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朱の世界 2The World of Vermilion, Part 2

18歳となった空海は、791年に国内で唯一の大学に入学します。これは当時としては異例の入学であり、早熟の天才と言われた空海の才能を語る典型例ですが、この大学入学は叔父の阿刀大足の強い斡旋によって成し遂げられたとされています。空海は788年に故郷の四国を飛び出し、母方の叔父で学者として知られていた阿刀大足を頼って首都・平城京に入り、ここからの約4年間は阿刀大足のもとで勉学に励みます。空海は日本随一の高名な僧侶のイメージが強過ぎることから注目されませんが、実際に阿刀大足から教わっていたのは仏教ではなく、儒教だったことを見逃してはなりません。

実際、この期間に空海は後の江戸時代の武士が教養として学ぶ中国の古典を学んでいるのですが、その範囲は孔子由来の論語、孝経、春秋左氏伝などを中心に文章の技術に至るまでに及んでいます。この時に阿刀大足に才能を評価されたか、或いは阿刀大足という平城京の学者であった人物の出世のためかは分かりませんが、少なくとも空海の大学入学が実現したことは事実です。当時の大学は空海のような地方豪族のためではなく、平城京の貴族や高僧の系譜の人々のためのものでした。ゆえに異例の入学だったのですが、この辺りも背景は不詳です。しかし、あえてこの背景を考察する視点を持つことによって、後に空海が台頭する契機が浮上してきます。

少なくとも理解できることは、叔父の阿刀大足が空海を出世させようと相当尽力している姿です。彼はまるで自分の将来を空海に託すように個人指導に全力を尽くしていますが、その傍らでは空海を大学に入学させるために表に裏に賄賂を送ったりしたことが推察できます。如何に天才的な学才を持っていたとしても、当時の平城京の価値観でこうした異例の措置を認める可能性はないからです。阿刀大足も貴族の一人ですから、当然ながらこうした賄賂などは熟知していたでしょう。つまり、私たちは阿刀大足の目的が何であったかは不明ながらも、彼が謎に包まれた空海の若い時代を知る唯一とも言える鍵を握っていたことだけは掴めるのです。しかし、残念ながら阿刀大足の生涯も全く分かりません。一応、学者として皇族に近い位置にまで接近していたことは推定されていますが、807年に起きた政変に関連して失脚した可能性が指摘されています。

一般的に、この阿刀大足が平城京時代の空海の資金を含めた援助を行なっていたとされていますが、これはそれ以外に空海の支援者が史料では分からないからです。確かに阿刀大足は貴族であり学者でしたが、果たしてどの程度の階級にあり、どのような生活を送っていたのかは不明です。そして当時の貴族社会は、藤原氏という特定の氏族が大繁栄を遂げた時代であり、貴族システムの原型を築いていました。個人的には、この古代氏族の力学が強く影響していた可能性を考えており、そこからの洞察によって空海に繋がるヒントが見えてくるのではないかと考えています。そこで見るべきことは、阿刀大足の姓である【阿刀】です。

阿刀氏は古代氏族の一つであり、前回伝えた新興氏族の秦氏とはルーツが異なります。阿刀氏の起源は物部氏という日本最古の氏族の系譜に位置しており、同じ祖神を奉祀することからかなりルーツの古い氏族であると考えられます。祖神はニギハヤヒであり、この神は現在の天皇の祖神に位置付けられるアマテラスとは異なる神の系統ですが、古代日本ではニギハヤヒの系統側の勢力が非常に強い実権を握っていました。実際、初代天皇として即位する神武天皇が大和侵攻を行なった際にも、このニギハヤヒ側からの権力の委譲によって新体制の樹立が成し遂げられています。この時、神武側の勢力は大和における天皇としての即位儀礼を知らなかったため、物部氏の開祖に位置付けられるニギハヤヒの御子・ウマシマヂなる人物の力を借りて、初代天皇として即位しています。この由縁から、物部氏は神武天皇以来の皇統に最も近い存在だと見做されます。

またニギハヤヒは本拠が奈良盆地南部の大和にあったことから、物部氏も阿刀氏も関西方面に起源を持つとされる傾向があります。ただ古代氏族は不確定なことが多く、また当時の思考は私たちとは全く異なるため、これらは歴史事実として現代的に解釈することは不可能です。起源の異なる異族同士が共同で複合部族として氏族へと転移する際、共通の祖神が必要となったと考えておけば良いでしょう。

