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「共同幻想」を設けた理由Why I Created the Communal Illusion Section

Communal Illusionのセクションを設置したのは今年1月中旬ですが、当時の私の内面には得体のしれない憤怒のイメージが迫っていました。その正体不明の憤怒を引き摺り出すために、テーマとして相応しいと感じたのがCommunal Illusionでした。この概念は、日本の学生運動がピークに達した1968年に思想家・吉本隆明が発表した『共同幻想論』に原点を持ちます。

共同幻想論は短い考察でありながら、これまで誰にも考えられていなかった深淵な淵が開示されています。そして思想家の感性や直感の力は、いつも時代を遥かに先行しています。吉本は膨大な思想を展開して2012年にこの世を去りましたが、私たち後代の人々に残された責任はあまりにも大きい。

私自身、彼の幻想の諸体系を論じる高度な思想に触れて以降、強い感銘を受けて独自に考察を続けてきました。しかし、思想は脳を使って考える哲学とは異なり、明らかに別領域での思考だと感じてきました。日本の文脈で言えば、「腹で考える哲学」と呼べるかもしれません。

この脳と腹は、現代的に言えば脳腸相関として考えることができます。脳腸相関は医学的な文脈では、思考や感情を司る脳と消化や免疫を司る腸が、自律神経・ホルモン・腸内細菌を通じて相互に密接な影響を及ぼしあう関係性と位置付けられます。しかし、それはあくまでも生理的な話であって、個人的に思想とは脳において絶対的比重が置かれている思考や感情を、腹によって無化することから生まれてくる新境地ではないかと見ています。

こうした感覚を抱くようになったのは、吉本の共同幻想論は脳で理解できるものではないという強い実感からです。脳を使って理解を試みた途端、彼の思想は私自身を素通りしていく空虚さを常に感じてきました。そのため、私は吉本の思想の宇宙を理解することを脳によって行うのではなく、むしろ実際に動くことによって行う方法を取ってきました。同著は712年に成立した古事記、3世紀代に中国側によって編纂された魏志倭人伝、そして民俗学者・柳田國男の遠野物語を軸に展開されています。

確かにこれらは書物として残っている以上、知識として理解したつもりになることは可能です。しかし、思想を知識として理解することに、一体どれだけの力があるのでしょうか。むしろ思想を知識へと還元する時、私たちは人間の重要な側面を無自覚に棄却しているのではないかという疑念が浮かんでたのです。

この問題は、古くから世界各地で展開されてきた主張からも自明です。人間は自然存在からの原初の疎外という心的な経験をして以降、この問題と格闘し続ける宿命を背負っています。そしてこの極めて個人に内的でありながら、同時に人間一般として普遍化し得る奇妙な問題は、今も私たち一人ひとりの内部に切迫するように浮遊し続けています。

ゆえに真の問題は、あなたがその内的問題を見るか、あるいは無視するかに置かれるべきです。当然、その内的問題を凝視することは、イコールで現実それ自体を見る行為となるため、強烈な痛みを伴います。通常、大抵の人々はこの現実の痛ましさを体験したくないので無視しますが、少数ながらもここに向き合い続ける強い意志を持つ人々がいます。私が敬愛するのは、こうした人々です。

それは人間が人間である以上、引き受けて進み続けなければならない問題だからであり、言い換えれば起源の問題です。

注意が必要ですが、起源とは個人の民族的なルーツとは全く異なる概念です。私はこの起源に迫ることをテーマに据えていますが、それは天上世界に観念された絶対的で唯一の神へ人間が到達する超越世界に普遍があるのではないという私の批判的態度にも繋がっています。個人的に人類にとっての普遍とは、全てを超越した「外部の天上」にあるのではなく、徹底的に自らの起源を抉った「内部の淵源」にあると考えています。それは極めて個人的なルーツをも超えた最深部の宇宙です。

言い換えれば、全ての答えは外部に存在しません。外部に答えが存在するかのように人々が錯覚してしまうのは、実態の本質から疎外された場における不可視の空間によって物事が生成されているからです。場も空間も場所に根差しておらず、概念的には空虚です。この時、人々の外部を見る目というものが、自己の内部から疎外されているということが肝心となります。つまり、その目は自分自身の本来の姿とは紐づかない捏造された虚構の目なのです。

捏造された虚構の目は、多くの人々が勘違いするように支配者によって与えられるものではなく、本質を伴わない場における不可視の空間によって生成されて付与されるものです。そしてこの時、ここに形成されている空間と、空間内部に取り込まれているかのように錯覚する個人の利害は、必ず不一致になります。ゆえに個人の意志は、この空間では必ず逆立します。これが共同体の利害と個人の利害が一致しない原因であり、ここに共同幻想と自己幻想の別質な動きがあります。

私たちは今も、この不具合に対して激しい内的格闘を抱えながら日々を生きています。大半の人々はこの格闘をなかったことにしていますが、その隠蔽された不安に突如直面しなければならない出来事は起きるものです。

