朱の世界 3The World of Vermilion, Part 3
謎に包まれた真言密教の開祖・空海。無名の僧侶とされる彼が、平安時代に入って突然台頭した歴史事情を探るために、古代氏族と新興氏族の日本における政治力学の変動が強く影響しているという観点から、昨日の記事では全体像を見ていきました。結果だけを見れば、794年以降の平安京の樹立と連動して空海は大躍進を遂げており、やがて804年には当時の最も著名な僧侶の一人であった最澄と共に、唐に派遣される僧侶として異例の抜擢がされました。やがて海を渡って共に留学した二人は、密教というモチーフを唐を経由して日本へと持ち込み、最澄は比叡山の天台宗開祖、空海は後に高野山の真言宗開祖となり、密教を独自に発展させました。
しかし、最澄は以前から著名であったことから朝廷側と接触がありましたが、空海は四国の地方豪族の家に生まれた無名の僧侶です。そのため、なぜこの人物が朝廷側の国家的な留学に抜擢されたかのについての謎は今も残されています。そして遍路の話に結びつけるならば、空海は唐に入国後の短い歳月で全ての奥義を恵果に伝授されて早々に帰国していますが、彼が遍路を開いたとされるのはその後の815年のことです。
四国の遍路は現在でも非常に有名ですが、結局その起源に関わる明確な事実は何一つ分かっていません。一般的に語られる修業の聖地として遍路が知られるようになったのも後代のことであり、空海の時代の真相をどの程度伝えているかは不明です。ゆえに、本当に空海がこの時代に初めて四国の遍路を築いたのかという問いに関しては、実は誰も答えを知りません。むしろ個人的には見方を変えた方が適切だと考えています。それは四国の遍路は「仏教の修行起源」としては空海を源流としているが、空海以前から遍路の原型自体は何者かによって築かれていたということです。つまり、名もなき先人の痕跡を辿り、仏教の修行や信仰の観点で再解釈したのが空海という位置付けです。ですが、この四国遍路の起源から空海の動きに至るまでの歴史は、実は現在語られるような密教的修行とは無関係だったのです。
そこで最近の空海の諸事情を概括した記事を踏まえて、今回は異なる角度から独自に考察していきます。この視座の転移の際に重要な背景として頭の片隅に入れておくことは、平城京から長岡京、そして平安京へと慌ただしく移動した遷都の姿を捉えることです。なぜならば、その背景の理解は空海が四国で何をしていたかに結びつくからです。その歴史に秘められた事情こそが、空海が異例の出世を遂げたことと深く関わっていたと個人的には考えています。
私は遍路の起源となった空海の動きは、資金面でバックアップする集団が居たと考えているのですが、このように視座を思い切って転移すると、一般的に空海に対して固定されているイメージが解体されていくことを感じます。つまり、空海の実像は後代に神格化されながら作り上げられたものであって、ほんの僅か一面しか見ていない可能性が高いのです。
まず確たる事実として、空海が生涯で深く関係した土地には一つの共通点があります。それは仏教の信仰とは全く無関係なのですが、共通点は辰砂です。辰砂を原料とする真っ赤な朱は、古代中国では不老不死や高貴の象徴としてだけでなく、厄災を防ぐ色として神聖視されており、日本側でも古くから朱の信仰は活発に行われていました。また最近別のシリーズで考察している『魏志倭人伝』にも、この辰砂に関する興味深い記述が残されています。魏の報告によれば、倭国の倭人が体に朱を塗っていることが記されているのです。つまり、魏の使者が接触したと推察される倭人の範疇に限定すれば、体に朱を塗る独自の風習を持っていたようなのですが、これは考古学的な遺構や遺物からも一致します。
また、魏志倭人伝の記録は日本では弥生時代と呼ばれる時代区分に相当しますが、これまでの個人的な日本調査でも、それ以前の縄文人が既に朱に注目しており、日常に用いていたことを理解しています。実際、四国の徳島にある約4000-3000年前の加茂宮ノ前遺跡は、国内最大かつ最古の辰砂生産拠点だったことが判明しています。これは既に縄文時代の時点で辰砂の採掘から顔料への加工工程を基本に、流通ネットワークまでもが大規模に展開されていた姿が示唆されています。今も多くの人々は縄文時代などを未開の部族として恣意的に考えてしまう悪癖がありますが、これは完全な近代的な過ちであって事実に反しています。
