日本にデモクラシーは存在したのか?Did Democracy Ever Exist in Japan?
現在の日本の状況を見ていると、歴史に放置されたまま錆びたこの問いが私の脳裏に浮上します。一般に第二次世界大戦後の日本については、敗戦から高度経済成長期を経て先進国の一つとなり、デモクラシーが体現された国の一つという物語が語られます。冷静に考えれば、どう考えてもこの結び付きには無理があるのですが、そうしたことは問われずに、今日まで日本は民主主義国家の一つと見做されています。あえて辛辣な言い方をすれば、こうした物語は誰が日本のどこを見て、民主主義の体現を感知しているのかと言い換えられますが、まともに考えられた形跡はありません。
碌に考えられてもいないのに、日本は民主主義国家だという規定だけが蠢いている。しかし、その物語の内面のどこを見ても民主主義の理念があると私は思わない。いや、日本に生まれてから35年が経つ今でも、日本のどこに民主主義の理念が浸透しているのか私には分からないのが本音なのです。もっと突っ込んで言えば、そもそもどこかから日本にもたらされたこの民主主義という意味が何なのか私には分からないのです。そしておそらく、日本人の全てもこの感覚です。単純に深くこのことについて考えたことがないだけで、冷静に考えれば日本人の誰もがこの奇妙さに気付きます。
正直に言えば、私にはこの民主主義が何なのか全く分からない。その分からないというニュアンスは、日本に居る限りで一度も体感したこともなければ、触れたこもなく、ましてやそれについて語る人の言葉に一度も感激も感動も同意もしたことがないということです。きっとどこか遠い国に民主主義はあるのでしょうが、少なくとも日本にそのようなものはないという認識です。
西洋の読者から見れば、こうした問いほど馬鹿馬鹿しいものはないかもしれません。きっと民主主義を熟知しているでしょうし、民主主義が何であるかを知っており、その中に生きている自負もあるでしょう。ゆえに、一般に同じ民主主義的価値観を共有していると思われている日本側から、このような奇妙で馬鹿馬鹿しい疑問が提起されるのは、あまりにも未熟に見えるかもしれない。しかし、実はここにこそ問題が開示されているように感じるのです。それは民主主義の理念は、実は場所における土着性がなければ、体現され得ないものであるという問題です。言い換えれば、共同体の利害において疎外される共同幻想では、この民主主義は付随され得るが、他の幻想形態である個人幻想や対幻想においては、民主主義の理念は私たち日本側にはないということです。そしてこの「ない」はネガティブな意味合いではない。一体、これは何なのか。
この問いというか疑念は、私にとって意外にも深刻な問題となっており、随分と長い歳月をかけてこの答えを求めてきましたが、未だ一向に答えに迫った感覚もなければ、民主主義が少しでも腑に落ちる瞬間を経験したこともありません。ですが仮に日本が民主主義国家なのであれば、その歴史は西洋と比較すれば浅い範疇に収まるはずであり、明治維新以降を起点とすれば、精々160年程度の歳月の中で限定的に展開されていた可能性は見えてきます。ゆえに民主主義が輸入された初期の時点で、人々が如何に民主主義を理解した上で日本の国家形成に採用したのかを考えれば、きっと答えに至るだろうと考えました。ですが思惑は外れ、明治次元で私が感激する形で民主主義を論じた人は誰もいなかったのです。
後代の人が感激しない理念を、当時の人々が感激して賛同し、能働的かつ積極的に受容したとは到底思えない。つまり、日本人はこの近代史において一度も民主主義に感激したことがないのではないかという疑問が浮上してきます。如何なる理念も冷たい死体ではない以上、生きた生命力を持っていなければ浸透することはない。特に国家規模の高尚な理念として掲げるのであれば、この生命力はさらに強く有していなければなりません。なぜならば、死体の理念では人々は感激することはないからです。私は民主主義の西洋における歴史を知りませんが、ここまで先進国の理念の頂点に君臨しているのですから、それは歴史的に人々を感激させる強い生命力があったはずです。逆に言えば、その生命力が強いがゆえに、少しでも動揺すると今日のように民主主義の死や、民主主義への挑戦という形で防衛反応を見せるのでしょうが、それは裏を返せば、今も西洋の多くの人々がこの民主主義を体感し得ている実感があるからでしょう。