重要なことは、物部氏も阿刀氏も古代日本では強い影響力を持ったことが想定されますが、ある時代の内戦の影響によって物部氏の覇権が崩壊した時に事態が一変したことです。この内戦は580年代後半に起きたのですが、この時に初代・神武天皇から深い関係性にあり、朝廷の政治・軍事・宗教的実権を掌握していた物部氏に対して、大和の移民を束ねて台頭した新興氏族の蘇我氏が勝利を治めています。ここで従来の朝廷内部における覇権の力学が一変し、蘇我氏の台頭と独裁状態が始まったのですが、この過程で生き残った物部氏の残党は、蘇我氏の影響力が及ばない地域へ四散しています。蘇我氏自体も起源は移民にあったと考えられるため、ある意味では794年以降の平安京時代に影響力を持つ秦氏以前の有力な移民勢力の集団だったと言えるでしょう。

ここで蘇我氏側に討伐された物部氏は歴史的には滅亡しますが、生き残った一部の人々が物部氏から分派するなどして朝廷界隈に止まった可能性もあります。つまり、朝廷内の政治実権を失い、当主の系譜にあった人々は処刑されたが、全員が死んだわけではなく、断絶してはいないということです。実際に蘇我氏の覇権が終焉して、革新的な政策を次々と主導して新時代を築く第40代・天武天皇(在位: 673-686)の頃になると、阿刀氏と思われる姓を冠した人物が記録されています。また天武天皇が不安定な体制を安定させるために執行した諸政策の中でも、684年に「八色の姓」という階級改革と整理を行っていますが、ここでも阿刀氏の痕跡が記録されています。

明瞭に言えば、阿刀氏は物部氏の滅亡後に、物部氏から派生して生まれた可能性が高い氏族なのです。個人的には、物部氏が滅亡した後、生き残るために姓名を変えていた人々の末裔の一部が、再び覇権が一変する動乱期に入って活躍した影響で復権したと見ています。言い換えれば、阿刀氏は物部氏の系譜を継承しているということです。この観点は、日本史を見る際に極めて重要となります。結局、様々な内戦や政変や遷都などが氏族の力学によって動いているからです。

そして重要なことは、空海の母が阿刀氏の出自であり、父は安斗智徳という人物に措定されていることです。この人物は天武天皇が即位する契機となった内戦勃発時に、天武天皇側について戦った人物の一人であり、その時の関係で朝廷内に関与したことが想定されます。同様に空海の叔父である阿刀大足が平城京で貴族として活動していたことを鑑みると、阿刀氏が一定の地位を持っていたことは分かります。ただ、大きな影響力を持つような存在ではありませんでした。あくまでも、由緒のある一族という程度です。

個人的にこの阿刀氏の存在を理解するためには、天武天皇という革新的なカリスマが皇族から登場して以降、日本の歴史が大きく変動したことの理解が欠かせないと考えています。天武天皇が覇権を握る内戦は672年に勃発した壬申の乱ですが、この敵対勢力の指導者は天武天皇の兄であり、第38代・天智天皇(在位: 668-672)の皇太子でした。天智天皇の盟友は中臣鎌足(614-669)だったのですが、彼らが共謀した軍事クーデターによって一時代を築いた蘇我氏が645年に滅亡させられています。中臣鎌足は中臣氏という古代氏族に出自を持っていましたが、蘇我氏台頭以前の物部氏と関係が深い勢力と見做されたため、移民勢力を結集した蘇我氏の独裁時代には不遇でした。

ですが天智天皇の右腕として軍事クーデターを成功させた中臣鎌足の功績は大きく評価され、死去する前日には藤原という姓を天智天皇から直接賜っています。これが藤原氏という日本の貴族システムに君臨する系譜の出立点となります。つまり、古代史の氏族における力学が常に影響を及ぼしている視点を持たなければ、空海に至るまでの時代背景が見えてこないのです。そして藤原氏の台頭をたった一代で担ったのが、中臣鎌足の子の藤原不比等(659-720)です。