現在では朱はケミカル素材によって代替されていることから、天然の使用はほとんどなくなりましたが、今も日本を象徴する色の一つであり、神社の鳥居などでは古くから朱が使用されていました。ただ縄文人が長期的な歴史を通じて朱を使用していたというよりも、これまでの調査を考えると、初期的には漆の使用から始まり、やがて外来の影響を受けて朱に注目するようになった変遷過程があったと考えています。実際に福井県の日本海側では、約12600年前に縄文人が漆を使用した痕跡が出土しており、こちらは世界最古の漆使用例となっています。一方で重要な点は、この漆の使用において赤色の漆が存分に使用されていたことです。つまり、朱の色自体を重宝する礎自体は、既に縄文時代から用意されていた可能性があります。
言い換えれば、魏志倭人伝が記す倭人の体に朱を塗る行為も、もしかすると縄文人に由来する古い習俗の可能性があり、それらがベースとなりながら、弥生人の母体集団となる北東アジア系移民の渡来の影響を受けて、徐々に習俗を変質させたと言えます。ここで重要なことは、四国の徳島で国内最大規模かつ最古級の辰砂生産拠点が発見されていることです。示唆しておくと、空海が四国全土を巡って探していたのは、辰砂だったのではないかということです。しかも、それは空海が自発的に行なったものではなく、何者かが空海に辰砂探索を依頼したという前提になります。この探索に成功した功績が評価されて、空海は絶大な地位を築くことができた可能性があるのです。
この説が単なる空想ではないことを示唆する記述が、既に魏志倭人伝に残されています。それは「倭国の山には辰砂がある」という記述です。こうした記述は魏の使者が実際に見たというよりは、むしろ日本列島側の倭人から聞いて筆録したということでしょうが、中国側が辰砂を重宝していた名残とも言えます。つまり、女王・卑弥呼が統治する圏域内には辰砂を産出する鉱山が存在し、そこで大量の辰砂が既に採掘されており、各地に流通していた可能性が示唆されているのです。これは前述の通り、縄文時代に既に構築されていたネットワークを倭国の統治者が利用している痕跡です。
魏の使者が日本に来訪したのは3世紀中期頃のため、既に徳島の加茂宮ノ前遺跡から考えると数千年も後の時代に相当します。この観点を前提すれば、倭国の女王であった卑弥呼の一つの性格として朱の流通ネットワークを管理していた姿が見えてくるのですが、それは当然ながら、卑弥呼の呪術的な巫女の性格と強く関係していたことが考えられます。つまり、朱の呪術的要素を卑弥呼は活用した祭儀を行なっていた可能性が高いのです。何より興味深いことに、辰砂の産出地は日本全土に分布しておらず、かなり限定的なのです。
辰砂の産出地は水銀鉱床群の分布から知ることができますが、日本では特定の場所でしか辰砂は産出されません。ちなみに現在は1974年に環境問題の影響から国内の全ての辰砂産出鉱山は閉山しているため、痕跡を伺うことは難しい状況です。ですが、辰砂産出の地域は、不思議なことに空海の事績に関わる土地と完全に一致している動かし難い事実があります。ちなみに水銀鉱床とは、辰砂を主成分とする熱水鉱床のことです。
日本の水銀鉱床群の分布地域は、紀伊半島の吉野川沿いを中心とする大和水銀鉱床群、四国の中央を横断する阿波水銀鉱床群、そして九州の一部にある水銀鉱床群が主な産出地となっています。これらは地形では西南日本の中央構造線付近に沿って分布しており、一本の線が日本列島を貫くように分布しています。そして空海が生まれたのは、四国の阿波水銀鉱床群の北部に位置する香川県であり、遍路が開かれる際にも彼は四国全土を回っています。現在では、遍路は四国一周という観点が強調される傾向が強いのですが、むしろ遍路の四十八ヶ所だけを見るのではなく、その四十八ヶ所に囲まれた内部に存在する水銀鉱床群の分布を考えた時、空海の意図が可視化できます。
なぜならば、空海は信仰のために四国を巡ったのではなく、実利的な目的で辰砂を求めて動き回っていたかもしれないからです。そもそも後代の人々が空海を深く崇めたことから、空海の実像はかなり歪んだと見た方が現実的です。突っ込んだことを言えば、空海の後を継承した真言密教の僧侶による宗教勧誘のマーケティングの側面も鑑みた方が良いでしょう。絶大なカリスマを失った教団は、必ず延命するために多額の資金を元手に信仰を拡散させるからです。真言密教も例外ではなく、個人的には四国遍路を空海の信仰や修行的側面を結び付けたのは、空海とは直接関わりのなかった後代の真言密教の運営者たちだったのではないかと推定しています。つまり、空海を僧侶や密教の文脈に限定すると見誤ります。当時の平安京為政者にとってみれば、それ以上に重要だったのは財政面です。