そう考えると、日本で同じ実感を持つ人はおそらくゼロです。つまり、日本人は160年の歴史で民主主義の高尚な理念に感激した経験がなく、政治家レベルでは民主主義と日々語られていますが、国民一人ひとりにとっては触れたことのない知らないものであり続けています。これは大変奇妙なことではないでしょうか。なぜならば、少なくとも民主主義は用語の観点から見ても、国民の能働的な賛同によって以外、実現されるはずがないからです。つまり、1億2000万人の国民の誰一人として民主主義に賛同していないにも関わらず、民主主義というワードだけは日常的に濫用されており、かつ日本は民主主義国家となっている。これこそ馬鹿げたことではないのか。
そうした苛立ちを抱えている中、最近の日本では総選挙が行われていましたが、外に出ても家にいても、拡声マイクで投票を訴える政治家のパフォーマンスが毎日騒音となって襲いかかってきました。そこで何度も繰り返される民主主義のワード。そして彼らの主張が民主主義を指示しているのであれば、今回の自民党の圧勝も民主主義だということになる。どこにも民主主義がない国の中で、民主主義が一人歩きしている現実は、未だ日本が国家運営として非常に未熟だった事実を物語っているようにしか思えません。むしろ、私には江戸時代の徳川将軍家の方が、よっぽど巧い国家運営を為していたように見えます。
つまり、日本は近代化のどこかの時代に民主主義に反してしまったから今日の衰亡があるのではなく、初めからそのようなものはなかった可能性があるのです。これは民主主義の担い手である西洋諸国の一部の人々にとっては、耐え難い屈辱とも言えます。なぜならば、彼らの信念における普遍が全く通用しない実証となったからです。日本の衰亡には、明らかにそうした側面があります。いわば、近代化の鏡であり、西洋化の鏡です。その場所や地域次元に根付く圏域を超越した外部に同じ論理を適用させた時、一体その国の未来はどうなるかを的確に示しています。
こうした漠然とした混乱というか苛立ちを抱えていた最中、ある人物がかつて同じようなことを考察していたことを知ります。それが作家の与謝野晶子(1878-1942)です。彼女は明治、大正、昭和の三つの異なる時代にかけて最後まで活躍した稀有な存在であり、この激動の時代の経過が作品には克明に刻まれています。ただ私が特に注目したのは、彼女のズバ抜けた慧眼です。
大正時代に入るとデモクラシーという用語が一時流行語になるのですが、当時は誰も彼もがデモクラシーを賛美するような発言をしていました(日本主義などは例外)。こうした虚偽性と軽薄性を見抜き、本質を問う思考を次々と展開していた与謝野晶子は、未だこの側面が全く評価されていない時代の重要人物の一人と言えます。あまり日本国内でも知られていませんが、彼女は本業の詩や文学の活動を積極的に行う傍らで、同時に社会批評を相当量書いて雑誌に寄稿していました。
注目すべきは彼女が何を語ったかではなく、彼女が生涯で辿った時代性です。明治維新から約10年程度が経った1878年に大阪府堺市で生まれた与謝野晶子は、9歳で漢学の私塾に入って勉学を始め、十代で源氏物語などの日本の古典文学に傾倒し、兄からの影響で当時躍進していた新時代の文学に没頭します。同時期、既に与謝野晶子の代名詞となる短歌の才覚が発揮されており、20歳頃には和歌に傾倒し、22歳頃の1900年からは後に夫となる歌人・与謝野鉄幹が創立した雑誌に短歌を発表し、東京に居を移して以降は自ら歌集を刊行して時代の寵児となります。
ここで知名度を高めた与謝野晶子は、1900年以降は大躍進を遂げます。そのような新時代の状況下で過ごした彼女は、新たな価値観が衝突する激しい明治の混乱期を過ごし、詩人としての感性から当時の知識人を凌駕する鋭い目で社会を見つめていました。特に与謝野晶子は、明治から始まった日本の近代的な意味での政治は、実は中身を伴ったものではないことを見抜いていました。これは言論の自由が加速する大正時代に入り、明治を鑑みながら執筆された論稿の随所に現れていますが、彼女は「日本の政治は、形だけ大衆の支持するものとして規定されている」という批判軸を据えていました。この時代はまだ統一された国民概念は成立していませんが、大衆の支持によって樹立している政府という既成のイメージに対して、それが虚偽であることを明確に射抜いています。
