倭人考 7On the Wajin, Part 7
推定で180年代前後から248年頃まで古代ヤマトに君臨したと考えられる女王・卑弥呼。この謎多き古代の女王は如何なる一元的解釈を拒絶する領域にあり、私たちがその真相を知ることは不可能です。しかし、卑弥呼という重要な存在を無視して国や民族の歴史は洞察できません。そこで必要となるのは可能な限り多元的に卑弥呼の世界観を提示し、それを私を含めて読者各々の生涯における経験をベースに再編集していくことです。
卑弥呼について考えることは無数にありますが、今回は彼女の性格を決定付けている祭祀の側面に注目します。大前提となる『魏志倭人伝』によると、女王・卑弥呼は[鬼道]を駆使する存在として描かれています。この[鬼道]は複雑な概念なので日本語読みのKidoとして進めていきます。
卑弥呼の鬼道は、倭人の習俗として広範囲に見られたようですが、行事を執行したり、旅をしたりする場合に行うものとされています。その祭祀の内容は骨を焼いて占いを行い、その骨の割れ目から吉凶を占うことを基本としています。この占いの結果は骨の焼けた痕跡から判断しますが、この結果はイコールで神の意志として考えられました。ただ、ここに中国と日本側の差異もあります。古代中国側では[亀卜](Kiboku)と呼ばれる亀の甲羅を使った占いが一般的でしたが、古代日本側では[鹿卜](Rokuboku)という鹿の肩甲骨を使用する占いが一般的でした。この鹿卜は[太占](Futomani)とも呼ばれており、卑弥呼以降は中国の影響を受けて朝廷側は基本的に亀卜へと変化しますが、朝廷の外部では共存する形で日本の占いの原型を形成していました。ただし、これらは全て秘伝で一子相伝であったため、限定された人々以外に駆使することはできませんでした。
古代の作法における鹿卜は、ハハカと呼ばれた上溝桜の木を炭火にして牡鹿の肩甲骨を熱する手法であり、712年の古事記や720年の日本書紀にも記述が見られる伝統的祭儀の一種だと考えられます。日本の観光で奈良市に来訪すれば、奈良公園に無数の鹿が生息していることをご存知でしょうが、この鹿が神と見做されていたのは、元々は近隣の春日大社側の神話において主祭神となるタケミカヅチが現・茨城から白い鹿に乗って降臨したと伝えられているからです。ただその源流には、鹿卜という重要な判断の素材となる鹿を神聖に扱う古代人の意識が存在したことを示唆しています。実際、弥生時代の祭祀ではシャーマンが鳥の装束を身につけた状態で、鹿を神に対する生贄に捧げていました。
当時は、今で言うところの祈祷師や呪術師のようなシャーマンの性格を持つ人々が各地に多々おり、各地で病気の治癒などで広く活動していたことが想定されますが、卑弥呼はこうした一般的なシャーマンとは次元の異なる別格の存在です。第一に、そもそも卑弥呼の即位は複数の男王による共立という形で行われています。この共立は古代ヤマトで部族を束ねる複数の男王が覇権を巡って戦争を行う中、全部族が絶滅する憂慮が起きたことから、暫定的に女王として卑弥呼を擁立したと考えられています。ただそうした戦争を収束するための女王擁立という視方は恣意的なものであり、極めて現代的な解釈です。なぜならば、戦争を行う男性という近代的構図が無自覚に前提されているからです。それは近代的解釈としては妥当でも、弥生時代は女性の兵団の存在が見られるため、こうした一元的解釈は無効です。
むしろ卑弥呼の共立の背後には、信仰を巡る衝突があったと見るべきです。単に武力だけの戦争を収めるならば、強いカリスマ性を有する指導者の登場によって終わりますが、卑弥呼の登場は明らかに祭祀的要素を強く有しています。これは卑弥呼の登場によって、それ以前の古代日本に存在しなかった新興宗教の誕生を語っています。ここで重要なことは、この新興宗教は卑弥呼によって生み出されたものではないということです。既にそうした萌芽自体は各男王の統率する部族に共有されて育まれていました。ただこの場合、その新興宗教の成立には男王が即位するのではなく、女王の即位が必要だったということです。魏志倭人伝は限定的な倭国の実態を記すものに過ぎませんが、当時の日本全体で見れば部族を女王が統治する形態はかなり一般的でした。
卑弥呼の即位から死去までの年代推測が概ね正しいと仮定すれば、卑弥呼は比較的長寿を全うしており、その即位は少女時代に行われたものであることが推定されます。これは卑弥呼の没後に再び混乱が生じるも、その後に卑弥呼の親族から擁立されたToyoという少女が13歳で女王に即位したことからも明白です。卑弥呼は即位後は一生のほとんどを共立した部族の男王たちによって世俗から厳重に隔離され、一切の日常性を禁じられた世界で生きています。この目的は混乱した国を治めるために生涯を捧げることにありますが、その国を治めるための神の神意の媒介者として最上級の存在だったからです。実際、卑弥呼の居住地は常に兵士に管理されており、即位後の卑弥呼の姿を見た者はほとんど居ないことが魏志倭人伝に記されています。つまり、ヤマトの女王とは言っても、人々の前に姿を現すような存在ではなかったのです。