そして空海と辰砂の関連性は四国に限りません。注目すべきは、空海が遣唐使から帰ってきた後に最終的に本拠に選定した場所が、現在の真言宗本拠として知られる紀伊半島の聖地・高野山だったことです。個人的に以前から不思議だったのは、徳島側の水銀鉱床群の密集地域を流れる巨大河川の名前が吉野川なのですが、この高野山北部を流れる巨大河川も吉野川と呼称が同じことです。しかも、紀伊半島側の巨大河川は和歌山と奈良を真っ二つに横切るように流れており、不思議なことに和歌山側では紀ノ川と呼ばれますが、なぜか高野山を境界として奈良側の上流側を吉野川と呼びます。この由来は未だ不明ですが、一説には高野山に本拠を構えた空海が故郷の四国の姿を想起して命名したとされており、それは吉野川の意味が古くは「神の救いの川」だったからではないかという指摘もあります。つまり空海の存在を一つの境界として、四国から紀伊半島の結びつきが浮上するのですが、この底部には常に辰砂というキーワードが潜んでいるのです。
事実、高野山は真言密教の聖地として信仰される金剛峯寺の印象が強く、今でも仏教の聖地のような印象が強い持たれていることからあまり関心が払われていませんが、高野山の信仰起源は空海よりも遥か古代に始まっています。実は、今も昔も高野山の守り神は女神です。この女神は一応宗教的観点では神道側に据えられていますが、私はそれ以前の原始自然信仰から生まれた女神だと考えています。つまり、この女神は縄文人に発見された非常に古い由縁を持つということです。
高野山の守り神である女神の奉祀に限定しても、1700年以上もの歴史があるとされており、それは空海の登場よりも遥かに古層に位置しています。そこで奉祀されている祭神がニウツヒメです。ニウツヒメとは、簡単に言えば辰砂の神のことです。これはニウツヒメの漢字表記である【丹生】(Niu)を見れば分かるのですが、日本の古語から解義すれば【丹】は辰砂のことで、【生】は生産地を表します。このNiuかNyuなどの音は縄文語に由来する可能性が高く、後続の弥生人などに継承されていった古い音と考えられます。つまり古来の祖先集団にとって、ニウツヒメの信仰は明確に辰砂の産出地を伝える実用的な原点を持っており、その辰砂の聖地を守る神としてニウツヒメが信仰されてきたのです。実際に今も高野山にはニウツヒメ信仰が強く残っており、金剛峯寺と共にこちらも参拝するのが理解ある人々の慣わしとなっています。
ここからは私見ですが、空海や彼をバックアップしていた何者かが、この古代の失われた辰砂産出に改めて目を付けたと考えてみます。すると空海の事績の背後には、彼を派遣して古代辰砂産出地の位置を特定する国家規模の極秘プロジェクトが存在していた姿が見えてきます。なぜ極秘だったかと言えば、これまで考察してきた通り、新体制の為政者である桓武天皇とバックアップの秦氏を筆頭とする移民系氏族が関わっていることが想定されるからです。彼ら新勢力は、奈良側の平城京に留まった旧勢力と拮抗しなければならず、奈良側にはかなり古い氏族集団が点在していましたから、平安京での執政の影響を奈良方面にまで及ぼすことは容易なことではありません。何しろ、平安京のバックアップは移民によって構成されていた性格が強いからです。桓武天皇という移民の血を引いていた天皇が死去すれば、当然ながら再び血筋を戻そうとする朝廷内の内紛が起きることは想定されます。空海は、この難しい舵取りの中で外部の宗教者として関わっていたと考えるべきではないでしょうか。
ただし、新興氏族がどうやってこの古代の辰砂産出の情報を知ったのか。もちろん、一部地域では辰砂産出の情報は代々継承されたでしょうし、日本側では比較的長い歴史をかけて辰砂を活用していたため、痕跡は残されていた可能性はあります。ですが全貌を知るには本格的な調査が必要であり、それはイコールで採掘の利権などにも関わるため、慎重に進めなければならないものです。当然、莫大な予算がかかります。
