倭人考 6On the Wajin, Part 6
歴史を通じた誤字・誤植などによって必然的に薄まっていく古代の姿。これは文献に残すというアイデアが生まれて以降、避け難い一つの厄介な問題であると同時に、古層を理解するための重要な道でもあります。ゆえにどこから古層を見極めるかという視点の問題が重大になってきます。
いち早く文字や文献技術を獲得していた中国側では、王朝を軸に安定した体制を維持するためには、開かれた四方八方の国土という観点から相手を知ることの重要性が高まっていました。そこで四夷という考え方がいつしか生まれていき、古代日本の世界はこの中の東側に存在する東夷の一つの種族として理解されていきます。その文献的に最初の史料となるのは現在『魏志倭人伝』と呼ばれるものですが、この古代日本の実像としての倭国の倭人、あるいは邪馬台国の女王・卑弥呼を洞察しようとすれば、個人の生涯では不可能です。それほど激しい歴史的混乱が東アジア全体の歴史と関わりながら起きているためで、一元的な解釈や答えを明確に開示することはできません。ただ、この不可能を前提にした上で、とてつもない複雑な混乱を掻き分けながら、古代日本の姿を表出するまでの旅は独自に続けることができます。
そこで今回のテーマは、240年代に日本列島に来訪した魏の使者と卑弥呼の関係です。実は、この邪馬台国の女王・卑弥呼という姿の記述自体にも、問題視しなければならない前提が多々潜んでいます。まず最初に、音の観点から見ていきます。
前回の最後に示唆しておいた通り、[邪馬台国]を現在のようにYamataiと読むのは幾多の誤字・誤植、そして記録史料を持っていた中国側の王朝の変動などが関わりながら、いつの間にか定着した慣例です。そして重要な点は、邪馬台国をYamataiと読むのは間違いで、現代的に訓むと正しいのはYamatoです。ただ、どうしてYamataiとYamatoなる音の相違が生まれてきたのかという観点を見ておくことは肝心です。
魏志倭人伝は『三国志』の一編として長く継承されたものですが、この三国志は最後は西晋に仕えていた官僚の陳寿(233-297)という人物によって大体280年代頃に脱稿されるも、陳寿が297年に死去したことから、300年代前後に皇帝の詔命によって官人が陳寿の家に行って写し取ったものをベースとしています。これが今では広く読まれる三国志が世に伝えられた最初の動きだったのですが、この段階ではあくまでも史料的な役割であって広く読まれるまでには至りません。そこから100年程度を経た429年になると、裴松之(372-451)という政治家・歴史家であった人物が、陳寿の三国志として伝わっていた写本の一つを底本として、注釈を加えた三国志を書きます。この裴松之の注釈による補強が当時高い評判となり、ここで三国志は広く読まれる時代を迎えます。
これ以降、無数の写本が作られたことが想定されますが、その流れは全く分かっていません。ただ時代が北宋(960-1127)の時代に入ると同時に、文献の三国志は新たな段階を迎えます。それが印刷技術の導入です。本格的な印刷技術自体は、定説では北宋の畢昇(972-1051)が発明したものであり、活版印刷術の始まりと見做されますが、その最盛期は11世紀前半から中期頃です。ただ既に1002〜1003年頃の時点で北宋の中央の学校を統括する教育行政官庁の校訂による三国志の刻本が出されています。この流れは北宋以前の文化時代である唐(618-907)の末期に差し掛かる頃に動乱の影響で伝来していた無数の書物が散逸した経緯があり、それ以降に新設された教育行政官庁が932年頃から20年程度の歳月をかけて再び書物を伝来するプロジェクトを始めたことを皮切りとしています。この流れで活版印刷技術の登場に拍車をかけていくのですが、こうして11世紀初頭の時点で三国志も印刷されたのです。
ここから中国側の王朝が替わる事情から複数の印刷された版本に分かれていき、複雑なのでここでは触れませんが、このシリーズで対象にしている魏志倭人伝の歴史的な研究に限定すれば、大体五種類の版本が利用されます。ただし、初期の北宋の版本は失われており、最も古いものとしては12世紀半ば頃からのものです。そこから18世紀前半までをかけて印刷された各々の系譜を基本として研究が行われますが、この写本から版本の過程で扱いきれない誤字・脱字などを通じたズレが生まれています。非常にややこしいので、ここでは丁寧に表記を照らし合わせて概観を見ていきます。