天武天皇が壬申の乱に圧勝して現・奈良県飛鳥に大規模な都市を建造する際、敵対勢力側の藤原不比等は若年であったことから処刑されず、貴族の身分を取り上げられる程度の処置で済んでいました。しかし、この底辺の身分からたった一代で躍進し、やがて天武天皇の妻で後に自らも天皇として即位する持統天皇の時代に入ると、天皇を上回る実権を獲得していきます。

この藤原不比等が台頭する時代の694年から710年までの期間は、飛鳥地域に建造された藤原京が首都でした。藤原京という名前からも分かる通り、この遷都の指導者は藤原不比等であり、持統天皇を動かすほどの発言力があったことが考えられます。一説には、藤原不比等と持統天皇は密通していた可能性が指摘されており、親密な関係を利用して政治実力者としてのしあがったとも言えます。持統天皇自身は697年には皇位を退き、孫の文武天皇が即位しますが、この期間も藤原不比等の実権は強く、文武天皇に続いて即位した元明天皇が藤原京から平城京へ遷都する勅令を下す際にも、その中心的役割を担っています。これによって初めて奈良市側に都市が建造されたのですが、この地域は藤原京から距離が離れていないため、それなりに古い力学が温存されたと考えられます。

大きな視点で見れば、藤原氏の覇権が平城京を築いたと言っても過言ではありません。ゆえに、その影響力は天皇を上回っていたことには注視する必要がありますが、見極めるべきは変わらずに古代氏族の力学です。藤原氏の系譜は中臣氏に立脚しており、古い関係性としては物部氏と近かったとは言え、両者は祖神を違う氏族であり、平城京時代では深い関係はなかったと言えます。この背景から、中臣氏の系譜が平城京に君臨している事情を見極める必要があるのですが、すると物部氏の派生である阿刀氏が決して台頭していたとは言い難い状況に置かれていたことは見えてきます。

藤原不比等は平城京遷都を完成させて720年に死去していますが、ここから藤原不比等の四人の子が平城京で実権を掌握します。この実権掌握は皇族との間の諍いとして表面化しており、724年に藤原氏の庇護を受けて聖武天皇が即位すると、この皇位継承問題の絡みで皇族の重鎮的存在として絶大な影響力を保持していた長屋王(676-729)という人物が反発。皇族の意向に強い決定権を持っていた長屋王が引き続き権威を保持していれば、藤原氏にとっては皇族を意のままに操ることができないため、聖武天皇を動かして長屋王に嫌疑をかけて最終的に自殺に追い込みます。

この729年に藤原不比等の四人の子が皇族の実力者を排斥した時、藤原氏の黄金時代が幕を開けますが、737年に平城京で天然痘が大流行したことで4人全員が病死してしまい、一時的に藤原氏の勢いは削がれます。ですが、時代の覇権を掌握するために生きた藤原不比等の手腕は、四人の政治実力者であった子が死去しても、揺るがない体制を実現していました。それが娘の存在です。藤原不比等の娘は、歴史上初めて皇族以外で皇后に立てられた光明皇后です。これは明確に藤原不比等の力が絶大だった時代の残渣ですが、この時代は藤原不比等も死去しており、政変に勝利して実権を掌握した四人の兄弟が死去していました。そうした中、光明皇后は父親譲りの政治力を発揮して藤原氏滅亡を防ぎ、甥である藤原仲麻呂を担ぎ上げて藤原氏復権の立役者となります。

この藤原氏系統の光明皇后の活躍によって、滅亡を免れた藤原氏が平城京の時代から平安京の時代にかけて広範囲に影響を維持し続けることになり、政治の力学にも常に絡む主軸となっていったのです。こうして藤原氏が一定の権力を維持する時代を迎えた時、空海は平城京で暮らし始めたのです。当時の藤原氏はかつての威光はなかったものの、一定の力は維持していたため、平城京で出世しようと考える貴族であれば、この藤原氏の勢力と如何に付き合っていくかが重大な問題となります。しかし、阿刀氏はこの時点で台頭できていませんから、藤原氏の援助を受けて躍進する機会ではない新たな道を探らなければなりません。