記録上で見れば、平安時代に編纂された朝廷の慣例などを取りまとめた『延喜式』では、伊勢国から朝廷へ辰砂から産出した水銀を貢納していますが、その他地域の詳細は不明です。伊勢国は現在の三重県伊勢地方ですが、ここも辰砂産出の拠点でした。一説には平安時代の貴族などにとって、鮮やかな朱色を発色する希少で効果な朱を建築塗装に用いることはステータスの一つであり、強い憧れの対象だったとも言われます。実際、辰砂はその希少性から非常に高価であったため、この利権を手中に収めれば、かなりの優位性を獲得することができます。そうした状況の中で辰砂の朝廷への貢納が伊勢国に限定されていたのは、不思議なことでもあるのです。何しろ、辰砂は伊勢に限定されず、より広範囲に広がっており、古い歴史を有していたからです。この時、既に大部分の辰砂産出地の情報は失われていたのかもしれません。
ここで注目すべきことは、空海がわざわざ平安京から離れた高野山で金剛峯寺を開いたことです。これは朝廷側から空海に高野山が付与されたのではなく、816年に空海が嵯峨天皇に直訴して所有を許されるかなり能働的な決断によって行われています。つまり、空海が高野山に目を付けていたことは間違いなく、一応嵯峨天皇への名目は真言密教の修行道場の開設となっていますが、内実は実利的側面も考えた方が良いはずです。
これはOn Dogenのシリーズでも触れているように、平安時代は天台宗の比叡山延暦寺のように山それ自体が聖地であり、朝廷の為政者であっても手出しすることの許されない特権的空間でした。この特権的空間を利用すれば、高野山に金剛峯寺を開いて多くの僧侶を抱えて修行を行い、同時に鉱山の採掘を行って辰砂を集約して朱として売買する裏のネットワークが成立します。比叡山側が莫大な資金力を元手に貿易を掌握し、平安京で金貸し業を始めていたように、当時の寺院はコングロマリットと捉えた方が理解が進みます。単なる宗教の修行の場に限定して考えてはならないのです。高野山もこの事情は同じだったはずです。
何しろ辰砂は比叡山からは出ませんが、高野山は辰砂の産出地であり、近隣の辰砂採掘利権を含めて掌握し、そこに平安京に対する真言密教の宗教的守護の性格を利用すれば、頻繁に高野山から平安京へ派遣される僧侶を通じて朱の密輸ルートが形成できます。こうして平安京の貴族に朱を売買し、その利益を真言密教布教の資金源にする目的があった可能性も放棄できず、実態が分からない空海だけに魅力的な説と言えます。少し変わった見方をすれば、空海は何かしらの理由で古代日本における辰砂の分布情報を知り、それを発見することで莫大な利益を得て台頭した可能性さえあり得ます。つまり、空海は今で言うところの実業家としてもかなりの手腕を発揮したのではないか。
この場合、空海が日本に辰砂の鉱山が眠っていることを知り、調査に際して資金面でのバックアップを取り付けた相手の存在も考えられます。その筆頭が様々な産業を総合的に担って台頭した新興氏族の秦氏だった可能性を私は考えています。
ただ空海が唐から帰国した時、平安京内では不穏な出来事が起きていました。彼が帰国したのは806年ですが、この二ヶ月ほど前に桓武天皇が死去していました。桓武天皇は空海を評価した人物の一人であり、秦氏との結びつきを含めて移民の支持が高かった天皇です。この天皇が死去したことで、当時の朝廷内では空海への便宜や融通の効くルートが一時遮断されてしまいます。結果、20年の留学予定を勝手に2年で切り上げた空海に対して朝廷側から処罰が与えられ、しばらく平安京へ立ち入ることが許されませんでした。そしてこの時、桓武天皇の死後に平安京では政情不安が起きていたのです。
事件は、桓武天皇の没後に即位した第51代・平城天皇(在位: 806-809)が、自らに対する謀反の嫌疑で伊予親王(783-807)を捕えたことに始まります。平城天皇と伊予親王は、共に桓武天皇の子です。元々は協力関係にあった二人ですが、桓武天皇の没後には皇位継承問題など皇族内で常に起きる問題が原因となり、関係が悪化します。そして注意すべきことは、この平城天皇側からの一方的な措置で幽閉された伊予親王が自殺した時、空海の叔父の阿刀大足も失職した可能性が高いと考えられていることです。これは明らかに、桓武天皇という平安京遷都の主軸を担った人物の死去後に起きた皇位継承を巡る政治内紛であり、おそらく背景には平安京側の新勢力と平城京側の旧勢力の力学が対立し、京都と奈良の覇権争いに近い状況が起きていたことが考えられます。
つまり、阿刀大足は伊予親王側に就いていたということです。結果的に言えば、平安京内部で統制の乱れが起きて混乱していたため、空海は平安京入りを許可されることはなかったのですが、2年半後の809年4月に、平城天皇が皇位を譲位して嵯峨天皇が即位するタイミングで許可が降りています。この許可は同じく遣唐使として海を渡った最澄の尽力がありました。当時、彼らは同じ大志を抱く新時代の僧侶として良好な関係にありました。しかし、後に関係は切れて別々の道を歩みます。
