる初期天皇の一人であるため、在位年代は不明です。一般的に紀元前342-紀元前215年とする説がありますが、これは初代・神武天皇の即位年代を紀元前660年に据える近代以降の虚偽に根拠を持っているため、直接的に信用はできません。ただし、孝霊天皇なる何者かが少なくとも秦の始皇帝の在位年代付近に存在し、その時代に徐福が日本に来たという史記の記録と結び付けられたことは事実です。言うまでもありませんが、北畠親房の在命時に紀元前660年などの西暦(グレゴリオ歴)など使われていないため、こうした認識は彼とは無関係に明治以降の学者が決めたものです。

ですが、単なる空想ではありません。ここで北畠親房が南朝側の正統性を示すために執筆した著作によって、徐福伝説が日本の正史の中に組み込まれたことが重要なのです。これ以降、この徐福伝説は日本に根付くことになるため、既に700年近く一部の日本人を魅了してきたことになります。

そして天皇の正統な系譜に対する意識が為政者の間に高まる南北朝時代に秦の始皇帝が派遣した徐福伝説が日本の正史に結びついたことで、一つの好奇心を軸とする問いが浮上しました。それが「北畠が言うように徐福が日本で死んだならば、その末裔は誰なのか?」です。

この流れで徐福の末裔として正統化されていったのが秦氏です。この秦氏についてはOn Dogenシリーズでも触れていますが、渡来ルーツの移民氏族であり、様々な技術を有して日本各地に進出した勢力です。日本語で[秦氏]と書きますが、[氏]はclanなので問題は秦 (Hata)です。この[秦]を当時の人々は秦に関わる氏族と考えたのですが、これは秦の表記が[秦]だからです。より正確にいえば、秦氏は秦代の人々の末裔となるのですが、この考え方は前述の寛輔が語った説話として中国側の書物にも記されています。この時点で蓬莱山は富士山と同一視されているため、徐福が富士山に最終的に到達し、その子孫は全て秦氏ということが語られています。少なくとも平安時代後期の時点で、秦氏に関する伝承が平安京エリート層に知られていたという点が見逃せません。なぜならば、On Dogenシリーズで触れている通り、平安京遷都の真の立役者は秦氏だからです。

秦氏については論じることが膨大にありますが、とりあえず今回はこの認識をベースに持って頂ければ十分です。そして南北朝時代では北朝が勝利し、1338年に将軍・足利尊氏が京都で室町幕府を開く室町時代に入ると、秦氏が徐福の末裔だという説が徐々に広がるようになります。

ややこしいのですが、天皇の正統性を巡って展開された歴史問題に、秦の始皇帝の派遣した徐福が組み込まれながら、伝説が歴史と交差し始める転換点に入ったのです。これを受けて江戸時代に入ると、学問が広がった影響で各地で文字を読める人々が登場し、これまで一部エリート層に限定されていた読み書きの技術が非エリート層にまで広がっていきます。この結果、それまで伝承ベースで徐福の末裔だと伝えてきた場所の人々に脚光が当たり始めたのです。その筆頭格が和歌山県南部の新宮市です。この新宮市は徐福伝説の聖地ですが、既に江戸時代に紀州藩主の徳川頼宣が徐福の墓を建立するなど、藩をあげて徐福を奉祀しています。

この名残は今も残っています。新宮市は徐福伝説が豊富な場所ですが、残念なことに江戸時代を終えた明治時代に入ると、伝承や伝説などは非科学的で実証できないと軽視されていきます。また民族史観の問題が高まる第二次世界大戦前になると、日本人のルーツを一つに揃えた物語として捏造する動きの中で、そこに中国側から渡った人々が重なっている事実は認め難いものとなり、恣意的にこうした説は排撃されていきます。しかし、古くから新宮市の村落で村民が伝え続けてきた徐福の末裔という伝承は、途絶えることなく今日にまで残ったのです。実際、今も新宮市に古くから住んでいる人々は自分たちが徐福の末裔という意識を持っています。

そして今、あれだけ伝説を空想だと否定してきた科学が、徐福伝説が史実だったことを認め始めています。徐福の実在可能性が科学的に証明される契機となったのは、1982年に中国で徐福村が発見されたことに始まります。ただ最も面白いのは、先月の2026年2月に「2025年中国考古新成果」で発表された最新報告です。この報告では、徐福が秦の始皇帝に会い、海上の蓬莱山などに不老不死の薬があることを上奏し、数千人を率いて船団を出発させたと史記に記録された伝説の「琅琊台」(青島市黄島区琅琊台山頂)という伝承地から、秦から漢代にかけての巨大な高台建築基址が発掘されたことが記されています。

この発見により、徐福伝説のベース資料であった司馬遷の史記の記述が秦代の皇帝直下の国家プロジェクトの史実を伝えている可能性が裏付けられ、琅琊台が秦代の中国側の巨大な海上拠点だった事実が浮上してきました。