まず、上述した印刷された版本側の三国志における魏志倭人伝の史料では、邪馬台国の名称は[邪馬壹国]と[邪馬一国]となっています。この[壹]は現在は[壱]と記されますが、古くは[壹]と書かれました。前提の読み方を見ておくと、[邪馬台国]はYamataikokuとなり、[邪馬]がYamaで[台]がtaiで[国]はkokuとなります(kokuは国のことですので、省略します)。その中でこの版本側では[邪馬壹]と[邪馬一]となっており、[壹]も[一]も訓み方はichiであるため、YamataiではなくYamaichiと読まれます。ただし、このYamaichiの読み方が誤りであることに加えて、問題は漢字表記側で印刷が始まった版本の時点で全て誤っていることです。これは北宋が11世紀初頭に印刷した底本を誤字・誤植した影響と思われますが、一方でその底本自体がそのように表記していた可能性もあります。つまり、かなり長い歳月に渡って誤字・誤植された表記でYamaichiとなっていました。
なぜこのような誤字・誤植が起きたかと言えば、中国語のややこしい似た字体が原型にあったからです。それが[邪馬臺国]という表記です。パッと見るだけでは見分けがつきませんが、[邪馬臺][邪馬壹]と並べてみると、[臺]と[壹]の違いになっていることが分かります。これは写本時代が長かった影響と、中国王朝の転移による言語圏の相違など複雑な要因が絡まった結果でしょうが、実は北宋以降の版本が間違っている根拠は、三国志の写本時代の4世紀初頭から10世紀末までに執筆された書物の版本はどれも[邪馬臺]になっているからです。例えば、五世紀前半に書かれた『後漢書』は[邪馬臺]となっており、[邪馬壹]にはなっておらず、この書物は後漢の存在した時代的には魏志倭人伝の舞台となる魏の時代よりも古いのですが、書物の成立としては三国志よりも後です。つまり、文献的に後漢書が参照した三国志には[邪馬臺]と表記されていたということです。
また629年に成立した中国南朝の梁(502-557)の歴史を記した『梁書』も[邪馬臺]となっています。この辺りを概括すれば、少なくとも6世紀前半頃までは[邪馬臺]の表記が正しいものとして中国側の文献では写本を通じて伝わっていたことが見えてきます。もう一つこの問題を探るために欠かせないのが7世紀中期頃に完成した『隋書』です。この隋書には倭国の首都の所在を記した一編があるのですが、そこは原文で[都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也]となっています。これは隋書では[邪靡堆]に首都があると記しながら、それは古い魏志倭人伝で[邪馬臺]と記された都のことだと書かれています。漢字に馴染みがなければ厄介かもしれませんが、[邪靡堆]の[靡]は[摩]と通用されており、[堆]は[推]との音が似ていると捉えられます。これは後漢書の倭国に関する注記が676-680年頃に付加された際に[邪摩推]と変移しており、さらに766-801年にかけて唐で編纂された『通典』も[邪摩推]となっていることに関わります。つまり、隋書の文は7世紀初頭の写本として伝わっていた魏志倭人伝などには、[邪馬臺]として正しく伝わっていたことを明確に示しているのです。
ただ7世紀以降の各種様々な場所で写本や版本が生まれていきますが、その古い正確な記載を継承しているものも散見されます。この辺りのズレの複雑さを取っ払って考えれば、少なくとも掴めることは三国志の本来の記述では[邪馬臺]となっていたということです。ただし、北宋による最初期の印刷側の三国志は既に[邪馬壹]となっています。
ここでベースとなる女王・卑弥呼の所在を巡る用語として、[邪馬臺][邪馬壹][邪靡堆][邪摩推]の4つを基本に設定でき、これらは現在一般に使用されているYamataiの[邪馬台]への変異を見るための素材となります。続いて問題はこれらの読み方です。
もちろん、古代の音は記録できない以上、私たちが正確に知ることは不可能です。これまでシリーズでも倭人や倭国などの音の源流にはWanがあったと書いてきましたが、これも所詮は現代的理解の水準でこの音になるというだけであり、倭人がこの音をどのように正確に発音したかは不明です。ただし、この古代日本の首都の音に関しては、[邪馬臺]は推定でこの時代の中国語の音では<