この批判は、衆議院は大衆の選挙した議員のみによって成立していると言われるが、実際の事実として認めなければならないことは、大衆自身に政治に対する理想がないことです。この言葉は、実は今の日本とも完璧に一致します。今回の高市首相率いる自民党の圧勝は、露骨なほど米国への巨額献上金を捧げる合意を前提に米国側に許可されたものです。ゆえに中立的態度など微塵も持たない日本のマスメディアは、選挙以前から自民党の過半数圧勝を喧伝しており、トランプ大統領側が高市首相を推挙するような暴挙も起きていました。つまり、今回の自民党圧勝は選挙前に約束された諸々の履行に過ぎないのです。
この選挙結果はマジョリティの有権者層である高齢者層が日本の運営権を米国側に委譲することを認める宣言であり、ここから3分の2の議席を掌握した自民党政権は、露骨な暴走傾向を高めていくことは明白です。ここから加速的に日本人の困窮を代償に捧げて、自民党政治家と官僚経由で米国側に巨額の富が委譲されていきます。つまり、自民党の政治家は日本のために政治を行なっておらず、単に米国側の利害調整の仲介役として言いなりになって活動しているということです。これも与謝野晶子が見抜いた通り、現代的に言い換えれば、国民自身に政治に対する理想がないことが原因です。ゆえに政治家が暴走しても、国民の資産を他国に献上しても、何も文句を言わないというよりも、何も知らないという愚行が蔓延するのです。言い換えれば、日本の政治次元に焦点を据えるならば、未だ近代化は一度も成し遂げられていないと言えます。つまり、完全な失敗です。
これは明治以降、そもそも国民自身が政治の理想に立脚して各種の実際問題を処理する政治意見が確立していないため、「世論」や「国論」などのあたかも国民の総意を抽象化するような用語自体は存在しても、実際には国民の意見の総合である世論も国論も存在しないということです。明治時代に生きた与謝野晶子は、当時の一般的な歴史観である江戸時代の封建主義という印象を持っていたため、この原因の所在が封建政治の専制的な影響によって日本人が自由を思想する機能を麻痺させたからだと見ています。そして彼女はそうした自らの土着的な性格に目を向けずに無視したまま近代化を叫んだところで、中身が伴わないのは当然だと考えたのです。
これは「江戸時代=封建制」「明治時代=近代国家」という二元論の構築が当時の政治家ー官僚ー学者によって恣意的に展開されていたからです。この状態をまともに考察しない状況下では、国民が諸々の権利を獲得したところで、結果的には官僚や政治家や学者などの少数者に指導されながら行動するほか無いという問題を指摘しています。例えば、参政権を得てもそれを運用するだけの素養が国民にはないため、少数のグループが作り上げる意見に国民が何も考えずに従属するということです。実際に明治以降の世論や国論と言われるものの正体は、実際は少数者の意見に多数が随伴したものに与えられた名でしかなく、そこに中身もなければ活力もありません。そして興味深いことは、この構造は100年程度経った今もなお、全く同じ構造として続いていることです。今回の自民党圧勝は、その再確認です。つまり、何も変わっていない。
いわば、一般的に議論されるような日本国内の政治動向の主義主張に原因があるのではなく、実はこうした問題以前に国民自体に政治の理想がないということに尽きます。そしてそれは今に始まったことではなく、160年前から全く同じだということです。1960年代後半の学生運動でさえ、日本の近代史では最も政治闘争の側面を持っていたように見えるでしょうが、中身を凝視すれば輸入された主義主張の対立でしかなく、国民自身の政治の理想を語るというものからは程遠い実情がありました。概略すれば、日本では近代政治を行う土壌自体がないのです。これは言い換えれば、民主主義などあり得ない段階に位置している事実を語っています。ですが、不思議なことに大勢が日本は民主主義国家だと捉えているのです。これは完全な虚偽だと言えるでしょう。そこでこの土台を基本ベースとして、デモクラシーの問題を考えてみます。