さらに昨年2025年9月には、青海省果洛チベット族自治州瑪多県で2200年以上前の秦代の石刻が発見されています。最新研究によると、石刻には秦の始皇帝により派遣された五大夫という当時の官名の翳が、古代中国で不老長寿の説を唱えて魔術や薬を使った者を意味する方士を率いて西部の崑崙山で薬草を採集した内容が刻印されていることが示されました。崑崙山は秦の始皇帝にとっては西の聖なる山ですが、これは中国大陸西部に海はないからです。つまり、秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて西側に派遣した調査隊のリーダーが翳。東側に派遣した調査隊のリーダーが徐福だった可能性が既に中国国内では実証段階に入っているのです。もはや、徐福は単なる伝説的存在ではありません。

徐福が実在した決定的証拠となる墓や署名などは未だ発見されていませんが、徐福が船出したと伝えられていた琅琊台に巨大な拠点が実在し、始皇帝がそこに巨額の予算を投じていた事実が明らかになった今、新宮市の人々が代々伝承してきた徐福の末裔説はかなりのリアリティを持ち始めています。さらに科学は、ようやく日本列島に暮らしてきた人々の成り立ちが一つではないことを「科学的に」示し始めています。それは科学的成果を待つまでもなく、一部の日本人にとっては当然の認識でしたが、遺伝子研究が急速に進む中でその裏付けは確証へと向かっています。何より注目すべきことは、古代日本における弥生時代と古墳時代の接合部にあり、この時代に中国側から大量の移民が日本列島に押し寄せたことが示唆されていることです。

私は日本列島に重なってきた古代の記憶において、移民化の潮流の先達を担ったのが秦の始皇帝時代の徐福であり、その後数世紀をかけて大量の移民が日本列島に入ってくる時代を迎えたと考えています。ただし、徐福が今の私たちが考える意味での個人の実在性であるか否かは思案の必要があり、個人的に徐福は特定の個人ではなかったと考えています。また伝説は美化される傾向があることも事実であるため、この辺りをどう読解するかが要点です。

また徐福伝説では、数千人の老若男女を乗せた船団で日本列島に渡来していることは見逃せません。つまり、秦の始皇帝の勅令で不老不死の薬を探し求めて日本列島に渡来したならば、専門的な人々に限定して派遣すれば良いのに、わざわざ老若男女を船団に乗せて日本列島に派遣したことを考えると、これが秦代に起きた国外移民の動きを伝える記憶である可能性が見えてきます。実際、徐福は日本に渡来後に中国に帰ったという話は一つも伝わりません。むしろ日本列島に帰化するために徐福は来訪しており、最初から故郷に帰らない前提だった可能性を考慮した方が良いのです。

一体、徐福とは何者なのか?

これまで私も徐福伝説が伝わる各地の痕跡を見て不思議に思っていたのですが、その不思議な違和感の理由が今回の中国側の成果によって明瞭になりました。それは徐福を巡る不可思議な実在性にも関わるのですが、どうやって大陸から海を伝って紀伊半島南部の新宮市という日本列島の奥地にまで到達したのかが私の中で明瞭になったのです。

そして波に消えた古代の中国ー日本間の海上ルートの存在を明らかにすることによって、もう一つの紀伊半島南部に残る秘密が開示されます。それは古代インダス文明を築いたドラヴィダ人の一部が、時代の大きな移動の波の中で故郷を追われた遠い国の歴史に関わります。ドラヴィダ人は南部へ逃れてスリランカなどにも渡りますが、一部は東へ向かっており、中国大陸を経由して古代日本まで到達しているのです。この時、日本列島に渡ってきたドラヴィダ人は失われた故郷をある場所に見出し、そこを彼らの聖地として奉祀し始めました。

それが日本観光で富士山や京都に次ぐ有名な景勝地の熊野那智大社です。もしかすると彼らは、徐福の渡来に関わる船団に乗って渡来したのかもしれません。そして徐福と共に現在の新宮市へ向かう途中、那智の滝を見て故郷の記憶を思い出し、この地をドラヴィダ人の聖地と見立てたとも考えられます。そしてこの時に彼らはドラヴィダの古い知恵であるアーユルヴェーダを日本に持ち込んでいます。古代日本の移民といえば、どうしても朝鮮半島や中国大陸からの人々ばかりが注目されますが、それは古代日本の実像を見誤ることにしかなりません。他にもドラヴィダ人を筆頭に、東南アジア諸国からの海上ルートでの移民や交流は非常に活発だったのです。そしてドラヴィダの叡智は後に日本で再解釈されていき、やがて初期国家に絶大な影響を与える知恵の源泉となっていったのです。

徐福が伝説ではなくなった時、古代東アジアを巡る姿は一変するでしょう。しかし、科学が私たち東アジアの記憶に追いつくには、まだまだ乗り越えなければならない壁が無数に残されているのです。

"Where there is no fire, no smoke rises."