何しろ唐から帰国した空海は、最澄に匹敵する高名な僧侶となっており、従来のエリート的な最澄と比較すると、実力でのし上がった天才的僧侶という印象が強い人物です。単純に若い僧侶からの人気があったということですが、その人気や信頼は庶民や僧侶に限らず、朝廷にとっても同様でした。事実、彼は帰国後から平安京の様々な諸事情に積極的に関わり始めています。これは唐に留学する前の情報が全くない空海の実像から見ると、まるで一転したような現象が起きたことを示唆しています。
しかも、空海が帰国してから平安京に入る許可が降りるまでの2年近くの痕跡も不明です。一応、この期間は日本から中国への玄関口であった福岡の太宰府とその付近の寺院に居たとされており、その後は大阪に移ったとされていますが定かではありません。とにかく空海は不明なことが多すぎるのですが、その割には平安京に入って以降の功績はかなり詳細に残されています。問い方を変えるならば、本当に空海は無名の僧侶だったのかとも言い換えられます。むしろ国家的極秘プロジェクトに関わる主要メンバーの一人であり、何かしらの責任を付与されていた可能性を考慮した方が良いだろうと考える理由の一つは、遣唐使に抜擢される前の7年間、空海の消息も事績も何一つ分からないからです。これは日本で空白の7年などと呼ばれていますが、この7年を経て突如遣唐使に抜擢される事実を、私たちはどのように見たら良いのでしょうか。
そして平安京最大の支援者であった秦氏とは何者なのか。幾多もの謎が渦巻く空海の存在は、従来のように一方方向からの視点だけでは到底解し切れないものです。むしろ、多角的な姿を当時の平安京の事情を踏まえて考察することで、彼の異なる一端が浮上してくると言えます。ざっくりと空海の謎について書いてきましたが、次は古代日本の朱に対する信仰の隆盛を担った存在を見ていき、やがて空海がどのように古代日本の辰砂事情を知る機会に出会ったのかを考えていきます。
真言宗の基本道場は、当初は嵯峨天皇から託された東寺など平安京の付近で構えられたため、最澄が比叡山で延暦寺を開創するように、そのまま平安京付近に本拠地を構えて永住することも考えられたわけですが、空海はそうした選択をせず、自ら高野山を指名して許可を請うています。
今回はあくまでも空海が開いた遍路の裏事情の全体像を示唆したかったのですが、この空海と辰砂の結びつきは、これまで一部では注目されていたのですが、全体的にこの観点から歴史を大きな流れとして見ようと試みる観点は希薄であり、こうした関心の薄さが古代史の実態を不明確にしている一つの原因だと考えられます。特に空海の学術研究では、どうしても密教の観点に特化するため、密教の外部で空海が如何なる人物であったかについては、今もほとんど無関心のまま放置されているのです。ゆえに空海を見極める際には、その特異な信仰や修行の実践に限らず、もっと視線を時代の情勢や古代史にまで拡張しなければならないのですが、それは空海自体を論じることを点として行うのではなく、大きな歴史の流れとして面の観点から把握しなければならないということです。つまり、空海が辰砂に関して行なった調査は、彼が全てを発見して完成させたのではなく、あくまでも古来より連なる歴史の中で行われたものに過ぎないということです。
なぜならば、これまでの個人的な調査では、この朱の原料となる辰砂が採掘できる場所を求めて動き回っていた空海以前の存在は、かなり古い歴史を持っていることが判明しているからです。実際、魏志倭人伝にも記述が残っていますが、日本の辰砂の歴史を見ようとすれば、縄文時代から考究しなければならず、その後の歴史における弥生時代や古墳時代の動きとも関連して大きく見る必要が要されます。
実際に九州南部を横切るように存在する水銀鉱床群の位置付近では、古墳時代に入るとそれまでには見られない特殊な古墳が次々と造営されているのです。それは朱を存分に用いて壁面を塗りたくった豪勢な古墳なのですが、この古墳は装飾古墳と呼ばれており、全国でも九州に非常に分布が集中しています。古墳の内部の壁面に、豪華な色とりどりの絵が描かれている縄文時代や弥生時代にはなかった習俗は如何にして起きたのか。そして空海を魅了した辰砂の日本史は如何なるものだったのか。これを理解する時、古代の人々が辰砂を求めて各地を探査した長大な歴史の姿が明らかとなるのです。