与謝野晶子は『デモクラシーについて私の考察』という文章を大正時代初期頃に書いています。この論考は明治とは異なる大正の独特の性質が見えてくる興味深いものとなっています。この文章は学者が当時行っていたデモクラシーの無思慮な賛美ではなく、学者ではない与謝野晶子だからこそ展開できた鋭い論稿となっています。ここから彼女の論稿をベースに論じていきます。まず、大正が始まる辺りからデモクラシーという標語が日本の隅々まで一気に広まり、いつの間にか絶対的な勢力にまで発展しています。つまり、明治からデモクラシーは用語として多方面で使用はされていたが、大正に入るまで人々が口にするほどの強い存在感を持っていなかったということです。それが大正の新たな時代の風によって一気に日本中に拡大し、いつの間にか誰もがデモクラシーを語るような時代を迎えていました。これは言い換えれば、これまでデモクラシーという用語は政治家や学者に限定的に使用される程度であった次元を超えて、国民規模で日常的に使用されるようになった段階が起きていたことを示唆しています。
通常、こうした時代潮流は大した思考能力を持たない為政者には歓迎されるべきものですが、与謝野晶子はこの潮流が本当に喜ばしいことであるのかを誰よりも問うています。そして彼女の疑念は、当時展開されていたデモクラシーの潮流自体に、実は中身が伴っていないという確信に至ります。ちなみに大正デモクラシーという用語が存在しますが、こちらは1954年に大正時代を振り返って生まれた用語であり、大正時代にそのような言葉はありませんでした。これは大正を通じて政党政治の確立、普通選挙運動、労働・農民運動、女性の社会進出などを筆頭に、政治においては明治的な手法を批判し、国民の政治参加を求める運動が中心になった要素を含有しています。
視方を変えて理解が進むようにするならば、次のようになります。まず基本は明治新政府の政治家が樹立した江戸時代の為政者である徳川将軍家の封建制という批判軸の設定に始まり、その反動的立場から明治は始まったとするのですが、大正に入ると一転し、この明治側の再定義が進む過程で大正の性格が強調されます。それは明治の為政者である藩閥や軍閥の特権を批判し、国民の政治参加を求める運動を中心に据えるという観点です。藩閥とは明治政府の首脳部を占めていた江戸時代の長州藩(現・山口県)出身の政治家を筆頭とする独裁状態のことです。
ゆえに、この明治的体制の反動として大正ではデモクラシーという用語が標語になるほど浸透したということです。ここで日本語の観点に触れておくと、デモクラシーは英語からの輸入語として扱われますが、明治の初期にデモクラシーの言葉が入ってきた時には、翻訳語があてられていました。それは[共存同衆]という訳語です。この用語は今の日本人が使うような言葉ではありませんが、簡潔に言えば「人は誰もが同じであり、助け合って共存する」という考え方を含有しています。おそらく、デモクラシーの基本的な考え方としてこの訳語は妥当です。しかし重要なこととして、この用語は明治に普及せずに即座に廃絶したのです。
この後に今度は[民主主義]という訳語が生まれたと与謝野晶子は指摘しています。つまり、デモクラシーの訳語として日本側で転移が明治の時点で起きていたということですが、この[民主主義]という訳語が、現在ではデモクラシーの直訳の正統として位置づけられており、今日本では一般的にこちらが使用されています。ただし、この言葉も一貫して使用され続けていたのではなく、大正に入るとすぐに転移が起きています。当時、[民主主義]の冒頭の用語である[民主]が民を主とするという意味を含むことを嫌い、[民本主義]という新たな訳語が作られました。この[民本主義]を提唱したのが大正デモクラシーの旗手と言われる政治学者の吉野作造(1878-1933)です。この人物は大正に絶大な影響を与えました。ただ注意しなければならないことは、日本語の意味として[民主主義]から[民本主義]の考え方の転移の影響は、実は反デモクラシーへと転化したという点です。たった一文字違いにしか思えないでしょうが、日本語の場合、この一文字の転移は極めて重大です。なぜならば、意味が全く変わるからです。
[民主主義]は文字通りに解義すれば「民を主とする主義」であり、この主義の根幹には徹底的に国民のことを考えた能働的な側面が強調されます。しかし、[民本主義]は「民を本にする主義」という意味です。この二つは非常に似た意味に見えてしまうのですが、実はこの考え方は真逆と言えます。私の視点で言えば、用語として[民主主義]はデモクラシーに近似しており西洋的な意味を含有していますが、[民本主義]は儒教です。この差異は日本国内でも問題視されていませんが、極めて重要です。なぜならば、近代日本において起きた日本語の虚偽と直結しているからです。与謝野作造も、この虚偽の加担者です。