現在がまさにその時代です。おそらく、人類史上はじめてグローバルな同時多発的出来事としてこの事態が起きているため、これまで以上に人々に自覚できない問題となっているように感じます。この時、吉本隆明が提唱した共同幻想・対幻想・自己幻想の関係を無視すると、必ず事態は最悪の帰結へと向かいます。ですが、私たちはその最悪の帰結に向かって、底が抜けたように急激に落下しています。一体、これは何なのか。

幻想の異なる動きが理解されなければ、共同幻想側の擁立している為政者による私利私欲にまみれた利己的な暴走を止めることはできません。そして真の問題は、仮に象徴的なリーダーを打倒したところで、事態は変わらないという事実です。なぜならば、象徴と幻想は異なるからです。仮に個人がカリスマ的素質によってリーダーとして手腕を振るったところで、それは大勢の人々によって象徴と見做されるだけであり、彼らが幻想自体を作っているわけではない。なぜなら共同幻想は、個人次元の自己幻想によっては変質することがない原理を有しているからです。

しかし、今もこの事実を無視する暴力的な為政者は、平然と他国を侵略し、他国の指導者を拉致・虐殺し、自分たちにとって都合の良い体制システムを作ろうとし続けています。そして自己幻想は共同幻想に必ず逆立する以上、この共同幻想の内部において自発的に隷属している個人を喪失した忠実な顔なき個体は、こうした暴力的な為政者の指示に極めて忠実な実行力を持っています。

かつて映画監督の黒澤明は1960年にThe Bad Sleep Wellを発表し、この不可視の構造を見事に映画において表現しています。人間は一人ひとりを見るならば、善意があり、正義があり、慈悲があることは誰もが知っているが、共同幻想に自発的に隷属している個人は、私たちが理想化して語っている意味での個人ではない。この微妙なズレは、世界が惨状に向かうにつれて深刻な亀裂となります。ゆえにこの次元の個人に対して善や正義を語っても、全く効果はないのです。

だが、仮に最も最悪の状況下であっても、虐殺に加担するか否かは個人の決断によって決定されます。

広島と長崎に原爆を投下するボタンを押す一本の指も、個人の意志があれば押さずに軍用機は引き返すことだってできたのだ。しかし、彼はそうはせずにボタンを押し、一瞬という言葉も通じないほどの瞬間に、戦争とは無関係の大量の人々を虐殺しました。一つの指に力を入れてボタンを押すという行為によって、虐殺は平然と行われる。今の私たちは、パソコンやスマートフォンで日夜膨大な「一本の指」の力を活用していますが、それだけで人類を虐殺することは十分可能だということが忘れられている。

当然、ボタンを押さずに引き返せば、上官から罵られ、殴られ、投獄され、死刑になるでしょう。戦場では、その行為は即時処刑を意味しています。

その人物がボタンを押さずとも、どうせ誰かがボタンを押すことは人間が愚かである以上は事実です。しかし、個人の意志という力を私たちが本当に信じるならば、ボタンを押さないことだってできる。その意志を貫いた結果、自分が殺されるか否かは実は問題ではない。意志を貫くか否かが尊厳ある人間個人にとって真の問題だということを、今や世界中の人々が忘れてしまっている。

戦争では、ボタンを押した人々ばかりが勲章をもらって賛美されるため、私たちはボタンを押さずに個人の意志を貫いた人々を知る機会はありません。そうした人物は人類の歴史上、それなりに居ただろうし、今もそれなりに居るにも関わらずです。

江戸時代の儒者・佐藤一斎は、「憤の一字は、是れ進学の機関なり。 物事に触れ、感動し、志を立てる事。これが学を進めるため道具である。」と述べています。[憤]の字は、主に心を奮い立てるという意味の[発憤]として解義されていますが、私はfunnuなのではないかと実感しています。funnuとは大いに怒ること以上に、どうしようもない憤りを感じて怒ることであり、不満を外部に喚き散らすこととは全く異なります。

実際、私自身が独自に学び続けているのは、誰に言われたわけでもなく、誰かに教えられたわけでもない。ただ私自身の内面の奥底にマグマのように湧き立つfunnuがあり、それが原動力となっているからです。そして学びは、必ず誰かのために為されるものでなければならない。

終わるべき存在が終わらない時、必ず暴走して破滅に至るのが歴史のルールです。それを無思慮に繰り返している現代の為政者に対して、私たちは強烈なfunnuを持ち、自らの使命を為すことによって起源に迫らなければならない。

私がこのテーマで歳月をかけて取り組むことは、知られていない日本の歴史を開示したいからではない。そうした単に何かを紹介するだけの記事を書くことは、イランの指導者が米国政府の一部の意向によって虐殺された今、あまりにも無責任な態度と言えます。

Communal Illusionが向かう先は、日本ではなく起源です。その起源とは、全ての国家や民族の共同幻想を抉り、全ての装飾を無化した果てにある境地において、funnuを抱えた真に志ある世界の人々が集まる最後の場所があるという考えです。