ここで注意が要されることは、卑弥呼という存在は当人のカリスマ的人格に由来して生まれたものではないということです。そう考えるのは巨大な宗教観を持つ大陸的な発想であり、日本側とは全く異なります。なぜならば、神意を根拠とする安定した序列の形成を欲するヤマト中枢地域の部族の男王が、権力を担っていることに変わりはないからです。つまり問題は、この新興宗教の統合性や包摂性を実現する人智を超えた霊的能力にあります。
卑弥呼の統治するヤマトでは、政治の実権は実の兄弟側に委託されており、卑弥呼側にはありません。ただし、この政治の判断は全て神意を媒介に行われるため、必然的に卑弥呼側の宗教的力が高まります。この姉妹の卑弥呼と兄弟の政治実権者を結び付けていたのは、唯一卑弥呼のもとへ出入りを許されていた男です。この男は中国側では召使のように捉えられており、卑弥呼には夫がなかったと考えていますが、そうではなくこの人物が今で言う夫に相当します。
神からの神意を神託で受ける卑弥呼の言葉は即ち神の意志ですから、この夫の媒介を通じて卑弥呼の兄弟に伝えられる政治動向の判断は神の意志となり、逆らうことは許されません。こうした統治の形態が卑弥呼の登場によって確立されたと言えるのですが、果たしてヤマトがその原型となったか否かについては疑問が残ります。
そして魏志倭人伝は、この宗教を[鬼道](Kido)を述べており、卑弥呼は[鬼神](Kishin)に仕えていると記しています。ここはかなり厄介ですが、現代的解釈では鬼 (Oni)は悪魔やデーモンとして訳されてしまいます。この解釈は完全に誤っており、古代中国側でも[鬼]はイコールで悪魔やデーモンではありません。非常に多元的な存在であり、後に悪魔やデーモンに近い観念と結び付いていきます。
元々中国側の[鬼]は、死者や死者の霊魂が原義です。ただこの死者とは現在の私たちが想定する意味での死者ではなく、白骨化した人の屍として時差を伴います。この原義が後に祖先の霊の意味を持つようになり、現世を生きる子孫の人々を規制する力と観念されるようになりますが、これが山や川などから陰陽、さらには天地などと混融し、やがて天体信仰の観点から宇宙の主催者であるかのように考えられるようになります。もちろん、これはかなり端折った説明であり、数千年から数万年規模の変化です。ただ鬼がこの原義としての死者から派生してデーモンや悪霊や悪魔となり、そこから様々な存在が鬼へと還元されていったことは考えて良いでしょう。
この多義的性格を前提すると、卑弥呼の[鬼]や[鬼神]は、人間の世界を規制する威力を持つ霊的存在であり、祭祀の対象となる畏怖すべき霊的存在に近い神だと言えます。[鬼道]の[道]は教法のようなニュアンスですから、独自の神話的世界を伴う新興宗教がヤマトで成立していたことを示唆しています。この新興宗教の実態を本当に魏の使者が見たか否かは別途議論しますが、おそらく倭人から聞いた話の範疇として記されています。
ただ興味をそそられることは、どのようにこの新興宗教が突然ヤマトで誕生したのかということ。そしてその宗教とはどのような信仰や祭祀を有していたのかです。ここは魏志倭人伝からは掴めませんが、多角的に調査を行うことで実像に少しでも迫ることは可能です。実はこの卑弥呼の鬼道の成立と日本神話の女神・アマテラスの誕生とは無縁ではないからです。そしてアマテラスは後に太陽神へと還元されていきますが、その原初性は海を照らす神であり、海洋部族にとっての神を源流に持ちます。一応、古事記や日本書紀、さらにはアマテラスを奉祀する現在の伊勢神宮などでは、アマテラスを女神として位置付けられますが、古くは男神だったことが他の文書や伝承などから見えてきます。
個人的には太陽信仰が日本に流入し、それを祭祀として体系化しようとした際に、アマテラスは男神から女神に転移する初源的な変質が起きたと考えています。実際、単なる太陽信仰であれば、別にヤマトの男王たちは女王として卑弥呼を担ぎ出さずとも、男王の一人が新興宗教の祭主に即位すれば良いはずです。しかし、この時代のヤマトの部族の男王たちはこうした方法を取っておらず、わざわざ女王として少女を共立して即位させています。これは彼らの信仰から見て、太陽神の神意を降すために男王ではうまくいかなかった太古の記憶を伝えており、卑弥呼を即位させたことによって宗教の統合に成功したことを示唆しています。つまり、日本列島のヤマト地域における太陽信仰の主勢力は、女性のシャーマンを祭祀の頂点に立てる宗教的教法を有していた可能性が高いのです。
そして興味深いことに、この信仰は日本列島で始まったものではなく、何者かによって新たに持ち込まれた信仰だったのです。この太陽信仰を有する主軸となった部族は、起源を日本列島に持たない移民だったのですが、この太古の記憶の名残は、これまで先人たちによるとてつもない努力と調査によって解明されてきた一つの真実に残っています。しかし、この真実はナショナリズムや各種イデオロギーに阻まれてしまい、未だに注目されることはなく、ごく一部の人々に知られる限定的な真実となっています。
一体、古代日本列島に太陽信仰を持ち込んだ部族は誰なのか。それを伝える一つの伝説が、今も海を超えたある地域に残っているのです。