この時代は既に近代的な動きが日本でも強まっていた時代なのであえて言いますが、[民主主義]は国民が主体となる主義であることに対して、[民本主義]は国民が主体にはならない主義だということです。ややこしいでしょうが、この用語の転移背景には近代以降の日本語学者の偽装があり、それを簡潔に示せば、「日本語は主語が隠れている」という発想です。今も日本の学校教育ではこの教え方は前提となっており、外国人が日本語を教わる時も必ずこの観点を前提されます。いわば、日本語にも主語とコプラと述語が存在するという前提です。今回は詳細に踏み込みませんが、これは嘘です。日本語には主語もコプラも存在しないのです。
ただ、明治に国語学が登場して以降、現・東京大学の国語学の教授が結託し、日本語には存在しない主語を捏造します。これは彼らが近代の主導者である英国や米国の英語にはこうした構造があるのだから、必ず日本語にもあるはずだという根拠なき恣意的な認識に基づいています。しかし、彼らは東京大学の教授であったため、こうした嘘が平然と学問として罷り通り、今日まで甚大な悪影響を及ぼす根源を作ったのです。吉野作造はこの影響力の強い東京大学で学び、その考え方を疑うことなく政治理論にまで適用させました。このややこしい点をもう少し辛抱強く見てみます。
先ほど私は[民主主義]の日本語の用語の意味は、国民が主体となる主義だと言いましたが、これでは主体が国民になってしまうため、政治家や官僚や学者のような明治期の為政者の特権は維持できません。当時の彼らは主語構造を日本語が有しているという虚偽の観点を前提に、主体の問題をかなり執拗に考えていました。そこで政治学を学んだ吉野作造、あるいはその周囲の学者にとってみれば、主体が国民となる政治運動は認め難かったということです。なぜならば、それはイコールで彼らの占有していた諸々の利権が国民側に解放されることを許容することになるからです。
そこで吉野作造は、既に定着していた[民主主義]という言葉を変様させて、[民本主義]へと改ざんし、ここで前述の通り国民を本とする主義へと意味をすり替えます。この時に肝心なことは、「主語が隠れている」という謎めいた日本語に対する無知の虚偽が介入することで、この国民を本とする主義には主語が隠れていると捉えます。つまり、主体は国民ではなく、隠れている何かが主体であり、国民はそれに従属する存在でしかないということです。その隠れている何かというのが国家政治的な意図から出てくる国家です。つまり[民本主義]の本当の意味は「国家は国民を元とする」という意味になり、[民主主義]とは構造が一変します。
なぜならば、[民主主義]側で前提されているのは国民であるため、国民の能働的な運動によって国家は形成されるという余地を存分に有しています。これが私は日本側でデモクラシーに相応しい形だと見ているのですが、[民本主義]側で前提されるのは国家です。つまり、国家の存立のために国民が要される程度の意味になっており、国民は国家に従属するという立場に転移しています。この時、明治的な考え方が前提に配備されていますから、国家を主導する政治家・官僚・学者の意見に国民は従うという構造が密かに継承されていることに気付きます。つまり、大正デモクラシーの旗手と称えられる吉野作造が行ったことは詐述です。なぜ儒教的かと言えば、Shitsuraeで何度か論じている通り、江戸時代の体制哲学の本質にある朱子学の思想が近代的にここで通底しているからです。簡潔に言えば、国家のために国民は全てを捧げるという前提です。
ここを概観として掴めば、大正の本質的な性格はデモクラシーにはないことが見えてきます。むしろ明治的な復古であり、昭和の第二次世界大戦に向かう思想を先取りしている構造です。こうした観点が実は大正という興味深い時代には各方面に渾融しているのですが、次はここを踏まえてデモクラシーがその渦中でどのように捉えられたかについて見ていくことにします。
Has Democracy Ever Existed in Japan?