<hjɐg-mɐg-dəg>か<iɐ-mɐ-d’əi>の類と考えられており、表記としては推定で[イアマデオ(ia-ma-deo)]のようなものになりますが、音自体は<yamadö>と発します。<yama>は日本語で[山]であることはすぐに理解できますが、問題は<dö>です。個人的に有力と見ている説では、<dö>は日本語の濁音と呼ばれるものであり、これは古くは鼻音音節直後の濁った音になるなどの理由が考えられるため、後の隋や唐の時代の史料として[堆]を<tuəi>としたように古代人の<tö>に相当します。つまり、卑弥呼の所在地はYamatoだということです。
なぜこのYamatoがYamataiになったかと言えば、唐の時代の中国語の音韻変化が理由と考えられています。この領域は中国音韻学の世界で私には扱えませんが、唐代の人々は[邪馬臺]を<yama-ta>に近い音として捉え、[邪靡堆][邪摩推]を<yama-tö>と捉えた可能性があります。なぜここまで複雑になるかと言えば、古代日本語の音を中国側の文字に当てたからです。集約すれば、卑弥呼が所在していた倭国の首都機能はYamataiではなくYamatoであり、Yamataiなる国も場所も日本に存在しないものでした。そしてこのYamatoは後に日本側の表記で[大和]となり、奈良盆地南部地域を指示する呼称になるのですが、かつて卑弥呼はこの地に実在したということです。
ここで<yama>は日本語の山であることは自明ですが、<tö>は何を表していたかが新たな問題に浮上します。実はこちらもややこしいことに、歴史的に日本側で邪馬台国の畿内説(奈良県南部)と九州説が対立していた事情は、この歴史が渾融した状態で考察されたことに原因があります。つまり、古代の九州側に後に奈良でYamatoの国を興す主勢力が居たということです。その証拠は今も九州の地名に刻印されています。九州には現在の福岡県南部地域に[山門]と表記する郡があったのですが、これはYamatoと読みます。またそこから南部に向かうと熊本県東部の山間部に[山都]と表記する町が今もあり、ここもYamatoと読みますが、この呼称は2000年代初頭に生まれた新たなものです。源流は福岡側の[山門]と表記するYamatoにあります。
この表記から安易に推察すれば、古代日本人にとっての原初的なYamatoの音は、山を門に開かれた土地を指していると考えられます。これは[山門]の[山]が山、[門]が門を表すからですが、するとこの言葉は定住と狩猟採集のバランスを取って生活していた縄文人の言葉というよりも、むしろ農耕を基礎とする生活形態を持つ弥生人以降の言葉に思えます。ただ、ここにも気を付けることがある。むしろこのYamatoの古称を私は縄文人に由来するのではないかと見ており、それは農耕民にとっての言葉ではなく、むしろ海洋部族の言葉に由来する可能性を考えています。古代日本の海洋部族は、「山当て」と呼ばれる手法で自分たちの海上の位置を把握しており、島国の日本らしく山を目標に漁場などを伝えていました。こうした名残がYamatoの原型である[山門]と見做されていき、後に農耕技術を携えた移民勢力が来訪すると、その原初的な意味は転移して農耕に適した土地に近付いたか、あるいはかつて縄文人の一部部族がYamatoに近い音で呼んでいた土地に住んでいた部族が、最終的に奈良県南部の大和を征服した初期集団のルーツだったと考えられます。
この難解で不可視な歴史について、重要な指摘を行なっていたのが民俗学者の折口信夫です。彼は日本全国がやがてYamatoと呼称されるようになった起源には、元々福岡県南部に存在した[山門]の勢力が、ある時代に東に向かって大移動を行った時に引っ付いてきたからだと見ていました。ここでピンと来る読者もいるでしょうが、この東への部族移動の歴史を伝える神話が神武東征です。神武東征は九州から始まり、東へ向かって進攻して最終的に山門盆地南東部の現・奈良県橿原市で勝利を収めて初代天皇として即位しますが、この部族の起源的な場所の呼称が部族移動とともに持ち込まれていき、やがてこの奈良盆地南部側がYamatoと呼ばれるようになった可能性があるのです。
このように、一般的に考えられている卑弥呼の所在問題は、複雑な東アジア史の全体的な動きの中で起きたズレです。ゆえに誰も総合的に論じることが不可能なのですが、今回の記事で少なくとも理解できることは、卑弥呼はYamataiの女王だったのではなく、Yamatoの女王だったということです。この前提を踏まえてください。次回はここまでを踏まえて、実は魏の使者は卑弥呼に謁見していなかったのではないかという可能性を見ていきます。これは当時の三国時代の乱世であった中国側の事情が如何に東アジアに大きな影響を与えていたかを示唆するものとなり、同時に魏志倭人伝で記される日本の実像がほとんど実態を反映できなかった姿が見えてくるのです。