そして空海が阿刀大足のもとで学び始めた788年は、時代が大きく変わり始めた頃でした。何しろこの時代に即位したのが桓武天皇だったからです。第50代・桓武天皇(781-806)は、あまり語られませんが移民の血が流れています。これは父の第49代・光仁天皇(在位: 770-781)の側室の一人であった女性が移民の氏族のルーツを持っていたからです。彼女の名前は後に高野新笠と呼ばれますが、父は百済の武寧王の子孫の系統にある和氏(ヤマト氏)の人物であり、母は土師氏というこちらも渡来の氏族でした。ただし、厳密にその頃に渡来してきたか否かは不明です。

もちろん、これ以前から移民の血筋が多様に皇族には流れていたのですが、重要なことは桓武天皇自身が移民勢力にとって身近だったということです。特に彼は平城京から長岡京、そして平安京への遷都を行なった中心人物ですが、前回示唆したようにこの遷都には莫大な予算と技術が要されたため、秦氏側の協力のもとで行われています。秦氏は移民の氏族ですから、桓武天皇は従来の古代氏族の力学以上に新興勢力の関係を深めていたことが見えてきます。そして桓武天皇は元々は出自の問題から、皇族ではなく官僚として育てられていました。ゆえに大学の責任者などに任命されていた実績を持つのですが、34歳の頃に皇位継承の問題が絡まり、最終的に皇位継承権を獲得した人物です。つまり、元々は天皇として即位する可能性も予定もなかったのです。

781年に45歳で即位した桓武天皇は、それ以前は比較的皇族の規範から脱する位置で活動しており、学問の素養も深かったと言えます。この時代に学者の阿刀大足との関係が深まった関係が、後に桓武天皇の第三皇子であった伊予親王(783-807)の教育係を委託する契機になった可能性がありますが、桓武天皇は大学の責任者などの職務に励む中で従来の皇族が関わらない勢力とも接近していた可能性は指摘できます。その筆頭格が秦氏であり、母方を通じた移民勢力であったならば、既に桓武天皇即位に際しても移民勢力の支援は行われていたと考えられます。

つまり、平城京の晩期頃には既に移民勢力の動きは無視できない次元に高まっており、かつての威光を失っていた藤原氏も、それらを抑止することができなくなっていた可能性があるのです。こうして奈良側に止まる旧来の為政者と、奈良を離れて新天地で新体制を樹立する大きな動きが裂けていくのですが、後者をバックアップした中枢に居たのが移民の氏族です。ただし、平安京に遷都されて以降、藤原氏の勢力が再び台頭する機会が訪れ、そこで藤原不比等の次男の系統が絶大な影響力を掌握し、摂関政治と呼ばれる貴族システムの頂点に君臨することになります。この時、新興の移民系氏族の覇権ではなく、再び古代氏族の力学が復権したのですが、平安時代を通じてこの覇権は維持されますから、事実上、移民勢力の勢いは平安京遷都辺りまでと見た方が良いでしょう。

ですが移民勢力と関わる機会があった即位前の桓武天皇を考えると、後に阿刀大足の強い意向で例外的に大学入学が認められた空海の幸運は、まさにこの桓武天皇の特異な生涯と関わっていることが見えてきます。仮にその中で空海の才能に目を付けたのが、新たな体制の支援者として台頭したい思惑を持つ移民系氏族であったならば、空海のその後の行動はかなり彼らの意向に沿っていたと考えられます。なぜならば、空海が再び例外的に804年に留学僧として遣唐使の一員に抜擢されるためには、新たな平安京の為政者の強い支援がなければ現実的ではないからです。言い換えれば、平安京への遷都のバックアップの中枢であった勢力の支持と支援がなければ、空海のような人物が遣唐使の一員として唐に渡ることは不可能だったということです。さらにこの遣唐使の選定が行われた時、天皇が桓武天皇であったことも考慮すべきです。桓武天皇にとって、平安京遷都は秦氏の援助がなければ実現不可能だったため、見返りにそれなりの利権を秦氏側に授けていたことは考えられるからです。

では一体、桓武天皇と秦氏を筆頭とする新時代の移民勢力が、若き空海に目をつけて援助をした裏の理由は何だったのか。歴史からは決して見えてこない空海の姿が、この視点で初めて開示されるのです。